桜の開花予想
そろそろ桜が咲きそうな感じの季節になってきた。
実際に桜の開花予想を見てみると、福岡、大阪、名古屋、東京などこれらの地方ではだいたい今月の下旬に桜が咲くことになっている。
札幌とかだと、それよりも一月ほど遅れ4月の下旬くらいになるらしい。
結構意外なのは、福岡と東京を比べると福岡のほうが相当南にあるもので、従って東京より相当温暖な所であるような気がするけれども、桜の開花日を見るとほとんど東京の開花日と違いがない。
というか、東京というのは僕が思っているより南にあるものだった、と言った方がいいかもしれない。
しかし、一月前はまだかなり寒かったような気がするのにもう桜が咲く季節なのかと驚く。
今の時点で今年に入って80日くらい経っているから、理屈の上ではもうそろそろ春になるのは当然なのだが、しかし案外あっという間だな、という感じがしないでもない。
この80日の間に何をしたかを振り返ると、ほとんど何もしていないような気もするが、その一方でいろいろな事をしたような気もするのは多分、ブログをやっているからだろう。
まあ、僕は単なる引きこもりだから、桜が咲いた所で特になにかがあるわけでもない。
いつものように家で引きこもっているだけだ。
桜の季節になったら全国を旅行できるくらいの富豪になってみたいものだ(ここまでで550文字ほど。昨日短いエントリーを書くことの重要性を強調したので今日は短いエントリーにしてみた。短歌がそうであるように、短い文章でしか表現できないものがそれなりに表現できていると思うのだが、どうだろうか)。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
毎日ブログを書く方法
ブログをやっていて不思議に思う事がある。
それは、ブログというのはなぜか、ある一定以上の量を書かないといけないような気がしてしようがない、という事だ。
別にブログの記事は絶対に何文字以上書かないといけない、とか、そのような決まりはどこにもないのだが、短いブログのエントリーを書くのはとても気まずい。
はてなだと記事の編集画面に文字数がでるので、特にそうだ。
僕の場合だと、1,000文字以下の記事をアップロードするのはかなり抵抗を感じる。
まあ、大抵の場合は書いているうちに1,000文字くらいにはなるので特に問題はないけれども、たまに7,00文字くらいで記事がまとまってしまう時があると、これをそのまま投稿してしまうかどうかどうしても躊躇してしまう。
別に7,00文字だからといって記事のレベルが他の記事よりもつまらないというわけではないはずなのだが、このブログを始めてから相当経ってもこの抵抗感というのはなくならない。
はてなでも匿名ダイアリーだとそういう事はない。
匿名ダイアリーでは4行程度の記事というのはいくらでもあり、しかも内容によってはそれが結構な注目をあつめてブックマークが何十、あるいは何百もついたりする。
まあ、匿名ダイアリーというのは本質的には匿名SNSなので4行のエントリーを書いても何の問題もないのだが(はてなブログは書き手にidとハンドルネームがあるという意味で匿名ではない)、しかしはてなブログでも匿名ダイアリーと同じような感覚でエントリーを書けないものだろうか?
