グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

専門職の待遇とインフラの質のトレードオフ

ネットをしていると、日本の専門職の賃金は国際的に見て低すぎる、というような意見を日常的に見かける。

本当だろうか?

海外の専門職の賃金が高いのは、社会のインフラにカネがかかっていないからだと思う。

もっといえば、インフラにコストはかかっているのだが実質的なコストをかけていない。

インフラの実質的なコストというのはなにかというと要するに人にかかるコストである。

インフラの質というのはインフラで働いている人間の質なので、インフラで働いている人間にコストをかけないとインフラの質は低下する。

よく、欧米ではインフラ(サービス業といわれるもの)の質が悪いと言われる。

なんで欧米のインフラの質が劣悪なのかというと、インフラで働く従業員にカネをかけていないからだ。

そして、欧米では、インフラで働く従業員にカネがあまり流れない一方、専門職のエリートにカネが流れるようになっている。

だから、欧米では専門職の賃金が高いのだ。

しかし、賃金が高いからといって海外の専門職が日本の専門職よりも豊かに生活できるかは自明ではない。

というのは、海外ではインフラの質が低いので日本と同じ質のインフラを利用しようとするととたんにコストが跳ね上がる。

医療もそう、住宅もそう、教育もそうで、エリートの高賃金を保障するためにあらゆる分野でぼったくりが行われる。

ぼったくり価格で提供されている少しでもマシなサービスを買うために自分も必死でぼったくるというサイクルが欧米社会で起こっていることだと思う。

一方、日本ではエリートの待遇というのはそれほどよくない。

日本でも貧困問題が話題になるようになって久しいが、そうはいっても何だかんだでエリートの取り分が少ない分、現場の人間に落ちるカネの量はおおい。

現場の人間に落ちるカネの量が多いと、当然のことながらインフラの質は向上する。

安全な地域に住むためにとんでもない額の家賃を払う、というようなことは、日本では基本的にしなくていい。

エリートの待遇とインフラの質というのはトレードオフである。

エリートの待遇を上げればインフラの質は下がるし、エリートの待遇を控えめにすればインフラの質は向上する。

海外を見てもわかるように、エリートの能力なんてたかがしれている。

エリートの好待遇とインフラの高品質を両立する方法はおそらくない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

ポケモンと古文漢文

今日食事のときにテレビをつけたら、「ポケモンの家あつまる?」という番組をやっていた。

どうも、ポケモンが大好きな「芸能人」がポケモンの話題で盛り上がるという番組らしい。

僕は正直、ポケモンの何がおもしろいのかまったく分からない。

ポケモンの話題をネットで読んでも(ポケモンGOのアフィ記事がネットで氾濫したのは記憶に新しいが)、あるいはこの「ポケモンの家あつまる?」をみてもポケモンの何がおもしろいのかぜんぜん分からないのだ。

もちろん僕は今までポケモンをやったことがないのではっきりしたことは分からないのだが、たぶん、僕が実際にポケモンをプレイしても何がおもしろいのかぜんぜん分からないとおもう。

しかし、僕からすると何がおもしろいのかまったくわからないポケモンに熱中している人はたくさんいる。

実際にそれだけでテレビ番組まで成立してしまうくらいなのだ。

僕はポケモンの番組を見ながら(それほど長い時間ではないが)、ついこの間ネットで読んだ古文漢文教育廃止論を思い出した。

古文漢文をエリートの選別に使う意義というのはいくらでも考えつきそうなものだが、古文漢文の教育を廃止するべきと考える人にとっては古文漢文というのはポケモンみたいなものなのかもしれない。

本当に人が何に興味を見いだすかは千差万別である。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

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年収一千万のサラリーマンが増税されるのは年収一千万のサラリーマンは給料をもらいすぎている人が多いから

このところの経済政策の左傾化のトレンドにしたがって、年収一千万くらいのサラリーマンにかかる所得税増税されるらしい。

それにともなって、ネットでは、住宅ローンが!子供の学費が!一千万くらいではぜんぜん裕福な暮らしができないのに、取れるところから取るなんて許せない!このように「頑張った人」を罰するような社会制度があるから日本は一向によくならない!これでは「優秀な人」はどんどん海外に出て行ってしまうので日本は衰退するばかりだ!というような声が聞かれる。

