グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

読書経験者

夏の甲子園が始まった。

8月22日に優勝校が決まるまで、これから熱戦が繰り広げられる事になる。

甲子園というのはともかくすごい。

テレビで見ると、全員すごい野球の技術をもっている。

甲子園に出場するのは各都道府県で優勝したチームだからみんな上手いのは当然だが、子供の頃から心身共にトラブル続きで、人生がほとんど30過ぎから始まったような感じの僕からすると驚く事ばかりだ。

かと言って、それでは甲子園に出ないチームは大したことがないか、というと、もちろんそんな事はない。

高校で野球をやっている子供は大抵、小学生の頃から野球をやっているので、どんな子供(高校生を子供というべきかはよく分からないが)でも未経験者ではできないような事ができる。

だから、地方大会の無名公立校の試合でも、スーパープレイはいくらでもある。

やはり、どんな事でも、小学生の頃から続けると未経験者には信じられないレベルに達するのだ。

 

そんな事をテレビの甲子園の中継をみながら考えていたのだが、そこで思ったのは、僕が小学生の頃から続けている事って何かあるのだろうか、という事だ。

野球をしている小学生が野球をしている間、僕は何をしていたのだろうか? 

それで気づいたのだが、スポーツも習い事も何もしていない僕が続けている事が一つだけある。

僕は小学生の頃から、読書をしていたのだ。

 

以前にも少し書いたが、僕の家はテレビ禁止・ゲーム禁止・スポーツ禁止というとんでもない家だった。

その当時は心身ともに、まともにスポーツができるような状態ではなかったのでスポーツ禁止は関係ないが(まあ、世の中に対する見方は多いに歪んだが)、小学生の僕に出来る事というのは、本当に本を読むか、新聞を読むか、くらいしかなかった。

市立図書館と県立図書館では相当の時間過ごした。

もっとも、読書をすると言っても、子供の頃の僕は精神障害がものすごくて、それほどレベルの高い読書ができたとは思わない。

今から考えると、随分としょうもないものを読んでいたものだ、と思う。

しかし、子供の頃から本を読んできたので、その頃から読書人としてのカンはある。

 

野球に上手い下手があるように、同じ読書をするにも読書が上手い人と下手な人がいる。

まず、読書が下手な人は、背表紙を見てもどれが面白い本なのか分からないと思う。

よく分からないから、どの本を読めばいいのか分からないし、選んだとしてもスカばかり引く。

外れの本を読んでも面白くないので、一向に読書が上達しない。

 

僕は背表紙を眺めたらすぐに、どれが面白そうなのか大体の見当はつく。

もちろん、背表紙だけだと十分な事は分からないが、本気で書いた本なのかどうかは10秒ページをパラパラすれば分かる。

膨大にある本の中から面白い本を嗅ぎ当てるのは、読書人として基本中の基本である。

そのために必要なカンと、その背景にある教養について言えば、小学生の頃から読書をしている方が有利かもしれない。

 

確かに、本などを読まなくても、充実した人生を送る事はできる。

それどころか、本ばかり読んでいる人の人生というのは、本を全く読まない人の人生よりも貧しいのではないか、と僕は疑っている。

読書なんかをしている暇があったら、野球などをしていた方が普通は役に立つだろう。

とは言え、状況によっては読書というのは人生において重要な意味を持ちうる事は否定できない。

そして、人々の本の読み方を観察すると、本の読み方には上手い下手がある、というのも事実で、この上手い下手には小学校時代の読書経験がある程度は影響するような気がしないでもない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

生まれて初めてビックマックを食べた

土曜の夜にバスに乗って帰ろうとしたら、バスがなかった。

平日だったら問題なかったが、土曜だとバスが無くなるのが早いので、もう15分くらい早くバス停に到着していないといけなかった。

 

引きこもりにありがちなように、僕は時間通りに行動するのが苦手で(まあ、時間通りに行動するのが得意な引きこもりなんて殆どいないと思うが)、それはバスがなくなるかどうか、という状況においてもそうである。

時間が迫ってきても、どうも危機感というのが出てこない。

それで、危機感が出てきた頃にはもう遅いというパターンで、こういうバスの乗り忘れは一年に一度くらいある。

 

もしバスを使わずに家に帰るとすると、タクシーに乗るか、歩いて帰るしかない。

まあ、タクシーを使っても単行本一冊程度の料金だったので、普通ならタクシーを使えばいい話だが、僕は考え事をしながら延々と歩く、というのも嫌いではないのでどうしようか、と思った。

僕は引きこもりなので、時間はいくらでもあるし、歩いている間にブログに何を書くかを考えていれば時間は無駄にならない。

 

無駄にはならないのだが、その日はどうも、タクシーに乗る気分にも、延々と歩く気分にもならなかった。

タクシーに乗るのも、歩いて家に帰るのも、選択としては普通すぎる気がした。

どうせならば、これを機会に、普段ではできない事をするのはどうだろうか?

