グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

英語を勉強するには辞書なしで英語が読めるようになる事を目標とすればいい

ネットをやっているとよく、英語の勉強を始めたのはいいけれども続かない人が多いのはなぜか?というエントリーを見かける。そこで取り上げられる理由というのはいろいろあるが、結局のところは英語を勉強しても英語を使う機会がないから、という理由に集約される。だからそれに対する解決策というのもだいたい、外国人に積極的に話しかけようとか、(アフィを踏んで)Skypeを使った英会話レッスンに申し込もう、というようなものが多い。

でも僕は、英語の勉強でコケる人が多いのは英語を使う機会がないから、というのとはちょっと違うと思う。たしかに究極的には英語を使う機会がないから英語の勉強にコケる、というのは正しいのだが、それは直接的な理由ではないと思う。

僕が思うに、英語の勉強でコケる人が多い理由は

英語を話す事が目標になっている

からだと思う。

英語をしゃべることができる、というのはとても漠然とした目標である。つまり、どの程度までやれば英語を話せる、といえるのかはっきりしない。たとえば、ある話題については話せるけれども他の話題についてはなにも話せない、という場合はそれは英語を話せるという事になるのか?

それでも、なにか一つの分野を決めてその分野での意思疎通ができるようになる、というのが目標としてはっきりあるならば問題ないと思う。しかし多くの場合、英語で何を話すのかを何も考えずに、ただ見栄を張りたいために漠然と英語を勉強しているケースが多い。要するに英語を話す事で何がやりたいのかはっきりしていない。そして普通の人は周りに見栄を張る以外にしたい事など何もないのである。

これでは英語を勉強するといっても、何をどう勉強すればいいのか分かるわけもない。したがってその英語の勉強のやり方も非効率なものであらざるを得ず、当然進歩も全然しないから、途中で投げ出す事になるのは当たり前の結果といえる。

このような事になるのは、英語の勉強を始める際の目標がおかしいからだ。

僕は英語の勉強というのはまず、英語を辞書なしで読めるようになる事を目標とするべきだと思う。考えても見てほしい。どうして文字に書いてあるものも読めないものを音として聞いたら理解できるという事があるのか?どう考えても英語を聞き取るより英語を読む方が簡単に決まっている。それならば、まず英語を聞いたり話したりする練習をする前に、英語を辞書なしで読めるようになるべきだ。

よく、日本人は英語の読み書きは出来るけれども話せない、というがこれはとんでもないデマである。平均的な日本人が英語となると手も足も出ないのは、英語の読み書きが全くといっていいほどできないからだ。たとえば、日本人の中で「政治」「議会」「逮捕」「官僚」などの基本的な単語を英語で言える人はほとんどいないと思うが、このような基本的な単語もしらないようでは英語を話す事などできるはずもない。もし英語を辞書なしで読むだけの力があれば、英会話に関してはなんとかなる。少なくとも意思疎通が全く不可能、というような状況にはならない。

英語の勉強では辞書なしで英語を読めるようになる事を目標にするべきなのは、英語を読む練習というのは具体的に努力ができるからである。英語を辞書なしで読むための努力というのは簡単で、大学入試用の英語の文法書と英文解釈の参考書をざっと読んで、あとは英文の中で知らない単語を片っ端から覚えていくだけでいい。どの言語でもそうだが、英語でも日常的に出てくる単語の数はそう多くない。やってみたらわかるが、辞書なしで英語を読むだけの語彙を覚えるのは案外簡単である。

まあ別に英語を話すのを目標にするのは結構だが、英会話に取り組む前に英語を辞書なしで読めるくらいのレベルにはなっておくべきだ。それくらいの力があれば英会話をしてもぐんぐんと上達する。逆に、英語を辞書なしで読める程度の力がないと、英会話の勉強は非常に困難なものになるだろう。はっきりいって、英語を読めるようになった後で英会話に取り組んだ方が、長期的にははるかに楽に英会話を勉強できるのは明らかである。

英語を読むための知識は英語を話す上で全部役に立つ。英語を辞書なしで読めるようになってもいい事しかないのだから、英語で見栄を張る事しか興味のないような人でも、基本的な英語の読解能力をある程度のレベルにまで持って行った後で英会話などに手をだすべきだ。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

ブログはたまに読んでもらえるくらいでもいい

ブログ運営的に、はてなブックマークから距離を置いて結構になる。以前はエントリーを書くたびにホットエントリーに入るかを気にして、入ったら入ったでどれくらいのアクセスが来るのかを始終気にしていたのだが、そのような事はなくなった。今ははてなブックマークをほとんど気にせずにブログを書いている。

