グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

互助会がなくなってはてなはつまらなくなった

どうも最近、山月記関連のエントリーが読まれているようなのだが、その中にブッマークが200くらいのものがあって懐かしかった。

その頃、というか考えてみたらせいぜい1、2年前のことなのだが、はてなの大物ブロガーというのはとてもわかりやすかった。つまり、はてなの大物ブロガーというのははてなブックマークのホットエントリーにしょっちゅう上ってくるブロガーのことだったのである。ホットエントリーにのせれば大物ブロガーになれるのだから、有名になりたい人は(あるいは、有名になることでカネも儲けたい人は)こぞってブックマークをあつめ、エントリーをホットエントリーに載せるために少なからぬ時間と体力を使っていた。要するに互助会だ。

これにたいして、はてなの一部では互助会を厳しく取り締まるべき、という意見が強かった。個人が意図的にブックマークを集めてホットエントリーに入るなら何のためのキュレーションサイトなのか、ということだ。この問題を解決するのは簡単で、はてなブログについたブックマークの重みを例えば東洋経済のエントリーについたブックマークの十分の一とか二十分の一に見積もればいい。つまり、はてなブログに十とか二十ブックマークがついてやっとブクマ一つ分、という風にすればいいのだ(「理想」をいえば、互助会ブクマとそうでないブクマでは重さを変えるべきだ)。はてなの運営がこの対策を取ったのが2017年の夏ごろのことで、これ以降はよほどのことが無い限り、いくらブックマークを集めてもはてなブログのエントリーはホットエントリーに載らなくなった。

その結果どうなったか?はてなから大物ブロガーが消滅した。はてなの大物ブロガーというのははてなで有名なブロガーのことだったわけだが、ホットエントリーにエントリーが載らないならば有名もなにもない。 結局これらの大物ブロガーはそろってWordpressに移転した。

はてなブログがホットエントリーにのらなくなって互助会はなくなったが、そのかわり他のブロガーが何をしているのか全く分からなくなった。つまり、はてなブログのコミュニティがそのまま無くなった。はてなの運営ははてなブログのコミュニティと「運営ガー」というノイズを処理するためのコストを比べて、ノイズ対策のほうを取ったのだろう。

はてなブログのコミュニティーがなくなって、どうなったか?僕個人としてはあまり変わらなかった。そもそも互助会がなくなる前からして、なにか変わったことがあったわけではなかった。僕がいくらエントリーをホットエントリーに載せても、そのときだけアクセスが7,000とかになるだけで読者が増えたという実感は全くなかったし、実際に増えていない。なのではてなブログのエントリーがホットエントリーに載らなくなっても、僕のブログには何も影響がなかった。

しかし、はてなから大物ブロガーがいなくなってはてなはつまらなくなった。昔だったら世の中で何か動きがあれば、すかさず大物ブロガーがそれをテーマにエントリーを書いた。それらのエントリーはまったく下らないものも多かったが、下らないならそれに対して多くの傾聴に値するエントリーが書かれた。いやむしろ、大物ブロガーが書く記事がくだらないほど議論はもりあがり、面白いコンテンツが生産されていたとおもう。

もちろん、ブログというのは他のブロガーのエントリーを読まずに書けるし、僕の書くエントリーもブログを読んで、というものはあまりない。僕がブロガーとしてやっていることは昔も今も全然変わりないし、やりがいみたいなものも昔と変わりない。しかし、互助会がなくなってはてなはつまらなくなった。

なんだかんだではてなの有名ブロガーは面白い人が多かったと思う。そして互助会を批判しているブロガーは、面白い人もいたが全然つまらない人も多かった。全体的にみると、互助会ブロガーのほうが互助会を批判するブロガーよりもはてなのコミュニティーに貢献していたと思う。普通に考えれば、互助会をやっている大物ブロガーのおかげではてなが盛り上がっていたというのは簡単に分かることだ。

はてなの運営は、そろそろ互助会を解禁したらどうだろうか?「互助会ガー」みたいなクレームは「互助会」というキーワードを設定してフィルタリングを掛ければいい。別に大物ブロガーがいなくてもはてなは続いていくけれども、将来のはてなにはやはり大物ブロガーがいたほうがいいと僕は考える。

未来の学校

この間たまたま近所の小学校のそばを通りかかったら、運動会の仕込みなのか、校庭で教師らしい人物がソーラン節を指導していた。ソーラン節の音楽が流れる中、小学校の体操着の上になんだか法被にすらなっていないへんなちゃんちゃんこみたいな衣服を着せられた低学年の子供の前で、校庭のど真ん中に設置した台の上でソーラン節を踊っていた。

近くに接近して詳しく観察したかったのだが、どうも動きや声からして三十代前後くらいの若者のようだった。今の小学校は自分よりはるかに年下の若者が教師をやっているのか、という当たり前といえば当たり前の事実に衝撃を受けながら僕はその教師がソーラン節を踊っているのを眺めていた。

うまくできているとも幼稚ともなんともいえないソーラン節の振り付けを教師は官僚らしい確実さと若者らしい身のこなしをもって踊っていた。

この教師はソーラン節の振り付けをどこでどのようにしておぼえたのだろうか?夜に帰宅後、テレビの前でソーラン節の振り付けDVDでも見たのだろうか?それとも教師で集まって集団で振りを覚える、みたいなイベントがあったのだろうか?振りをおぼえるのに何時間かかったのだろうか?そもそもこの教師はソーラン節をやることに、もっというなら運動会をやることに賛成なのだろうか?

