歳月について
ここ最近、一日一日の重みというものを感じる。
これまでは、ほとんど一日の重みはゼロであるかのように生活してきたけれども、だんだん一日にも重みがあるんだな、と思うようになった。
一日を一つだけみれば、その重みというのは大してない。
もちろん一日を本気で過ごせば相当な事ができるのだろうが、漫然とすごしていればその重みはほとんどゼロに近い。
なので、一日をどう過ごしても次の日になにか明確な変化があるというわけでもない。
しかしそのなんの重みのないはずの一日一日が何十、何百、あるいは何千と積み重ねると、それはもうはっきりとした歳月として認識される。
本の一ページは薄いし軽い。
その薄さも軽さは、ほとんど意識しなくてもいいくらいである。
しかし、その一ページが300ページ、400ページ、あるいは600ページくらい集まればそれはもう薄くもないし軽くもない。
普通、本というのはこの何百ページが一度にまとまって認識されている。
しかし、本というのは突き詰めていけば、どんな本でも一つのページが何百も集まったものなのである。
本の1ページ1ページは本ではない。
しかし、その1ページが何百も集まると本になる。
英語なんかもそうだ。
英単語を一つ覚えたところで英語力が明らかに変化するわけではない。
何かの英単語を一つ覚えたからと言って、次の日にその単語を何十回も見聞きしたり、何十回も使う機会が出てくるわけではない。
しかし、もし英単語を一つ覚えるという事を10,000回繰り返すとすると、これは語彙力という面では誰が見ても明らかな違いがある。
10,000単語というと、そんな数の英単語を覚えるのは無理なように思える。
しかし、英単語を10,000単語知っている人も、それらの単語は一つ一つ覚えていったものなのだ。
ある日突然10,000単語を一気に憶えたわけではない。
個人的にはあまり縁のない話だが、筋力トレーニングなどもそうだろう。
筋力トレーニングで数kgバルクアップ!というような事を聞くと、筋肉が数キロ増えたという最終的な結果だけが印象に残る。
しかし現実に起きているのは、トレーニングをして、食事やらプロテインやらをとって寝る、というサイクルごとに数十グラム分筋肉が増加していく、という事である。
もちろん一日に数十グラム体重が増加しても外見にもパフォーマンスにも変化があるわけではない。
しかし、平均で一日数十グラムのバルクアップがあるならば、数か月経ったら見かけにもパフォーマンスにもはっきりとした違いが出てくるはずだ。
歳月もこれらと同じように積み重ねである。
一日一日はなんでもなくても、それらがどう積み重なるかではっきりと結果が分かれる。
人生は一日で決まるものではない。
それは一日一日の積み重ねで決まってくる、とつくづく思う。
もっとも、歳月は積み重ねである、と言ってもこれまで大したことをせずにアラフォーになっている僕のような者はどうすればいいか困ってしまう話ではある。
これがもう少し若手だったらまだ余裕をもって先を考える事もできるだろうが、この年になっていったい何を積み重ねればいいのかちょっと見当がつかない。
しかしながら過去の事は忘れるしかないわけで、これからは一日一日を具体的な成果につながるような生き方をするよう心掛けるしかないのだろう。
このような状況でも出来そうな事はいろいろあるわけで、あまり期待をすることなく自分ができる事をやっていくしかない。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
結局は時間で決まる
ここ数日、部屋の片づけをしている。
部屋の片付けといっても難しい所はまだ手を付けていないが、簡単な部分を片付けるだけでかなり違う。
いや、かなりではなくて部屋の雰囲気としては全く違うといってよいかもしれない。
ここで書く気にもならないくらい長い間、まともな片付けは一切やっていなかったのだから当然だ。
一日1,2時間を数日続けただけの事なのに偉い違いである。
それで片付けをしてつくづく思ったのは、片付けというのは片付けをした時間で決まる、という事だ。
片付けというのは片付けた時間の分だけ片付く。
片付けを全然しなかったら片付く事はまったくないし、片付けを十分に長い時間したら部屋は完全に片付くに違いない。
全く当たり前の話だ。
これは片付けだけでなく大抵の事でも同じなのだろう。
勉強をするのに時間をかければ成績は上がるし、全く勉強しなければ成績は悲惨になる。
仕事だって(僕自身は仕事らしきものをした経験はないけれども)うまく仕事をこなせるようになるにはそれなりの時間を必要とするだろう。
対人関係などもそうだ。
対人関係をうまく切り回せる人は、子供の頃からそれだけ対人関係に時間を使っている。
対人関係が下手な人は、そもそも対人関係に全く時間を使っていない。