僕は、深夜まで営業している大型書店で本を何冊か買ってきた。

そして、マクドナルドに行ってビックマックを食おうと思った。

ビックマックを食った後で、本を読みながら朝を待とう、と思ったのだ。

 

それまでビックマックを食べたことはなかった。

もちろん、ビックマックは非常に歴史のある有名な食べ物で、その存在を知らない人はだれもいない。

物の価格は物の価値に対応する、という事を利用したビックマック指数、という経済指標もある。

 

でも、僕はその存在を知ってはいても、それを食べた事がなかった。

非常に気になる存在で、いつかは食べるつもりだったのだが、実際に食べる機会がなかなかなかった。

ハンバーガーやポテトを食べる際に手を汚したくない、というのもあるが、それよりも、僕はビックマックの広告写真が発散するゲテモノ感が怖かった。

僕にとって、ビックマックはゲテモノ中のゲテモノ、キング・オブ・ゲテモノに他ならなかった。

だからこそ気になるわけなのだが、怖いものは怖いのである。

特に、間にチーズが挟んであるところが怖い。

あのマクドナルドのピエロに匹敵するくらいの禍々しさである。

ハムにチーズという組み合わせなら怖くないが、ハンバーガーにチーズという組み合わせには不安になる。

しかも、そのチーズの色がまた、ものすごくクセのありそうな黄色なのである。

ドレッシングソースも怖い。

ドレッシングなのにゴマダレみたいな色なのも怖いし、そもそもハンバーガーにドレッシングがかけてある事自体が怖いのである。

 

同じハンバーガーでも、モスバーガーフレッシュネスバーガーハンバーガーにはこういうゲテモノ感はない。

それらは、見るからに安心して食べられる食べものである。

ビックマックはそうではなく、見れば見るほど不安になる。

なんだか、とんでもない味がするんじゃないか、と警戒をしてしまうような代物なのだ。

 

そういうわけで、今回バスに乗り遅れたのはビックマックを食べる絶好の機会だった。

僕は引きこもりなので、そもそも外食をする機会そのものがあまりない。

ここでビックマックを食べれば、今回のバスの乗り遅れも意味があったことになる。

 

さっそく、マックカフェに行ってビックマックを注文してみた。

注文はコーラとポテトのLをセットで頼んだ。

ビックマックのセットは680円だから、コーラとポテトをLにすると750円になる。

 

パッケージを開けてみてまず驚いたのは、ビックマックというのは意外と小さいな、ということである。

僕の想像では、ビックマックは顎が外れるほどの厚みがあり、大きさもその名の通りバカでかいバーガーなんだろうと思っていた。

ビックマックを食ったことがないということは、これまでビックマックの実物を一度も見たことがない、ということである。

だからビックマックの大きさも想像するしかないが、小さなバーガーでもポスターなどの広告写真にはバカでかく映るので、想像がそのように引きづられたのだろう。

しかし、実際にビックマックの実物を見ると、それは握りこぶしより少し大きいくらいの大きさだった。

嚙み切れないほどの厚さのあるバカでかいバーガーが出てきたらどうしよう、と思っていたので、ほっとすると同時に拍子抜けした。

厚さのほうも、手で掴めば潰れてサンドイッチ二枚分程度になる。

ずいぶん想像と違うな、と思った。

 

そして、味の方もぜんぜん予想と違っていた。

まず肉だが、それは肉というよりは肉から作った全く別の何かである。

ハンバーグというよりはテリーヌみたいな感じだった。

では、それがどのような味か、というと、よくわからない。

肉の味が少しするような感じもするし、全然しないような感じもする。

チーズもそうで、ビックマックを食べてもチーズの味がよくわからない。

ほとんど隠し味である。

すべての素材の味が調和しているために、それぞれの味の判別ができず、ビックマックの味、としか言いようのないものになっている。

ピクルスが少し浮いているような気がしたが、他に浮いている味がない。

想像とは全く違い、ビックマックの味は(少し人工的な気がしないでもないが)自然だった。

美味いか不味いか、のどちらかに分類すると、美味いのほうに分類してもいいと思う。

それはモスバーガーフレッシュネスバーガーの美味さとは全く異質のものであるが、たしかに料理として成り立っている。

ハンバーガーとチーズとドレッシングが合わさったらどんな味になるのだろう、と不安だったが、味としては全く問題なかった。

ただし、これはポテトをつまみ、コーラを飲みながらの感想なので、水と一緒にビックマック単体を食べるならば評価は変わってくるかもしれない。

 