そのような感じでブログをやっているわけだから、当然エントリーがタイムラインに乗る事も少なくなった。以前はエントリーに乗らないとなんだか大損したような気がしていたが、今はエントリーに乗らない事のほうが普通になっている。

しかし、どのような理由なのかは知らないが月に一回か二回くらい書いたエントリーがホットエントリーに乗る事がある。ホットエントリーに乗ったら当然、それなりのアクセスが来る。そういうときはやっぱり、アクセスが来るというのはよいものだなあ、と思う。

もちろん検索エンジン経由でのアクセスは日常的にあるが、どうも検索エンジンから読まれても読まれている気がしない。しかし、はてなブックマークでバズがあると、いかにもエントリーが多くの人に読まれているような気がする。

もちろん、読まれたところでどうなるわけでもないのは検索エンジン経由で読まれる場合と同じだが、気分的にはかなり違う。やはりブログを運営する上では、たまには検索エンジン経由以外でのルートで読まれる事があったほうが楽である。

しかし、ブログの運営のしやすさという点では、エントリーが毎回ホットエントリーするのも一月に一度くらいホットエントリーするのも大して変わらないのではないか。少なくとも、ホットエントリー入りしても何も変わらないような一般受けしないブログをやっている場合は、はてなブックマークから距離を置いても、案外なにも変わらない、という結論になるだろう。

ブログというのは書くことが重要でそれが自分以外の読者によって読まれるという事は多分おまけなのだ。このような当たり前の事を心の底から納得するには僕もそれなりの時間がかかったけれども、ともかくブログのアクセスがあろうがなかろうがエントリーを書き続ける境地に一応はなったというだけでブログをやる価値はあったかもしれない。

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リベラル思想と「免罪符」

次のような匿名ダイアリーのエントリーを読んだ。

リベラルがよく言うこの理屈は、もう胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
この理屈からは、右翼のトリクルダウン理論と近いものを感じる。

右翼の言い分が「強者に尽くせば最終的には貴方も得をする」であるのに対して
左翼の言い分が「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」だと言う事だ

この両者の言い分が両方とも嘘であるならば、真ん中にいる人間の現状は、上と下の両方から搾り取られているようなものだろう。

福祉の削減や、弱者の切り捨てに賛成する人間の事を、「正しい損得勘定勘定のできない人間」というニュアンスを込めて、「肉屋を支持する豚」と呼ぶ事があるが、本当にそうだろうか?
「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」という言い分がトリクルダウン論者の言うそれと大差ないとしたら、弱者に尽くす者こそむしろ正しい損得勘定のできない人間ではないだろうか?

もちろんこのような言い分に対して「弱者に尽くす事は損得勘定以上の意味合いがあるのだ」と言う事はできるだろう。
しかしそのような事を言えば、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はますます嘘くさい物になり、信用を失うだけである。

私は冒頭で述べたように、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はすでに胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
福祉のリソースに上限があるという現実は、すでに十分見えてしまった。ここから先は綺麗事の通用しない奪い合いが繰り広げられる事になるのではないだろうか。

このようなエントリーを見ると、大手マスコミが布教しているリベラル思想に対する懐疑の広がりを改めて感じる。

リベラル思想というのはもう、免罪符のようなものと見なされはじめているのではないだろうか。つまり、リベラル思想は結局、自分はリベラルな考えを持つ高潔な人間なのだから少しくらいの特権を享受していても文句をいうな、というような正当化の道具に過ぎないのではないか、ということだ。

例えば、グローバル化を支持する人間は必ず、世界的にはグローバル化によって貧富の格差は減少している、グローバル化によって途上国に住む住人は貧困から抜け出しつつある、というような事をいう。

これは事実だし、建前としては途上国の人間も日本人も同じ程度の人権があるべき、ということになっているので反論することが難しい。しかし、グローバル化を支持している人間は別に、途上国の人間の人権が尊いからこのような事を言っているのではない。「自由な社会」の中で社会的リソースにただ乗りし、フリーランチを食いまくりたいからこのような事をいっているだけである。

日本の政治がネオリベ思想に基づいて行われるようになってもう30年ほどになるが、その間に日本社会は正しくなったのだろうか?もしネオリベ思想が正しいならば、日本国内においてもどんどんと正しい事が行われて、今ごろはすでに日本社会の隅々にまで正義がいきわたっているはずだが、今の日本社会を見ると、かつての日本社会と比べて正義がいきわたっているようにはとても思えない。

