グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

デバイスと健康

僕が今使っているSIMフリースマートフォンはいろいろ動作が不安定なのだが、症状の一つとして充電スタンドにおいても充電が途中で止まってしまうということがある。

しばらくおいて充電ランプが消えているから100パーセント充電されているかな、と思ってみてみたら、100パーセントどころかなぜか電池の残量がゼロになっていて起動しなくなっていたりするから油断できない。

ここ最近は確実に充電できているのだが、調子がわるいと何度充電しても全く充電されないことがある。このような面倒を避けるために日本製のスマートフォンを買ったというのに腹がたつ。

確実に充電がされない電話機なんて完全に欠陥品だか、しかしスマートフォンが必要な状況はあるわけで、ここ最近は充電されたスマートフォンは必要なときだけ使うようにしてあとはiPad miniを使うようにしていた。

ところが、iOSフリック入力がとんでもなく使いにくいのだ。

僕が使っているFのスマートフォンFEPATOKをつかっていて、フリック入力画面もATOKのものである。ATOKは変換効率はたいしたことがないがフリック入力はつかいやすい。今年の3月までに割とブログの更新が多かったのはATOKが使いやすかったからと言うのが大きい。

iPadを使うようになってブログの更新はめっきり減った。書きたいことが減ったわけではない。書きたいことはあるのにどうもやる気がいまいち出てこなかった。

はじめはまあ、1日に何万文字のエントリーを書くわけでもないし、フリック入力が少しくらいやりにくくても入力は確実にできるのだからたいした問題はないだろうと思っていた。しかし、結果を見ると、フリック入力のやりやすさはブログの書きやすさに直接的な影響があった。

ブログをスマートフォンで書くようにしたら、これまで通りにブログが書けるようになった。いまはまた、以前のようにスマートフォンでブログを書いている。

つくづく、デバイスというのは重要だと思う。

それで思うのは、人間にとって最も基本的なデバイスはいうまでもなく体である。健康に問題があって体というデバイスが使いにくくなると、物事に取り組む意欲もがっくりと低下してしまう。

iOSの使いにくいフリック入力をつかってもブログが書けるように、理屈の上では健康に多少の問題があってもできることにそれほどの影響はないように思える。しかし実際には、健康上のトラブルは些細にみえるようなものでもパフォーマンスに大きく影響する。

ここ最近本当に考えてしまうのは、人間のパフォーマンスというのはかなりの部分というか、ほとんどの部分が健康状態で決まるのではないかということだ。

健康だとどんなことにでも意欲的に取り組めるし、意欲的に取り組んだらどんどん成果が出るから精神的もますます健康になる。一方、不健康だと何をする意欲もわかないし、パフォーマンスが低下した状態で物事に取り組まなければいけないのでなにかとうまくいかず、精神的にも身体的にもどんどん不健康になっていく。

なにか問題を抱えている人が問題を解決するには健康状態を改善するしかない、というケースはかなりあるのではないだろうか。僕の場合も、健康状態がよくなったらそれまでどうにもならなかった多くの問題が勝手に解決してしまった。健康が問題のところを健康の問題を解決せずになんとかするというのは、現実的にはなかなか難しいものがあると思う。

人間には頭が体をコントロールしているという思い込みがある。なので、誰かがどのような人間であるかを判断する場合、健康状態ではなく心がけみたいなものばかり注目しがちだ。ところが、心がけの悪さというのは単に健康状態に問題があることの反映であることが少なくない。

いろいろな意味で頭を中心とする物事の見方は現実を反映していないと思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

朝日新聞と大政翼賛2.0

なんとなくだが、日本軍と財務省というのは少しにている所があると思う。なにがにているかというと、どうも政策の方向性を決める議論が現実というよりはある種のドグマによって決まっている感じがする。

たとえば、財政健全化にかんする財務省のスタンスを見てみると、資本主義体制においてそもそも「財政均衡」は可能なのだろうか、という問題意識があるようには見られない。

全世界を見ても均衡財政を実現している国は一国もない。日本もアメリカもフランスも、財政の「不健全性」は似たようなものだろう。こういうとドイツを見ろ!という声が聞こえてきそうだが、ドイツの財政の健全性は全くの偽物である。