ビックマックを食うことで手はそれほど汚れない。

ドレッシングがパンに染み込むので、あまり垂れてこない。

手が汚れるとすると、それは間に雑に挟まっているレタスを通してである。

これは「クルー」にもよるのかもしれないが、レタスの乗せ方は相当に雑だと思った。

あと、ハンバーガーは一度掴んだら手を離さないほうがいい。

手を離した後でもう一度掴むと、なんだか全体がズレてきて崩れはじめる。

そうすると、手のほうもドレッシングで汚しやすくなる。

もっとも、ビックマックはポテトなどと一緒に注文されるので、このような事はあまり意味がないかもしれない。

ポテトはものすごい手が汚れるので、マクドナルドは割り箸を用意してほしいと思う。

 

個人的に言うと、コーラはLに増量したほうがよいと思う。

Mでは明らかに足りないと思った。

ポテトはMでもLでもよいと思う。

ただ、値段を考えると、コーラをLにしてポテトMだと700円、ポテトLだと750円である。

バランスを考えると、ポテトはMのほうがよいかもしれない。

ビックマックのセットの値段680円は、個人的には100円くらい高いと思う。

まあ、ファーストフードというものが過剰に安すぎるとも言えるけれども、680円ではビックマックの人工的な感じと少しバランスがとれてない。

もちろん、ビジネスとしては、680円というのは正しいプライシングだと思う。

これ以上安くするのは(特に今はアルバイトの時給が上がっているので)、いろいろと厳しいのだろう。

量的には十分な量があるので、680円でもぼったくられた感じはしない。

初めてビックマックを見たときは、こんなちっぽけなバーガーで680円かよ、と一瞬思ったが、セットを全部食ってみると、一食分としてはちょうどいい量である。 

 

マクドナルドというのは何だか毒々しいイメージがあったが、久しぶりにマクドナルドを利用すると、毒々しさがずいぶん無くなっているな、と思った。

マックカフェというものが営業している事自体、マクドナルドが変化している事の現れと言えるし(ちなみにカフェ部分は深夜はやってないようだったが)、メニューも、モスバーガーとかフレッシュネスバーガーみたいなものが多くなっているように感じられる。

今回食べたビックマックにしても、以前はもっと毒々しいものだったのかもしれない。

ビックマックの値段も以前より相当高くなっているので、値段の分だけ品質も向上しているはずだ。

マクドナルドの食い物はヤバイ、というか、マクドナルドそのものがヤバイ、というイメージは世界的にある。

外食というのはイメージがすべてなので、マクドナルドのほうも対応を迫られているのだろう。

かつてのマクドナルドが発散していた毒々しさが苦手だった者としては、これは歓迎すべき流れだ。

 

ビックマックのセットを食い終わったので、手についた油を落とすべく洗面台を使った。

水の出はよかったのだが、この洗面台はあまり使われていないのか、洗面台の流れが悪かったので手洗いのほうの洗面台を使った。

何かが引っかかっているのをそのままにしている所にこの店の適当な部分が表れていると思った。

飲食店でこういう事があると、その店をもう一度使う気がしなくなる。

マクドナルドのマニュアルに、チェック項目はないのだろうか?

さすがに、液体洗剤は普通にあった。

フライドポテトを出す店で液体洗剤がなかったらとんでもない。

しかし、本を読むとか勉強をするなら、(地元の学生がやっているように)ハンバーガーセットではなく、シェイクなどを注文すべきだった、とも言える。

 

それで、手を洗って本を読み始めようと思ったら、店員が周りの椅子を片付け始めるではないか。

どうも、この店は25時に閉店になるらしい。

マクドナルドは24時間営業しているものだと思っていたので、すっかり当てが外れた。

24時以降に入店したので一言言ってほしかったが、まあ、仕方がない。

それで、まだ営業している他の店を見ても、2時に閉店とか、3時閉店だったりする。

案外、24時間営業している外食チェーンは少ないのかもしれないな、と思った。

後で調べてみたら、マクドナルドの全2,900店舗のうちで24時間営業なのは800店舗くらいで、しかも24時間営業している店舗は縮小中らしい。

 

結局、一時間半かけて歩いて家に帰った。

漫画喫茶にでも行こうか、と思ったが、どうもカネを使いすぎたような気がして止めにした。

タクシーだろうが漫画喫茶だろうが、何も考えずに使えるような大富豪になりたいものだ。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ブログを続けるのに必要な事

ブログを続けるのに必要な事は何か?

ネットで検索をしてみると、いろいろな事が書いてある。

定期的にブログを更新する習慣をつけるようにするとか、定期的にブログを更新することにこだわらないとか、なんとしてもブログを更新し続けるとか、たまには休みをとっていいとか、まあ、それぞれそうなんだろうな、と思う事だ。

しかし、僕が思うに、実はブログを更新するのに本当に必要な事は一つだけなんではないか。

では、その一つというのは何か、というと、それは

たとえブログが読まれなくてもエントリーを書き続ける覚悟を決める

という事なんだと思う。

本当に必要なのはこれだけで、後はオマケなのではないだろうか。

 

