グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

ブログを書きたいように書くようにした

僕は自分のブログを、書きたいことを書きたいように書いてきたと思っていた。それはなによりも自分に書きたくないものを書きつづけるような能力が全くない、というのもあるし、自分が書きたくない事を書いてまでカネがほしいわけでもない、というのもある。僕は引きこもりをしているが、そんな事をするくらいならばアルバイトに100件応募して100件断られたほうがましなくらいだ。そういうわけで、僕はこれまで自分のブログは書きたいように書いてきたと思っていた。

 

しかし、最近僕はブログの内容についてはかなりの部分書きたいように書いてきたけれどもブログをどのように書くか、という事については正直全然自由に書いているわけではないんじゃないか、と思い始めた。

ブログを始めたときから僕はエントリーを書くに当たって自分が決めた決まりがあった。具体的には、ブログの一つの記事は1,000文字以上書く、というのがそれだ。

なんで1,000文字は書かないといけない、と思ったのかははっきりしない。1,000文字ないと検索で読まれないから意味がない、というのもあるし、1,000文字くらいないとエントリーとして体裁が整わない、というのもあったのだろう。とにかくエントリーを書く際には1,000文字は書くものだ、と思いながら僕はブログを書いてきた。

それなりにブログを書くことになれると、この1,000文字の制限については以前よりは気にする事も無くなった。文章、特に長文を書くのが苦手な僕だが、普通に書いていくとだいたい1,000文字くらいにはなる。それでまあ、いつでも1,000文字は書けるわけだから僕は自分が自由にブログを書いていると思っていた。

 

ところが最近思うのだが、僕は1,000文字書けるようになった、というのはある程度はそうだけれども、それ以前にそもそもエントリーの話題を選ぶ時点で1,000文字くらいになりそうなものを選ぶようになっているような気がする。

つまり、ブログのネタを考えるときに論点を3つくらい考えて、これで1,000文字くらいにはなるな、と無意識のうちに計算をしているのである。

これでは自分が書きたいことを自由に書いているとは言えない。

 

正直、僕の書きたいことはほとんど、せいぜい700文字くらいあれば伝えられる事のような気がする。多分、自分が書きたい事を書き終えたら300文字だろうが少しの躊躇もなく投稿する、というのが自由にブログを書く、という事なのだ。

やはり、今まで僕はどこかで、ブログの体裁というのはアクセスにある程度影響すると思っていたのだろう。しかし、もちろん長文だとアクセスを集めるのに有利だとしても、僕のやっているようなブログではアクセスがあってもたかが知れている。ブログの世界の現実が分かるにつれて1,000文字を書く、という自分が勝手に決めた決まり事もどんどん下らなく思えてきた。

 

これからは短文のエントリーになりそうな内容でも長文のエントリーになりそうな内容でも、書きたいことを書くだけ書いたらそれで投稿しようと思う。書きたいだけ書いて2,000文字とか3,000文字になったら結構だが、700文字でもそれでいい。

重要なのは書きたいことを書きたいように書く事ではないか?そのほうが長期的には建設的にブログを運営できるような気がする。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

完全に秋になった

出かけようと思ってテレビのデータ情報?を見ると、気温が15℃だった。

15℃といってもよくわからないので、長袖にしようか半袖にしようか迷ったが半袖で出かける事にした。というか、15℃というのがどれくらいの寒さなのか確かめようと思って半袖で出かけたというのもある。もっと言えば、半袖で外出することで15℃を直接的に体感したかったのである。まあ外出といっても近所のスーパーに買い物に行くだけだったので少しくらい寒くても問題ないのであるが。

それで外に出ると、確かに強い冷気を感じたものの体が冷えるほどではない。半袖でも外にいるだけで体温が奪われていくという感じはしなかった。暖かさというのは一切ない。しかし冬のように寒いか、というとそのような寒さも一切ない。夏とも冬とも絶対的に違う、非常に秋らしい気候である。