財政均衡を実現している国がないのは当たり前の話で、資本主義は借金をすることにより成り立っている。国を一つの巨大な企業と見た場合、借金しないとまともに運営できない。どんな優良企業でも巨額の借金があるのと同じことだ。

財務省の経済政策は手段が目的化しているという印象を受ける。たしかに建前というのは大事だが、建前というのは所詮建前にすぎない。現実を認識した上で建前を打ち出すべきなのに、手段が目的化しているのは日本軍と同じような雰囲気を感じる。

「戦争に勝てるなら日本が滅んでもいい」

「財政が健全化されるなら日本が滅んでもいい」

とか、そういう感じがする。

さて、日本軍というと大政翼賛、大政翼賛というと朝日新聞だ。「大東亜戦争」における朝日の大政翼賛と今の朝日の財務省翼賛というのはなんか似ていると思うのは僕だけだろうか?

大日本帝国の将校も財務官僚も基本的には同じようなものなのに(だからシビリアンコントロールが重要なのだが)、朝日新聞はこれらの官僚の言うことをまるで絶対的な真理であるかのように取り上げる。朝日新聞の翼賛体質は戦前戦後とあまり変わっていないと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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文武両道バカとシビリアンコントロール

文武両道というと、ふつう、学業にもスポーツにもすぐれたパフォーマンスを発揮する優秀な学生、というイメージがある。しかし、僕は文武両道と聞けばどうしても、指導者の言うことならばどんな愚劣なことでも忠実に従い、愚劣きわまる学校行事に熱中するガリ勉タイプのバカを想像してしまう。僕が卒業した「トップ高」がそんな感じだったからだ。

以前、電車の中で防衛大学校の生徒と乗り合わせたことがある。防衛大学校の生徒は外出する際は制服で、たまにテレビでうつる式典でみられる制服と同じものだったので間違いないと思う。それで、ものすごい印象に残っているのだが、その時に乗り合わせた生徒の雰囲気や振る舞い(笑い方とか)は僕が「トップ高」でうんざりしていた文武両道バカとものすごい似ていたのである。

BBCで三佐クラスの幹部自衛官が英語で話しているのをみたことがあった。はっきりいって教養とか知性を全く感じない英語だった。英語というのは恐ろしくて、話している人間の知性や品格が直接的に反映される。こんな英語がリアルタイムで全世界に放送されているのかと思うと恥ずかしさと強い憤りを覚えた。戦争にあんな惨めな負け方をしたのに全然懲りてないと思った。

先ほど三等空佐が参議院議員とトラブルを起こしたという話を読んで、僕はこれらの文武両道バカにかんすることを一気に思い出した。

話題になった三等空佐は、本当に文武両道バカの見本のような人物だと思う。まず、今回の騒動は、自衛隊の幹部職員ってどのような人がやっているんだろう?ということを考える上では有意義だが(ちなみに、自衛隊は結構オタクが多いらしいのだが)、普通に考えて自衛隊に利益になるものではない。しかも、冷静に情況を判断すべき幹部自衛官なのに戦略も何もなく、後先をまったく考えずに衝動的にトラブルをおこしている。こんなことで有事になったらまともに対応できるのだろうかと不安になるような出来事だ。

おそろしいのは、三等空佐が自衛隊の幹部でありながら、日報問題の深刻さを全く認識していないことである。もし日報がなくなったとしたら、これは戦後はじめて「戦闘地域」に派遣された自衛隊の活動を記録した膨大な量の基本資料がなくなってしまったということだ。自衛隊の歴史が後世に正しく伝わらなくても三等空佐は平気なのだろうか?まあ、今回は結局は見つかったからよかったものの、自衛隊の保身により失われた重要資料は少なくないのではないかと不安になる。一方もし自衛隊が日報の所在を知っていながら政治家に黙っていたとしたら、これは議会制民主主義に対する反逆にほかならない。

