グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

スナック菓子を食いながらコーラを飲むとうまい

コーラとほかの清涼飲料水で何が違うか、と言ったら、何かを食いながら飲む飲み物かどうかが違う、と思う。

 

他の清涼飲料水はそうではない。

それらの清涼飲料水は、基本的には単体で飲むように作られていると思う。

例えば、ファンタのグレープ味というのは、あれはやはりうまく出来た清涼飲料水だと思うが、たぶんファンタのグレープ味を一番うまく味わうにはファンタのグレープ味だけを味わって飲むのが一番よいと思う。

カルピスもそうだ。

一番うまくカルピスを飲む方法というのは、カルピスのみを飲む事だろう。

コーラ以外の清涼飲料水というのは、それ単体で成り立つようにできており、それ以外に何も必要としないのである。

 

ところが、飲み物の中には、一応飲み物だけでも成り立つけれども、それに合う食い物があったほうがよりおいしく味わえるようなものもある。

たとえば、ビールとかワインなどのアルコール類がそれである。

たしかに、ビールはそれだけで飲んでもそれなりにうまいが、焼き鳥などのつまみや料理を食いながら飲んだ方がよりおいしく飲める。

ビールのうまさが1、食い物のうまさが1とすると、食い物を食いながら飲むビールは1+1が2になるのではなく、3にも4にもなるのである。

食い物があって初めて、ビールとかワインというのはおいしく飲める。

ビールとかワインなどは、そのようにできている飲み物なのである。

 

コーラにも、それらのアルコール類と似たようなところがある。

僕は、単体でのむならばコーラよりもうまい清涼飲料水はいくらでもあると思う。

しかし、スナック菓子を食いながら飲む飲料としては、やはりコーラは一つ抜けている。

スナック菓子を飲みながら飲むコーラはうまい。

もちろん、スナック菓子にもコーラと非常に合うものと、それほどでもないものがあるけれども、例えばのり塩味のポテトチップスなどを食いながらコーラを飲むと、世の中でこれほどうまいものというのはそうそうないだろうなあ、と思う。

口の中にポテトチップスの旨味が残っている状態でコーラを流し込むときの味わいは何者にも代えがたい。

それは一人前30,000円のフランス料理のフルコースにも、12,000円のイタリアンにも、25,000円の中華にも、32,000円の鮨にも代えがたいうまさである(と思う。そんな高価の料理など見たこともないが)。

これがコーラ以外の清涼飲料水だと、そういうようなミラクルは起きない。

カルピスとポテトチップを交互に飲み食いしたところで、お互いの味が干渉しあって調和しない。

1+1がプラスにならずにマイナスになってしまうのである。

これはカルピスがコーラよりも劣っている、というわけではもちろんない。

カルピスがビールよりも劣っているわけではないのと同じで、カルピスはカルピスだけで飲めばよい。

 

このように、食い物を食べながら飲む飲み物としては、コーラというのはものすごいうまく出来ている。

もちろん、コーラと合う食べ物はビールと合う食べ物よりも大幅に限られるが、コーラと合う食い物を食いながら飲むコーラは最高である。

そして、コーラというのは、食いながら飲むという事も考えて味付けがされていると思うのだ。

それは、はっきりとした主張がないといけないのはもちろんだけれども、かといってコーラを飲みながら食う食い物の味わいを引き立てるものでないといけないのである。

それでいて、当然コーラは食い物がなくても、それだけで飲めないといけない。

コーラの味付けというのはこのような微妙なバランスの上に成り立っている。

そう考えると、改めて、コーラというのは清涼飲料水の傑作である、と思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

ブログを書くのが面倒

僕は文章を書くのが苦手で、だからブログを更新するのも億劫でしようがない。

とにかく文章がすらすら出てこない。

たまにすらすら出てくる事があるけれども、一行一行苦労しながら書いている事が多い。

僕と違って普通、ブロガーというのは文章を書くのが得意だからブログをやっている場合がほとんどだと思う。

他のブログを見ると、すらすらと文章をかいているなと感心するばかりだ。

とても僕にはそういう書き方はできないが、しかし書きたい事があるなら面倒でも文章を書いていくしかない。

はっきりいって仕方がないから文章を書いている。

書きたい事というか、書かないといけない事はたくさんある。

今でも20くらい書かないといけないものがあるのだが、その一つひとつを書いていくのが面倒なのでそれらがなかなか文章にならず、書かなければいけない記事は増える一方だ。

まあブログをやって半年もしないのに書きたいことがすっからんになって、そのまま休止したり消滅したりするブログよりはマシなのかもしれないが。

 

