グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

アウトプットアウトプットと繰り返すブロガーのブログは案外続かない

ブログをやっていると、意識が高くなりすぎたのか、まるでうわごとのようにアウトプットアウトプットと繰り返しているブロガーをよくみかける。

このようなブロガーはあまり続かない。

詳しく統計を取って確認したわけでもないが(統計を取ったら面白いだろうが)なんとなくそういう感じがするし、統計をとってもそういう結果になると思う。

なんでそういうブロガーのブログは続かないのかというと、そういうブロガーは「成長」であるとかカネ(「ブログは資産」というやつである)など何でもいいが、ブログからなんらかの具体的な利益を得ることを目的としてブログをやっている。

ということは、ブログをやる以上に成長できるようなことを始めたり、ブログ以上に儲かることがあればブログを続ける理由がなくなってしまう。

はっきりいってブログをやったところでたいして人間として成長するわけではないし、ブログを書くために費やすコストを考えれば得られる収入など完全に誤差の範囲である。

もちろん、なんであれ物事を長く続けるというのは意義があることだ。

長く続けていさえすれば人それぞれ、それなりに進歩があるのはブログも例外ではない。

しかし、ブログを続けたとしてもそれはブロガーとして成長するだけのことで、それ以外の点でなにか成長があるかというとはっきりいって疑問である。

僕も、このブログを書くことが生活の一部になって結構なるが、ブログを書くこと以外になにか進歩があったかというとあまりそういう気がしない。

たしかに(意識高い系の用語を使えば)成果物がだんだんと形になっていくプロセスを経験することは、なにをするにしても役に立つかもしれない。

僕もブログを始めたときはこのブログがどのようなブログになるのか全然わからなかった。

だいたい150記事くらい書いて、このブログがどういうブログなのかが決まってきたような気がする。

しかし、これだって、試行錯誤なしにいきなり完成度が高いものができてしまうと、それ以上やることがなくなってしまうだろう。

成長を目的としてブログをやるというのは、どう考えても見当違いなことのように思えてならない。

もしブログをかくほど成長するというのなら、世の中で一流と評価されている人はみんなブログを書きまくっているはずだ。

もちろんブログを書いている一流の人はいるだろうが、専門分野での評価となるとたいてい競争からドロップアウトした人、つまり「プロ」としての成長はたいしたことがないと見なされていることが多いだろう(もっとも、人間としては「一流」の人よりもそういう人の方が興味深いことも少なくないのだが)。

野心だけは満々の意識高い系ブロガーのブログなど続くはずがないのだ。

ブログなどを書く以上に成長につながることはいくらでもあるわけで、本当に成長したいのならばブログなどやっている暇はないだろう。

ブログというのは仕方なくやるもの、という認識を僕は持っている。

世俗的な利益を考えれば、ブログなどやっても損しかない。

特に、僕のような立場の人間ならば、どう考えてもブログなんかしている場合ではない。

それでも僕がブログをやっているのは、書き残しておくべきと思うことがあるからだ。

それは書くことによって自分の考えを世の中に公表するというのもあるし、考えを文章にすることで自分の考えがなんなのかをより明確に確認したい、というのもある。

僕は引きこもりをしているわけだが、引きこもり的に考えると、いつもなにか世の中に向かっていいたいことがあるというのはかなり幸運な事かもしれない。

僕のような立場の人間ならば、(それが最善の行動であるかはともかくとして)ブログを継続して書くことには一定の利益があると思う。

ゼロと1ではないが、なにもしないで引きこもるのとブログをかきながら引きこもるのでは精神的に大変な違いがある。

たぶん、ブログというのはいろいろな意味で普通でない生き方をせざるを得ない人が書くためのものなのだろう。

普通の生き方をしている人にとっては、ブログを書くということは利益より不利益のほうが多いのではないかと疑っているのは僕だけだろうか?