しかし、三等空佐は、幹部でありながら日報問題の深刻さを全く認識することなく、左翼が自衛隊の邪魔をしているのが気にくわないというような全く幼稚な見解しか持っていない。そして、他の幹部自衛官が日報問題の重要性をはっきり認識しているかというと、認識している人はそれほど多くないと思う。

三等空佐は国会議員の権威も理解していない。

このほどセクハラ問題で財務省の福田事務次官が辞任をした。僕がものすごい驚いたのは、まずセクハラの中身以上に(セクハラの中身も、例の「このハゲー!」に匹敵すると思うが)、この問題が明らかになったあとの前次官の対応だ。「夜のお店で言葉遊びを楽しんだことがある」「自分の声を聞いたことがないので録音の声が自分のものか分からない」など、なんでこんなことを言うのかと不思議に思ったら、なんと退職金を満額もらうために裁判を起こし、録音の信憑性を争おうとしてそんなことをいっていたのである。

「夜のお店で言葉遊びを楽しんだことがある」

「自分の声を聞いたことがないので録音の声が自分のものか分からない」

こんな恥ずかしいことをテレビカメラの前で言うくらいなら、僕ならばいささかの躊躇無く退職金を放棄する方を選ぶだろう。こんな恥ずかしいことは僕には絶対にできない。退職金ゼロの方がまだましだ。(ちなみに福田前次官の退職金は約5,000万円という。以前から比べると数千万減っているが、東電の勝俣会長の退職金もその程度なのでこれくらいが正常なのかもしれない)。

自衛隊とか財務省のような組織には、文武両道バカが集まりやすい。こういう文武両道バカは声がでかいから、少しいるだけで組織全体の雰囲気が劣化する。先ほどの「大東亜戦争」で日本を滅ぼしたのも田舎出身の文武両道バカだった。

文武両道バカは言われたことは真面目にこなすが、自分の頭でものを考える力はなく、傾向として無教養で幼稚で保身に走りやすい(文武両道バカであること自体が保身の結果である)。そして、自衛隊とか財務省のような組織は往々にして、組織全体が文武両道バカになりがちなのだ。

さて、ここで文武両道バカとはまったく正反対の存在であることが期待されている人たちがいる。言うまでもない、それは政治家だ。文武両道バカとは違い、政治家は広い見識に基づいて世間の常識を反映した判断を行うことが期待される。

さらに重要なのは政治家というのは官僚とは違って保身が難しいことだ。もちろん様々な利益誘導による権力の維持は政治の世界には欠かせないが、それでも政治家は保身を第一とする人間が志す職業ではない。なので政治家は官僚よりもより私利私欲から離れた判断を行うことが期待されるのである。

自衛隊財務省などの組織に対するシビリアンコントロールが絶対的に重要な理由はここにある。文武両道バカがまともな国政上の判断を行うのは不可能である。国政上の判断は、有権者が信任した国会議員が行うべきものなのだ。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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三等空佐は思い上がるな

統合幕僚監部所属の三等空佐が国会付近をランニング中、日報問題を追求している民主党小西洋之参議院議員に「お前は国民の敵だ」とか、「お前の活動は気持ち悪い」などと罵声を浴びせる出来事があった。

とんでもないことだ。

https://dot.asahi.com/wa/2018042100018.html

まず、この三等空佐は国会議員であるということがどういうことなのかまったく分かっていない。

基本的に、ごく一部の例外を除いて、有権者はたいして政治に興味を持っているわけではない。国政報告会を開いたら一人しか来なかったなんてざらなのだ。もちろん、一人しか来なかったからといって国政報告会が中止になるわけでもない。その一人に対して、30分なり一時間なりひたすら話し続けるのか国会議員なのである。

そうして有権者の無関心の中政策を訴えても、国会議員とでいられるのは参議院議員でも6年、解散総選挙がある衆議院議員だとせいぜい3年程度である。「働き方改革」など雇用のあり方が問われる昨今だが、国会議員の雇用は非正規そのものである。

