グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

最強の菓子の食べ方

以前、テレビを見ていたら体重が百キロほどもある引きこもりの女がでていた。

どんな番組だったかは思い出せない。多分、ダイエット企画かそんな感じの番組だったのだろう。その女がなんで引きこもったのかも、その番組の顛末がどうなったのかも忘れた。しかし、その体重100キロの女の菓子の食い方は憶えている。

その女は引きこもってひたすら菓子を食べる生活をした結果体重が百キロまで増加したのだということだったが、その女の菓子の食い方にはなるほどなあ、と思う工夫?があった。その工夫とはどのようなものかというと、菓子を食うときは甘い菓子と塩辛い菓子を交互に食うというものだ。甘い菓子にあきたら塩辛い菓子を、塩辛い菓子にあきたら甘い菓子を食うようにすれば、いつまでも飽きることなく菓子を食べ続ける事ができるというのだ。

この間スーパーに行ったとき、ふとこの話を思い出して、ためしに僕も同じ菓子の食い方をしてみようと思った。それで袋入りのキットカットとサラダせんべいをそれぞれ一袋かって、キットカットとサラダせんべいを交互に食べてみた。

そうしたら、女の言うとおり、これがまったくあきないのだ。

キットカットは非常によくできたチョコレートだが、それでも一袋全部を一人で食べるとすると最後の方ではさすがにすこしは飽きを感じるだろう。サラダせんべいだって、一袋全部を一気に食べるとさすがにすこし味が単調に感じられてくると思う。

しかし、キットカットとサラダせんべいを交互に食べると飽きというものを全く感じないので驚いた。本当にすこしもあきることなく、キットカット一袋とサラダせんべい一袋をまるごと食べ切ってしまった。菓子をこれほどうまく食べることができたのは本当に久々のことだったかもしれない。

いや、それにしてもこの食い方は危険だ。キットカット一袋とサラダせんべい一袋と簡単に言うが、これはかなりの量である。カロリーにすると何キロカロリーになるのだろうか。

僕は消化器系がおかしい所があるのか、どんなに暴飲暴食しても体重がかわらないのだが、毎日のようにこんな菓子の食い方をしていたら普通ならば本当に体重百キロになってしまうかもしれないし、体重が百キロにならなくても体にどんな負担がかかるのか考えたくもない。

しかしながら、この食い方をすれば大量の菓子をおいしく食べられるというのも確かである。もちろん、いくら菓子をおいしく食べられたとしても体重百キロになって外にも出歩けなくなったら何の意味もないし、いくらうまいからといって菓子を食いまくる生活をすることが正しい事なのか疑問もあるが、とにかく菓子をおいしく食べたいという人は試してみる価値があるかもしれない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

国は今すぐベーシックおこづかいを創設すべきだ

僕は、基本的に今の社会保障ベーシックインカムに置き換えていくべきだと考えている。

人間というのはカネさえあれば生きていくことができるのだから、カネを国民全員に渡すのが最も効率がいい。

日本において、社会保障は腐敗や汚職の大きな原因になっているだが、カネを全員に渡してしまえば腐敗や汚職など起こりようもない。

しかしながら、当然のことながらベーシックインカムには根強い反対がある。

ベーシックインカムなんてない方が好都合な人が沢山いるのだから当然だ。

それで僕は思うのだが、ベーシックインカムはまず子供から始めればいいのではないかと思う。

小学校から高校まで、月に一万五千円程度のベーシックおこずかいを渡すのだ。

カネの価値というのは、もっている人間の年齢に反比例する。

子供がもつ一万円は、老人が持っている十万ほどの価値があるだろう。

カネというのは、子供に投下するのがもっともインパクトがあるとおもうのだ。

ベーシックおこずかいは格差の是正にたいしても効果があるだろう。

カネがない子供の生活というのは本当にみじめなものである。

着ている服もみすぼらしくなるし、カネがないと他の子供との交際に支障をきたす。

はっきりいってカネがない子供よりもカネがある子供と遊んだ方が楽しいから、裕福な子供は人気がでやすいし、貧乏な子供は疎外されやすい。

最悪なのは、親がカネをもっているのに病的なケチである場合である。

運悪く親がこの類であった場合、子供は裕福な子供ともそうでない子供ともうまくつきあう事ができず、かなりの確率で孤立する。

その結果、子供のうちに身につけておかなければならないヒューマンスキル(俗にコミュニケーション能力といわれているもの)が身につかず、「社会」に出たときに大損害を被ることになる。