ネットの世界というのは、ともかくまともなものほど読まれないようになっている。

これは芸能関係の情報を検索すればよく分かる。

「芸能人」の名前で検索をすれば、ゴミのようなまとめサイトが山のようにヒットする。

そして、こういうゴミのようなまとめサイトが大量にあるのは、それだけゴミまとめサイトが儲かるからなのだ。

こういう芸能関連の記事というのは、読む人が膨大にいるのである。

 

逆に、ごくわずかな例外を除いて、インターネットではまともなものは読まれない。

これは有名ブログなどをみても分かる事で、本当に深い内容のあったり、重要な情報が書いてあるエントリーはぜんぜんはてなブックマークを集めてない。

読者数が1,000を超えるような、はてなでブログをやっている人間ならば誰でも知っているようなブログでもそうなのだ。

 

前にも書いたが、僕は以前、ゼロから3か月間フランス語を勉強したらどうなるか、という企画をやってみたことがある。

globalizer-ja.hatenablog.com

あのエントリー一つを書くのに、僕は本当に3か月を使った。

まあ、3か月集中して取り組んだ、というより、3か月間、やったりやらなかったりをだらだら続けた、という感じだったが、それでも、あれくらい時間とエネルギーが投下されたエントリーは技術系のブログを除いてほとんどないと思う。

しかし、あのエントリーはぜんぜん読まれていない。

本当に、一日に3人とか、そんな感じだ。

僕としては相当に長文だが、長文であってもそうなのだ。

内容的には、かなり面白いものが書けた、と思う。

語学というのは、勉強するのに何年もかかる、と言われるが、辞書なしで書いてあるフランス語を9割くらい理解する、という程度なら、英語が分かれば3か月程度あればいいのだ。

なかなか画期的な企画だったと思うが、しかしいくら画期的でも僕がやったことは全然世の中に伝わってない。

 

僕はこれまで、エントリーが読まれるという事の価値を大きく見積もりすぎていた、と思う。

確かに僕は、今まで自分が書きたいことだけを書いてきたけれども、しかし、なんだかんだで僕はそれが読まれる事を目的として書いていた。

だから、自分が重要だと思う事を書いてアクセスがないと面白くないし、ゴミとしか言いようのないゴミ記事がアクセスを集めているのをみるとムカつくのだ。

 

僕は最近、エントリーというのは読まれる事に価値があるのではなく、書くこと自体に価値がある、と考えるようになっている。

読まれる事にはどれくらいの価値があるのか?

自分が書いたエントリーにはてなブックマークが200くらい書かれて、アクセスが一万くらい来る、というような経験は何回かあるが、そのような事があって何かが変わったか、というと、はっきり言って何一つ変わらない。

変わらないから今、こういうエントリーを書いているし、これから何回このような「バズ」があっても、状況は変わらないと思う。

たしかに、自分が書いたものに反響があるというのは気分がいいけれども、ネットで読まれる、という事の価値はその程度だ。

 

多分、ブログというのは、読まれる事ではなく、エントリーを書くこと自体を目的とするべきなのだ。

納得できるエントリーを書く事は、それ自体に価値がある。

たしかに、自分が時間とエネルギーを投入して書いたエントリーが読まれない、というのは、かなりつらい。

しかし、僕はもう、どれほど読まれなくてもエントリーを書き続ける、という覚悟を決めた。

 

ブログで何かしよう、という人にとって、ブログの世界は本当にきびしい。

ブログを続けるには、どれほど読まれなくても自分が納得できるものを書き続ける、という覚悟がいる、と思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

スナック菓子を食いながらコーラを飲むとうまい

コーラとほかの清涼飲料水で何が違うか、と言ったら、何かを食いながら飲む飲み物かどうかが違う、と思う。

 

他の清涼飲料水はそうではない。

それらの清涼飲料水は、基本的には単体で飲むように作られていると思う。

例えば、ファンタのグレープ味というのは、あれはやはりうまく出来た清涼飲料水だと思うが、たぶんファンタのグレープ味を一番うまく味わうにはファンタのグレープ味だけを味わって飲むのが一番よいと思う。

カルピスもそうだ。

一番うまくカルピスを飲む方法というのは、カルピスのみを飲む事だろう。

コーラ以外の清涼飲料水というのは、それ単体で成り立つようにできており、それ以外に何も必要としないのである。

 

ところが、飲み物の中には、一応飲み物だけでも成り立つけれども、それに合う食い物があったほうがよりおいしく味わえるようなものもある。

たとえば、ビールとかワインなどのアルコール類がそれである。

たしかに、ビールはそれだけで飲んでもそれなりにうまいが、焼き鳥などのつまみや料理を食いながら飲んだ方がよりおいしく飲める。

ビールのうまさが1、食い物のうまさが1とすると、食い物を食いながら飲むビールは1+1が2になるのではなく、3にも4にもなるのである。

食い物があって初めて、ビールとかワインというのはおいしく飲める。

ビールとかワインなどは、そのようにできている飲み物なのである。

 