三十前後の若手教師は仕事が終わったら普通の若者である。小学生教師になりたい大学生が送る生活の延長みたいな生活を送っているはずだ。そしてそういう若者が未来の学校がどのようなものになるかを決めるのだ。

今の若手教師は何を考えながら教師をやっているのか、そして今の子供にはこれらの若手教師はどのようにみえているのか?など、様々なことを考えながらお年寄りの僕は家に帰った。

ハリルホジッチとヒヤリハット

免許更新の講習などでハインリッヒの法則という法則を聞いたことがある人も多いだろう。重大事故一件の裏には29件の軽い事故があり、その裏には事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例(ヒヤリハット)が300件ある、という、例の法則のことだ。重大事故が起きる前には必ず軽い事故、あるいは事故になりそうな事例が数多く起きている、大したことないからとこのような異常を放置していればいつかは大事故につながる、ということをマネージメント側が説明する際に使われる。

今回のワールドカップ直前でのハリルホジッチ解任というニュースを聞いて、これは本当にハインリッヒの法則とかヒヤリハットそのままだなあ、と思った。

僕は以前、ハリルホジッチが小学生にサッカーを指導するという企画のテレビ番組をたまたま見たことがある。そこでハリルホジッチは次のようなことをいっていた。

「勉強は大切です。誰もがサッカー選手として成功する訳ではないのですから」

たしかにハリルホジッチは本当のことを言っただけだ。プロとして成功するサッカー選手は本当に驚くほど少ない。しかし、このようなことを言われて勉強を頑張ろうと考える子供は一人もいないと思う。ハリルホジッチは人の心が分からない人だと思った。

このときはもちろん、相手が一度だけ会う子供なので特に何も起こらずにすんだ。しかし、番組収録中テレビカメラが回っている中でこんなことを言ってしまうくらいだから、ハリルホジッチは普段からかなり深刻な失言を繰り返していたはずだ。実際、一部のサッカーマスコミによると、ハリルホジッチは代表選手にかなり心ない発言をしていたようだ。

この時期での代表監督解任には当然、批判的な声が大多数を占める。いまハリルホジッチを解任したら、何がよくて何が悪かったのか検証が出来なくなる、ハリルホジッチは一生懸命やっているのにこの時期での解任はあんまりではないか、これでまともな外人監督は日本に来なくなるだろう、など、どれももっともな意見だ。

サッカー協会もこれらのことは完全に理解していたはずだ。それでも解任に踏み切ったと言うことは、なにかよほどのことがあったのだ。

基本的にサッカー選手は厳しいことを言われ慣れている人たちなはずだ。まして日本代表にまで上りつめた選手が少しくらいのことでふて腐れるとは思えない。その代表選手が、ハリルホジッチの下でワールドカップを戦うのは耐え難い、と思うのだから、やはりハリルホジッチにはサッカー指導者として深刻な欠点があるのだろう。

今回のハリルホジッチの解任がどのような結果になるかは誰にも分からない。しかし、ハリルホジッチ本人からすると、今回の解任は考え得る限り最悪の大事故であることは間違いない。

一つの重大事故の裏には多くの軽微なトラブルがあり、さらに多くの「ヒヤリハット」がある、という法則がすべてのことにあてはまるならば、それは代表レベルの指導にも当てはまる。というよりはむしろ、代表レベルだからこそヒヤリハットに注意しなければいけない、ということをハリルホジッチの失脚は示していると思う。

本田圭佑

一般論から言えば、今の時期になってハリルホジッチを解任したのは間違った判断であったといえるだろう。ワールドカップの監督がハリルホジッチでないならば、何がよくて何が悪かったのかを分析して今後に生かすことはできないし、日本代表を一時は無理なのではないかと噂されたワールドカップ出場に導いたハリルホジッチを直前になって切り捨てるのは気の毒に過ぎる、というのは全くもってもっともな議論だと思う。

しかしながら、政治家と同様、サッカーの代表監督は結果がすべてである。サッカーの代表監督がやっているのは政治そのものだからこれは当然のことで、代表監督は自分の好き嫌いではなくよい結果に繋がるような選択をしなければいけない。