だから、意識が高いブログがそのうちフェードアウトするというのは悪いことではない。

アウトプットというのはブログを書く以外にいくらでもあるわけで、ブログをかくよりも成長につながるアウトプットがあるならばそちらのほうを続けた方がいいに決まっている。

まあ、週に一回くらいブログを書きたくなる事がないのか個人的には不思議に思わないでもないのだが、ブログをやるのは素晴らしい!で終わるのではまだまだ甘いとおもう。

電子出版した本 

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

平昌オリンピックのロゴは悪くないと思う

平昌オリンピックのエンブレムはそれなりに悪くないと思う。

まず、オリンピックのエンブレムを直線で構成するという発想が新しい。

ふつう、こういうスポーツをテーマにしたエンブレムは動きとか生命とかをイメージしたようなものであることが多いと思う。

しかし、今回の平昌オリンピックのエンブレムは、逆に動きというものを一切排除したものになっていて、スポーツをテーマにしたエンブレムとしては非常に斬新なものになっている。

考えてみれば、冬というのはいろいろな活動が止まっている状態なわけで、平昌オリンピックのエンブレムは冬というものがとてもうまく表現されている。

もちろん、韓国発のものにありがちなように、このエンブレムも微妙なところで完全に洗練されているとはいえないところがある。

たとえば黒の使い方とかはちょっと無理があったように個人的には感じられたし、スポーツをテーマにしたエンブレムとしてはいくら何でも動きがなさ過ぎるのではないがと思わないでもない。

全体的な雰囲気も、(これは韓国のものすべてにいえることだが)やはりちょっと暗いと思う。

しかし、これをいいエンブレムか悪いエンブレムかというと、いいエンブレムと言っていいと思う。

なによりも、このエンブレムはたった9本の直線しか使っていない。

パルテノン神殿がイメージされる図形を表す直線が4本、雪の結晶を連想させる図形を表す直線が5本で9本の直線で冬季オリンピックというものがしっかり表現されているのは素晴らしい。

デザインというものはイメージだが、イメージというものはシンプルであるほど大きく広がる。

そういう意味で、平昌オリンピックのエンブレムはなかなかよくできているのではないか。

それに比べると、2年半後に行われていることになっている東京五輪のエンブレムは、まったく酷いとしかいいようがない。

もちろん、このエンブレムには、パクリ作品に特有の卑しさはない。

しかし、卑しさはないといってもそれはあくまで卑しさがないだけのことで、作品のできとしては酷いものだと思う。

クリエンブレムの撤回という騒動があった後、選考プロセスにも変更があったはずなのに、なんでこんな酷いエンブレムが選考に残るのだろう。

こんなエンブレムで東京五輪が行われるなんて、僕は悔しくてしようがない。

日本というのは美的センスで勝負してきた国なのに、エンブレムがこれでは日本がいかに駄目になったかを世界に宣伝しているようなものだ。

国立競技場の顛末も本当に酷かった。

本当に、東京五輪は駄目な日本を見事に象徴していると思う。

一人の日本人として、東京五輪が駄目な日本に一区切りつけるきっかけになることを祈るしかない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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恩を仇で返す貧民と自己責任論

それなりに経済的に余裕がある家庭に育ち、それなりの「教育」を受けた人なら誰でも不思議に思うだろうことがある。

それは、なぜ経済的に恵まれない層で自己責任論が支持をされているのか、ということだ。

経済的に恵まれていないならば、それだけ社会福祉制度の恩恵にあずかることになる機会が多いはずである。

それなのに、なんで貧困層では社会福祉の拡充を主張する左翼的意見の人気がなく、貧困なのは自分のせい、という自己責任論が支持されるのか?

「まとも」な家庭に育った人はそのように首をかしげることになる。

これは一体なぜなのだろうか?