それでもある程度ブログをやっているので、書き始めたらとりあえず最後まで記事を仕上げるまで行く、というのは分かる。

ブログを始めたころはエントリーを書き始めるときはいつも最後まで書き終えられるか不安があったが、最近はそういう事はない。

さすがに200記事ほど書いていると、書き始めさえすれば何とかなるということが分かってくる。

だからそういう意味で安心感はあるのだが、しかし文字数は相変わらず書けない。

どんなテーマで書くにしてもだいたい丁度1,200文字くらいに収まってしまう。

まあ一つの記事を書くのに2日以上使えばどんなテーマでも2,000文字くらいになるのかもしれない。

でも一度にエントリーを書く場合は大体1,200文字書いた時点でエネルギーを使い切っているし、2,000文字以上の記事ばかり書くならアクセスが大幅増になるような気配もないので、今後も1,200文字くらいのエントリが増えていくのだろう。

 

始めは僕が文章を書くのに苦労するのは僕の書いている内容が書きにくいものだからだと思っていた。

僕のブログというのは他の人が書かない事を書く、という事がテーマになっているので、文章を完全に自分で考えないといけない。

そこらへんに転がっているテンプレを使えないのである。

今までに読んだ事のない事を書くというのは結構大変である。

だから、これまで文章が書くのに苦労しているのは書いているテーマが難しいからだと思っていたが、ある程度ブログをやっていると、それだけではないなというのも分かってくる。

世の中に数学が苦手な人がいるのと同様、文章を書くのが苦手な人がいるのは当たり前の話で、たまたま僕は文章を書くのが苦手な人間なのだろう。

文章を書くのが苦手なのに書かなければいけない事はあるのだから、やれやれ、という感じである。

 

 

ブログを書くのは面倒だが、ブログの内容を考えるのは好きである。

僕は無職なので一年中ブログのネタを考えているようなものかもしれない。

そんな事をしていている場合か、と一年中思うのだが、しかしブログのネタを考えるのは楽しい。

次はああいう事を書こうか、こういう事をかこうか、と、考えているだけで浮かれた気分になる。

しかしブログのネタを考えたら面倒でもそれを文章に書かないといけない。

僕の考えを書いてくれる人間は自分しかいない。

だれかが僕の家に話を聞きにきて、その内容を原稿にまとめてくれるわけではないのだ。

 

もっとも、いくら僕が文章を書くのが苦手とはいえ、書くことはなにも面倒なだけとか、つらいだけ、というわけではない。

文章を書き終わってエントリーをアップロードするときは心から、面倒を押してエントリーを書いてよかったと思う。

ブログというのは書いているうちにいろいろアイディアが浮かんでくるから、だいたい出来上がりは想定より上手くできる。

特に、書いている内に上手い表現を思いついたときは本当に気分がよい。

 

ブログというのは書くのが面倒である。

文章を書くのが得意な人も面倒なのだから(だからブログというのは投げ出す人が多い)文章を書くのが苦手な僕にとってはもっと面倒なわけだが、しかしそう考えると、面倒の中にも色々いいことはあるな、と思わないでもない。

まあ面倒であろうがなかろうが、いいことがあろうがなかろうが、僕はブログを書き続けるしかないのだが。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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人生における助走期間と本番について