取組む時間が重要という事を考えれば、何かをするためのコツというのもあまり意味がないように思える。
少なくとも始めの段階ではコツなど何もしらなくてもいい場合のほうが多いのではないか。
コツを知らなくてもできる事というのはいくらでもある。
片付けとかにしても、簡単に片づける事のできる物を処分するにはコツもなにも必要ない。
だから、とりあえずは時間を使う事だけを考えればいいような気がする。
そう考えると、今まで僕は一体何をしてきたのか良くわからなくなってくる。
色々な事をしたような気がするけれども何もしていない気もする。
しかしここ数年で何ができたかを考えると、どちらかというと何もやっていない、という評価の方が妥当だろう。
例えば部屋の片づけにしても、僕はここ数年で部屋の片づけにほとんどゼロといっていいほどの時間しか使っていない。
他の事も似たようなもので、要するにここ数年、僕はだらだらネットをする以外はほとんど何もしていない。
この事について強く後悔をしているか、というとそれほどの後悔はしていない。
考えてみれば少し前まで僕は自分の過去の過ごし方についてほとんど関心を持っていなかった。
結局、僕がそのような生活をしていたのはそのような生き方しかできなかったからで、選択肢がないのならば後悔の仕様がない。
健康状態の改善などの理由でそのような生活以外の生活ができるようになって初めて、過去の過ごし方が気になるのである。
もし他に選択肢があったとしたらとっくに違う方向に行っている。
片付けにしても、以前片付けをしたときは少し片付いたらすぐに投げ出してしまい、一向に片付かなかった。
まあ、過去の事は仕方がなかったと忘れて、これからは以前とは違う方向に時間を使っていくよう心掛けるしかないのだろう。
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10年くらいBBCとかCNNしか見なかった
僕はこれまで地上波の番組を見る習慣がなかった。
それにはいくつかの理由があったのだが、今から考えると一番の原因はテレビの番組表にあったと思う。
テレビの番組表は色々あるけれども結構見にくいものが多い。
新聞の番組表もネットに乗っている番組表も、どうも見にくい。
なんというか、どのような番組があるのかを見落とさずに把握するために集中をしないといけない感じの番組表である。
どうも頭に、すんなりと番組表の中身が入ってこない。
結局、毎日番組をチェックするのが面倒なのでテレビを見る気にはならなかった。
ところが最近、僕の生活の中でのテレビの位置づけが大きく変化する出来事があった。
うちのテレビはソニーのブラビアなのだが、このブラビアが表示するテレビ番組表が相当見やすい事が分かったのである。
これまで僕は番組表というと録画機の方の番組表しか頭になかった。
ところが、うちで使っているパナの録画機の番組表というのが、もう本当に見づらくて使い物にならないのである。
どう使いづらいかを写真などで説明することは面倒だからしないが、ともかく使いづらい。
表示される情報量が少ないのでどのような番組があるかを理解するために必要な情報が省略されてしまうのだ。
ところがブラビアの番組表はこれまで僕が見てきたどの番組表よりも見やすかった。
ソニーのテレビの番組表は黒字に白なのでこの時点で断然に見やすいし、見やすい分だけ細かい文字を使う事ができるから情報量も多い。
もちろんブラビアの番組表を完璧というつもりはないが、基本的な部分は問題ない。
この番組表ならば毎日テレビを見る意欲が出てくる。
そういうわけで、最近はブラビアの番組表から見たい番組を探して、それから見たい番組をパナの録画機で予約する、という習慣になっている。
このように偶然にテレビを見始める事になったのだが、それで思ったのは、僕は英語の勉強を始めてからテレビはBBCとかCNNくらいしか見ていなかったなあ、という事だ。
偶然うちではスカパー!が受信できたので、英語の勉強を始めたのをきっかけに英語のチャンネルばかり見るようになった。
英語の勉強は10年くらいやっているので、つい最近地上波の番組を見始めるまでは10年くらい英語のチャンネルばかり見ていた事になる。
改めて考えると地味にインパクトがあるかもしれない。
10年くらい英語の番組しか見ないという生活をしていると、さすがに英語に関しては勉強を始めた時点では考えられないようなレベルになる。
アナウンサーの言う事は全部分かるし(まあ、発音が不明瞭なアナウンサーだと結構聞き落とすが)、言いたいことを英語でどう言えばいいかも大体分かる。
英語を使っていて何か問題に直面しても、大抵の事には対応できる。
10年やっているのだから当たり前だ。
誰でも10年やればその程度にはなる。
もし、うちが昔から見やすい番組表を出す録画機を使っていたら、僕の英語力はどうなっていたのだろうか?