ある一定以上の文字数を書かないといけない、という制限があるとすると、ブログというのは何でも書けるようでいて実際はそうではない。
もし4行くらいで書きたいものはブログでは書けない、という事だと、それは何でも書けるという事にならない。
はてなブックマークのコメントの最大文字数が100文字で、ツイッターの1ツイートの最大文字数が140文字だから、4行というのは結構あるし、ある意味大抵の事は4行くらいで言える。
4行を4ブクマ、あるいはツイート4つ分と考えてみたら、それだけでコンテンツとして成り立っていると考えていいし、しかも今はスマートフォン経由でのアクセスのほうが多いわけだから、ブクマ4つ分、ツイート4つ分のコンテンツを書いても誰も文句をいわないだろう。
ブログの記事を書くのは大変と言われるけれども、ある意味ブログの記事を書くのはとても簡単で、すごい簡単に書けるようなものを書けばよい。
たとえば夜に予定が立て込んでいてブログを更新するヒマがないとしたら、朝メシなり昼メシの写真をアップロードして、そこにブクマ4つ分なりツイート4つ分、思った事なり感想でも書けばよい。
食事全部だとかえって記事にしにくいので、飲み物だけとかデザートだけとか、なにか単品について書けば記事にしやすいと思う。
うまかった、まずかった、値段が高い、値段が安い、飲み食いした飲食料に関する思い出、次は何を食いたいか、食いものに関係ない今後の予定、など、書ける事はいろいろあるはずで、一度エントリーを書き始めたら何かしら書くことが出てくるものだ。
画像というのは情報量が多いので、文字数が少なくても気にすることはないし、それに人間は誰でも毎日メシを食っているから理屈の上では簡単に書ける。
まあメシの話はあくまでたとえ話だけども、他にもインスタグラムみたいな感覚でブログに書けるような事はいくらでもある。
芸能関係のブログなんてそんなブログばかりだ。
思うに、毎日ブログを書くためにはブログに書くことの範囲を広げることと、記事の長さに関する思い込みをなくする事が重要なのではないだろうか。
たとえば、普段は政治の話ばかりをしているブログで食い物の話とか飲み物の話もするようにすれば、ブログを書くのはその分楽になるわけで、そういう風に普段扱わないテーマを書くようにしていけばブログを書くのはどんどん楽になる。
その際に文字数を一切気にしないように出来ればなお良い。
情報の価値というものは文字数とは全く関係がないので、10,000文字の記事でも情報として全く何らの価値もないこともある一方、スマートフォンで適当に撮った画像に4行くらいの感想を書いたようなエントリーがものすごい価値を持つことがある。
ブロガーがブログを書く時にはまだ、これまでの出版物で使われてきた形式に縛られている所がある。
エッセイを書くには原稿用紙3枚1,200文字とか、そんな感じだ。
しかし、ブログのいい所は、どんな長いものでも、あるいはどんな短いものでも、どんな長さのエントリーでも書けるという所にあるのではなかったか?
「毎日ブログを書く方法」とかいいながら僕自身は毎日ブログを書いていないし、別に毎日ブログを書けるようになりたいと思っているわけではないが、毎日ブログを書くか書かないかはともかく、ブログを続けるにはブログの良さというのはなんなのか、という事を考える事が重要だと思う。
僕も、これからは1,000文字以下のエントリーも出来るだけ積極的に書いていこうと思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
一日だけネットから距離をおいて分かった事
僕は引きこもりなんで、普通はネットばっかりやっているのだが、昨日はほとんどネットを使わなかった。
これほどネットをしなかったのは、ここ数年来なかった事だと思う。
それで、なにか困った事があったかというと、当たり前の話だが問題はなにもなかった。
困る事があるどころか、いい事しかないような気がする。
しばらくネットを使わない経験をするとつくづく思うのは、普段ネットを使って集めている情報というのはある意味、99.9%以上知ってても知らなくてもいいような事ばっかりだな、という事だ。
世の中のニュースとかはとくにそうで、そういうニュースを知らなくても不都合というものは何もないし、知ったところで個人としてはどうしようもない事がほとんどだ。
例えば、いま一部では追いつめられた北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ち込むんじゃないか、という事が言われるけれども、しかしそのような可能性があったとしてもしばらく情勢が安定するまでヨーロッパあたりで遊んでいよう、なんてことを言える人というのはほとんどいないだろう。
北朝鮮情勢がどうなろうが、普通の人は普段通りの生活を続けるしかない。