コーラにも、それらのアルコール類と似たようなところがある。

僕は、単体でのむならばコーラよりもうまい清涼飲料水はいくらでもあると思う。

しかし、スナック菓子を食いながら飲む飲料としては、やはりコーラは一つ抜けている。

スナック菓子を飲みながら飲むコーラはうまい。

もちろん、スナック菓子にもコーラと非常に合うものと、それほどでもないものがあるけれども、例えばのり塩味のポテトチップスなどを食いながらコーラを飲むと、世の中でこれほどうまいものというのはそうそうないだろうなあ、と思う。

口の中にポテトチップスの旨味が残っている状態でコーラを流し込むときの味わいは何者にも代えがたい。

それは一人前30,000円のフランス料理のフルコースにも、12,000円のイタリアンにも、25,000円の中華にも、32,000円の鮨にも代えがたいうまさである(と思う。そんな高価の料理など見たこともないが)。

これがコーラ以外の清涼飲料水だと、そういうようなミラクルは起きない。

カルピスとポテトチップを交互に飲み食いしたところで、お互いの味が干渉しあって調和しない。

1+1がプラスにならずにマイナスになってしまうのである。

これはカルピスがコーラよりも劣っている、というわけではもちろんない。

カルピスがビールよりも劣っているわけではないのと同じで、カルピスはカルピスだけで飲めばよい。

 

このように、食い物を食べながら飲む飲み物としては、コーラというのはものすごいうまく出来ている。

もちろん、コーラと合う食べ物はビールと合う食べ物よりも大幅に限られるが、コーラと合う食い物を食いながら飲むコーラは最高である。

そして、コーラというのは、食いながら飲むという事も考えて味付けがされていると思うのだ。

それは、はっきりとした主張がないといけないのはもちろんだけれども、かといってコーラを飲みながら食う食い物の味わいを引き立てるものでないといけないのである。

それでいて、当然コーラは食い物がなくても、それだけで飲めないといけない。

コーラの味付けというのはこのような微妙なバランスの上に成り立っている。

そう考えると、改めて、コーラというのは清涼飲料水の傑作である、と思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ブログを書くのが面倒

僕は文章を書くのが苦手で、だからブログを更新するのも億劫でしようがない。

とにかく文章がすらすら出てこない。

たまにすらすら出てくる事があるけれども、一行一行苦労しながら書いている事が多い。

僕と違って普通、ブロガーというのは文章を書くのが得意だからブログをやっている場合がほとんどだと思う。

他のブログを見ると、すらすらと文章をかいているなと感心するばかりだ。

とても僕にはそういう書き方はできないが、しかし書きたい事があるなら面倒でも文章を書いていくしかない。

はっきりいって仕方がないから文章を書いている。

書きたい事というか、書かないといけない事はたくさんある。

今でも20くらい書かないといけないものがあるのだが、その一つひとつを書いていくのが面倒なのでそれらがなかなか文章にならず、書かなければいけない記事は増える一方だ。

まあブログをやって半年もしないのに書きたいことがすっからんになって、そのまま休止したり消滅したりするブログよりはマシなのかもしれないが。

 

それでもある程度ブログをやっているので、書き始めたらとりあえず最後まで記事を仕上げるまで行く、というのは分かる。

ブログを始めたころはエントリーを書き始めるときはいつも最後まで書き終えられるか不安があったが、最近はそういう事はない。

さすがに200記事ほど書いていると、書き始めさえすれば何とかなるということが分かってくる。

だからそういう意味で安心感はあるのだが、しかし文字数は相変わらず書けない。

どんなテーマで書くにしてもだいたい丁度1,200文字くらいに収まってしまう。

まあ一つの記事を書くのに2日以上使えばどんなテーマでも2,000文字くらいになるのかもしれない。

でも一度にエントリーを書く場合は大体1,200文字書いた時点でエネルギーを使い切っているし、2,000文字以上の記事ばかり書くならアクセスが大幅増になるような気配もないので、今後も1,200文字くらいのエントリが増えていくのだろう。

 

始めは僕が文章を書くのに苦労するのは僕の書いている内容が書きにくいものだからだと思っていた。

僕のブログというのは他の人が書かない事を書く、という事がテーマになっているので、文章を完全に自分で考えないといけない。

そこらへんに転がっているテンプレを使えないのである。

今までに読んだ事のない事を書くというのは結構大変である。

だから、これまで文章が書くのに苦労しているのは書いているテーマが難しいからだと思っていたが、ある程度ブログをやっていると、それだけではないなというのも分かってくる。

世の中に数学が苦手な人がいるのと同様、文章を書くのが苦手な人がいるのは当たり前の話で、たまたま僕は文章を書くのが苦手な人間なのだろう。

文章を書くのが苦手なのに書かなければいけない事はあるのだから、やれやれ、という感じである。

 

 