冷気の中を半袖で歩いていると気が引き締まる思いがする。季節はもう完全に秋である。周りの雰囲気も心なしか侘しいような気がする。外出をするにも覚悟がいる季節になった。夏は外出をするのに何の覚悟もいらなかった。出かけたい時にいつでもでかければよかったのである。しかしこれからはそうはいかない。これからの季節は、外出をするたびに覚悟が必要になる。

個人的には冬よりも夏のほうがいい。寒いのは苦手だし、寒いといろいろと面倒がある。しかしでは僕にとって夏と冬とではどちらがいいか、というとちょっとよくわからない。なにかに地道に取り組むにはかえって厳しい気候のほうがいいのかもしれない。僕みたいな者は、気候が暖かいとどうしてものんびりとしてしまう。では冬であればより真剣に生きているかというとそういうわけでもないのだが、しかしこれからは外出するたびに厳しさが突きつけられる季節になっていく。

今はまだ秋なので寒さもそれほど極端ではない。雪だってあと何か月も降らないのである。気候の変化で精神的なバランスを崩さないよう、今の内にこれからの季節をどう過ごすかイメージしておいたほうがよいかもしれない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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弱っていると楽な方に流されやすくなる

昨日今日とネットをして過ごした。

というか、ネット以外の事は何もしなかった、と言ったほうがいいかもしれない。

はてなブックマークのタイムラインをみて、チェックしているTwitterのタイムラインをみておしまいである。

そのことに意味が全くなかったわけではないだろうが、全く無気力で受動的な過ごし方をしたというのは事実だ。

ここ最近は自分基準でわりと意欲的に毎日を送っているという印象があったので元の黙阿弥という感じである。

原因ははっきりしていて、昨日から軽い頭痛があった。

心なしか熱もあったような気がする。

要するに軽い風邪を引いたのだろう。

 

少し頭が痛いとか、少し熱があるだけで本当にやる気というものは簡単に抜けていってしまうものだ。

考えてみたら少しくらい不調でも出来る事はいくらでもあるはずなのに、不調でも出来る事に取り組もうなんて考えはまるで浮かばずに結局ネットをするばかりだった。

こういう過ごし方をするくらいならばネットを一切せずに一日中療養することに集中した方が良かった。

それが難しいならば、体調不良でも取り組める事に少し取り組んでは休むというようにすれば、一日中ネットをしているよりも有意義に時間を過ごせるし体調もより早く回復しただろう。

つくづく人間というものは弱っていると楽な方に流されやすくなるものだと思った。

 

幸いな事に、今は頭痛も熱も大分引いたようである。

僕は世間から離れているという事で睡眠時間が多いせいか、風邪はあまり引かない。

しかし、どのような生活をしていても体調が悪くなる事はある。

普段から風邪などで体調が不良になったときはどのような過ごし方をするべきか、あらかじめ心がけておく事の重要性を感じた。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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中高生の読解力テストは間違うのが当然だ

一部では非常に大きな反響があった中高生の読解力についての報道だが、どうも問題のほうにも問題があるようだ。

www.tokyo-np.co.jp

僕もこの報道についてエントリーを書いたけれども、その時に前提としていたのはこのテストの問題が子供の国語力を見るために適当なものであるという事だった。

以前、テレビで新井氏らのグループが子供の国語力につて調べているという話を見た事があって、その時に紹介された問題はなかなかいい問題だと思ったので、そのような認識をもってエントリーを書いた。

しかし最近、この国語のテストの結果というのは本当に子供の国語力を反映しているものなのか少し不安に思うような報道を見たので、それについても思うところを書こうと思う。

 

読売新聞によると、今回の国語力のテストには次の二つの文章の「意味」が同じかどうか、という問題があったのだという。

輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。
輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。

まず「和牛が人気の牛肉」というような日本語は個人的にはとても耐えられないし、「和食ブームを反映した緑茶や日本酒」という部分は日本語として間違っているが、それはともかくこの問題は少し問題があると思う。