このときに損害を被っているのは個人個人だけではない。

実は、日本社会全体も同時に損害を被っているのである。

子供の貧困(それは先ほどいったように親が金持ちのケチという場合もある)は子供の心をねじ曲げる。

そして、多くの場合、子供のころにねじ曲がった心は一生もとに戻らず、成人してからも様々な形で社会に損害を与えることになるのだ。

子供の持つカネの価値は大人の持つカネの価値よりに大きいし、子供の貧困が改善されれば将来生じるトラブルを予防することにもなる。

子供が健全に成長するために、子供にはカネが必要だ。

国は今すぐベーシックおこづかいを創設すべきだ。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

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「女流棋士ってなんで弱いの」という増田を読んで思ったこと

女流棋士ってなんで弱いの

進化の結果だと思う。

よく、鳥とか魚などでオスとメスでは見かけがぜんぜん違うものがあるが、それと同じようなものではないだろうか。

男子と女子で何が違うのかというと、男というのは勝つことを期待されるし、勝たないといけないと言うところが違う。

水利や農地などの利権の取り合い、村と村との争い、商売上の競合、はては国家間における戦争にいたるまで、全てそうだ。

ここで勝負の結果を決めるのは、大局的には知力である。

体力であったり、根性などの違いでは大した差は生じない。

勝つためのうまい手段だったり、うまいシステムを考えた方が勝つのである。

そして、勝つために必要なアイディアというものは、一見なんの役に立つのか全くわからないものであることが多い。

もっとも極端な例が原子爆弾だろう。

原子爆弾を作るためにアメリカ人は巨大な水力発電所を建設し、流域のほとんどすべての電力をつかってウランを濃縮した。

当時のアメリカで使われる総電力の十分の一がウランを濃縮するために使われたと言われている。

原子爆弾を設計するのに必要な数値計算をするために、何千人もの人手が動員された。

当時は数値計算に使える電子計算機が実用化されていなかったからである。

そして、マンハッタン計画には、当時アメリカでもっともinnovative(創造的)な理論物理学者が総動員されていた。

普段、もっとも役にたたないことをやっている人たちがいなければ、原子爆弾のようなものはできない。

理論物理学などは一見、戦争とはなんの関係もないように思える。

しかし、いざというときに本当に決定的なのは、このように何の役に立つのかわからないような知識なのである。

そう言うわけで、男子にはもともと、なんの役に立つのか全くわからないものに興味をもつ傾向が強い。

もし、男子が全員そのようなことに興味を持たないならば、戦いに負けて集団が全員滅びてしまう。

勝つために必要なアイディアというものは、意外なところに転がっているものだからである。

一方、男子と違って女子は戦うことがない。

歴史的に、女子がやってきたことは基本的にはすべて、戦う男子や集団のための後方支援である。

家事・育児とかそういうことだ。

そのため、女子は様々なことをそつなくこなす能力が発達している。

歴史的に女子がやってきたことは、全部そこそこできないと困るが、ある一定以上の水準をクリアしていればよいというものばかりだ。

たとえば、育児などにしても、無能な親と有能な親の違いはもちろんあるけれども、一人や二人ずば抜けて優秀な親がいたところで世の中全体としてはどうでもいい。

興味関心も、ファッション・食い物・恋愛など身近なものに偏りがちである。

当然、将棋なんかには興味は持たないし、知識の範囲が身近なものに限定されるから、アメリカで使われる総電力の十分の一のエネルギーをつかえばウランを濃縮できるから水力発電所をいくつつくろうとか、何千人を集めて計算させれば必要な数値計算を実行できるというようなぶっ飛んだアイディアも出てこない。