ブログを書くのは面倒だが、ブログの内容を考えるのは好きである。

僕は無職なので一年中ブログのネタを考えているようなものかもしれない。

そんな事をしていている場合か、と一年中思うのだが、しかしブログのネタを考えるのは楽しい。

次はああいう事を書こうか、こういう事をかこうか、と、考えているだけで浮かれた気分になる。

しかしブログのネタを考えたら面倒でもそれを文章に書かないといけない。

僕の考えを書いてくれる人間は自分しかいない。

だれかが僕の家に話を聞きにきて、その内容を原稿にまとめてくれるわけではないのだ。

 

もっとも、いくら僕が文章を書くのが苦手とはいえ、書くことはなにも面倒なだけとか、つらいだけ、というわけではない。

文章を書き終わってエントリーをアップロードするときは心から、面倒を押してエントリーを書いてよかったと思う。

ブログというのは書いているうちにいろいろアイディアが浮かんでくるから、だいたい出来上がりは想定より上手くできる。

特に、書いている内に上手い表現を思いついたときは本当に気分がよい。

 

ブログというのは書くのが面倒である。

文章を書くのが得意な人も面倒なのだから(だからブログというのは投げ出す人が多い)文章を書くのが苦手な僕にとってはもっと面倒なわけだが、しかしそう考えると、面倒の中にも色々いいことはあるな、と思わないでもない。

まあ面倒であろうがなかろうが、いいことがあろうがなかろうが、僕はブログを書き続けるしかないのだが。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

人生における助走期間と本番について

以下のエントリーを読んだ。

先日会社のイベントがあり、東京タワーの離れにある5階のラウンジでジンギスカンを焼いて食べた。わたしの席の周りには常務をはじめ、ずらりと偉いおじさんが並んでいた。19時をまわり辺りが暗くなると東京タワーに灯りがついた。
「おや、灯りがついた」
「日が暮れるのがすっかり遅くなったなぁ」
「東京タワーもこうして見ると、きれいなもんですなぁ」
「わたしらが働いているこんな近くの、東京タワーで、こんな宴が夜な夜な繰り広げられていたなんて。夢にも思わなんだ」
横一列に並んだ偉いおじさんたちが、いかにも感慨深げに抑揚たっぷりに言うのがおもしろかった。みな一様に、間近の東京タワーを首が痛くなりそうなくらいに見上げていた。ト書きを読んでいるような台詞回しや視線が交じらないことが、どこか小津安二郎の映画を思わせた。
のりの効いたシャツを恰幅よく着こなす一番偉いおじさんが訥々と話し始めた。
「わたしはね、料理作る人になりたかったんだよ。だから18ん時にね、親父に『おれは料理人になる』って言ったの。そしたら親父なんて言ったと思う?」
皆、わからないでいた。一番偉いおじさんは構わず口を開いた。
「『作るより食うほうがいいだろ』って言ったんだよ。それで今ウチの会社にいるんだよなぁ」
そう言って一番偉いおじさんは口いっぱいにラムを頬張った。わたしは笑った。なんだかよくわからないが、いい話だなと思った。そして笑って、とても偉い人の幸せそうなエビス顔を見ていた時、ふと、ああ、わたしの人生はこうしている間に過ぎ去っていくんだなと思った。あっという間なんだろうなと思った。目の前にいる一番偉いおじさんは、料理人になるかならないか決断をして、作るより食べることを選んだ。そうして偉い人になった。でもわたしは道を選ばず、毎日をやり過ごしている。なんとなくお金を稼ぎなんとなく暮らし、たまに会社のイベントでジンギスカンを食べたりする。そうこうしているうちにもう25歳だなと思った。そうして30歳になるだろう。40歳になるだろう。50歳、60歳、70歳、80歳、どこまで長生きできるかわからないが、やがて死ぬので人生は終わるだろう。
***
会社の別の人の話である。その人はわたしとそれほど歳が変わらないように見えるがそろそろ不惑だと言う。若さの秘訣を尋ねると、戸惑いがちにこう言った。
「朝起きるじゃないですか。息を吸って吐く。顔を洗ったら朝ごはんを食べて、歯を磨いて会社に行く。会社から帰ってきたら晩ごはんを食べて、お風呂にはいって寝る。その繰り返しをしていたら、今の年ですね」
ぞっとした。悲しかった。恐ろしかったが、でもきっとそういうことなのだろうな、と思った。その人は、だから若く見えるのだ。
***
わたしはなんとなく、まだ人生の助走期間にいるような気がしていた。どこかで人生の本番がはじまるので、そうしたら全力ダッシュすればいいんだろうなと思っていた。毎日が生きがいに満ちた本番の人生。いつか始まるはずの輝かしい本番。
だがいつまでも本番は来ない。そうして気付いた。ダラダラ走っているこの毎日が、人生の本番なのだ。助走期間なんてなかった。ずっと本番だった。
もし充実している人生をしか本番の人生と呼ばないのだとしたら、何も選ばない怠惰な人間にはいつまでも人生の本番は来ない。
ここから先はすごく言いたくないことだ。でも言う。わたしは、本当は、文章で食っていく人になりたかったのだった。どこかでそれを選んだと思っていたのだが全く選んでいなかった。苦労をしてはいった大学は、わたしと同じような人だらけだった。皆、文章で何かできると思って、でも何かできているのは一握りだった。大した努力もせず、ダラダラ道草を食っていた。
そうして大学を卒業した今のわたしは、就職活動に失敗し、明らかに向いていない職業についた。今もなお、本当は待ち望んでなどいない本番を期待し、怠惰にダラダラ走っている。
***
昨日は酷かった。湿気がひどいと理由をつけ、なんにもしたくなかったので家事もせずベッドに寝転んで、無料でダウンロードしたオセロのゲームをしていた。無料なのですぐ勝てる。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、win! そうしている間にわたしの人生の本番は過ぎ去っていった。なんて無駄で贅沢な時間の使い方であったことか。
でも考えてみれば人生なんてそんな重きを置くものでもないのかなと思う。昔は毒キノコを食べて死んだり崖から落ちたり辻斬りにあったり、とかく簡単に人が死んだんだろう。彼らに意味付けなんてなかったはずだ。
先日家の近くで子猫が生まれた。とにかくかわいかったのだがいなくなってしまった。あの子らももしかしたら、飢えたり車に轢かれたりすぐ死んでしまうのかなと思う。子猫たちの本番はもうない。しかし親猫はまた次の春には発情して、すぐに新しい子猫が生まれるだろう。人間の生も所詮そんなものなのかもしれない。本気になる必要なんてないのかもしれない。
でもどうせならわたしは、本番の全力ダッシュをしてみたい。わたしにとってわたしの本番はわたしだけに与えられたわたしだけの一回こっきりのものである。わたしにとっては世界に等しいものだ。その気持ちを捨てきれない。
わたしは選ぶ。今から全力ダッシュをする。そうしていつか、満足しきったエビス顔で、ラムを口いっぱいに頬張るのだ。