というのは、上の二つの文章を読んで同じ意味だと思った生徒が意味が同じである、と回答したとは限らないからだ。

僕が思うに、上の問題を読んだ中高生のかなりの部分は二つの文章が同じ意味であるということが分かったと思う。

それではどうして中高生で二つの文章の意味が違う、という回答をした生徒が相当いるのかというと、多分生徒の中にこの問題がひっかけかなんかじゃないか、と思った生徒がいたからだと思う。

 

上の二つの文章はどう見ても全く同じ事を言っているように見えるし、実際に同じ事を言っている。

しかし人間というのは簡単な問題を出されるとかえって不安になる事がある。

一見簡単に見えるけれども、こんな一見簡単に見える問題が出題されるのには何か理由があるのではないか、簡単に見えるのは自分に何か見落としがあるためなのではないか、という不安が生じるのである。

一般的になにかの存在を示すよりもなにかが存在しない事(この場合は意味の違い)を示す方が難しいのだからなおさらである。

なので、意味が同じと思っても回答を逆にした生徒は少なからずいると思う。

 

「意味」が同じかどうか答えよ、という表現も、よくよく考えてみると問題がないとは言えない。

たとえば次の二つの文章があった場合、これらの意味は同じであろうか。

私はあなたが好きです。

私はあなたが嫌いではない。

 「好き」の反対は「嫌い」であり、「嫌い」の反対は「好き」だとすれば論理的に二つの意味は同じであるが、この二つの文章を同じ意味とする人はまずいないだろう。

なぜなら、この二つの文章はそれぞれ全く違う印象を与えるからだ。

好き・嫌いの他に無関心という状態があるからこれは当然の事であるが、しかし意味が同じという事が何を意味するのかは往々にして不明確である。

上の問題では出題者が、好き・嫌いという二つの状態を想定しているか、好き・嫌い・無関心(あるいは分からない)など二つ以上の状態を想定しているかで正解は異なる。

 

もちろん、先ほどの国語の問題で出題された文章は好き・嫌いの例と違い、論理的には完全に同じである。

しかし、論理的に同じでも文章のニュアンスが違う場合、その意味は絶対的に同じとしてよいのだろうか?

たとえば1番目の文章は和牛が先にきて、2番目の文章は緑茶や日本酒が先にきているのでニュアンスが違うと感じる生徒もいるかもしれないし、他の理由で二つの文章に違いを感じる人もいるだろう。

そして論理的には同じだと分かっていても、印象が違うという事で二つの文章が違う意味を持つ、とした生徒もいるに違いない。

 

結局、僕は先ほどの問題を正答できるかは国語力というよりはテスト慣れしているかどうかで決まると思う。

小さい頃からいい学校に進学するのが当たり前、みたいな感じで育っている人は、意味が同じか答えよ、と言われたら回答者が何を要求しているのか明確にわかるから、余計な事を考えずに正解できる。

しかしすべての生徒がテスト慣れしているわけではない。

テスト慣れしていない生徒は、どうしても何かワナがあるんじゃないか、とかなんか感じが違う、とか余計な事を考えてしまって正解できないかもしれない。

出題者の意図がすべての生徒に伝わっているとは限らないのだ。

 

僕は今回の読解力テストが全部問題があるものだとは思わない。

全体を見ると、テストの正答率は子供の読解力をそれなりに反映しているのだろう。

この問題を正答した生徒は読解力が高く、不正解だった生徒には読解力に弱い部分があるというのも事実だと思う。

しかし、もしこの問題の正答率だけをもってして子供の読解力に問題がある、とするならば、それは少し乱暴な議論である。

このテストを行ったグループは間違った回答をした生徒に対して聞き取りをしたのだろうか?