その意味において、この時期での代表監督解任という結果にはハリルホジッチにも相当の責任がある。ハリルホジッチハリルホジッチなりに一生懸命代表監督の仕事に取り組んだのだろうが、自分は正しいことを一生懸命やったのに解任された、では通らない。政治家が、自分は正しいことをやったのに落選した!では通らないのと同じことだ。

ハリルホジッチは代表監督として、自分の信じるサッカーと選手をはじめとする様々な関係者の信任を同時に考慮したクリエイティブな妥協案を提示しなければならなかったのであり、それができなかったから解任された。今回、ハリルホジッチは情勢を読み違えた。だから解任されたわけで、結局それがハリルホジッチの代表監督としての限界だったといえる。

さて、泣く人がいる裏では必ず笑う人がいるのは世の常だが、今回のハリルホジッチ解任で笑う人の中に本田圭佑が含まれるのはまず間違いないだろう。今回のワールドカップで、冷遇どころか一部では代表落ちまで噂されるほどだった本田は、これで一躍一番の主役に躍り出た。この反逆児のもつ強運には改めて驚くしかない。

ハリルホジッチが代表監督になった頃、たまたまハリルホジッチが出演している番組を見たことがある。最初から見ていないので詳しいことは分からないが、どうやら小学生にサッカーを教える企画のようだった。そこで、ハリルホジッチは次のようなことを言っていた。

「サッカーだけでなく勉強も大切です。誰もがサッカー選手として成功する訳ではないのですから」

ハリルホジッチは英語ではなくフランス語を話したのでハリルホジッチが何を言ったのかは僕は通訳を通してしか分からなかった。しかし、このハリルホジッチのコメントを聞いて、僕はハリルホジッチは失敗するだろうと思った。

未来ある小学生を前に、なんでこんな後ろ向きな発言しか出来ないのだろう?この発言を聞いて、サッカーを頑張ろうとする子がいるだろうか?勉強を頑張ろうとする子がいるだろうか?ここは少しくらいウソでもいいから希望あふれるメッセージを提示するべき状況のはずだ。ところが、ハリルホジッチは何の考えもなく本当のことを語っただけで、子供の気持ちなど何も考えていないようにみえた。

こんなメンタリティーの監督が成功するわけない。そう思いながら僕は日本代表関連のニュースを眺めていた。ところが、なんだかんだでワールドカップも出場するし、ハリルホジッチが失敗するだろうというのは僕の勘違いだったかな、とおもっていたら、まさか最後の最後で予想が当たるとは思わなかった。

同じことを言うのでも、本田はならばもっと攻撃的なメッセージを伝えるはずだ。勉強勉強言うけど、別に勉強しなくても生きてけるよ、でも勉強するなら本気でしなよ、今日からでも10年後でもいい、やりたくなったらやればいい、本気で勉強してる奴を俺はリスペクトするよ、とか、物事に本気で取り組むことの重要さを熱心に語るだろう。結局、このようなメンタリティーの違いが両者の明暗を分けたといえる。

僕はこの時期の代表監督の解任は結構悪くないオプションだったとおもう。なにせもう時間がない。選手が中心になってやるしかないのだ。今回のワールドカップは本当の意味で選手が主役なのである。ハリルホジッチに不満のあった中心選手は今、相当ハイになっているはずだ。

一方、ショービジネスの観点からしてもハリルホジッチ解任は悪くない。今回の解任では泣く人と笑う人が大量にでたわけで、まずこのこと自体にエンターテインメントバリューがある。そして今回のワールドカップは一体どのような結果になるのか全く分からない。大混乱の中散々な結果に終わるのか、お祭り騒ぎの熱狂の中で全く予想外のパフォーマンスをたたき出すのか、一体何が起こるのか誰にも分からないのだ。

ワールドカップを興行と考えた場合、ハリルホジッチに監督をさせるのと本田に好き勝手やらせるのでは、本田に好き勝手をやらせた方が断然面白い。外人監督を招き続けたところで、どうせ日本代表なんて世界ランク60位程度のチームなのだ。何が起こるか分からない方が見ている方は面白い。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

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本物の意識高い系であるために必要なもの

基本的に、意識高い系というのは(この言葉も微妙に「オワコン」になってきている気がしないでもないが)良くも悪くも現実をよく分かっていない若者を指す言葉だと思う。具体的には20代、せいぜい30代前半までで、ようは少しくらい失敗をしてもまだなんとか取り返しがつくし、世間も「若いっていいね!」と気楽に応援できる状態だ。

これが30代も半ば以降になると世間も気軽に応援できなくなる。30代も半ばというと、平均的な「社会人」はすでに「一人前」である。外見だって若者と言うよりはオッサンに近くなってくるわけで、世間からするとオッサンになっても「社会人」の責任を果たさない迷惑な人、という見方になってくる。