人生の助走期間と本番

人生を助走期間と本番に分けるとして、助走期間と本番とで何が違うか、というと普通は「プロ」としてカネを稼いでいるかどうか、の違いだろう。

つまりプロになる前の期間は人生の助走期間で、プロになった後が人生の本番である。

高校野球なんかはそうで、甲子園というのはたしかに夢の大舞台だけれども世間ではあれはやはり助走期間と見なされる。

野球人としての本番はNPBとかメジャーリーグで、だから甲子園でものすごい輝きを放った後プロでうまくいかなかった場合、甲子園で活躍できたからいいじゃない、とはなかなかならない。

他の多くの職業についてもそうで、会社に就職したら会社員をやる事が本番だし、役所に就職したら役所の人をやるのが本番であろう。

それ以前に何をしていたかは、この本番までの助走期間と考えられる。

 

問題は、職業によっては助走期間と本番との区別がつかないものがある、ということだ。

先ほどの増田の場合もまさにそうで、文筆の世界というのは助走期間と本番とで区別がはっきりしない。

文章を書くのがうまい人はそれこそ山のようにいて、それぞれがそれぞれいいものを書く場合プロとプロでない人との差というのは段々と偶然の問題にすぎなくなる。

しかも今の時代は文章のうまい人はネットで文章を発表するから(先ほどの増田のように)、永遠の助走期間を生きている増田のような人とセンスのないプロを分ける境界線はますますわからなくなっていく。

 

その一方で、そもそも人生に助走などないのだ、全部がぜんぶ本番なのだ、という見方もできるので難しい。

例えば甲子園とか高校野球の世界というのは選手一人ひとりの人生全体を考えたらば助走期間かもしれないけれども、その「夏」だけに注目すればそれは真剣勝負、本番そのものである。

技術の違いはあれ、強豪校の選手もプロ野球の選手でも全力でプレーしている事には変わりがない。

見世物として見ると、高校野球のデスマッチはある意味プロ野球を超えている。

文筆の世界でもそうだ。

先ほどの増田のエントリーにしたって、あれはやはり本気で書かれたもので下らない「プロ」が職業的に書き飛ばしたものよりもよほど本気であるだろう。

もちろんブログを書くのと活字になるものを書くのとでは重さが違うが、本質的にはどれほど違うのだろうか。

 

そこらへんの混乱が、僕や増田のような者がいつまでたっても(しなければならないと分かっているにも関わらず)「全力でダッシュ」する気になれない原因なのかもしれない。

もっとも会社役員とジンギスカンを食べられる身分の増田などは僕と比べたら全力疾走しているようなものであろうが・・

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

日本人が英語をペラペラ話すようになると、日本は夢の理想国になるんだろうか?