聞き取りをすれば「同じ意味だと思ったけど引っ掛けだと思った」とか「違う感じがしたから意味が違うのかと思った」というような答えが少なからずあると思う。

おそらく「次の4組の文章のうちで意味が異なるものはどれか」とした場合、正答率は大きく異なるのではないか。

こういう調査というのは表面的には科学的に見えても実際には科学とは程遠いケースが少なくない。

たとえ調査結果がセンセーショナルなものだったとしても慎重に内容を見ていく事が必要だろう。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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読解力と、論理的な判断能力の有無には何の関係もない

先日も書いたが、今の子供の読解力は世間が思っているよりも相当に低いらしい。

www.tokyo-np.co.jp

たしかにテストに使われた問題を見たら、こんなのも分からないの?というようなものばかりで、普通の人ならこれは深刻だ、と考えるレベルだ。

僕も一応深刻だなあ、と思ってはみたが、それと同時に上に紹介したような記事を読んでなんとも言えない違和感を感じた。

昨日のエントリーもその違和感が解消されないまま書いたものだ。

しかし一晩明けて、僕がいったいどこに違和感を感じたのかはっきりと分かった気がする。

では僕が子供の読解力の低下、みたいな報道のどこに違和感を感じるのか?

それは、子供の読解力を深刻な問題だ、みたいな事を言っているような人が自分たちの読解力、さらには論理的な判断能力に何一つ疑いを持っていないという事だ。

 

僕もブログを始めて結構になるが、ブログをやっていると一体どういう風に読んだらこんな見当違いの結論になるんだろうか?と不思議に思うようなブックマークコメントが書き込まれる事が少なくない。

もっと言うと、批判的なブックマークコメントはほとんど全部、僕の書いたエントリーの内容を理解した上で書かれたものではない。

これまで僕のエントリーを理解した上で批判してきたブックマーカーは全然いない。

お前が書いているような批判を無効にするためにこういう書き方をしているんだけどな、と言うしかないようなブックマークコメントばかりである。

 

では、そういう見当違いのブックマークコメントを書き込んでくる人に読解力がないか、というとそういうわけではないと思う。

逆に、僕のブログで書いているようなエントリーを読む人はそれなりの教育を受けた人が多いと思う。

おそらく記事にある新井氏が行ったテストで満点か、満点に近い点を取る人がほとんどだろう。

もちろん僕はおかしなブックマークコメントを書いてきた人の読解力について詳しく知っているわけではないが、カンでわかる。

あー、この人は国語のテストで点は取れるんだろうけれども見当違いの事を言うような人だな、って感じだ。

 

社会を理解する上で重要な事の一つは、この世の気違い沙汰というのはすべて、読解力のある高学歴によって引き起こされるという事実である。 

読解力と論理的な判断能力の有無には何の関係もない。

読解力があるほどまともな判断が下せるはず、という考えは何の根拠もない思い込みである。

僕は子供の頃から高学歴業界の周辺で生きてきたが、理屈が全く通じない高学歴は非常に多い。

 

結局、正しい判断をするために最も重要なのは常識である。

例えば僕は、誰かのブログの記事に対して批判的なコメントを書く時は間違いのないようにエントリーを何回か読み、そのエントリーを書いた人がどのような考えを持っているか確かめるために何本か他のエントリーも読んでからコメントを書くことにしている。

それが当たり前の常識だと思うからだ。

しかし僕のブログのエントリーに対しておかしなブックマークコメントを書き込む連中は僕の記事をまともに読む事もなく、僕がどのような人間でどのような考えを持っているのかにも関心がない。

それでいきなり見当違いとしか言いようがないような憎しみをぶつけて来るのだ。

 

常識のない人間がいくら国語でいい点をとれたとしても、そんなものはなんの意味もない。

そして、もし読解力と論理的な判断能力の有無に何の関係もないならば読解力の低下を問題にすることにどのような価値があるのか?