なぜ貧困層で自己責任論が支持されるのかというと、貧困層では恩を仇で返すようなクズが大量にいるからだ。

普通の人が誰かから恩を受けたら、感謝をすることはもちろんのこと、できれば2割、3割増しで恩を返そうとするだろう。

ところが、貧困層のクズはそんなことは考えない。

逆に、これらのクズは恩を受けたら仇で返すのである。

たとえばカネを借りたら絶対に返さないし、その上さらにカネを借りようとする。

もちろん、カネを返す気など始めからない。

カネを返せといわれたら適当にウソをいってごまかせばいいし、面倒になったら音信不通にすればいいと思っている。

ものを借りたら、勝手にメルカリなどで転売する。

そして友達が勝手に持って行った、みたいなウソを平気でつく。

ウソを追求されたら音信不通である。

こんな連中なのだから万引きなんてなんとも思わないし、詐欺や窃盗などその他の軽犯罪も平気でする。

貧困層には、こんな連中がそれこそ山のようにいるのだ。

経済的に恵まれない階層で暮らしている人たちは、子供のころからそのようなことを身近に体験している。

なので、こんな自業自得のクズに情けをかけてもつけ込まれるだけ、というような考えになってくる。

ところが、そこそこまともな家庭で育ち、そこそこまともな教育を受けた人は、世の中にはそういう頭がおかしい人がいるということが理解できない。

普通に暮らしているとそういう頭のおかしい人と接することはまずないし、メディアも貧困層のリアルを伝えない。

テレビなどで窃盗や詐欺などの軽犯罪の容疑者が逮捕された、というような報道があっても、それは全く別の世界の話である。

だから、どうしても貧困というと、現代社会の気の毒な犠牲者、という見方になってしまう。

しかし、もしそのような貧困層のリアルを知らないままに善意だけで貧困層に関わるならば、貧困層のクズに関わっては絶対にいけない、という「教訓」を得るだけで終わるだろう。

難しいのは、このようなクズ的貧民が「自己責任」でそうなっているかというとそうとは言いきれないということだ。

普通の家庭に育ち、普通に大学を出て普通に就職することを期待されている人ならば、人からカネを借りて返さないとか、人のものを勝手に売って音信不通になるなんてことをするはずがない。

詐欺や窃盗、万引きなどの軽犯罪もしないだろうし、そもそもそのような自分が軽犯罪をするなど頭にも思い浮かばないだろう。

そして、どうして普通の人は頭がおかしくないのかというと、結局のところはカネがあるから、というシンプルな理由に帰着する。

これらの貧民系クズが貧民なのは、クズだから貧民というのももちろんあるが、貧民だからクズになりやすいというのも事実である。

しかし、普段から貧民系のクズが身近にいるような生活をしていると、実際に被害があるものだからどうしてもこのような視点を持つことが難しい。

だいたい、貧困層で頭がおかしくない人は生活が楽ではない中まじめに働いてきたわけで、なんで自業自得のクズにカネを流すのか?と考えるのは当たり前のことだろう。

日本の貧困は自己責任、という考え方の背景にはこのような事情がある。

理屈の上では、貧困問題は「自己責任」の問題ではない。

普通の人の頭がおかしくないのは、別に自分の行動に責任を持とうと一生懸命に頑張っているからではない。

しかし、現実問題として貧困問題を扱う場合、それはどうしても自己責任の問題としても考えざるを得ない。

貧困層には気の毒な人がいる一方、頭のおかしい人もたくさんいるし、気の毒な人が同時に頭のおかしい人であることも少なくない。

貧困問題を理解するにはこのように全く違った二つの視点を持つのが重要なのではないだろうか。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ある種の「成功者」に感じる思い上がりとつまらなさ