以下のエントリーを読んだ。

先日会社のイベントがあり、東京タワーの離れにある5階のラウンジでジンギスカンを焼いて食べた。わたしの席の周りには常務をはじめ、ずらりと偉いおじさんが並んでいた。19時をまわり辺りが暗くなると東京タワーに灯りがついた。
「おや、灯りがついた」
「日が暮れるのがすっかり遅くなったなぁ」
「東京タワーもこうして見ると、きれいなもんですなぁ」
「わたしらが働いているこんな近くの、東京タワーで、こんな宴が夜な夜な繰り広げられていたなんて。夢にも思わなんだ」
横一列に並んだ偉いおじさんたちが、いかにも感慨深げに抑揚たっぷりに言うのがおもしろかった。みな一様に、間近の東京タワーを首が痛くなりそうなくらいに見上げていた。ト書きを読んでいるような台詞回しや視線が交じらないことが、どこか小津安二郎の映画を思わせた。
のりの効いたシャツを恰幅よく着こなす一番偉いおじさんが訥々と話し始めた。
「わたしはね、料理作る人になりたかったんだよ。だから18ん時にね、親父に『おれは料理人になる』って言ったの。そしたら親父なんて言ったと思う?」
皆、わからないでいた。一番偉いおじさんは構わず口を開いた。
「『作るより食うほうがいいだろ』って言ったんだよ。それで今ウチの会社にいるんだよなぁ」
そう言って一番偉いおじさんは口いっぱいにラムを頬張った。わたしは笑った。なんだかよくわからないが、いい話だなと思った。そして笑って、とても偉い人の幸せそうなエビス顔を見ていた時、ふと、ああ、わたしの人生はこうしている間に過ぎ去っていくんだなと思った。あっという間なんだろうなと思った。目の前にいる一番偉いおじさんは、料理人になるかならないか決断をして、作るより食べることを選んだ。そうして偉い人になった。でもわたしは道を選ばず、毎日をやり過ごしている。なんとなくお金を稼ぎなんとなく暮らし、たまに会社のイベントでジンギスカンを食べたりする。そうこうしているうちにもう25歳だなと思った。そうして30歳になるだろう。40歳になるだろう。50歳、60歳、70歳、80歳、どこまで長生きできるかわからないが、やがて死ぬので人生は終わるだろう。
***
会社の別の人の話である。その人はわたしとそれほど歳が変わらないように見えるがそろそろ不惑だと言う。若さの秘訣を尋ねると、戸惑いがちにこう言った。
「朝起きるじゃないですか。息を吸って吐く。顔を洗ったら朝ごはんを食べて、歯を磨いて会社に行く。会社から帰ってきたら晩ごはんを食べて、お風呂にはいって寝る。その繰り返しをしていたら、今の年ですね」
ぞっとした。悲しかった。恐ろしかったが、でもきっとそういうことなのだろうな、と思った。その人は、だから若く見えるのだ。
***
わたしはなんとなく、まだ人生の助走期間にいるような気がしていた。どこかで人生の本番がはじまるので、そうしたら全力ダッシュすればいいんだろうなと思っていた。毎日が生きがいに満ちた本番の人生。いつか始まるはずの輝かしい本番。
だがいつまでも本番は来ない。そうして気付いた。ダラダラ走っているこの毎日が、人生の本番なのだ。助走期間なんてなかった。ずっと本番だった。
もし充実している人生をしか本番の人生と呼ばないのだとしたら、何も選ばない怠惰な人間にはいつまでも人生の本番は来ない。
ここから先はすごく言いたくないことだ。でも言う。わたしは、本当は、文章で食っていく人になりたかったのだった。どこかでそれを選んだと思っていたのだが全く選んでいなかった。苦労をしてはいった大学は、わたしと同じような人だらけだった。皆、文章で何かできると思って、でも何かできているのは一握りだった。大した努力もせず、ダラダラ道草を食っていた。
そうして大学を卒業した今のわたしは、就職活動に失敗し、明らかに向いていない職業についた。今もなお、本当は待ち望んでなどいない本番を期待し、怠惰にダラダラ走っている。
***
昨日は酷かった。湿気がひどいと理由をつけ、なんにもしたくなかったので家事もせずベッドに寝転んで、無料でダウンロードしたオセロのゲームをしていた。無料なのですぐ勝てる。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、win! そうしている間にわたしの人生の本番は過ぎ去っていった。なんて無駄で贅沢な時間の使い方であったことか。
でも考えてみれば人生なんてそんな重きを置くものでもないのかなと思う。昔は毒キノコを食べて死んだり崖から落ちたり辻斬りにあったり、とかく簡単に人が死んだんだろう。彼らに意味付けなんてなかったはずだ。
先日家の近くで子猫が生まれた。とにかくかわいかったのだがいなくなってしまった。あの子らももしかしたら、飢えたり車に轢かれたりすぐ死んでしまうのかなと思う。子猫たちの本番はもうない。しかし親猫はまた次の春には発情して、すぐに新しい子猫が生まれるだろう。人間の生も所詮そんなものなのかもしれない。本気になる必要なんてないのかもしれない。
でもどうせならわたしは、本番の全力ダッシュをしてみたい。わたしにとってわたしの本番はわたしだけに与えられたわたしだけの一回こっきりのものである。わたしにとっては世界に等しいものだ。その気持ちを捨てきれない。
わたしは選ぶ。今から全力ダッシュをする。そうしていつか、満足しきったエビス顔で、ラムを口いっぱいに頬張るのだ。

人生の助走期間と本番

人生を助走期間と本番に分けるとして、助走期間と本番とで何が違うか、というと普通は「プロ」としてカネを稼いでいるかどうか、の違いだろう。

つまりプロになる前の期間は人生の助走期間で、プロになった後が人生の本番である。

高校野球なんかはそうで、甲子園というのはたしかに夢の大舞台だけれども世間ではあれはやはり助走期間と見なされる。

野球人としての本番はNPBとかメジャーリーグで、だから甲子園でものすごい輝きを放った後プロでうまくいかなかった、あるいはそもそもプロになれなかった場合は、助走期間で終わってしまった、という扱いになる。

甲子園で活躍できたからいいじゃない、とはなかなかならない。

 

他の多くの職業についてもそうで、会社に就職したら会社員をやる事が本番だし、役所に就職したら役所の人をやるのが本番であろう。

それ以前に何をしていたかは、この本番までの助走期間と考えられる。

 

問題は、職業によっては助走期間と本番との区別がつかないものがある、ということだ。

先ほどの増田の場合もまさにそうで、文筆の世界というのは助走期間と本番とで区別がはっきりしない。

文章を書くのがうまい人はそれこそ山のようにいて、それぞれがそれぞれいいものを書く場合プロとプロでない人との差というのは段々と偶然の問題にすぎなくなる。

しかも今の時代は文章のうまい人はネットで文章を発表するから(先ほどの増田のように)、永遠の助走期間を生きている増田のような人とセンスのないプロを分ける境界線はますますわからなくなっていく。

 