今の世の中には、読解力はあるけれども肝心の常識というものが何一つない連中で溢れかえっている。

正しく読解ができたとしてもどちらにしろおかしな結論が出てくるのなら、読解力があってもなくても同じではないか、というのが僕の意見だ。

いや、自分の「頭」がいいという勘違いがないだけ、読解力などないほうがマシかもしれない。

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世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

子供の「国語力」の低下はどこまで適応か?

今の子供の読解力というのは世間が考えている以上に低いという話を読んだ。

なんでも、中学3年生の6人に一人が文章の主語もわからず、半分の生徒が推論とはなんなのか、つまり文章が示す論理関係を理解していない事が分かったという。

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まずこのような記事を読む上で注意すべきなのは、いったいこのような傾向が最近始まったものなのか、それとも元々日本人の読解力というのはこの程度だったものが今になって発見されたのか、という事だ。

本などを読まない人は全く読まない、というのは昔から変わりがないし、テレビの字幕やゲーム、スマートフォンなどの影響で子供が読む活字の量は逆に増えているかもしれないので個人的には子供の読解力がそれほど変わるとはどうも信じられない。

昔から主語が分からないレベルで読解力が低い日本人というのはたくさんいたと思う。

問題はそのような日本人が増加しているのかどうか、ということで、この調査だけではこの肝心なところが分からない。

しかし、もし日本の子供の読解力が低下傾向にあるとすると、僕はそれがある種の適応の結果なのかとても興味がある。

 

僕が思うに、みんな揃って読解力は大切だ、みたいな事を言っているけれども世間は読解力など全然求めていないと思うのだ。

たとえば、ビジネスの世界ではいつも「元気の良いバカ」が称賛される。

読解力があっても行動力がない人よりも、読解力ゼロで行動力がある人間のほうがカネを稼げるのは当たり前の話だ。

はっきりいって読解力と、カネを稼ぐ力=「立派な社会人」として生きていく力との間に直接的な関係は何もないと思う。

それどころか、もし読解力と考える力がイコールだとしたら読解力などなければないほど有利かもしれない。

考えれば考えるほど人は立ちすくむ。

というか難しい事を考えたところで立ちすくむだけ、というのが現実だろう。

それならば考える時間を少なくして結果を出していったほうがいいし、社会もそういう人を評価する。

僕は基本的に昔の子供が今の子供よりも読解力があった、とは思わないが、しかし子供が社会に適応した結果読解力が低下する事はあり得ると思う。

 

僕は文章を正確に読めるかどうか、という事と論理的な判断能力の有無には何の関係もないと思っている。

そして文章を正確に読めなくても社会生活を送る上で何の問題もない。

たとえば、上の記事では子供の国語力が低いと免許証の習得にも支障をきたす(ので低学歴層の就労に差し支える)というような事が書いてある。

しかし運転免許の試験こそ、読解力も論理的判断も思考能力もまったく関係のない、完全に丸暗記だけのパターンマッチを要求するような試験ではないか。

繰り返すが読解力がない人間など昔からいくらでもいた。

しかし、そのような読解力がない人間が読解力がないから困ったという話を僕は聞いた事がない。

「立派な社会人」をするのに読解力など必要ないのだ。

 

人間の言語能力の総量は今も昔も変わりがない。

という事は、もし子供の読解力が低下しているならば子供の他の言語能力は向上しているはずである。

人間の能力というのは必要がなければ退化するし、必要があれば進歩する。

例えばスマートフォンで毎日LINEをしている子供はスマートフォンを使っていない子供よりも文章を素早く書く力が向上しているかもしれない。

読解力というのは言語能力のほんの一部分にすぎない。

しかしテストでは読解力しか計測することができないので子供の言語能力がどのように変化しているか分からない。

読解力の低下というのは言語能力の退化ではなく変化であるという事は十分に注意する必要がある。

 