どうして日本社会において正義がいきわたるという事がないのか?それはネオリベがいうような「抵抗勢力」による抵抗もあるにはあるが、基本的にはリベラル派にとって(それはネオリベ保守からネオリベ左翼まで、日本の既得権益層のほとんどなのだが)リベラル思想が免罪符のようなものだからだろう。

建前では綺麗事を言いながらも、本音では自分が得をする事しか考えていないから「改革」というのは一向に進まないのだ。リベラル派が言う事で実際に実行されるものは、リベラル派が得をする事ばかりである。世界的にみられるリベラル思想の退潮は、世間がリベラル派が何をやってきたか薄々気づき始めている事の現れなのではないだろうか。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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広告とブランド

先日、選挙と広告というのは似ている、というようなエントリーを書いたけれども、この記事を書いた後で思った事がある。それは、広告というのは商品を宣伝しているというよりは、どちらかというとブランドそのものを宣伝しているのではないか、という事だ。

もちろん、どんな商品の広告でもメーカーのブランドイメージを確立するという役割と商品のプロモーションという側面の両方があるだろうが、ブランドそのもののプロモーションというのは結構大きいような気がする。

それについて思いだすのは、大学の「枠」の話である。以前ネットで近畿大学の「早慶近」のプロモーションが話題を呼んだ事がある。日本人ならば誰でも知っているように、私立大学の業界では早稲田と慶応の二つの大学が非常にブランドが強い大学であるわけだが(厳密に早稲田と慶応が同等のブランドパワーを持っているかは知らないけれども)、この早慶の枠に近畿大学も入れてくれよ、というのだ。

旧帝大早慶上理日東駒専関関同立産近甲龍。いきなりですけど、こんな大学の”くくり”一度は聞いたことありますよね?他にもイカツイ感じの”大東亜帝国”とか、ちょいと粋なところで、”関東上流江戸桜”なんてのもあります。なかなかのネーミングセンス!でも冷静に見ると滑稽な感じがしませんか?旧帝大とか「いつの時代やねん!」って、そろそろ誰かがツッコミ入れてもええんちゃいますの?とはいえ、これが受験生の大学選びで、物凄く影響力をもっているのも事実。じゃあ、世界ではどうか。最新の「THE世界大学ランキング」で、一定以上の評価をされた日本の私立大学を頭文字でくくってみると、まさかの”早慶近”。どうですか?え?「それは無いやろ」って?はい、分かって言ってます。でもね、”早慶近”はさておき、日本は語呂が良いだけの大学の”くくり”に、依存してませんか?こんなもん世界から見たら、通用するわけがない。2017年。そんな大学界の常識、そろそろ見直してもいい頃じゃないですか?私たちも、皆さんも。でもさすがに”早慶近”って、言いだした自分でもアホくさくて、笑てまうわ。

近畿大学が「早慶近」なんて事を言い出した年はイギリスのTimesでやっている大学ランキングで、私立大学の比較では近畿大学早慶の次の三位にランクインした年である。どうも近大マグロなど、産業界との連携が評価されたようである。

www.timeshighereducation.com

もちろん、近大の広告が明記するように「早慶近」というのはギャグに過ぎない。今のランキングを見ると別に近大は3位ではないし、直接的にはカネにならない基礎研究のレベルが評価の中で大きなウェイトを占める大学の世界でこのようなランキングをまともに取る人間などだれもいない。しかし、世間の中で大学のブランドというのはどのように決まるか、というのは興味深いテーマではある。

考えてみたら、学生が大学に期待しているのはブランドだけで、大学の中身に特別な期待があるわけではない。そして、これは一般の消費活動にも同じ事が言える。消費者というのは消費する商品の事をよく理解した上で何かを買っているわけではない。はっきりいって消費する商品を理解するというのは不可能である。それでは何を頼りに選択をするか、というとブランドである。大手という「くくり」で決めるのだ。

大手であるかどうか、というのはもちろん業態も影響するだろう。食品メーカーといっても、食品全体を扱って年商1,000億なのか、それとも駄菓子だけを製造販売しているのとでは分けが違う。大手というのは歴史もあるし、大手とそうでない会社とでは資本も違う。しかし、大手かどうかというのは基本的には、商品がみんなに買われるかどうか、だと思う。みんな買うから私も買おう、となるかどうかが大手かどうかの差だと思うのだ。