選挙になれば当然、当選する保証はない。もちろん地盤が磐石で実質的に対立候補が存在しない場合もあるが、選挙の強さが拮抗している場合も多い。選挙の強さが拮抗している場合、選挙の結果は「風」次第になる。普通なら勝つはずの選挙のはずが強烈な逆風の前になすすべもなく落選する、なんて日常茶飯事だ。

かといって、普段からの政治活動に手を抜くわけにもいかない。忘れてはいけないのは、国会議員が政治活動をしている間に対立候補も政治活動をしているということである。国会議員が政治活動をしている間、対立候補も必死で政治活動をしているのだ。今だって、小西議員の地元では自民党対立候補が地元をあちこち歩き回っているはずだ。

 

落選した政治家は悲惨である。一期で再選できるならまだいい。これが政治生命を失った場合、話を聞いていても気の毒な状態になる。人生塞翁が馬、とはよく聞く言葉だが、政治家に関しては政治生命を失ったことでかえって大きな成功をつかむ、という話はまったく聞かない。

国会議員というのはみな、国会議員であることに伴う大きなリスクを取っているわけで、これは小西議員も例外ではない。一方、三等空佐はいったいどれほどのリスクを負っているのだろうか。幹部自衛隊員の取っているリスクと国会議員の取っているリスクを比較するのはナンセンスだが、それでも幹部自衛隊員が国会議員より比較にならないリスクを取っているとは僕は思わない。

どんなに下らなく見えようが、国会議員であるというのは大変なことなのだ。そしてその大変さは国会議員である限り何十年も続く。明らかに、国会議員は普通の人ではない。幹部自衛官が楽な仕事とは僕は思わないが、三等空佐は国会議員であるということがどのようなことなのかまったく分かっていない。

たとえば三等空佐が政治的行為をしたいならば退官して選挙にでも打って出るのが筋だが、三等空佐にそれができるか?多分無理だろう。小西議員が国会議員なのは国民が選んだからで、この意味で小西議員は選ばれた人だが、三等空佐が三等空佐なのは国民が選んだからではない。国会議員の権威を舐めてはいけない。

 

今話題になっている日報問題は、世間が考えているよりも遥かに深刻な問題であると僕は考える。

まず、日報が本当に無くなってしまったとしたら、それは戦後初めて「戦闘地域」に自衛隊が派遣されて何が起こったのかを検証する基本資料がプリントアウトにして16,000ページ分も失われるということだ。このような重要な資料がどこにあるかわからなくなっていたことが恐ろしいし、そのことについて何とも思わない三等空佐のような人物が統合幕僚監部で大手を振って歩いていることが信じられない。

一方、もし自衛隊が日報のありかを初めから明確に認識していながらその存在を政治家に隠していた場合、政治家は正しい情報に基づいた政治判断を行うことができない。三等空佐はそのような政治判断は自衛隊が行えばいいとでも考えているのだろうが、もしこのような考えが自衛隊で広まっているとしたら恐ろしい。

軍人が政治判断を行えば悲惨なことになるのは「大東亜戦争」が証明している。今回の三等空佐の振る舞いは幹部自衛官たる者の頭の程度が軍人として認識すべき最も重要なことを理解できない程度であることを示唆する。まあ、だから軍人に政治判断をまかせるのは無理なのであるが、正確な理屈を理解するのは無理でも、せめて政治判断は政治家に任せることになっているということだけは理解してもらわないと困る。

もちろん、日報を野党政治家に提出しても反改憲運動に使われるだけ、というのはわからないでもない。しかし、改憲をすべきかどうかの政治判断を下すのは究極的には一人ひとりの有権者自衛隊ではない。その判断材料を有権者から信任された国会議員に開示しないのは、(いかに野党議員がくだらない連中であったとしても)やはり間違っているし、そもそも世間で改憲に対する懸念があるのは自衛隊に三等空佐みたいな連中がいるからなのだ。

 