僕も極東アジアで戦争が起こって日本が戦場になる可能性は世間が思っているよりもかなり高いんじゃないか、と思っているが、しかしじゃあ、そうなったときに備えて何をすればいいかというとピンと来ないし、北朝鮮情勢に関する情報をネットで見てても個人としてすべきことを明確に教えてくれるわけでもない。
もし貴重な情報を知ったとしても、それで個人が何かできるか、というのはまた別の話で、そんなら情報の意味というのはなんなのか、という話になる。
もちろん、今後北朝鮮関係で何も大きな事が起きなかったら、普通の人にとって北朝鮮関係の情報はなんの意味もない。
生活をする上でネットというのはかなりの部分なしで済ませられるな、というのが、しばらくネットから距離を置いてみて思った事だ。
例えばブログをやるにしても、ネットをやっていると一日にブログのネタなんていくらでも見つかるので、一日に思いついた事をブログに書くとそれこそ一日に3回くらい更新しないといけない。
それならばブログのネタを見つけるのにそんなに長くネットをする必要はそんなにないともいえるし、そもそもネットから離れていてもブログのネタというのはいくらでもあるので、なおさら長時間ネットをする理由がない。
ネットをやっていると時間というのはあっという間に過ぎていくものだけれども、ネットをやらないと時間の経過がかなりゆっくりに感じる。
それはネットをやらないと考える時間が多くなるからで、考えるのは大変だからどうしてもネットをするという楽な方向に流れてしまうわけだけど、ネットから離れるというのは大変なだけのリターンはあるな、と思った。
ネットをしていないと普段とは違う事を思いつくものだが、特に情報の価値をどう評価するべきか、という、ある意味一番重要な問題についてそうで、いつもネットにいると自分にとってどういう情報が重要なのか分からなくなってくる。
だから、時々ネットから離れて原点に立ち返るというか、情報の価値に関する判断基準を見直すという事は非常に意味がある。
思いついたことを書いているうちに、複数の相反する主張が一緒になっている感じのエントリーになってしまったが、ネットを長時間使う人には一日ネットを使わないで過ごすというのはかなりおすすめできると思った。
北朝鮮情勢が緊迫している中でこんな事を書くのは見当違いなような気もするけれども、カネがかかるわけでもないのでやってみてまず損はしない。
今後どういう方向で行動するか、という事にかんする整理をするのには役に立つと思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
コミュニケーション能力重視と終身雇用
常々思うんだけれども、日本の就活でコミュニケーション能力というものを重視するのは、やっぱり終身雇用だからなんじゃないかな、ということだ。
日本の終身雇用というのも相当に揺らいできていると言われるが、いまでも日本人の意識としては、会社というのは目的を共有するメンバーが集まるチームであるというよりは家族のようなもので、基本的には一生をずっと共にするというようなイメージがあると思う。
そういうわけで、日本の会社の求めるコミュニケーション能力というのは、家族の和をみださないように家族のだれとでもうまくやって行く能力なのではないだろうか。
家族というのは簡単にリストラできないから家族なわけで、もしおかしな人間が会社に入ってきてしまったらたいへんだ。
つつがなく会社員生活を送りたい、というのはみんな同じなのだから、経歴とかで少しでも変な所がありそうな人間を採用することには慎重になるというのも分かる気がする。
しかしながら問題は、仕事に必要な能力とコミュニケーション能力というのは必ずしも関係があるわけではない、という事だ。
もっと言うならば、世の中にはかえってコミュニケーション能力が低いような人間のほうがうまくやれるような事というのもたくさんあるんじゃないか、という気がする。
どうも今の世間のコミュニケーション能力重視の風潮を見ていると、適材適所という考えが希薄であるように思えてしょうがない。
コミュニケーション能力重視というのは、効率的なようで実はものすごい無駄を作り出しているのではないだろうか。
往々にして、人間の能力というのはそれぞれ相反するものだ。
日本社会におけるコミュニケーション能力の重視は、適材適所を難しくしている。
みんななんとなく分かっているんじゃないかと思うが、しかし能力を問題にするよりも、おかしな人間とは関わり合いになりたくない、というインセンティブのほうにみんな流されてしまっていると思う。
それでうまくいけばいいが、そういうモデルはある一定の条件においてしかうまくいかないのは今の東芝の有様をみても分かることだ。
アメリカの会社というのは欠陥のある人間をうまく使うのがうまい、と言われる。