僕は世帯収入で年間一千万以上ある世帯がさらに税金を取られるのは仕方がないと思う。

なぜなら、すこし所得税があがったくらいで生活に支障をきたすような人間は、そもそも年収一千万の賃金をとる資格がないからだ。

このように、生活設計が!とかいっているような連中を見ると、僕はなんで生活をダウンサイジングできないんだろう、とおもう。

カネを使う生活にもカネを使わない生活にもそれぞれよいところがあるわけで、収入が減ったらそれにあわせて生活をダウンサイジングすればいいだけの話だ。

カネがないならカネがないで楽しく暮らせる方法を考えるべきだし、もし収入がへったらとたんに破綻するような「生活設計」をしているとしたらそれこそ無能である。

そして、家庭生活で無能な人間はビジネスにおいても無能であるに決まっているのだ。

もちろん、人間というのは慣習の生き物だというのはわかるのだが、子供の教育とか住宅ローンにカネがかかるから増税するなという意見はクリエイティビティーゼロである。

まともな人ならば、なんでこんな下らないものにカネがかかるのか疑問に思うのが普通なわけで、そういうクリエイティビティーゼロの意見を垂れ流す連中に年収一千万をとる価値があるとは思わない。

収入をどう使っているか、というのは人がどれほど実力があるかの重要な目安である。

いまの平均的な年収一千万以上の世帯の収入はいったいどのように使われているのだろうか?

僕は武蔵小杉の「タワマン」を買ってしまうような人達はいくら増税されても仕方がないと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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七年という歳月

2011年の3月11日午後3時に起こった東日本大震災から七年になる。

七年というと相当な歳月で、小学校六年の子供は大学生なり社会人になり(僕のように引きこもりをしている人もいるだろうが)、新入社員は30才くらいの主力になり、30代前半だった者はいま40くらいになっている。

結構な歳月だ。

ぼくも一応、七年前は30代の前半だった。

いまからすれば30代前半というと相当若いと感じるが、この30代の七年間を僕はどのように使ったのだろうか?

自分の健康が許す範囲内でできることを細々としてきた、というのが実態だったと思う。

健康状態という制限がある中ではある程度有意義に時間を使えたのではないか。

ここ数年、僕は生まれて以来初めて何か意味のあるまとまった事ができるようになった。

このブログなどもそのひとつで、今のようにブログを運営することは以前には絶対にできなかったとおもう。

これまでのように、僕はこの七年間ほとんど考えることしかしていないのだが、それ以前は考えることすらまともにできなかった。

この七年で健康状態は格段によくなった。

もちろん問題はまだあるが、もし昔からこれくらいの健康度があったら人生楽だったんだろうな、と思うくらいよくなった。

しかし正直、健康状態が改善する一方、意識が健康状態にぜんぜん追いついていないと感じる。

いま自分がやっていることが自分の限界とはとうてい思えない。

まあ、実際の限界は自分ができることが示すので、それが実際の限界なのだろうが。

この七年を考えることにつかったことで、個人的には大きな発見がいくつかあった。

世界はなぜこうあらざるを得ないか?というようなことを小学生の頃から考えていた僕にとってはものすごい成果があった七年間だと思う。

その一方で、いまのように健康が改善してみると、どうせ考えながら七年間を過ごすのならばバイトでもしながら考えたほうがよかったんじゃないの?とも思うが、まあ、健康状態が改善して初めてそう思えるようになるのだろう。

健康状態が著しく改善したことがこの七年での最大の成果かもしれない。

後悔はいくらでもある。

しかし、東日本大震災でなにが起こったのかを考えると、生きているだけで大成功なのだ。

東日本大震災のあと、僕もこの震災を契機として生き方を変えないといけないと思った一人だった。

しかし、僕はただ生き方を変えようと思っただけで行動の方は何も変わらなかったから、僕の生き方は以前と何も変わらなかった。

これからは現状に感謝をし、手持ちのリソースでできることをやっていきたい。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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部活と終身雇用は似ている

最近、教師の過労問題に関連して部活動をどうすればいいかという議論が聞かれるようになったが、そもそもにして部活動というのは日本社会にとってあったほうがいいのか、それともないほうがいいのかを議論する時期に来ていると思う。