落語家の桂 春蝶がTwitterでつぎのような発言をして話題を呼んでいる。

春蝶は単に、自分が生きてきた勤勉と人情に基づく下町的な価値観を表明しているに過ぎないと思うし、春蝶は春蝶なりに前向きなメッセージを伝えようとしているのだと思う。

冷静に春蝶のツイートを読むと、春蝶のツイートにはそれなりに人情もあるとおもうのだ。

なので春蝶の叩かれ方はすこし気の毒だが、それはそうとして春蝶のツイートはいろいろ考えさせられるツイートではある。

僕が昔からものすごい不思議に思っていたことに、「文学関係者のいうことはなんでこんなにつまんないのだろう」というのがある。

ここでいう文学関係というのは、小説家からお笑い芸人にいたるまで言葉で世界観を打ち出すことで生計を立てている人々の全般をいうことにするが、ともかくメディアに出てくる文学関係者のいうことはつまらないことがおおい。

たとえば、僕のなかでつまらなさランキングの断トツナンバーワンはミステリー作家の高村薫だ。

高村のいうことは何から何までつまらない。

まあ、アサヒ岩波文化人の高村からなにか面白い考えが出てくるわけもないけれども、それにしても高村の退屈さはひどすぎる。

高村のいうことは単なる説教に過ぎず、聞いたところで得るものは何もない。

お笑い芸人でいうならば、松本人志がおもいうかぶ。

おもしろいことをいうのが芸人の仕事なはずなのに、芸人というのは話題が社会問題などになるととたんに話がつまらなくなる事が多い。

松本人志などは典型的だが、たとえば働いていない人の話になると「真面目に働け!」と説教して終わりになってしまうのだ。

いったい何でそんなつまらない結論しか出てこないのが不思議だし、自分がいっていることが絶望的につまらないということに全く気づいていないのも不思議である。

同じことをいうなら「実は後輩の芸人がこんな仕事をしてるのやけど、楽な割には結構稼げるみたい。あいつができるならホンマ、誰でもできる。そういう仕事からはじめてみたらええんちゃうかな?まあ、この番組のせいで業界に人が来すぎて後輩がクビになったらちょっとあれやけど」みたいな話でもすればいいのに、松本の口からはゴミみたいな説教しか出てこない。

なぜ、この手の下らない説教がメディアで垂れ流されるのか?

もちろん、昼の「情報番組」を見ていてもわかるように、つまらない発言には安定した需要があるというのもあるだろう。

しかし、僕が冒頭に紹介した春蝶のツイートを見て思ったのは、(春蝶が思い上がった人間だということを言いたいのではないが)成功というのはどうしても多かれ少なかれ思い上がりを招くのではないかということだ。

そして、その思い上がりが文学関係者の発言を退屈きわまりないものにしているのだとおもう。

人間は思い上がると、考えることが止まってしまう。

考えることが止まるということは、型にはまったことばかりいうようになるということなので、当然、話の内容は退屈なものになってしまう。

おなじような思い上がりと退屈さを僕は大前研一にも感じることがある。

もちろん、大前研一の話には興味深い事例がたくさん出てくるし、氏の議論には傾聴に値するものが少なくない。

しかし、僕は大前の、優秀な金持ちを幸せにするほど世界はよくなるという世界観になんともいえない退屈さを感じてしまう。

そして、大前が展開する議論の説得力というのは、大前がなにか重要な論点を捨象することから来るのではないかと思えて仕方がない。

さらにいえば、大前の話の背景にはやはりある種の思い上がりがあると思う。

18年度の税制改正で年収850万円以上は所得控除額が195万円で打ち切られることになり、年収850万円超のサラリーマンは実質的に増税されることが決まった。年収850万円ということは月額70万円くらい。社会保険や何やと取られて手元には40万円ちょっとしか残らない。それで家のローンを払ったり、子供の教育費を払ったりしたらカツカツという世帯はいくらでもある。生活レベルから見れば、税金を引っぺがされても仕方がないような富裕層ではない。

世界ではエンジニアの初任給が10万ドルになっている時代に、年収850万円超を「稼いでいる」と野蛮に線引きして、取れるところから取ろうとする根性が実にさもしい。近代国家として恥ずかしくないのかといいたい。