この広く売れる、という事に関して広告の役割というのは少なからずあるものなのかもしれない。広告がたくさん出せる、という事はそれだけ多くの人が商品を買っている、という事である。広告が言いたいことは要するに、ウチの会社の商品をみんな買ってるんですよ!ウチの商品は安心して買える商品なんですよ!という事なのだ。

そうした広告を見てるうちに、消費者のほうでは会社の「くくり」ができてくる。どことどこの会社は「大手」、というような認識が出来てくるのである。考えてみたら、僕が大手と思うような食品メーカーというのはみんな、大々的に広告を打っている企業ばかりだ。

ブランドというのは不思議なものだ。それは人々の心の中にある。人々の心の中にあるという事は、それは学習されなければならない。僕はこれまで広告というのが何のためにあるのか良くわからなかったが、そういう考えてみると広告というのは大手企業にとって非常に重要なものなんだろうなあ、と思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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選挙と広告

先日テレビを見ていたら、今回の国政選挙で立候補する候補者が直々にポスターの掲示をお願いして選挙区を回っているところを放送していた。どうも今回の選挙では選挙区の地域が変更になったようで「新しい地元ではなかなかポスターを張らせてもらえない」と苦笑いしながら語っていた。

僕はこれをみて、広告についてかねてから疑問に思っていた事の答えがなんとなく分かった気がした。

 

選挙があるたびに僕が不思議に思っていたのは、選挙のポスターというのはいったい何のためにあるのか、という事である。というのは、選挙のポスターに書いてある内容はどれもありたきりなもので、全然意味がないような気がしたのだ。

もちろん、今から考えればポスターというのは有権者にとって地元の政治家の名前を知るために欠かせない手段である。ポスターがあるから地域の住民はどういう政治家がどの政党で政治活動をしているのかが分かる。なんだかんだで政治家というのは名前を憶えてもらえなければどうしようもないのかもしれない。

ポスターがたくさん張ってあるとそれだけ知名度は上がるだろう。それに政党のポスターというのはたまに政党が主催する講演会などのイベントなどが告知されるから、この点でも政治の世界においてポスターというのは重要に思える。

ポスターにはそのような働きがあるにも関わらず、なんで僕はそれらの意味に気づくことなくポスターなんて意味がないと思ったのか、考えてみると僕は多分、冒頭に書いたような政治活動の実態というものが見えていなかったかったからだったと思う。

ポスターを張るというのは、有権者に名前を知ってもらうとかイベントの告知をするという事だけが目的なのではない。ポスターを張らせて下さい、と地域住民にお願いして回る事自体が政治活動なのだ。

ポスターを一枚張るという事はそれだけ勢力が拡大する、という事である。まあ、僕は政治のポスターの世界がどうなっているのかは詳しく知らないが、とにかく支持者を一人増やすきっかけとしてもポスターというのは意味を持つのだろうな、というのは何となく感じる。

 

そう考えると、世の中の広告というものがなんであるのか、というのも何となく理解できるような気がする。僕はこれまで、マスコミで流れている広告には何の意味があるのか全然わからなかった。

たとえば車の宣伝なんかはそうで、何百万もするような買い物の動向がたかだか十秒だか十五秒程度のテレビCMで決まるとはとても思えなかった。もちろん車というのはショールームに来てもらわないと始まらないだろうが、車くらい大きな買い物となると広告に関係なしに地元にあるすべての車会社のショールームを回りそうなものだ。

日曜品に関する広告も同様だ。基本的に商品というのは店頭で手に取ってみて選ぶもので、だいたいコマーシャルなんて漠然と見るものだからテレビを見終わった後はコマーシャルで紹介された商品の事など何も憶えていないだろう。

僕は広告がどれほど売り上げに影響するか、という問題については何も知らない。広告の効果というのは僕が考えているよりもはるかに大きいのかもしれない。しかし、企業の広告費用がマスメディアというものを成立させるぐらいの額である事を考えると、広告というのはそんなに意味があるものなのかどうもよく分からなかった。 

しかし、選挙と広告というのは似たような事をやっている、と考えると広告の意味というものが何となく納得できるような気がする。

 

僕は広告というのは宣伝を消費者に届けるだけの事だと思っていたが、多分広告というのはそれだけではない。政治家とか秘書がポスターを張らせてもらうと地元でお願いをして回るように、メディアの広告の枠を買うという事自体がすでに広報活動なのだ。