一般的に、女性というのは何でも器用にこなすけれども突出したものは一つもない、というタイプが多い。

これは、歴史的に女性が戦いではなく、戦いのロジ(後方支援)をやってきたからだ。

逆に、男子は他のことはぜんぜんダメだが得意分野においてはとんでもない力を発揮するというタイプが多くなる。

そうでないと、チームで総力戦になったときに負けるからだ。

争いになると、それぞれの得意分野を持った人間が分業したほうが絶対勝つ。

そこそこ何でもこなすというタイプを何万人集めたところで原子爆弾はできないのだ。

このように考えると、男子とくらべて女子が将棋に興味を持たず、女流棋士が男に勝てないのは当たり前の話といえる。

女流棋士が男に勝てないのは、社会が悪いからではない。

男子が戦うことに、女子がロジをやることに最適化されているからだ。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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一億円と百万人のフォロワーではどちらが価値があるか?

「お金2.0」という本に、SNSの百万人のフォロワーと一億円のどちらが価値があるか?という問題があるらしい。

これはなかなか答える人がどのような人間であるがが問われる質問だと思う。というのは、僕が思うに、世の中には一億円よりも百万人のフォロワーのほうが価値がある人と、百万人のフォロワーよりも一億円のほうが価値がある人がいるからだ。

模範的に答えれば、(特にこれからの世の中では)一億円なんかよりも百万人にフォロワーのほうが価値がある、と言うことになるだろう。

たとえば、なにか世の中ででかいことをやりたいならば、百万人のフォロワーのかわりに目先の一億円を取るなんて全くの論外である。百万人のフォロワーがいるのと一億円もっているのでは、どう考えてもフォロワーが百万人いたほうがでかいことができる。自分のメッセージや行動が小国の人口と同じだけの人数に伝わる。これはすごいことだ。

一億円あったからといって、カネで買ったものではない本物のフォロワーを百万人獲得できるとは限らない。というか、本物のフォロワーを百万人獲得するのにいくら費やさなければいけないのか、気が遠くなるような話である。

百万人のフォロワーがいれば一億円を稼ぐなんてそう難しいことではないだろう。一億円稼ぐのに何年かかるかはともかく、トータルで一億円くらいは普通に稼げそうな気がするし、もし儲けが3,000万だったとしてももらった一億円の上に寝そべっているよりよほど面白い。

しかしながら、だれもが一億円よりも百万人のフォロワーのほうが価値があるのかというと、僕はそうは思わない。

フォロワーが百万人いるとなれば、当然それにともなう責任が生じる。具体的には、そのフォロワーに向かっていつも何か発信していかなければいけなくなる。もちろん、発信をするかしないかは個人の自由だが、少なくとも何らかの情報を発信しなければならないというプレッシャーは間違いなくかかる。

なにか表現したいことがありすぎて困っている人や、やってみたい企画がありすぎて困っている人ならばフォロワーは多ければおおいほどいい。しかし、だれもが表現したいことことがあるわけではないし、やってみたい企画があるわけではない。もし表現したいこともやってみたい企画もないような人は、百万人のフォロワーがいるという状況に耐えられないと思う。

百万人のフォロワーを持つには、百万人フォロワーがいるという状況に耐えるだけの強さがいる。その強さがない人ならば、フォロワー百万人よりも一億円のほうが価値があると思う。

一般論として、成功すればするほどに安楽な幸せからは遠ざかっていくものである。要求される仕事のレベルも上がり、責任も重くなる。成功し、その成功を続けるというのは楽なことではないのだ。しかも、成功すれば成功しただけの「有名税」も、どっかりと支払わないといけない。僕は、断固とした意思をもって、一億円を元手に生産的なことを一切せずに楽しく暮らす、という人生もそれなりに悪くないと思う。

外から見ると成功している人の人生というのは素晴らしく見えるが、案外割に合わない?成功というのもあるのではないだろうか。というか、実際に世の中でのさまざまな成功を観察すると、割に合う成功よりも割に合わない成功の方が多いような気もする。

重要なのは、あまり意識が高い人のいうことに流されすぎることなく、フォロワーが百万人いる人生とゼロの人生それぞれにメリットがあると言うことをしっかり認識することであろう。自分の力量の性質を正しく見積もることはこれからも重要でありつづけるわけで、冒頭の質問は自分のもっている力量について考えるきっかけになかなかいい質問であると思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