というのは、もちろん部活というのは今の日本社会の結果だが、その一方で部活のあり方は日本社会に影響を与えているからだ。

そして、正直にいうと僕は今の部活のあり方は今の時代に合わないところがあるのではないか、と疑っている。

雇用の話だと終身雇用というのはすっかり時代に合わなくなっているという認識が一般的になっているが、日本の部活動も終身雇用と同じようなところがある。

というか、部活動と終身雇用というのは二つで1セットで、終身雇用がなくなったら今の部活動のあり方も変わってくるのではないかとおもう。

考えてみると、部活動と終身雇用はいろいろ似ている部分がある。

入ってから3年で定年というのはスポーツというものの性質からくるものだからいいとして、部活というのは移動できない。

この学校の何々部にあわないから6月から他の学校の何々部に加入します!というような話は聞いたことがない。

ふつう、部活をやめたら競技のほうも終わりである。

他の競技に興味が出てきたからといって組織をかわる事もないし、兼業だって無理である。

なんとなくリストラされたら行き場がないみたいな終身雇用中心の雇用慣行とにているなあと思ってしまう。

なんか、日本の会社と部活はにている。

会社も部活も、日本では絆というものが重視される。

絆が強ければ強いほど組織が強くなる、という考えは一般的に見られるもので、実際に絆が強くて強い組織というものはいくらでもあるだろう。

しかし、技術は持ち運べても絆は持ち運べない。

あまり絆を重視しすぎると、人材を効率的に活用することが難しくなる。

アメリカの社会には功罪あるが、とりあえずアメリカ社会についてよくいわれるのは、「人材をブロックのように組み合わせて組織を作るのがうまい」というのがある。

組織の目的が決まれば、あとは必要な人材をあつめてくるだけ。

基本的には絆よりも目的重視である。

もちろん、僕は欧米のやり方が日本のやり方と比べて何から何まですぐれているというつもりはない。

外資というのは、場合によっては目的を達成するためにかなり悪質なことをすることがあるし、アメリカのIT企業がやっているのとをみると正直、「なんだ、この程度か」と思う。

しかし、日本を始めとする他の国は「この程度」のこともできていないというのも事実である。

日本は目的が絆よりも後に来ることが多いと思う。

これまでの日本は、絆を重視しすぎて目的意識とか、効率性をないがしろにしてきたのではないか?

この絆重視のために、今の日本人はかえって多大なストレスを抱えて生きることになっている。

そして、部活というのはこの絆重視の傾向に大きくかかわっているような気がする。

部活をはじめとする日本の組織は、これからは絆重視ではなく目的重視にするべきだし、実際にそうなっていくだろう。

今の組織のあり方はインターネットもスマートフォンもない時代に決まったもので、これらの通信技術とともに成長した世代にとっては現実的ではない。

しかも、これは古来の日本の伝統であるわけでもなく、せいぜいここ百数十年ほどの期間に西洋の強い影響の下で成立した流行り物である。

流行り物であれば、それは流行がおわればいつのまにか別のものに変化しているだろう。

僕はこれから日本の組織は時代に合わせて進化・適応すると思う。

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世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

年齢について

最近テレビをみるようになったという話は以前にもしたけれども、テレビを見るようになってまず思ったのは若者がやったら出てくるなあ、ということだ。

まあ、僕も生まれて40年くらい生きているわけだから、人口動態を考えに入れなければ世の中の半分は僕よりも年が下なわけで、テレビで若者が目立つのは当たり前のことといえる。

これは少しわかりにくい表現かもしれないが、僕は今まで子供だったり若者だったことがない。

もちろん、僕も10代20代だったことはあるけれども、ただ年齢が10代20代だったから形式的に子供だったり若者ということになっていただけで、実質的には子供でも若者でもなかったと思う。

かといって、大人として生きていたわけではもちろんない。

思うに、昔から僕は大人でもなければ子供でもないような状態で生きてきたし、大人の視点とも子供の視点とも異なる観点から物事を見てきたと思う。

まあ、病人の人生というものはそのようなものであらざるを得ない所があるが、病気による制約が軽くなって以前にはできなかったことができるようになると(あくまでも以前の僕にはできなかった、という意味で健常者とは程遠いが)少し戸惑いを感じるのも事実だ。

子供のころから僕は視覚にトラブルがあり、その他の身体的な不調も合わせてこれは僕の日常に強烈な制限を加えていた。

これらの制限が軽くなると、もうそれだけで日常が希望にあふれた生活になる。

以前できなかったことができるというのはすばらしいことで、毎日を浮かれながら過ごしている。

だから、ある意味、僕は気分的には若者みたいになっているのだが、では自分が何歳になっているかというと40歳くらいになっている。

また、これがややこしいことに、僕は体重が学生時代と1kgも違いがないので雰囲気が学生時代とそれほど変わっていない(まあ、中身が変わっていないというのもあるが)。

いろいろあっておかしな状況になっているなあ、という感じがするが、考えてみたら日本の全人口を考えたら年齢の平均は僕ぐらいになるので年齢なんてどうでもいいのかもしれない。

僕が20代をみて「若いなあ!」とびっくりするように、80歳の人からすると40歳というのは相当若く感じるはずだ。

僕はこれまで病苦に耐えるのがやっとという時期が長かったので、病苦がなくなったらどうするか、ということについていままで考えてこなかった。

それで、病苦がそうとう軽くなっていろいろなことができるようになっても、これまで通りに惰性で生きている。

80歳の視点からすると、今の僕の生活はもったいないの極みだと思う。

もし僕が今後40年生きるとすると、40年後の僕は今の僕は何をするべき、と考えるだろうか?