現実の社会というのはせいぜい、運転免許証の試験みたいなものである。

読解力が必要なケースというのはそれほどない。

現に今の子供は主語も推論もわからなくても普通にスマートフォンで文字情報をやり取りしている。

これまでの世代が読解力の欠如で困る事がなかったのと同じように、今の子供が将来読解力がなくて困る事はないだろう。

それなのに読解力の話になると運転免許証みたいな話が出てきてしまいがちなところに読解力に関する議論の滑稽さがあると思わないでもない。

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AIがあっても英語学習の必要性は絶対になくならない

Google翻訳がある程度の成功をしたことで、将来AIによって自動的に翻訳ができるようになるから英語を勉強する意味がなくなるのではないか、という意見が聞かれるようになった。

たしかにGoogle翻訳はすごい。

もちろん今のGoogle翻訳は、英語が使える人には便利、という程度のものだが、Google翻訳を使っているとプログラムでもこれを訳せるのか!と驚くことも少なくない。

僕はAIがあらゆる英語を翻訳できるようになるとは思わない。

しかし口語的な英語は無理でもフォーマルな英語を直訳するのはプログラムでも相当なレベルでできるようになると考えている。

今のGoogle翻訳はどう見ても機械でできそうなものでも翻訳できなかったりするので、伸び代は相当あるだろう。

だから外国語の世界で機械翻訳が非常に大きな重要性を持つようになるのは時間の問題だと思う。

 

しかし、いくら機械翻訳が進歩しても英語を学習する必要性は絶対に無くならない。

これは翻訳プログラムが最も有能な翻訳家と同じレベルの翻訳をするようになったとしても変わらない。

なぜかというと翻訳を読むだけでは西洋文明とは何かを理解することは不可能だからだ。

 

もちろん翻訳というのは非常にありがたいものである。

どんなに外国語が得意な人でも外国語を読む速度は日本語を読む時と比べると数分の一、場合によっては数十分の一に落ちる。

事実関係を確認するという意味では、翻訳ですむならば翻訳だけを読んでいた方が効率はよい。

 

しかし、翻訳をするとなるとなにか重要なものが決定的に変わってしまうというのも確かだ。

 

生活をする上で、翻訳というのはいたるところにある。

NHKのニュースでも海外の重要人物がスピーチを行う場面には字幕が入るし、ネットをしていると翻訳された記事を一日に何本も読む事になる。

このように翻訳というのは日本語生活に溶け込んでいて、僕も含めて世間の人々は翻訳というものに対して違和感なく暮らしている。

翻訳というのは日本語の中にたまにあるならそれほど意識をしなくて済むし、みんな意識をしていない。

 

ところが周りに翻訳しかないような状況になると、翻訳のありがたさと一緒に翻訳の限界も分かってくる。

それが一番分かりやすいのは翻訳書で、僕も翻訳書を読む事があるが読むたびに違和感を感じる。

なんというか文章の意味と文章の精神が一致していないような違和感である。

これは文章をどう翻訳するかによって印象が相当異なるのだが、英語と日本語ではやはり違いがある。

英語と日本語では表現できる事が異なるのだ。

 

西洋文明を学ぶにはフランス語でもロシア語でもなんでもいいが、とにかくなにか西洋語を学ぶ必要がある。

どんな言語でも意味を伝える事はできるが、意味を伝達するのと精神を伝達するのとでは分けが違う。

そして西洋文明を学ぶ上で重要なのは意味ではなくてむしろ精神のほうなのである。

確かに翻訳は意味を伝える事ができるし、意味だけでなく精神のほうもそれなりに伝えるのだが(そうでなければ文学書の翻訳というものは成り立たない)、日本語を使っている限りその伝え方はどうしても間接的になる。

直接西洋語で言われたら分かる事でも、日本語に訳するとうまく伝わらない事はたくさんある。

 

西洋文明を学ぶ事は西洋語を学ぶ事で、西洋語を学ぶ事は西洋文明を学ぶ事である。

西洋文明の精神を学ぶ事の重要性は今後も絶対に無くならないから、英語学習の必要性も無くなる事はないだろう。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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