その一方で、そもそも人生に助走などないのだ、全部がぜんぶ本番なのだ、という見方もできるので難しい。

例えば甲子園とか高校野球の世界というのは選手一人ひとりの人生全体を考えたらば助走期間かもしれないけれども、その「夏」だけに注目すればそれは真剣勝負、本番そのものである。

技術の違いはあれ、強豪校の選手もプロ野球の選手でも全力でプレーしている事には変わりがない。

見世物として見ると、高校野球のデスマッチはある意味プロ野球を超えている。

文筆の世界でもそうだ。

先ほどの増田のエントリーにしたって、あれはやはり本気で書かれたもので下らない「プロ」が職業的に書き飛ばしたものよりもよほど本気であるだろう。

もちろんブログを書くのと活字になるものを書くのとでは重さが違うが、本質的にはどれほど違うのだろうか。

 

そこらへんの混乱が、僕や増田のような者がいつまでたっても(しなければならないと分かっているにも関わらず)「全力でダッシュ」する気になれない原因なのかもしれない。

もっとも会社役員とジンギスカンを食べられる身分の増田などは僕と比べたら全力疾走しているようなものであろうが・・

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

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日本人が英語をペラペラ話すようになると、日本は夢の理想国になるんだろうか?

まず、日本人がだれでも英語ができるようになる、というのは、日本以外の国からすると素晴らしい。

なにせ、日本というのは日本語があるから手に負えない。

外国人にはアクセスが難しいのである。

大抵の日本人は日本語しかわからないから、外国人がなにか英語で言っても何を言っているのかわからない。

そして、外国人が言ったことが日本語に翻訳されるとニュアンスのほうも変わってしまうのである。

自分たちの言っている事が一部の例外を除き、エリート層を含めて直接的に伝わらない。

これは外国人にとっては本当にイライラする事だろう。

 

ある種の外国人にとって、日本語というのは日本社会の閉鎖性の象徴である。

外国人からすると、日本人というのは日本語しかわからないから閉鎖的な考えしか持てないように見える。

日本文学などの日本文化は大好きなのに、日本社会というか日本そのものが大嫌いな外国人というのは大量にいる。

たしかに、今の日本の現状をみるとそのような外国人が大量にいるというのは理解できなくもないが、とにかく日本嫌いの外国人というのは目立たないけれども大量にいる。

そして、そのような外国人にとって、日本がだめなのは、日本人が日本語みたいな、話者が権力関係や社会慣習に絡めとられていくような言葉を話しているからだ、というのは共通認識になっている。

もちろん、日本人が日本語を使うのをやめるべきだ、という事を考える外国人はほとんどいないだろう。

しかし、日本に批判的な外国人にとって、日本人が全員英語を話すような日本というのは今よりもよい日本であるだろう。

日本人の英語力の向上は間違いなく、外国人にとっていい事であるとみなされるはずだ。

 

しかしながら、日本人の英語力の向上が日本人にとっていい事であるかは分からない。

まず、日本人が全員英語ができるようになると、世界中からおかしな連中が押し寄せてくる。

そういう連中は、片言の英語で、とりあえず日本についてみればなんとかなるさ、と、なんとしても日本を目指そうとするだろう。

そして、日本人が英語をペラペラ話しているような日本では、エリート層もそういうおかしな連中の味方になっているに違いない。

というのも、そういう社会でエリート層が読んでいるのは、日本の新聞ではなくニューヨークタイムズかもしれないのだ。

もし、エリート層が日本の国境を大開放し、日本の高等教育を英語化してしまえば、世界中から移民・難民が殺到するだろう。

なにせ、日本に来て英語による高等教育を受ければ、日本がどうなろうと生き残る事ができる「世界市民」になる事ができるのだから。

結局、日本が平和なのは、日本では英語が通じず、日本語という(日本関連の業界以外では)何の役に立たないような言葉を覚えなければいけないからなのだ。

日本人の英語力が向上するという事は、日本人が当たり前、と思っているさまざまな安全を保障している障壁(リベラル派は差別というであろうが)を弱体化させる事でもある。

 

僕は、これからの世の中では、他と違っている事がますます重要になってくると思う。

それは国においてもそうで、日本に値打ちがあるのは、日本人が日本語だけを使って物事を済ませる事ができる国だからなのである。

日本人が英語を理解しないから、日本は安全だし、独自の文化が発達している。

英語が上達すると世界のトレンドに乗りやすくなるが、これだって必ずしもいい事であるとは限らない。

トレンドから距離を置くからこそ自分の頭で考える事ができる、という側面もある。

自分の頭で考える、という意味では、英語が出来るか出来ないかなどは関係ない。

実際、世界的に評価されているような人は大抵英語が苦手である。

よく、日本語では情報が遅れる、というような話をする人がいるが、僕はこれからは少しばかりの情報の遅れは問題にならなくなる、と思う。

コンピューターの性能が頭打ちになっているように、案外、これからの世界で進歩が緩やかになっていく事は十分ありうる。

そのような世界では、すこしくらい時間がかかっても、本当に独自なものを打ち出すことが重要になる。

そして、そのために日本人が必要とするのは、英語力ではなくて日本語の力なのである。

 