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はてなからカネ目当てのブロガーがいなくなって思うこと

最近、はてなでカネ目当てのブロガーをあまり見かけなくなった。いや、いまでもはてなにはカネ目当てのブロガーなんていくらでもいるんだろうけれども、めっきり影が薄くなったと思う。ついこの間までPVがPVが、と大騒ぎしていたのが嘘のようだ。

そういうブロガーの多くはWordpressに移転してしまった。はてなはカスタマイズが云々、はてな民が云々などともっともらしいことをいうが、口実だろう。単にWordpressのほうがカネになりそうだからWordpressに移転しただけで、はてなでブログをやってもうかるならばはてなに留まっているだろう。

はてなのアクセスが落ちているということは至る所で聞く。コンテンツ的に検索に強いブログならば半減、検索をあまり考えていない普通の雑記ブログだとアクセスが十分の一になった、というような話を日常的に見かける。

検索エンジンの検索結果は相変わらずのひどさだから、いったい今まであったはてなのアクセスがどこに行ったのか不思議だが、ともかくなんでこんなにアクセスが変動するのだろう?と不思議に思うほど激減しているらしい。

これほどアクセスが激減するとなると、まあ、Wordpressに移転したくなるのは無理もない。世間から見るとまともな社会生活をしておらず、ブログからの収入がライフラインになっている場合はなおさらである。

これらのカネ目当てのブロガーがいなくなっていったい何が変わったのか?ある意味何も変わっていない。カネ目当てのブロガーがいなくなっても僕のやっていることは何も変わらない。たんに気がついたらカネ目当てのブロガーの影が薄くなっていることに気づくだけだ。

盛り上がりという面では、以前の方が活気があったかもしれない。有名なブロガーがなにか見当違いのことをいえばそれに対するリアクションがある。何だかんだでカネ目当てのブロガーは話題を提供していたと思う。しかし、カネ目当てのブロガーがいなくなったからといってブログが書けなくなるわけではない。かえってノイズが減った分、もっとレベルが高いものが書けるかもしれない。

はてなのアクセスが十分の一になったというのはいくら何でも無茶苦茶で、いずれ逆の方向の調整が行われるだろう。それに、Wordpressがアクセス数でいつまでもはてなより有利かもわからない。というか、はてなのアクセスが減少しているからといってWordpressのアクセスがはてな以上あるかも分からないのだ。今後、Wordpressに移転したブロガーがはてなに戻ってくる可能性は少なからずある。

ブログブームが去った後、はてながかつてのように騒々しくなることはないだろうが、はてなで何が起ころうと僕はそれらから距離を置き、今までのようにブログを書いていこうと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

内申制度と間違った努力

次のような匿名ダイアリーが話題になっている。

■東京都の「不登校は中学に復帰するな」こんな指導をしなきゃいけない現状を知ってほしい。都民ファースト公明党、都議会自民党などの皆さん

 

学校に行きたい中3生に「学校に行くな」と指導する辛さ

 

皆さんは、長期欠席からの復帰を望む中3生に「学校に行くな」と指導することができますか。

この辛さが分かりますか?

東京都のある公立中学3年生の話です。

温厚すぎる性格が災いしたのか、イジメが原因によって、一時期、学校にいけない状態に。だから、内申点は著しく低いものでした。

でもこの子、勉強がすごくできる。塾で受ける模試で、偏差値70オーバー。将来の夢は大きく科学者。

中学2年生の時、地元の難関校、都立国立高校の文化祭で見たクラス演劇に感動。

「地元で最難関の都立国立高校に進学したい。そこでもう一度、リセットして再出発をしたい。」

今までだったら、このような生徒であっても、都立の進学校に行くことができました。

それは、特別選考枠といって、募集定員の1割を「内申点を見ないで当日の筆記試験の得点だけで決める」という枠があったからです。

この枠のおかげで、学力はあるけれども、病気、ケガ、イジメ……様々な事情で学校に通えない時期があった中3生の多くが救われてきました。

不登校でオール1の内申しか付かなかった生徒が、都立最難関の西高校に合格したという例は伝説として語り継がれています。

もう何年も前の話だけれども、この実話が、どれだけ多くの生徒達に勇気と希望を与えてくれたことか。

私立中学校の数が日本一多い東京都。さまざまな事情から外部の高校受験を希望する生徒も東京にはたくさんいます。

そういう生徒は、外部受験の意向を学校に伝えると、嫌がらせのように内申点を大きく下げられたりすることがあります。

残念なことですけれども、事実です。

でも、特別選考枠があったおかげで、救われてきました。

 