有権者は有象無象の素人ではない。有権者の大半はそれぞれの専門分野を持ったプロである。農家なら農業のプロ、流通なら流通のプロ、土木作業員なら土木のプロ、自動車なら自動車のプロ、精密機械なら精密機械のプロ、プログラマーなら情報処理のプロとして、それぞれの職業生活で得た経験から政治判断を行なっているのだ。

今回の三等空佐の振る舞いは究極的には有権者の政治判断能力を愚弄するもので、断じて許されない。三等空佐は猛省をして、どうして自分が批判されたのかを考えないといけない。

電子出版した本

 

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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なつかしのブルーベリーガム

すこし前のことになる。

 

数十年ぶりにガムを噛みたくなって売り場のガム売り場にいってみたのだが、なんだか昔ながらの板ガムがぜんぜん売っていない。どれも粒タイプになってしまっていて、いかにも健康に配慮したかんじのものしかなくなっている。

仕方がないから粒タイプのものを買って噛んでみたが、まあ味はともかくとして包み紙が小さいのが気にくわない。僕は基本的にガムは何個かまとめて噛むのだが、粒タイプのものは包み紙が小さすぎて噛んだ後のガムを処分するのが面倒である。

結局、一度買っただけでガムのことは忘れてしまった。

 

ところが、先日100円均一の店の菓子売り場を見て回っていたら、ロッテのブルーベリーガムが売っていた。

じつは前回ガムを買った時に買おうとしたのがこのブルーベリーガムだった。板ガムというと真っ先に思い浮かぶのがブルーベリーガムなのである。

定番中の定番だからまさか生産中止になっているだろうとは思わなかったが、とりあえずホッとした。僕にとっては板ガムといったらブルーベリーガムなので、ブルーベリーガムがなくなるというのは板ガムがこの世から消えて無くなるようなものだからだ。

 

会計を済ませ、さっそくガムを取り出してみると赤紫色のガムからしてすでに懐かしい。味の方もほんとうに30年前と同じくらい前に食べたものとまったく同じである。

考えてみたら、僕はブルーベリーガムをもう30年以上噛んでいなかった。中学以降ブルーベリーガムを買った記憶はないので、今回ブルーベリーガムを噛んだのははほとんど30年ぶりくらいなのである。

もちろん、30年まえのブルーベリーガムを買って味を確かめるのは不可能なので30年前ほど前の僕が噛んだブルーベリーガムと今の僕が入手できるブルーベリーガムとでどれくらい違いがあるのかはわからない。

確かなのは、ブルーベリーガムは昔も今もまさしくブルーベリーガムの味がするということだ。

 

僕が小学生だった30年ほど前、ガムはもっと身近な存在だったと思う。まあ、9枚100円で味だけを楽しむガムというのはもしかしてちょっとした贅沢品なのかもしれないが、ガムを噛む習慣がだんだんなくなりかけているとしたら残念なことだ。

しかしながら、こんなことを書いている僕だって、ガムをかむのはほとんど30年ぶりくらいだった。僕みたいに長年ガムを噛んでいない人は、ブルーベリーガムをみかけたら試しに買ってみてほしい。

なにか思いがけない発見があるはずだ。

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意味のある英会話中心の英語学習は可能か?

英語の勉強を英会話から始めるのは最悪だ。

 

なぜかというと、英語に限らずあらゆる語学は究極的には単語と文法だからである。

もちろん、単語と文法といってもその知識は実際に英語を使うために役に立つものでなければならないので、実際に英語をつかいながらでないとなかなかみにつかないのだが、英語というのは結局は単語と文法である。

日常的に出てくる単語をほとんど知っていて、英語で意味を表すには単語をどのように組み合わせればいいかが分かっていれば、英語はつかえるのだ。

 

英会話が最悪なのは、英会話が必要な単語をおぼえるのにも、必要な文法事項を学習するためにもまるで役に立たないからである。

 