日本人の英語力の向上について考えるには、まず、それが外国にとってよい事なのか、それとも日本にとってよい事なのかを考える必要がある。

外国にとってよい事が日本にとってよい事であるとは限らない。

重要なのは、日本人の英語力というのはトレードオフだという事を理解することではないだろうか。

日本人が英語をペラペラ話すくらい英語が上達すれば、もちろん良い事もあるだろうが問題も生じる。

これまで帰国子女や留学経験者が何をやってきたのかを考えても、日本人の英語力が向上するほどいい事がある、と考えるのはあまりに楽観的、と言わざるを得ない。

日本人が英語を理解せずに済むというのは本当に素晴らしい事なのに、それがどれほどの幸運であるかはなかなか認識されない。 

英語の勉強法の本を電子出版しておいてなんだが、将来日本人の英語力がありすぎる事が問題になる事だってありえない話ではないと思う。

ある意味、日本の英語教育がこれほど腐っているというのは、本当に有難い事なのかもしれない。

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炎天下でコーラを飲むとうまい

とんでもなく暑い日が続いている。

夏ってこんなに暑かったかなあ、とびっくりするくらい暑い。

普段は空調の効いた部屋でひきこもっているからいいが(いや、よくはないかもしれないが)、外にでると強烈な直射日光が照り付けてくる。

たかが日光でも、強烈になるとこんな灼熱といっていいような感じになるものなのか。

文章で書くとなんでもないが、とにかく2か月前には全く想像もできなかったほどの暑さが続く。

 

先日も、そういう感じの日に外出をした。

市街地に用があったので、いつもの通りにバス停に向かった。

ところが、炎天下の中で十数分歩いてやっとバス停にたどり着こうというときに、バスは僕を置き去りにして勝手に走って行ってしまった。

こういう風にバスとすれ違うと、いつも大損した気分になる。

この炎天下でさらに十数分なりなんなりの時間、バスを待つことになるのか、と本当にうんざりした。

 

はっきりいってやってられないので、バス停の近くの自動販売機で飲み物を買う事にした。

そういえば、僕はバスを待つときに飲み物を買った事はなかった。

数十年生きてきて何で一度もなかったのか今考えると不思議だが、ジュースを飲みながらバスを待つというのは自分でもいいアイディアだと思った。

飲み物はコーラにした。

他の飲み物だと、この強烈な暑さに合わないような気がした。

 

それでコーラを飲みながらバスを待つことにしたわけだが、やはりコーラというのは炎天下にものすごい合うな、と思った。

なによりも、あの赤い缶のデザインがものすごい夏のイメージにあっている。

もしかして、炎天下の夏のイメージに合わせてあの缶のデザインが決まっているのかもしれない。

そんなことを考えるくらい、先日に買った缶コーラは夏にぴったりの飲み物に見えた。

味のほうも、やはりコーラは強烈な暑さの中で飲むのがぴったりな味である。

正直、単体で飲むなら、べつに涙が出てくるほどうまい飲み物とは思わないが(まあ、清涼飲料水なんんてそんなものだが)、しかし人工的でもどこか懐かしいテイストは、まさに真夏の飲み物である。

 

炎天下の中で、コーラを啜りながらバスを待つというのはなかなか良い。

コーラがあるから、いくら炎天下であっても全然気にならない。

逆に、コーラをおいしく飲むには炎天下であるほどいいのである。

そういう風にして、のんびりとバスを待つというのはなかなか贅沢な時間である。

そうしていると、やっぱり夏というのはいいなあ、と心から思える。

炎天下でバスとか列車とすれ違って十分なり二十分なり待たないといけない場合、自動販売機などで例の赤い缶を買い求めるのは本当にお勧めである。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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夜、20年くらい前に卒業した中学校に行った

最寄りのドラッグストアで買い物をするとき、僕はだいたいおやつを買う。

僕の家はおやつを食う習慣があまりないので、家でひきこもっている僕にとってはドラッグストアから帰宅するまでの帰り道がおやつの時間になっており、これが平凡な毎日の中でいくつかある楽しみの一つとなっている。

その日はモナ王3つを買った。

過ごしやすい夏の日だったので、久しぶりにアイスでも食うか、と思ったのである。 

モナ王を買うときに、2つにするか3つにするかで少し迷った。

もしモナ王2つならば、家に到着する前にモナ王を全部食べ終えてしまうだろう。

しかし、モナ王3つならば、家に着いた時点でモナ王を食べ終わってないから、家に早く入りたいのにしばらく家の前かどこかでモナ王を食べ終えなければならない(家の中で食えばいいのだが、家人の前で自分だけアイスを食っているのは気が引ける)。 

モナ王2つがいいか、モナ王3つがいいか? 