舛添前知事の時代に突然廃止 多くの人達の批判をまったく聞かず

 

それが、舛添知事の時に、突然に廃止された。理由は、「入試制度が複雑になりすぎる」「あってもなくても同じ」とかだったと思います。

この制度がなくなった今、東京都内の多くの生徒達が本当に困っています。

東京都には、本当に様々な生徒がいるのだ。内申点がなくても、卓越した能力を持つ中学生がたくさんいます。

そういった生徒を一様に排除したのが、特別選考枠の廃止です。

ある生徒は唖然とし、廃止を知らなかった人の中には、泣き出す親子もいました。

東京都教育委員会に電話をしてみました。困っている生徒がいるのだと。

反応はこうです。「現行の制度ではこうなので、仕方がない。」と。

では、救う手はあるのか。一つだけあります。

それは、中学校には一切通わない、ということ。

たとえ中学校に復帰できる状態になっても、絶対に復帰しないということです。

なぜかというと、1度でも学校に行ってしまうと、その時点で、学校の内申点が付いてしまいます。

内申点がついた時点で、終わりです。もうあなたは、学力相応の都立高校へ進学はできません。

1度も学校に行かなければ、内申点は付きません。判定不能です。こうなれば、高校側は内申点を除外して合否判定をしてくれます。

舛添前知事が特別選考枠を廃止した結果、今、東京都内では、実力相応の都立高校への進学を希望する生徒に、

「中学校は絶対に登校するな。1度でも登校すると、都立高校へ進学できなくなるぞ。」

と指導しています。

中学校に行きたいよね。復帰の意欲もあるもんね。

でもね。ダメなんだ。君は勉強ができる。だから、都立の進学校へ行って、たくさん勉強して、大学へ進学してほしい。

君が中学校に1度でも通った瞬間に、内申点が付いて、君の進学への道はすべて閉ざされるんだ。

ごめんね。ごめんね。


皆さんで東京都に意見を出してほしい 都民ファースト、公明、自民、皆に声を届けたい


本当にひどい制度です。

そして、その制度を、都民ファーストの会公明党小池都知事は未だに継続しています。

みなさん、ぜひこの現状をぜひ拡散してください。広く知ってください。

小池都知事都民ファーストの会の皆様、都議会公明党自民党共産党、だれでも構いません。

この状況が早急に変えられることを願います。 

東京都の「不登校は中学に復帰するな」こんな指導をしなきゃいけない現状を知ってほしい。都民ファースト、公明党、都議会自民党などの皆さん

一言で言って、内申という制度は、やったふりをする人間が得をする制度である。よく、真面目に「努力」した生徒が報われるような制度にしないといけない、ということがいわれるが、もし真面目に努力をしたのならどうして成績が悪いということがあるのか?本当に努力をしたのならば、努力の結果として当然成績はよくなるはずで、内申などを見る必要はないはずである。

内申がよくて学力が低い生徒は勉強をしているふりがうまいだけで、実際には勉強をしていない。実際に勉強をしていないから学力が低くなるのだ。一方、不登校などでろくに学校に行っていないのに成績がいい子供は本当の努力を行っている。いい成績というのはある程度の努力なしに取れるものではない。成績がいい子供は努力をするから成績がよいのであり、成績が悪い子は努力をしないから成績が悪いのだ。

内申という制度は、努力をしたふりをした生徒を評価して本当の努力をした生徒を評価しない酷い制度である。内申は、努力をしたふりを評価して本当の努力を評価しない日本社会の腐敗を象徴するもので、徹底的に破壊しなければならない。