メディアの広告の枠を買うとメディアとのつながりができる。企業というのはメディアとパイプを作っておいたほうが何かと得なんだと思う。例えば何か売れている商品があれば優先的に取り上げてくれるかもしれないし、マイナーな良書などを出版したら著者に話を聞きに来てくれるかもしれない。企業でなにか新しい取り組みがあれば社会欄とか経済欄の特集などで紹介してくれるという可能性もあるだろう。そしておそらく、世間ではそういう事が積み重なる事で企業のイメージがだんだん決まってくるのである。

逆に、あんまり儲けているのに広告を出さないとなるとメディアの心証も悪くなっていくだろう。そういう意味で、広告を出すというのはそれなりの意味があるし、広告というのは僕が考えていた以上にリスクのある事なのかもしれない。だからどこの会社も広告を出しているのだ。もちろん政治の世界と同じように、広告が少ないと企業の影が薄くなってくるというのもあるだろう。しかし、今の「報道期間」がどのような「報道」をしているのかを見ると、広告にはリスクマネージメントの意味もかなりありそうだ。

実際に広告枠を買うとどのような影響があるのか、もちろん僕のような立場の人間には知る由もない。しかし、これだけのカネが広告に使われているのだから広告にはそれなりに意味があるはずだ。そして、広告の意味を考えるには消費者の側だけではなくて広告の枠を売ることで社員が生活をしているメディア側の立場を考えないと全体を理解するのは難しいだろう。もっと言うと広告というのは案外、消費者の事なんてどうでもよくてメディア側に対する工作のほうが重要なのかもしれない。

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なぜ官僚・政治家・学者・財界人は消費税が大好きなのか

とうとう総選挙になったけれども、消費税の人気は相変わらず根強い。官僚・政治家・学者・財界人はこれまで通り消費税が大好きのようだ。世間の消費税に対する懐疑的な見方を気にしているのか、あるいは黙っておいた方が消費税増税がかえって消費税増税がやりやすいという認識が広まったのか、一時ほど騒々しい消費税のプロモーションはなくなったが、消費税の人気というのは目立たないだけでしっかりある。

その証拠に、今回の総選挙でも消費税の減税、あるいは消費税の廃止を公約として掲げる政党は全くもって見当たらない。どの政党も、「今」消費税を増税するのは反対!と言っているだけである。要するに、消費税を増税する事自体はいい事なのだが、落選したくないから「今」消費税を増税するのは反対、というスタンスなのだ。本音では今すぐにでも消費税の税率を30%くらいに上げたくて仕方がないような政治家もたくさんいるのではないか。

僕はこれまで、消費税というものがどうしてこれほど人気があるのかどうしても理解できなかった。というのは、僕は基本的に消費というのは善で過剰な蓄財というのは悪だと思っていたからだ。カネというのは使われる事で意味を持つわけで、溜め込んでいては全く意味を持たない。それなのに、カネに意味を持たせる消費活動にペナルティーを与える消費税がこれほど人気なのはなぜなのだろうか?

それにはもちろん、消費税が徴税の際に面倒がないとか、既得権益層であるほどうれしい♡税金であるという事もあるだろう。これらはもちろん消費税賛成派が消費税増税を叫ぶ原動力になっている。しかし最近、僕はどうも消費税賛成の背景にはただの損得勘定だけではないものがあるのではないか、と思い始めた。どうも、これらの消費税賛成派は消費税を他の税よりも倫理的な税金であると思っているようなのだ。

先日、ドイツにおけるベーシックインカムの推進論に関する記事をネットで見た。その記事で興味深いと思ったのだが、ドイツではベーシックインカムを実施する際に、所得税法人税を廃止して税金を消費税に一本化すべきだ、という意見があるらしい。所得税とか法人税というのは経済活動を行う人間を罰する税金なのでけしからん!というのである。いかにもドイツ人らしい気違いじみた考え方だと思ったが、僕はこの話を読んでなんで官僚・政治家・学者・財界人の間でこれほど消費税が人気なのか始めて理解ができた気がした。これらの人達の中では、蓄財というのは善で消費というのは悪なのだ。

たしかに資本主義というのは蓄財がなければ成り立たない。資本が蓄積されているからこそ現代社会では巨大企業が巨大なビジネスを行う事が出来るのである。しかしながら興味深いのは、基本的に資本主義というのは消費を元に成り立っているという事だ。