それはおそらく、人間にはそれぞれ得意不得意というものがあるのだから、適材適所の考え方を徹底したほうが生産性が上がる、という考えかたから来ている。
適所適材という考えかたを徹底させれば、リストラというのも日本ほどには深刻なものとはならない。
日本でリストラをされたとしたら家族から絶縁された気分になるだろうが、アメリカではそれは一応、適材が適所に移動していくプロセスに過ぎないのである。
まあ、アメリカにもアメリカ特有の不条理というのもあるだろうし、グローバル化の影響でこのような前提は相当変化しているだろうが、しかし日本の社会と比べてアメリカの社会において適材適所が実現されている事は疑い得ない。
そして、それは社会の生産性にはっきりと表れている。
もしかして、日本社会が「コミュ力重視」といっている限り、日本はダメなままなんじゃないだろうか。
なぜならそれは、無能なのにコミュ力だけはある人間が不当な利益を得る一方、コミュ力がない人間が適所に行くどころか社会的コストになるような社会だからである。
どんな社会にもよい面があるけれども、コミュニケーション能力重視の日本社会が行き詰っているのは明らかだ。
今の日本の現状を見るにつけ、日本が復活するには、日本社会をコミュニケーション能力がなくても別に問題ない社会にしていくことが重要だと思えてならない。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
野菜系のスムージーを買ってみた
先日、生まれて初めて野菜系のスムージーを飲んでみた。
普段意識していないとなかなか分からない事だけれども、今まで飲んだことのない食べ物とか飲み物というものは結構あるもので、野菜系のスムージーというのもその一つだったのだが、考えてみたらスムージー自体飲んだ事がなかったかもしれない。
買ってみたのはこれ。
日本ハムの関連会社が販売している「ときめきカフェ グリーンスムージー」というものだ。
リンゴ・キウイフルーツ・ほうれんそう・にんじん・小松菜・セロリが入った、いかにも健康によさそうな製品である。
150円くらい。
僕は健康なんかには全然興味がないが、ライフスタイルとして菜食主義にはある程度の関心を持っているので、なんだか面白そうなので買ってみた。
緑色の飲料を買うのは初めてなので少し躊躇したけれども、こんなことでビビっていたらブログなんかやっていられない。
それで、飲んでみた感想。
少し香りが青菜みたいな感じだな、と感じたが、 そのうち気にならなくなる。
味は成分通り、リンゴとキウイフルーツと青菜の味が同時にする。
キウイフルーツを食べるという事は普段あまりない事だと思うので、キウイを食べたいけれども何かと面倒、というときはこれを買ってみるというのも有りかもしれない。
飲み心地もなめらかでいう事なし。
思うんだけど、スムージーというのは飲んだ後に充実感があるのがよい。
ある種の缶飲料というのは、飲んだ後に多かれ少なかれ空しさが残るものだが、スムージーだとそういう事が無い。
忙しくて食事をする暇がないとか、体調の都合で食べ物を食べたくない場合にはちょうどいいのではないか。
結構色々な可能性のある飲み物だと感じた。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
英語の教科書はぜんぶマンガにしたほうがいい
英語教育には常にコンテンツの問題が付いて回る。
つまり、言葉というのは意味を持つもの、つまりコンテンツを通して学ぶしかないわけだけれども、そのコンテンツをどうするか、という問題がある。
学校で使うコンテンツとなると、まずあまりイデオロギー的に極端なものを出すわけにはいかない。
それがどんなにうまく書けていたとしても、例えば極右によって書かれたリベラルを罵倒するような文章を載せるわけにはいかないのである。
ところが、コンテンツというのはある意味、極端なものであればあるほど面白いわけで、だれにでも受け入れられるようなコンテンツというのはコンテンツとして死んでいることが多い。
コンテンツというのは何を主張か、が重要なわけだけれども、それがメッセージであるならば賛否両論を引き起こすのが当たり前だし、賛否両論を引き起こすようなものでなければいけない。
そういうコンテンツでないと、わざわざ英語で読む意味がよく分からないだろう。
これが独学だと、自分で読みたいものを読んで、見たいものを視聴すればそれですむ。
けれども、学校ではなかなかそうもいかない。
生徒の関心も知的バックグラウンドもぜんぜん違う中で生徒全員が使えるようなものにしないといけない。
一部の生徒だけにはものすごい教育的効果があっても他の生徒はなんの事かさっぱりわからない、というものであってはいけないのである。
いっそのこと、英語の教科書というのは全部マンガにしたほうがいいのではないか?