地上波の番組を見るようになってから、国際放送を見る時間はかなり減った。
はっきりいって地上波の番組を見ているようでは英語を勉強する時間などとてもとれなかったと思う。
地上波の番組を見ながら一日当たり3時間くらい国際放送を視聴するのは引きこもりでも無理である。
そう考えると、うちの録画機の番組表が駄目だったのは案外幸運だったのかもしれない。
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ここ一年、努力の9割以上をブログに使った気がする
ここ一年を振り返ると、努力の9割以上をブログに使っている気がする。
感覚でいうならば努力のほとんど99%くらいブログを書く事に使っている気がするくらいである。
それくらいブログを書く以外の事をしていない。
ほとんど何一つしていないと言ってよいと思う。
それではブログを一日に何時間をかけてカスタマイズするなりエントリーを書くなりしていたか、というと、見れば分かるようにそのような努力をもってブログをやっていたわけではない。
考えてみたら働いている人は楽な職場でも一日に8時間は働いているわけで、せめて一日3時間くらいはブログに使ってもよさそうなものだが、実際僕がブログを書くのに使っている時間は一日あたり一時間もないだろう。
そしてブログのエントリーを一つ書くたびにくたびれてしまうのでブログのカスタマイズなどに使っている時間はゼロである。
ブログを立ち上げて一年以上経つのに、サブカテゴリーさえも設定していない。
一方、努力を必要としない受動的な活動に関してどのような事をやったかを考えても、なんだかんだでブログに関連する事ばかりしていたような気がする。
ここ一年はほとんど、ブログに何を書くかを考えていたようなものかもしれない。
もっとも、ブログを書こうが書くまいがどちらにしても考え事というのはするわけで何が違うかというと何も違わないような気がするが、これまでは考え事をしても自分にしか意味を持たなかったのに今は考えを文章にして公表するようになった事がちがう。
一日中(世間的には無為のままに)考える人であったのが一日中ブログをやる人になったわけで、この違いは大きい。
もちろん僕のブログの内容に価値を認めない人にとって無為である事は変わらないが、それでも何らかの「成果物」らしきものがあるだけマシであろう。
しかし、それにしても一年間、労力を要しない受動的な事ばかりやってきたものだと思う。
ネットを使うにしても知っているTwitterのエントリーを延々と読むとか、はてなブックマークのタイムラインを延々とみるとか、とにかく受動的な事ばかりやっている。
その他にする事と言えばテレビを見るか外出して本屋をふらふら歩きまわるくらいで、受動的でない時間が非常に少ない。
ブログを書くことがほとんど唯一の能動的な活動である。
他には何もしていない。
そのブログを書く時間も、先ほど書いたように一日にすると一時間もない。
完全に無気力な生活と自信を持って言える。
もっとも、そのような生活をして後悔があるか?というと特に後悔があるわけでもない。
ブログを書くことについては自分でも納得できる活動ができたと思う。
僕が納得できるエントリーを書いているかどうかなど世間からするとどうでもいいだろうが、とりあえずここ一年に書いたものを読み返しても満足感がある。
思ったよりも面白いものが書けた。
ブログ以外の事も取組めればもっとよかったのだろうが(というか、取り組めないと駄目なのだが)、できる事がブログを書く位しか無かったという事だろう。
もっとも、世間的にはブログを書くことも受動的な活動に分類されるのだろうが。
しかし、このように具体的に自分がここ一年やってきた事を書きだすと、ずいぶん極端な一年だったとはっきりと思い知る。
まあ、年末ではないのに一年(つまり去年の9月頃から今年の9月まで)を振り返ってみたが、これから年末までにブログとブログ以外の事で何ができるのかを考えよう。
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単純労働者と引きこもりのブロガーはどちらが孤独か?