まず単語だが、英会話で一度や二度、これは英語では何と言います、といってオウムのようにフレーズをくりかえしておぼえられるならば苦労はない。

単語というのは、おぼえる必要がある単語のリストを作成し、そのリストをおぼえては忘れ、おぼえては忘れるというサイクルを繰り返してやっと覚えられるものだ。

まあ、単語というのはだれでも、集中して覚えれば1万単語くらいたやすく覚えてしまうものなのだが、反対に集中しないと全く記憶に残らない。

ようは、英会話というのは英単語をおぼえるには効率が悪すぎるのだ。

 

文法に至っては、文法は英語を勉強するのに必要ない、という考えがあるから英会話なわけで、全く勉強にならない。

文法なんて一つ一つの文法事項を考えれば理屈で説明すればせいぜい2、3分でわかることなのに、文法事項を理屈抜きで身につけようなんて正気ではない。

 

英語というのは、必要な単語と文法を知っていればわかるし、知らなければ分からない。

自分が何を話しているのかもよく分かっていないのに教師がいうフレーズをオウムみたいに繰り返しても英語ができるようになるわけがない。

 

逆に言えば、英会話で英語を勉強するのがだめなのは単語と文法をやらないからだから、単語と文法をたたきこむような英会話だと案外学習効果があるかもしれない。

まあ、そのようなものを英会話というかはともかくとして、僕がイメージするのはDUO3.0みたいな学習法だ。

DUO3.0に載っている例文なんて、よくもまあこんなゴミクズを頭の中に突っ込めるな、と僕は思うのだが、しかしながらきちがいみたいになってあれをやれば一定の英語力が(個人的にはいい英語力とは思わないが)身につくのは確かだろう。

 

結局、英会話というのは、生徒が自分が何をやっているのかも分かっていないからだめなのだ。

もし教師が、必要な単語と文法事項を生徒にスパルタでたたき込むなら、英会話というのは効率の上でそれなりに可能性があるような気がする。

しかしながら、今の英語教育関係者にそんな事をする力量などあるはずもないので、やはり英会話中心の英語学習は間違っているとも思う。

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英語教師って、普段何を読んでいるんだろう?

報道によると、中学校の英語教師で英検準一級レベルの英語力をもつ教師は3割、高校教師だと6割ほどであるらしい。

もしこれが本当だとしたら、中学校で英語を教えている教師の7割、高校で教えている教師の4割は英検二級レベルかそれ以下だということだ。

英検二級というとちょうど高校卒業程度である。

高校卒業程度といっても東大の英語とか京大の英語だって高校卒業程度なので、英検二級がどれくらい難しいのか僕にはわからない。

しかし、世間でこれだけ英語教師の語学力の程度の低さが言われる一方、「いや、じつは英語教師は相当英語ができるよ」というような話はあまり聞こえないから、まあ英語教師の語学力の程度はある程度推測できる。

 

僕が不思議に思うのは、いったい中学なり高校なりに勤務している英語教師はふだん何を読んで、何を聞いているのかということだ。

もし英語教師の全員が毎日英語を読んだり聞いたりしているならば、英語教師の語学力が問題になることはないはずだ。

 

僕が英語の勉強をだいたい十年やっているが、英語を読んだり聞いたりしない日はない。

ネイティブがアクセスしている英語に365日アクセスしている。

それを十年続けてきたので、英語に関してはまあ、たいていのことはなんとかなる、という感覚を持っている。

 

ところが、英語教師がふだんどのような英語を読んで、どのような英語を聞いているのかという話は一向に伝わってこない。

僕が中学校とか高校に在籍していた頃も、英語教師が普段から英語を勉強しているようにはまったく見えなかった。

もし英語教師が英語を勉強しているならば、話の中に自然と読んでいる洋書の話とか、重要だったり興味深いと思った英語のニュースの話がでてくるはずなのに、英語教師がそのようなことを話すのは一度も聞いたことがない。

 

英語教師はまず、英語教師である以前に自らが一英語学習者であるべきだ。

自分が英語を勉強していないならばどう英語を教えればいいかなんてわかるわけがない。

今の英語教育の腐敗というのは、つまるところ英語教師が英語の勉強を怠っていることに根本的な原因があるのではないか。

日本の英語教育を変えるには、まず英語教師が生き方を改める必要があると思う。

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