その日の選択はモナ王3つだった。

どうもモナ王2つでは数が中途半端に思えたのである。

 

僕は閉店の合図の「蛍の光」を聞きながら、レジにモナ王3つを差し出した。

 

ところが、モナ王を3つ買った後で、急に、このまま家に帰るのは面白くないような気がしてきた。

モナ王3つに対して、ドラッグストアから家までの距離は短すぎてバランスが取れていないような気がしてきた。

(仕方がない、どこか他のところに行ってみるか)

そう考えて、僕はドラッグストアからどこに行くかを考え始めた。

近所の中型書店はどうか?

書店はこの前行った。

他に何か、もっと違う所はないのか?

 

そこで思い出したのは、僕が卒業した市立中学校である。

学校というのは普通、交通のアクセスがいい所に設置されるものだが、僕の出身中学は幹線道路から離れて住宅地の片隅にあるから、用がないので近くを通る機会がない。

この中学校に久しぶりに行ってみよう、と思ったのだ。

普段中学時代の事はすっかり忘れているのに、なぜ突然、出身中学に行こうという事を思いついたのかは分からない。

長い間、潜在意識の中では気になっていたのかもしれない。

僕はモナ王を齧りながら、ふらふらと中学校の方へと歩きだした。

 

中学校に向かいながら、僕は同級だった知人、友人の事を思い出していた。

これらの知人、友人との関係は悪くなかったが、その関係は表面的なものだったような気がする。

もう少し色々な話をすれば良かったな、と改めて悔やまれる。

当時の知人、友人から学ぶ事は沢山あったはずだ。

しかし、あの当時、僕の家は秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大受刑囚のものと同じようなものだった。

テレビ禁止、ゲーム禁止、「スポーツすると馬鹿になる」とスポーツまで禁止なのだから、今考えてみてもそれは気違いじみていた。

テレビも見れず、ゲームもスポーツもできず、他の子供との接点を十分に持つことが出来なかったのは残念でならない。

本当に、地獄のような日々だった。

ほとんど拷問といってよい。

 

僕は中学では、業者のテストで全学年240人中いつも7番くらいだった。

もうすでに視力のトラブルと精神障害が出始めていた事を考えれば、割とよくやった方だと思う。

僕の中学からは20人くらいトップ高に行ったので、全学年で7番だったらトップ高に余裕で受かる。

そして、実際にトップ高の入試には余裕で合格したのだが、入学式の頃にはすでに秀才ができるような状態とは程遠く、あとは糸が切れた凧のように吹き飛ばされていくだけだった。

小中学生だった頃も8割くらいは死んでいたようなものだったが、高校になって完全にとどめを刺された。

 

学校の女子との縁はなかった。

しかし、何人かの女子に好意的な言葉をかけられた事はある。

もちろん、それはグイグイ来るものではなかったが、きっかけを作るには十分な感じだった。

田舎中学において、やはり知力というのは権力なのだ。

中学で学力的にトップ層にいたことは、他の生徒との関係にそれなりに影響した。

加藤智大受刑囚は中学時代に、女子から告白を受けたものの毒親の干渉のせいで交際に結びつかなかった、と伝えられるが、これは本当だと思う。

だから、行こうと思ったら結構行けたのではないか、と思うが、僕の場合、女子と交際するなど文字通り夢にも思わないことだった。

「どうせ県外に出て別れるのに、女と付き合ってどうするの?」

これが田舎エスタブリッシュメントの常識だった。

その当時の僕に、地元に残るという選択肢はなかった。

僕は地元の駅弁大学に合格したら大喜びするような家庭に育ってないし、そもそも僕の親はそこで教授をしているのだ。

地元エスタブリッシュメントの家庭の出身者として、学問を中心に生きる、というのはそういう事だ(これは結構、地方出身者のハンデになっていると思う)。

いまから考えれば、機会があるごとにガツガツいっておくのが正解だった、とはっきりと分かる。

少なくとも、将来に向けて伏線を張っておくべきだった。

20年経って自分が地元でひきこもりをしているという状況を考えると、全く馬鹿馬鹿しい事この上ない。

しかしながらその一方で、自分がその後どうなったのかを考えると、これでよかったんだ、という気もする。

後知恵があると、あの当時でもなんとか出来たように思えるが、実際の事を考えると完全に無理ゲーだったかもしれない。

 

30になる前、僕は、ああすればよかった、こうすればよかった、と後悔をしてばかりいた。

しかし、30になってだんだん健康が回復し始めると、あの当時はどうしようもなかったんだ、という事がはっきりと分かるようになってきた。

理屈ではなくて、あれは無理だった、とはっきり分かるのだ。

中学のころ、僕はそれなりにアドバンテージがあったと思う。

アドバンテージはあったと思うが、ディスアドバンテージがあまりにも強烈すぎた。

 