先日、ネットで「引きこもりが社会復帰するには掃除の仕事が最適」みたいな記事を読んだ。
内容についてはよく覚えていない。
後ろの方に派遣などの人材系のアフィリンクが貼ってある、金儲けが目的の下らないものだったと記憶する。
しかし、その記事を読んで僕は、引きこもりにとって社会復帰っていうのは何なのだろうか?と考えてしまった。
引きこもり関連の議論では大体、働く事が「引きこもり治療」のゴールとされる事が多い。
世間的には、引きこもりが労働力を安価に提供する事で「社会に奉仕」していればそれで万々歳であろう。
しかし、それでは引きこもりが例えば一生掃除をする事で生計を立てていればそれが成功か、というとよくわからない。
それは確かに、ある意味では成功であるけれども、それがどのような意味で「社会復帰」なのかよくわからないのだ。
掃除の仕事というのがどのようなものなのか、僕は何もわかっていない。
上司との関係はどのようなものなのか、ほかの同僚との間にどのような関係ができるのか、具体的な職場での生活?というものについて(調べればある程度はわかるだろうが)何も知らない。
しかし、もし一般に元引きこもりが行う単純労働(単純労働が本当に「単純」であるかは議論を要するだろうけれども)が精神的な孤独を伴うものだったら、それは引きこもっている状態と一体何が違うのか?
もちろん、単純労働をすることで友達の数が単調増加していくとか、社会生活が順調になるならばそれは間違いなく大成功であるだろう。
しかし、労働するという経験が全くない僕の観察によればだが、単純労働というのは(職種や職場によるだろうが)人を孤独にしていくような側面があるのも確かなような気がする。
現に、さまざまな単純労働を数か月とか一年単位で点々としていく単純労働者は多い。
人それぞれに職を変える理由があるのだろうが、その労働の性質に孤独があるからそのように職を頻繁に変える事になるのだと思う。
だが、そのように職を点々としている状態というのは、どのような意味で社会参加していると言えるのだろうか?
そう考えれば、僕みたいにブログをやっている引きこもりがどれくらい孤独なのかも良く分からない。
確かに、ブログを書くのはとても孤独な事である。
ブログというのは一人で書くものだし、何を書くにしても大きな反響がある事はめったにない。
それでもアクセスが単調に増え続けるならば遣り甲斐もあるだろうが、たとえば僕のブログなどはそれなりに更新をしているのにかなり前から一日のアクセスは150くらいで全く変化がない。
しかし、それでは孤独感があるか、というと別に孤独感があるわけでもない。
僕のブログは全くの無名ブログだが、理屈の上では同時に1,000,000人が僕のエントリーを読む事ができる。
ネットを通じて世の中につながっているのだ。
自分が書いているエントリーにそれなりの自負もある。
僕の社会参加の程度がどの位かは分からないが、ある程度の社会参加はなされているのではないかという感じがする。
そうなると、孤立した単純労働者と僕みたいな引きこもりブロガーとでどちらが社会に近いのか良くわからなくなってくる。
もちろん、以上に書いたことはすべて極端な議論である。
僕はこのエントリーを全くまとまっていない自分の考えをひとまずまとめるために書いている。
しかし、引きこもりが単純労働を始めたとしてもそれはおそらく通過点に過ぎない。
僕はブログがあるから(自分の能力の範囲内であれば)単純労働も出来るだろうが、普通の引きこもりだと単純労働を始めても問題はそのまま残っているだろう。
経験によって引きこもりが成長する、という考えにも僕は懐疑的だ(おそらく、コンディションがほとんどすべてである)。
まあ、社会参加とはなにか、を考えると引きこもりは結婚して子供を作らないと社会復帰にならない、という結論に行きつきそうで気が滅入るが、とにかく引きこもりが単純労働を始めたとしてもそれがゴールにはおそらくならない。