日本人エンジニアの給料が上がらない理由 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

僕からすると、持ち家のローンや子供の教育費に汲々とするような俗物的人生のほうがよほどさもしいと思うし、そういう人生を無条件に肯定するところに、大前の思い上がりを感じてしまう。

東京都知事選の前と後で、大前の本質はあまり変わっていないのではないだろうか。

大前には海外からよさそうなアイディアを輸入することでビジネスをするというアイディアの総合商社みたいなところがあるから変わりようがないともいえるけれども。

まあ、高村も大前も松本人志も、それぞれの出身階級のもつ思い上がりを並べているだけなのかもしれない。

もっというと、世間そのものが思い上がりを基に成り立っているといえる。

先ほどいったように思い上がるということは思考が停止しているということだから、世間を相手にしているマスメディアでながれる発言が退屈なものになるのは仕方がない。

しかし、社会問題でもなんでもいいが、問題にたいする対応が思い上がりに基づいたものである限り、問題は全く解決しないだろう。

なぜならば、思い上がりというのは思考が停止している状態だからだ。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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なぜ受験科目に古文があるのか

時々なんで受験科目に古文なんてあるのかというような意見を目にすることがあるが、難関大学の受験科目に古典のような科目があるのは合理的だと思う。

まず、勉強というのはなにかというと、基本的には選抜である。

だから、受験科目に古典があることについて考えるには、古典の知識が今の社会で役に立つかどうかという観点ではなく、古典という教科によってどのような人間を選抜しようとしているのかを考えなければならない。

ここで重要なのは、古典を学ぶということは日本の伝統や文化、歴史をリスペクトするということだということだ。

いまの日本人がいまの日本人であるのはこれまでの日本の伝統があるからで、今に伝わる古文を学ぶことは日本の伝統を直接学ぶことである。

つまり、古文が受験科目に入っているということは、日本の教育制度が日本の伝統を尊重して積極的に学ぶ生徒を評価しているということだ。

これはそれなりに合理的だと思う。

もし、日本の伝統なんてどうでもいいという人がどんどん東大や京大に入るようになったら日本は無茶苦茶になってしまう。

ある意味、古文というのは現代文よりも重要なのだ。

これからの時代は、民族の伝統や文化、歴史がというものがこれまで以上に重要になってくることが予想される。

古典の重要性はもっと認識されるべきだと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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羽生結弦のオリンピック連覇

正直言って驚いた。

何が驚いたかといって、羽生結弦のオリンピック連覇だ。

羽生がオリンピック三カ月前になって右足に大怪我をしたあと、強気の発言が伝わってくる度に、いくら何でも連覇は厳しいんではないか?と誰もが思ったと思う。

ところが、ショートプログラムは三カ月前に松葉杖をついていたのが信じられないような神懸かった滑りで、それまでの強気発言というのは単に客観的な事実だったのか、と始めてわかった。

そして、今日行われたフリーでは、ミスはあったもののやはり神懸かった滑りで、結局羽生は平昌でも金メダリストになったのだ。

僕は羽生が「絶対王者」といわれていることは知っていたが、いままで何で羽生が絶対王者といわれているのか知らなかった。

しかし、今回のオリンピックで他の選手の滑りとくらべて見ると、あらゆる面でスケーティングの精度がまるで違う。

ジャンプの正確さはもちろん、ステップなどもまったく無駄な動きがない。

他の選手だってもちろん急速にレベルを上げてきているが、まだ神懸かっているといえるレベルまでは到達していない。

これだけ神懸かり的な技術があれば、それはメンタルだって強くなる。

羽生を超えることができるのは、当分の間は羽生本人だけだろう。

まだ右足の負傷が治りきってもいないのにこれだけの滑りができるという事は驚異的だ。

それにしても、いまのフィギュアスケートの「絶対王者」が日本人というのはなんとなく不思議な感じがする。

 もちろん、これまでもオリンピックで金メダリストになった日本人はいるわけだし、フィギュアスケートというのは国力が影響する分野なのだろうから日本人がフィギュアスケートの「絶対王者」であっても不思議はないが、そうあることではないというのは確かだ。