・・とまあ、このように結論できたら話は簡単だが、現実はそれほど簡単ではない。もちろん、日本社会では形だけを見て実質を見ていないことが多いのだが(そしてこれは教育制度において著しいが)、これは現実の一面に過ぎない。

教育役人が内申に執着する理由は分からないでもない。学校教育というのは生徒の成績を上げるためにあるものではないからだ。なので、学校のいう通りに「努力」をしたら成績の方はあまり期待できないことがおおいだろう。学校の指示通りに勉強するというのは、英文法を勉強せずに英語を勉強するようなものだ。学校教育が指示する努力は、成績を上げるという観点からすると間違った努力なのである。

今から考えたら僕は中学時代から健康上かなり強烈なハンデをかかえていたのだが、それでも地元の「トップ高」に簡単に入るくらいのパフォーマンスは出せていたし、実際にトップ高に進学した。しかし、僕の成績がよかったのは僕が筑駒志望の中学生がやってそうな問題集を三回やるなどしていたからで、学校の勉強を真面目にやっていたからでは断じてない。学校の「宿題」なんか、僕は一度も出していない。

内申の問題はここにある。ひっきりなしに「勉強しなさい!宿題はやったの!?」 と繰り返す愚かな家庭に育ち、学校の教師のいうことだけを聞いた結果として成績がぜんぜんさえなかった場合、そのような生徒はどのように扱えばいいのか?

現実的なのは運用でダブルスタンダードを確立することだろう。

内申の扱いというのは地方によってかなり差があるようだが、僕の地元ではトップ高だけは内申は見ないといううわさだった。だから、内申が悪い生徒は二番手の高校よりもトップ高を受けた方が難易度的に遙かに合格しやすいとされていた。

田舎でこのようなダブルスタンダードが採用されているのにはいくつか理由が考えられるが、田舎の成績のいい生徒は多かれ少なかれ地域の期待を背負う、と言うのがあるだろう。このまま勉強を続けて、中央で成功して故郷に錦を飾ってほしい、というのは田舎では誰にでもある。だから、成績がいいなら少しの事は大目に見るのだ。これは東京出身者にはわからない感覚だと思う。勉強できる子はみんなトップ高、という図式を崩したくないというのもあるかもしれない。

東京都でも、いくつか高校を選んでそこの高校は内申を提出しなくても受験できるようにすればいいのではないか。そうすれば、内申制度の弊害はいくらか緩和されるだろう。

もっとも、私立高校の無償化やオルタナティブ教育の存在もあり、これからは公立高校もだんだんと競争に巻き込まれていくことが予想される。内申制度だって今後はどうなるか分からないが、いずれにしても、これからの学校が態度中心から勉強中心になっていくことを願ってやまない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

フリック入力と役に立つ勉強

去年の年末から、ブログをスマートフォンを使って書いている。

SIMフリースマートフォンは2年前から持っていた。しかし、フリック入力が使えないとスマートフォンなど単なるWifiが使えるカメラのようなもので、ほとんど使っていなかった。はじめはQWERTY配列や手書き入力でスマートフォンを使おうと思ったが、当然使い物にならずにそのままになっていたのである。

そもそもにして、僕はスマートフォンを大して重要なものとも思っていなかった。キーボードからの入力に慣れている僕からするとフリック入力を使って文字を入力するなんてものすごい非効率に見えた。スマートフォンは画面も小さいし、こんな面倒なことをするくらいなら家でPCを使うからいいか、と思っていた。

しかし、思うところがあって今は文章は全てフリック入力で入力している。ブログもすべてスマートフォンで書くようになった。というか、スマートフォンを使う時間が増えてPCを使う時間はかなり減った。

PCからスマートフォンに移行したのは、一つはキーボードを使って入力したところで何の進歩もない、という当たり前の事実に気づいたからである。

僕はキーボードはもう何十年も使っている。もちろん、ファンクションキーなどホームポジションから離れたキーを打つとき以外は手元は見ない。もっとも、僕のダイビングの速度はタッチタイプをしている人の中ではとんでもなく遅い部類で打ち間違いも多いのだが、もう何十年もキーボードを使って入力しているので基本的にはいくらキーボードを使って文字を打ったところでこれ以上の進歩はない。