まず、日本人がだれでも英語ができるようになる、というのは、日本以外の国からすると素晴らしい。

なにせ、日本というのは日本語があるから手に負えない。

外国人にはアクセスが難しいのである。

大抵の日本人は日本語しかわからないから、外国人がなにか英語で言っても何を言っているのかわからない。

そして、外国人が言ったことが日本語に翻訳されるとニュアンスのほうも変わってしまうのである。

自分たちの言っている事が一部の例外を除き、エリート層を含めて直接的に伝わらない。

これは外国人にとっては本当にイライラする事だろう。

 

ある種の外国人にとって、日本語というのは日本社会の閉鎖性の象徴である。

外国人からすると、日本人というのは日本語しかわからないから閉鎖的な考えしか持てないように見える。

日本文学などの日本文化は大好きなのに、日本社会というか日本そのものが大嫌いな外国人というのは大量にいる。

たしかに、今の日本の現状をみるとそのような外国人が大量にいるというのは理解できなくもないが、とにかく日本嫌いの外国人というのは目立たないけれども大量にいる。

そして、そのような外国人にとって、日本がだめなのは、日本人が日本語みたいな、話者が権力関係や社会慣習に絡めとられていくような言葉を話しているからだ、というのは共通認識になっている。

もちろん、日本人が日本語を使うのをやめるべきだ、という事を考える外国人はほとんどいないだろう。

しかし、日本に批判的な外国人にとって、日本人が全員英語を話すような日本というのは今よりもよい日本であるだろう。

日本人の英語力の向上は間違いなく、外国人にとっていい事であるとみなされるはずだ。

 

しかしながら、日本人の英語力の向上が日本人にとっていい事であるかは分からない。

まず、日本人が全員英語ができるようになると、世界中からおかしな連中が押し寄せてくる。

そういう連中は、片言の英語で、とりあえず日本についてみればなんとかなるさ、と、なんとしても日本を目指そうとするだろう。

そして、日本人が英語をペラペラ話しているような日本では、エリート層もそういうおかしな連中の味方になっているに違いない。

というのも、そういう社会でエリート層が読んでいるのは、日本の新聞ではなくニューヨークタイムズかもしれないのだ。

もし、エリート層が日本の国境を大開放し、日本の高等教育を英語化してしまえば、世界中から移民・難民が殺到するだろう。

なにせ、日本に来て英語による高等教育を受ければ、日本がどうなろうと生き残る事ができる「世界市民」になる事ができるのだから。

結局、日本が平和なのは、日本では英語が通じず、日本語という(日本関連の業界以外では)何の役に立たないような言葉を覚えなければいけないからなのだ。

日本人の英語力が向上するという事は、日本人が当たり前、と思っているさまざまな安全を保障している障壁(リベラル派は差別というであろうが)を弱体化させる事でもある。

 

僕は、これからの世の中では、他と違っている事がますます重要になってくると思う。

それは国においてもそうで、日本に値打ちがあるのは、日本人が日本語だけを使って物事を済ませる事ができる国だからなのである。

日本人が英語を理解しないから、日本は安全だし、独自の文化が発達している。

英語が上達すると世界のトレンドに乗りやすくなるが、これだって必ずしもいい事であるとは限らない。

トレンドから距離を置くからこそ自分の頭で考える事ができる、という側面もある。

自分の頭で考える、という意味では、英語が出来るか出来ないかなどは関係ない。

実際、世界的に評価されているような人は大抵英語が苦手である。

よく、日本語では情報が遅れる、というような話をする人がいるが、僕はこれからは少しばかりの情報の遅れは問題にならなくなる、と思う。

コンピューターの性能が頭打ちになっているように、案外、これからの世界で進歩が緩やかになっていく事は十分ありうる。

そのような世界では、すこしくらい時間がかかっても、本当に独自なものを打ち出すことが重要になる。

そして、そのために日本人が必要とするのは、英語力ではなくて日本語の力なのである。

 

日本人の英語力の向上について考えるには、まず、それが外国にとってよい事なのか、それとも日本にとってよい事なのかを考える必要がある。

外国にとってよい事が日本にとってよい事であるとは限らない。

重要なのは、日本人の英語力というのはトレードオフだという事を理解することではないだろうか。

日本人が英語をペラペラ話すくらい英語が上達すれば、もちろん良い事もあるだろうが問題も生じる。

これまで帰国子女や留学経験者が何をやってきたのかを考えても、日本人の英語力が向上するほどいい事がある、と考えるのはあまりに楽観的、と言わざるを得ない。

日本人が英語を理解せずに済むというのは本当に素晴らしい事なのに、それがどれほどの幸運であるかはなかなか認識されない。 

英語の勉強法の本を電子出版しておいてなんだが、将来日本人の英語力がありすぎる事が問題になる事だってありえない話ではないと思う。

ある意味、日本の英語教育がこれほど腐っているというのは、本当に有難い事なのかもしれない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。