左手に、いきなり中学校が現れた。

長年見ていなかった中学校は、なんだかずいぶん小さく見えた。

小学校から中学校に入学した当時のスケール感覚が今でも記憶に残っているからかもしれない。

多分、僕の身長が大きくなった分、学校が小さく見えるのだ。

建物の高さも、学校の敷地もほとんど3割くらい小さいように感じた。

教師が残業しているのか、体育館と校舎の一部に明かりがついていた。

僕が在籍したころの若手教師も、今では完全に中年である。

関係者以外立ち入り禁止、の注意を無視してグラウンドを少し歩いた。

あたりには物音ひとつしない。

 

考えてみたら、中学時代というのは僕が生徒として生きる事ができた最後の時代である。

高校、大学時代はもう完全に廃人になってしまっていたので、なんというか、高校生とか大学生をした、という気がしない。

だから、僕の学生時代というのは実質、中学校で終わりなのである。

それもあるのか、長年の間をおいて中学校の校舎を訪れてみるとものすごい懐かしい。

懐かしいし、原点に返った気がする。

自分がいったい誰なのかを思い出した気がする。

 

僕は子供の頃から、「世界はなぜ、こうなのか」という事を考えて生きてきた。

子供の頃の疑問に答えるために今まで生きてきたといってよい。

そして、その当時の疑問にはとりあえず一通り、はっきりと納得できる答えが出せたと思っている。

だから今までの人生に後悔は一切ない。

僕は今、卒業した中学校から2kmくらい離れた家でひきこもっているけれども、精神的にはとんでもなく遠くまで来た。

もしかして、僕の経験した病苦は、あるいは毒親家庭で育ったという経験すらも、「お前に考える時間をやる」という天からの贈り物だったのかもしれない。

 

僕は「オレはこのままで終わらない」というような事をいうつもりはない。

そんな空元気を出しても仕方がない。

僕はこれからどうなるのだろう。

これからなにか大きな転機があるのか?

それともこのまま人知れず、ひっそりと滅びていくのだろうか?

しかし、極限状態で理解した事を世に伝えるという義務はある。

僕にそれを世に伝えるだけの力があるかは分からないが、義務はある。

 

そんな事を考えながら帰途に就いた。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

 

ブログを書くよりアルバイトをする方が価値がある、とは言えないと思う

どうも最近、アルバイトをするよりもブログをやったがいい、というような(よくある)エントリーを書いた人がいるらしくて、一部で話題になっている。

僕はそのエントリーは読んでいないが、まあ「プロブロガー」がいうような事が書いてあるのだろう。

そういうエントリーに対する反応というのも、まあ、大体予測できるし、全くもっともなものである。

たとえば、アルバイトをするという経験はアルバイトをしなければ得られない、つまり後からカネを出しても得られないような貴重な経験だから、ブログなんかにリソースを全振りするのはもったいない、というものだ。

でも、僕はこの議論をもってしてブログをやるよりアルバイトをしたほうがいい、とは言い切れないと思う。

ブログをやる事も経験の一つには違いないからだ。

 

僕がブログを初めて驚いたのは、ブログというのは全然読まれないものなんだなあ、という事だ。

ブログを始める前、僕はブログというのは何か有意義なものを少し書けば、それはすぐさま、検索エンジンによってめざとく拾い上げられるものだと思っていた。

要するに、「今の時代はどんな情報でも検索エンジンは見つけてくる」というような世間の言葉をそのまま信じていたわけである。

ところが、ブログを一年続けて分かったのは、自分が伝えたい情報を流通させる手段として、検索エンジンはほとんど役に立たない、という事だ。

 

僕は以前ブログで、フランス語を3か月、ネットだけを使って勉強する、という企画をやった事がある。

globalizer-ja.hatenablog.com

このエントリーを一つ書くために、僕は本当に3か月フランス語を勉強して、フランス語で書かれたものならば辞書なしでも大体9割くらいは分かるようになった。 

そして、このエントリーにはその時にどう勉強したかが全部書いてある。

自分でも内容には自信があるし、正直、フランス語の勉強法で僕の書いたエントリーよりも役に立つものを見たことがない。

フランス語を勉強しようかな、と思っている人にとって、僕のエントリーは絶対に役に立つと今でも思っている。

 

しかし、ではこのエントリーが読まれているか、というと、はっきりいってほとんど読まれていない。

せいぜい、一日に1回か2回アクセスがある程度だ。 

フランス語を勉強してみたい♡なんて考えているOLなんて、世の中に百万人くらいいるはずだが、そのようなOLが百万人いようが、僕のエントリーは全く読まれない。

あれくらいの長文を書いても、ぜんぜんアクセスがないのである。

 

他のコンテンツもまあ、似たようなものだ。

何を書いても、不思議なくらいアクセスがない。

それで、関連したキーワードで検索すると、自分が書いたエントリーよりも価値があるとはどうしても思えないようなエントリーが延々と表示される。

昔、「ここはひどいインターネットですね!」 という言い方が話題になった事があったが、検索エンジン自体がひどいインターネットなのだ。

もちろん、僕のエントリーが読まれないのは読まれるための努力(SEO対策など)をしていないからだが、そのような努力をしなければいけない事自体がすでに「ひどいインターネット」である。