その後に何があるかが問題なのだ。
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ブログと現実逃避
間違いなくブログには現実逃避の側面がある。
ブログを書く理由というのは時と場合によって様々だろうが、一番多い理由として、普段どうしても考えてしまう事を書き出す事で考えに一旦区切りを付けたいから、というのがあると思う。
例えば政治の話題などはそうで、政治について考えても大抵生活の妨げになるばかりで(まあ、政治というのは一人ひとりが参加するべきものであるけれども)いいことは何もない。
そんな事を考えている暇があったら「ミニマリスト」のブログでも読んで、カネのかからない生活をするための知恵を学んだ方がいいに決まっている。
しかし政治でもなんでもそうだが、人間はどうしても自分にとって本当に必要な事ばかり考えるようには出来ていない。
他にいくらでも考える事があるのに、いくら考えたところで何の役にも立たない事ばかり考えてしまう、というような事はよくある。
要するに現実逃避である。
そこで考えをブログに書くと、ひとまず考える事から解放されて自分にとって本当に必要な事に取り組める。
ブログというのは書くのが大変だから、エントリーを書いた後はもうこれについて考えるのはいいか、という気分になる。
もちろん、なにもブログを書かなくても、そのような考えは人と話をする事で解消されるのが普通だろうが、話を聞いてくれる人がいつもいるとは限らないし、話題によっては人に話すわけにはいかないようなものもある。
そして話というのは話した瞬間に消えていくので、どうしてもある種の虚しさが残る。
なので、これは直接的には役には立たないけども面白いには面白いからブログに書き残しておこう、という流れでブログのエントリーを書く事になる。
もっとも、考えをエントリーにしたらば取り組むべき事に取り組めるようになるか、というとなかなか難しいけれども、少なくとも言いたいことを溜め込んだままでいるよりはマシだろう。
しかしここで、現実逃避をする必要が全くなくなってしまったらどうなるか?
思うに、現実がうまくいけばいくほど物事について考える事はなくなる。
色々とうまくいかない事があるから、物事を考える必要が出てくる。
何も考えなくても物事が進んでいくのがよい状態で、ある意味考える必要がある時点で駄目なのである。
もし何もかも調子がよいと良い事も悪い事も全部忘れてしまうだろう。
それらはすべて過去に属する事だから、改めてそれらを吟味するよりも先の事について考えたほうがいい。
良い事だろうが悪い事だろうが、すべて忘れてしまうのが一番いいのだ。
しかし、そうだとするとブログを更新するという習慣は生きるための妨げになりうると思う。
ブログを書くというのは考える事だが、現実問題として生きる上では考えなければ考えないほど勝ちである。
世の中の問題というのは考えても納得できるような答えに行きつかない場合がほとんどだ。
ある意味、考えるというのは逃げなのだ。
おそらく、世の中の流れにうまく乗っていくためには場合によっては何時間もかけてエントリーを書くよりは次の日に備えてエネルギーを蓄えるべく寝ていた方がマシだろう。
僕みたいに、社会の中でどうも丁度いい居場所がないような人にとってブログは非常に重要なものである。
しかし実生活がうまくいっている人とか、うまくいきはじめた人にとってブログの必要性はあまりない。
ブログが続きにくい、というのはこの事も影響していると思う。
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学校に行かない子供は何をするべきか?