しかし、今フリック入力を習得すると、これは以前使えなかったスマートフォンを利用できるようになるということだから明らかな進歩である。僕は今後スマートフォンを使う局面は絶対出てくると考えた。もし引きこもるのをやめて「社会」に出て活動する場合、絶対にスマートフォンは必要になる。それならば今のうちにフリック入力の勉強をしておくべきなのは明らかである。

しかも、都合がよいことに僕はブログをやっている。はてなのアプリケーションをダウンロードしてスマートフォンでブログを書いていれば、そのうちフリック入力に慣れてくることは予想できた。

それでフリック入力を使ってブログを書き始めたのだが、初めのうちは大変だった。なにせ、画面には「あかさたなはまやらわ」の10文字しかない。他の文字を入力するには、どこをどの方向にフリックすればいいのか全部覚えていないといけない。初めのうちはこの組み合わせを思い出すだけでものすごい頭が疲れた。反対方向にフリックするという間違いも多かった。「し」と「せ」、「る」と「ろ」、「り」と「れ」など、しょっちゅう間違えた。そういうわけで、初めのうちは時間はかかるし間違いは多いしで大変だった。

スマートフォンを使い始めて一月ほど経った今、フリック入力にも大体慣れた。今でもたまに指が止まったり、間違った方向にフリックすることはあるものの、だいたい無意識に入力できるようになった。まだキーボードを無意識に打つくらいのレベルではないが、少なくともスマートフォンを使い始めた頃とは比べものにならないほど上達したと思う。まあ、平均的な女子高生の半分くらいの速度で入力できているのではないか。

それで、フリック入力ができるようになってスマートフォンが使えるようになったのだが、使ってみるとスマートフォンというのは便利なのだ。正直、スマートフォンがこれほど便利なものだとは思わなかった。この便利さは言葉ではとうてい説明できない。もう、スマートフォンなしの生活は考えられない。

フリック入力の勉強をして、つくづくおもったことがある。それは、勉強というのはよい勉強と悪い勉強があるということだ。

よい勉強というのは、勉強することで大きく世界が広がる勉強である。勉強することで世界が大きく広がるほどよい勉強と言えるだろう。そういう意味では、フリック入力というのは非常によい勉強の典型例だと思う。スマートフォンが使えるようになって僕の生活はものすごく便利になった。スマートフォンは世界を変えたとよく言うが、実際にスマートフォンを使ってみるとスマートフォンというのは本当に革命的だな、と実感する。

しかし、スマートフォンを使うにはまず、フリック入力の勉強をしないといけない。フリック入力の勉強は大変である。キーボードだとすらすらと入力できるものを一文字につき何秒かをかけて、ときには間違えながら打ち込んでいくのはとても根気がいる。しかし、このように一文字一文字を時間をかけて打ち込むという練習なしにはいつまでたってもスマートフォンは使えない。

フリック入力の勉強のように、本当に役に立つ勉強というのは学習するのが大変であることが多い。だから、本当に役に立つ勉強というのは、それが役に立つと頭では分かっていてもなかなか始めにくい。どうしてもしんどそうな印象が先に立つし、実際にある程度はしんどい。

フリック入力の勉強も、確かにしんどいといえばしんどかった。しかし、考えてみたら、いくらフリック入力の勉強がしんどいと言っても、それはせいぜい一月ほどのことなのだ。一月ほどたった今では、僕はフリック入力の練習がしんどかったことなど忘れて普通にスマートフォンを使っている。おそらく、大抵の勉強も、やってみれば一月ほどの学習でできてしまうものがほとんどなのではないか。

僕もそうだが、役に立つ勉強というのは大変なので、どうしても役に立つ勉強を避けて役に立たない勉強の方に流れがちである。役に立つ勉強よりも役に立たない勉強のほうが楽だからである。しかし、当たり前の話だが、役に立たない勉強を重ねるよりは役に立つ勉強をしたほうがいいに決まっている。

役に立つ勉強というのはフリック入力の勉強のようなものなんだろうな、とスマートフォンを使えるようになって思った。

電子出版した本 

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。