病苦が引いて(少しはあるが)時間ができたので、これからの時間を何に使うかまともに考えないといけない。

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世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

アウトプットアウトプットと繰り返すブロガーのブログは案外続かない

ブログをやっていると、意識が高くなりすぎたのか、まるでうわごとのようにアウトプットアウトプットと繰り返しているブロガーをよくみかける。

このようなブロガーはあまり続かない。

詳しく統計を取って確認したわけでもないが(統計を取ったら面白いだろうが)なんとなくそういう感じがするし、統計をとってもそういう結果になると思う。

なんでそういうブロガーのブログは続かないのかというと、そういうブロガーは「成長」であるとかカネ(「ブログは資産」というやつである)など何でもいいが、ブログからなんらかの具体的な利益を得ることを目的としてブログをやっている。

ということは、ブログをやる以上に成長できるようなことを始めたり、ブログ以上に儲かることがあればブログを続ける理由がなくなってしまう。

はっきりいってブログをやったところでたいして人間として成長するわけではないし、ブログを書くために費やすコストを考えれば得られる収入など完全に誤差の範囲である。

もちろん、なんであれ物事を長く続けるというのは意義があることだ。

長く続けていさえすれば人それぞれ、それなりに進歩があるのはブログも例外ではない。

しかし、ブログを続けたとしてもそれはブロガーとして成長するだけのことで、それ以外の点でなにか成長があるかというとはっきりいって疑問である。

僕も、このブログを書くことが生活の一部になって結構なるが、ブログを書くこと以外になにか進歩があったかというとあまりそういう気がしない。

たしかに(意識高い系の用語を使えば)成果物がだんだんと形になっていくプロセスを経験することは、なにをするにしても役に立つかもしれない。

僕もブログを始めたときはこのブログがどのようなブログになるのか全然わからなかった。

だいたい150記事くらい書いて、このブログがどういうブログなのかが決まってきたような気がする。

しかし、これだって、試行錯誤なしにいきなり完成度が高いものができてしまうと、それ以上やることがなくなってしまうだろう。

成長を目的としてブログをやるというのは、どう考えても見当違いなことのように思えてならない。

もしブログをかくほど成長するというのなら、世の中で一流と評価されている人はみんなブログを書きまくっているはずだ。

もちろんブログを書いている一流の人はいるだろうが、専門分野での評価となるとたいてい競争からドロップアウトした人、つまり「プロ」としての成長はたいしたことがないと見なされていることが多いだろう(もっとも、人間としては「一流」の人よりもそういう人の方が興味深いことも少なくないのだが)。

野心だけは満々の意識高い系ブロガーのブログなど続くはずがないのだ。

ブログなどを書く以上に成長につながることはいくらでもあるわけで、本当に成長したいのならばブログなどやっている暇はないだろう。

ブログというのは仕方なくやるもの、という認識を僕は持っている。

世俗的な利益を考えれば、ブログなどやっても損しかない。

特に、僕のような立場の人間ならば、どう考えてもブログなんかしている場合ではない。

それでも僕がブログをやっているのは、書き残しておくべきと思うことがあるからだ。

それは書くことによって自分の考えを世の中に公表するというのもあるし、考えを文章にすることで自分の考えがなんなのかをより明確に確認したい、というのもある。

僕は引きこもりをしているわけだが、引きこもり的に考えると、いつもなにか世の中に向かっていいたいことがあるというのはかなり幸運な事かもしれない。

僕のような立場の人間ならば、(それが最善の行動であるかはともかくとして)ブログを継続して書くことには一定の利益があると思う。

ゼロと1ではないが、なにもしないで引きこもるのとブログをかきながら引きこもるのでは精神的に大変な違いがある。

たぶん、ブログというのはいろいろな意味で普通でない生き方をせざるを得ない人が書くためのものなのだろう。

普通の生き方をしている人にとっては、ブログを書くということは利益より不利益のほうが多いのではないかと疑っているのは僕だけだろうか?

だから、意識が高いブログがそのうちフェードアウトするというのは悪いことではない。

アウトプットというのはブログを書く以外にいくらでもあるわけで、ブログをかくよりも成長につながるアウトプットがあるならばそちらのほうを続けた方がいいに決まっている。

まあ、週に一回くらいブログを書きたくなる事がないのか個人的には不思議に思わないでもないのだが、ブログをやるのは素晴らしい!で終わるのではまだまだ甘いとおもう。

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