世の中の学校のイメージというのは、基本的には非常に肯定的なものである。
なぜ肯定的か、というと、なんだかんだで平均的な日本人は自分の子供時代に満足しているからだと思う。
まあ、どれくらい満足しているかは人によるだろうが、少なくとも自分の子供時代を著しい怒りを持って振り返る人は少数派だろう。
まあ、良い事も悪い事もあったけれども、全体的には良い事のほうが多かったな、というのが、自分の子供時代に大して平均的な日本人が持つ印象ではないか。
もし子供時代に対する印象がよければ、当然学校に対する印象も肯定的になる。
日本の子供の子供時代は学校によって形作られるわけで、学校というのは子供が子供らしい生活を送るためのおぜん立てをする役割を持つ。
ある意味、子供というのは学校教育の産物なのである。
学校があるから子供は安心して子供である事ができるのだ。
しかし、学校というのはある意味、子供にとって非常にリスキーな場所でもある。
子供が子供であるための仕組みである学校は、その性質上外界から隔離されて閉鎖的である。
学校は外界とは異なったロジックで動いている。
まあ、宗教団体のようなものである。
だから教師は基本的に外界からの学校への介入を嫌うのだが、学校が閉鎖的であるということは学校が治外法権であるという事で、場合によってはどんな悪いこともやり放題になる。
そこに教師の教育官僚的な保身が加わるとしたら最悪である。
いじめの問題などはまさにそれで、問題が起これば手につけられなくなる。
さて、学校というのはこのような所なので、当然学校に通っていない子供はたくさんいる。
学校に行かない理由は様々だろうが、たとえばいじめなどは子供がスマートフォンを使うようになった今でも相当あるので、いじめにあった子供のいくらかは学校にいかなくなる。
教育の普及に従って、学校の持つ宗教的権威はかつてのような絶対的なものではなくなっている。
特に親に教育がある場合、そういうブラック学校には絶対行くな、学校でやっている事には大して意味がないので我慢をしながら行くほどのものではない、と積極的に不登校を奨励する場合も多いだろう。
しかし、それでは学校に行っていない子供は他の子供が学校に行っていない間に何をしていればいいのか?
ここで考えなければいけないのは、学校というのは基本的にはタダである、という事である。
もちろん大学に行くとなると国公立でも相当なカネがかかるが(それでもアメリカや英国などよりは相当にカネがかからないだろうが)、義務教育から高校までに学校にかかるコストは基本的にはそれほどない。
まあ、税金から出ているものをタダといっていいのかはともかく、税金は強制徴収なので感覚としてはタダである。
タダのわりには学校というのは相当なものを提供しているわけで(まあ、そのサービスはいじめ問題などを見ても分かるように完璧なものとは程遠いが)、これに対抗するのはかなり難しい。
不登校の本質的な問題は、学校にいかないすべての子供がタダに近いコストで、学校に行くのと同等かそれ以上に有意義な生活を送る事ができるか、という所にあると思う。
親が(親として)有能で十分な教養があるならば、これはそれほど難しい事ではない。
しかし、すべての親が有能であるわけではないし、文化的なリソースを豊富に持ち合わせているわけでもない。
以前テレビで、神奈川県はフリースクールに公金を入れている、という話を見た。
これは一つのありうる方向だと思う。
今後、校舎が老朽化した後で学校がどんどんフリースクールに転換されていくというのは十分にありうる。
非常勤教師の待遇の問題など、教育官僚に見られるある種のエゴ丸出しの振る舞いをフリースクールをぶつける事で解決しよう、と考える人も相当に多いはずだ。
僕は、学校というシステムが未来永劫続くだろう、という予想について些か懐疑的である。
学校というのは、その強い宗教性のために非常に強力な仕組みだが、社会的コストも非常に大きい。
「高等教育」が普及するに従って、その社会的コストは増大する一方である。
下手をしたら、学校がもたらすコストはすでにメリットを上回りつつあるかもしれない。
時代の要請に従って、学校がフリースクールや寺小屋のようなものに転換していく可能性はかなりあると思う。
いささか抽象的な内容になったが、学校に行かない子供は何をするべきか、という問題が今後ますます重要になるのは間違いない。
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