僕としては、そんなことをするよりは記事を書く事に集中したいし、実際にそうしているけれども、そうするとアクセスはほとんどゼロになる。

ほとんどゼロのものをいくら掛けてもほとんどゼロだから、いくら記事を書いても、ブログのアクセスはびっくりするほど変わらない。

 

検索エンジンがひどいインターネットである上に、少しマイナーな話題になると検索は激減する。

これは、プロ野球選手の年収が何千万なのにマイナースポーツの選手が貧乏である事に似ている所がある。

プロ野球選手の年収が何千万なのは野球業界に流れこむカネが巨額だからで(もっとも、プロ野球選手の全員が何千万の年収をもらっているわけではないが)、マイナースポーツの選手が貧乏なのはマイナースポーツに流れ込むカネ自体が少ないからである。

検索というのもこれに似ていて、マイナーな検索キーで検索をする人というのは本当に少ないのである。

インターネットを使う人というのは日本だけで一日何千万人いるわけで、これだけの人がいるならばどんなマニアックな検索キーでもたくさんの人が検索をしているように思えるが、実際その検索キーで検索をする人というのは一日に一人か二人、ということもありうる。

というか、少しでもマイナーな検索キーならばそちらのほうが普通かもしれない。

マイナースポーツをやっている人だと、自分がやっているスポーツがいかにマイナーであるかは日々思い知らされるだろうが、往々にして、マイナーな分野に関心を持っている人は、自分が関心を持っている事がいかにマイナーなのか良くわかっていない。

たしかに、検索エンジンの場合は、検索エンジンを使うのに必要な能力が普通のユーザーの能力の限度をはるかに超えている、という側面もあるが、とにかく、検索エンジンがひどいインターネットな上にすこしメジャーでない事を書くと検索自体がされない。

だから、なにか自分が本当に重要だと思う事を書くと、こんなに読まれないものなのか、とびっくりすることになる。

 

その一方で、世の中には意外な情報に人気?がある。

実は、僕のブログで一番読まれているのは、日清カップヌードルのチリトマト味を取り上げたエントリーである。

globalizer-ja.hatenablog.com

読まれているといっても一日に20アクセスとかその程度だが、ともかくこの記事が一番読まれている。

どういう人がこの記事を読んでいるのかは分からない。

この記事への20アクセスのほとんどが流通業者とかだっとしても僕は驚かないが、とにかくこの記事は安定して読まれているのだ。

一体、3か月を使って書いたフランス語のエントリーを読む人がほとんどゼロで、カップラーメンの記事を書いたらブログの中で一番読まれる記事になる、なんて、誰が予想するだろうか?

しかも、このブログは飲食料の紹介に力を入れているわけでもなく、そのようなエントリーは5つか6つくらいしかないのだ。

このような事は、いくらアルバイトをやっても絶対にわからない。

アルバイトをやって分かる事もあれば、ブログをやって分かる事もある。

 

僕は、それなりに儲かるブログを作るのは普通に出来る、と思う。

要するに、儲かりそうな分野を趣味にすればよいのだ。

自分が関心ある分野がぜんぜんブログでの金儲けにつながらないものだからいけないわけで、クレジットカードとかゲームとかアニメとか漫画とかラーメンなど、そのようなものを趣味にすればよい。

僕のブログにしたって、カップラーメンを100種類食べてエントリーを100書けば、それだけで僕のブログのアクセスは(元のアクセス数が非常にすくないので)数十倍になるだろう。

そうした上で、おすすめのエントリーみたいな形で、先ほどのフランス語学習のエントリーを紹介すれば、少なくとも今よりは読まれるようになるかもしれない。

 

ある意味、インターネットというのは世の中の真の姿を映す鏡のようなものである。

ひどいインターネットを通してひどい世の中を理解した上で、それなりにやりがいのある方法で、それなりに楽しくカネを稼ぐ事を勉強する、ということは十分に意義がある事だと思う。

そして、そのノウハウは社会人になっても役に立つのではないだろうか。

多分、学生にとって一番いいのは、アルバイトをやりながらブログをする事だろう。

これだと少し忙しすぎるような気もするが、得るものは少なくないと思う。

仮にブログの運営がうまくいかなくても、ブログを書く事で得られたものは失われない。

僕のフランス語学習のエントリーは誰にも読まれないが、僕がそのエントリーを書くために学んだフランス語の知識が無意味になるわけでもない。

 

なんだか自分でも何がいいたいのか分からなくなってきたが、最後に言いたいのは、無理をするな、ということだ。

ブログに全振りするのが自然ならばブログに全振りすればいいが、そうでないならばブログに全振りするなんて絶対にしてはいけない。

どうも、ブログの世界の一部では「背水の陣」をしく事を煽る傾向があるが、そのような事をしても絶対にうまくいかない。

「背水の陣」で生まれ変われるならば苦労はない。

「背水の陣」をしく前に出来ない事が「背水の陣」をしいた後でも出来ないのは、ブログの世界でも変わりがない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。