この間に話題になった電通などはいい例だ。電通の社員は猛烈に仕事をしているわけだが、ではその電通の社員がしている仕事はというとこれは消費税大好きな人たちが嫌う消費を限界までプロモートする事である。そして、このことは多くの経団連企業についても同様なのである。それでは、消費者が消費をするための原資がどこから来るのかをたどってみると、それは消費が嫌いで節約が大好きな人達の資産だったりするのだ。

勤勉と節約を重んじるような価値観が支配的な社会では、カネを儲ける事自体が目的になりやすい。カネがあっても使い方が分からないのでもっとカネを儲けるためにカネを使うようになるのだ。カネというのはリソースの配分手段にすぎないのに、カネが神格化されるのである。しかし、カネが神格化されれば資本主義は変調をきたす。なぜなら、それはカネが本来の機能を失っている状態であるからだ。

資本主義社会において蓄財と消費というのは車の両輪である。これからの社会では、蓄財が善で消費が悪、というような考え方は改めるべきだと僕は考えている。今の社会では蓄財が美徳とされすぎるために蓄財と消費とでバランスがとれていない。これからは蓄財をこれまでよりも悪とみなし、消費をこれまでよりも善であるとみなす事でバランスをとっていく事が必要である。そういう意味でいうと、今の既得権益層がプロモートしている消費税増税法人税減税の流れは方向としては全く見当違いであるように思う。

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腹筋ローラーの話を聞くたびに思うこと

最近たまに腹筋ローラーの話を聞くが、あれってどれくらいの人が続けているのだろうか?

たとえば1月続ける人ってどれくらいいるのだろうか?

3か月続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

6か月続ける人はどれくらいいるのだろうか?

1年続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

3年続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

こういう事を書くのは、なんだかブログとかでも腹筋ローラーを始めました、というエントリーのほうが経過報告のエントリーよりも多いような気がするからだ。腹筋ローラーを続けている人が多いならばこんなことにはならないはずだ。腹筋ローラーを始めた、というエントリーを書くのは一度だけの事だが、続けているならば

腹筋ローラーを始めて健康になった。

腹筋ローラーを始めてモテるようになった。

腹筋ローラーを始めて3か月たった。

腹筋ローラーなんてすぐ飽きると思ってたけれども意外と続いている。

・・みたいな感じで腹筋ローラーに関するエントリーがいろいろ書かれるだろうから、腹筋ローラーを始めた、というエントリーよりも腹筋ローラーでトレーニングをした結果に関するエントリーのほうが多くなるはずなのである。

それなのに腹筋ローラーを始めた、というエントリーばかりが目立つように思えるのは、あれは結構続けるのが大変だからなのかもしれない。この間テレビで腹筋ローラーを使っていると言う人が出ていたが、10往復を3回、それを一日で5回繰り返すという話だった。一日にしたら150往復である。

これが多いか少ないのか腹筋ローラー未体験者の僕としては知る由もない。それに腹筋ローラーを使ったトレーニングの方法は様々あるだろうし、トレーニングの段階などによっても負荷や回数は変わってくるだろう。しかし、10往復するたびにハーハーゼーゼーするのを15回繰り返すとしたらこれはかなりハードである。

もちろん楽をして体を鍛える方法などあるわけもない。楽なままで過ごすならば体の方では変化をする理由が何もない。なので体を鍛えるというのはある程度大変な事なのであろうが、15回ハーハーゼーゼーするのを毎日のように何年も続けるにはそれなりの意思が必要になりそうだ。大変すぎるから回数や負荷を調整するなどしても、ある程度の意思の強さが必要になるというのはまず間違いのない所である。

いろいろなブログの記事を読むと腹筋ローラーに効果があるのは確かなようである。効率にしても、腹筋をやるよりも効率的にトレーニングができるのだろう(そうでなければわざわざローラーを買う意味がない)。しかし、いかに効果的・効率的な事でも、続けるというのはそれだけで大変な事なんだろうなあ、と改めて思う。

正直、僕は腹筋ローラーについてのエントリーについてよく調べているわけではない。腹筋ローラーというのはとにかくアフィリエイト目的のゴミエントリーが多いので、実態というのが分かりにくい、というのもある。もしかしたら、腹筋ローラーを使って見栄えのする腹筋を手に入れる事に成功した人は僕が思っているよりもはるかに多いのかもしれない。しかし、腹筋ローラーを買った人で何パーセントが一年後も続けているのか、というのは是非とも知りたいデータではある。

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