はっきりいって、文章だけで一つの完結した内容を生徒に伝えるというのは限界があるような気がする。
特に、低学年の場合は使える語彙数とか構文も限られるから、文字だけでやると内容的どうしても退屈なものにならざるをえない。
これがマンガだったら、作品のクオリティーによってはどんな大文学にもひけを取らないようなメッセージを伝える事が可能になる。
学校英語の範囲内で作品が表現できる幅というのは文章だけの場合にくらべて比較にならない。
マンガなら、生徒全員を納得させるのはもちろん、大人が読んでも全く問題ないような教科書を作る事ができる。
コンテンツのレベルの上限というのが存在しない、というのがマンガのいいところである。
それにマンガというのは絵というものがあるので、内容のイメージがつかみやすい。
出てきた単語も相当覚えやすくなるはずだ。
いっそのこと、従来の教科書ではなかなか使えなかったような高級な単語がセリフにガンガン出てくるようなマンガにすれば、悲惨としか言いようがない日本の英語教育もずいぶん変わるのではないだろうか。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
英語の学習を学校でやることの難しさ
言葉というのは当然ながら内容というものがあるというか、内容があって初めて言葉があるわけで、言葉と内容というものは切り離せない。
学校で英語を勉強することの難しさというのはここにあるんじゃないか、とつくづく感じる。
僕は英語を勉強するときにほとんど何の苦労もなかったけれども、なんで苦労をしなかったのかを今考えると、やはり自分が政治、社会、あるいは国際関係に強い関心を持っていたからだと思う。
そういう事に関心を持っていると、英語の勉強はただ海外の新聞をネットで読んで、社会科学系の洋書を読んで、BBCを見てるだけで勝手に進んでいくから、まずよほどの事が無い限りはコケることがない。
勝手に英語が日常生活の一部になる。
ところが、学校で英語の授業を受けているほとんどの生徒にとって、英語というのは数学みたいなものであるだろう。
つまり普通の生徒というのは、勉強している数学の内容などには全く興味がないけど、テストでいい点というか、必要なだけの得点をするために必要だというだけの理由で数学を勉強している。
学校で行われる英語教育というのもこれと同じで、英語の教科書に書かれている内容などは生徒にとっては間違いなくどうでもいい。
教科書が教科書である以上、教科書のコンテンツとしての価値というのはどれほど努力をしても限界がある。
だから生徒が数学のコンテンツに関してぜんぜん無関心に数学を勉強するのと同じように、ぜんぜん興味のない英語のコンテンツを無関心に勉強することになる。
僕は高校時代は健康上の理由で廃人同様だったから、英語の教科書をまともに読んだことがない。
だから英語の教科書を勉強するという事がどういう事なのか分からない。
語彙数や構文のレベルも分からないし、読んでみたら案外面白いコンテンツなのかもしれない。
英語の教科書というものは徹底的に勉強するならばそれなりに英語力が付くように出来ていると思う。
しかし、ほとんどの生徒にとって、今の教科書を使った英語教育はほとんど無意味である。
思うに、日本の英語教育というのは、言葉というのは内容と切り離せないというか、切り離してはいけないという建前に縛られて、まったく中途半端なものになってしまっているような気がする。
おそらく、英語というのは数学みたいなものと考えないと、学校での英語学習というのはうまくいかない。
はっきりいって、僕は学校の授業で長文を読ませる必要はまったくないと思う。
もし学校で英語をするなら、まず文法をやって、それから英文解釈教室にあるような読むのが難しい短文を数学の問題を解くように学習して、それからDUO2.0をマシにしたような感じの英文を暗唱でもさせて必要な単語を叩き込む、という風にするのが現実的ではないだろうか。
僕は英文の暗唱に関してはかなり警戒感をもっているので、単語を叩き込むための英文は本当にまともなものにしてもらわないと困るけれども、それはともかくこれらの事はすべて学校でもできるし、これをやれば確実に読む・書く・話すができる生徒が出来上がる。
長文の勉強は、難しい短文が分かれば全部読めるので受験勉強に任せればいい。
日本の英語教育が腐っているのは、言葉というのはなんとなく身につくものであるという根本的に間違った思い込みを前提にしているからである。
しかし、数学の問題がなんとなく解けるようになるなんてことがないのと同様、英語というのはなんとなく分かるようには絶対にならない。
逆に、もし英語を数学のように勉強すれば、「使える英語」を学校で勉強するというのは案外簡単じゃないかと思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。