東洋人、しかも敗戦国出身ということで日本人は何かと舐められがちだ。

今回の羽生のオリンピック連覇は、そういう点でも価値がある。

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ヨーロッパやアメリカでは選手は自分のためにプレーしているという妄想

オリンピックなどのビックイベントがあると、いつも、日本人選手は自分のためにプレーするべき!国のためにスポーツをしているのではない!みたいなことをいう連中が出てくる。

まるで、ヨーロッパやアメリカでは代表選手が自分のためだけにプレーしているような言い方だ。

しかし、オリンピックやサッカーワールドカップなどで国を代表して戦う選手で自分のためだけにスポーツをする選手なんて世界のどこを探しても存在しないだろう。

僕は英語を勉強していたとき(まあ今でも勉強しているけれども)、たまにiPlayerをつかってBBCのラジオ番組を聞いていた。

それで、いつのワールドカップだかが開催されたときも5Liveなどを聞いていたのだが、ワールドカップが終わった後ある番組で、街で代表選手をみたら何というか?と言うお題でリスナーからメッセージを募集しているのをたまたま聞いたことがある。

最優秀に採用されたメッセージは、「俺のサイン欲しい?(Do you want my autograph?)」だった。

ここまで残酷なことをいえるのはたぶん日本人とイギリス人くらいだろうな、と思いながら大笑いした。

そのワールドカップでのイングランド代表のくわしい成績は覚えていない。

英国人の事前の期待を大きく下回る成績だったことはたしかだ。

イングランド代表の期待外れに英国中が怒り狂っているのはインターネットを通しても伝わってきた。

ネットのコメント欄も、「彼ら、あの試合の前にはPKの練習をしてたのよ!笑っちゃうわ!」とか、そんな感じだった。

ある選手は、試合に負けた後で他の選手と談笑しているところをタブロイド紙に撮られ、「試合に負けたのにヘラヘラしやがって!」と猛烈にバッシングをされていた。

これが本当のヨーロッパだ。

ヨーロッパといっても、東欧の世界情勢に関心のある人でなければ聞いたこともないような国の話ではない。

間違いなくヨーロッパで一番最先端を走っている英国だってそうなのだ。

こないだBBCを見ていたら、前回のソチオリンピックで散々な成績でおわったスピードスケートのメダル候補が出ていた。

オリンピック後は脅迫などが殺到し、半年ほどは怯えながら暮らしていたという話だった。

スピードスケートなんてかなり地味な種目のように思えるが、そんな種目でも期待外れだったら脅迫が殺到するレベルなのだ。

期待に応えられなくても命の心配をするまではいかない日本はまだまともな方で、南アメリカの選手がワールドカップでヘマをやったら文字通り殺されかねない。

国民の方がそうなのだから、もちろん選手のメンタリティーだって同じようなものだ。

国を代表するというのはそういうことだ。

個人としてスポーツをしている代表選手なんているわけがない。

国を代表しているからオリンピックやワールドカップでの勝利は価値があるのであり、だからこそ負ければ理由がどんなものであっても全責任を負う。

期待外れに終わり、国民の皆様に申し訳ない、と思わないようなものならば勝利の栄光だってその程度のものにすぎない。

これは日本だけではなく、日本の外でも全く変わりがない。

それなのに代表選手に国の代表として大会に参加する必要はない!みたいなことをいう連中が後を絶たないのは何なのだろうか?

メシを食いながら国際放送を見てたらわかる程度のことも分からないような連中なのだろうが、うんざりするので本当になんとかしてほしい。

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