しかしながら、意識高い系を「新しいことにチャレンジする人」と考えた場合、意識高い系というのは何歳でもできる。いや、同じことをするにしても年を取ってからの方がかえって意識高い度は高くなっているといえるだろう。腹が出て髪を失っても「若者」と同じことをする、あるいみこれこそ「新しいことにチャレンジする人」と言えなくもない。

新しいことにチャレンジすることは何歳でもできる。しかし、年を取ってから実際に新しいことにチャレンジする人は少ない。以前、iOS用のパズルゲームをリリースした81歳の女性が話題になったが、これくらいの高齢になってからプログラミングをはじめてAppStoreでアプリを公開するまで持っていくのは、世界的にみても相当意識が高い。

もしかして、本物の意識高い系であるためにもっとも必要なのは反逆の精神なのかもしれない。30半ばになったのだから「一人前の社会人」として働かなければいけない、みたいな世間の思い込みに反逆できるかどうかが本物の意識高い系であるかどうかを分けると思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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アメリカの農家と幻想の小さな政府

今日BBCをみていたら、トランプに投票した農場主を特集していた。よく分からないが、番組によるとトランプ政権の通商政策により収入が60,000ドルから12,000ドルへと激減したという話だった。

その農家がトランプに投票した理由は、「小さな政府と自助努力」を信じているからだという。たしかにその農場主の60,000ドルレベルの小規模農場の情景を番組でみていると、アメリカの地方でなぜ「小さな政府」が人気なのかが分かるような気がする。それら目の前にみえる農場はすべて彼ら自身が勤勉を通じて勝ち取ったものであり、農場主は農場の経営に全責任を負って農業を営んでいるのだ。

しかしながら、目の前にみえる農場がすべて彼ら自身のものであり、彼らが農場の経営に全責任を負っているということは、彼ら自身の力だけで農業を営んでいるということを意味しない。

まず農業が中央政府からの巨額な補助金でもって成り立っているのはアメリカでも同じである。これらの補助金がなければアメリカの農家はやっていかれないのだ。

水路などの様々な農業インフラにも巨額な投資が行われている。どれも農家が投資をしているものではない。アメリカの農家が農業をするのに必要不可欠なインフラはすべて、行政が巨額な投資をして計画、施行、運営されているのである。

農業をするには石油がなければどうにもならないというのは一部ではよく知られていることだが、これだって国家が軍事力などを通して安定して供給しているのだ。

これらを考えると、農業というのは「小さな政府と自助努力」を信じる農家が否定する「大きな政府」なしでは全くやっていけないものであることが分かる。それはトランプ政権になって収入が60,000ドルから12,000ドルになったというエピソードにもあらわれている。もし農家が「小さな政府と自助努力」でやっていけるのなら、なんで収入が60,000ドルから12,000ドルになるなんてことがあるのか?

番組に出てきたような熱心な共和党支持の零細農家の収入を60,000ドル確保するために「大きな政府」というのはある。ある意味、零細農家が「大きな政府」を否定するのはとんでもない思い上がりであり、天につばを吐く行為といえる。

番組に出てきたいかにも善良そうな零細農場主(それはもちろん、番組に出てきた一人ではない)を批判するようなことはいいたくないし、「小さな政府と自助努力」の理念自体は大切だが、政府をダウンサイジングすればすべての問題が解決するという考えは幻想に過ぎない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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中途半端な人生について

これまでの僕の人生を一言で言うと、中途半端という言葉がもっとも適切だと思う。

中途半端と言うのは例えば、書店に行って本を買うかわりに何時間も立ち読みをする、ということだ。休みの日には(まあ、引きこもりだと毎日が休みだが)本1冊を買ってそれを読むだけで何かしらをした気分になるのに、ただ本屋で何時間か過ごしたのでは何をして一日を過ごしたのかはっきりしない。ところが、本1冊の値段などたかがしれているのに、僕が本をかうことはそれほどない。正直、僕は本を読んでいるよりも書店をふらふらと歩いている時間の方がおおい。

買い食いなんかもそうだ。僕は昔から菓子などを買い食いする癖があって、コンビニエンスストアやスーパーなどで金額のことなど何も考えずに品物を買っている。それでまあ、もちろんそういう飲食物はどれもそれなりにうまいことが多いのだが、なんというかそれらの飲食料品の品質を考えると中途半場だなあ、とも思う。それらのものは一部の例外を除き、まずくはない。しかし、それらのものを飲み食いして、ほんとうにうまいと思うこともそれほどない。

もうひとつ時間を消費するものにキュレーションサイトがある。たしかにキュレーションサイトをみてみると、価値がある情報の一つや二つは必ずあるし、キュレーションサイトにのっているどんなエントリーでも真剣に読めば意味のある結論を導くことができるだろう。しかしながら、それと同時に、キュレーションサイトにのっている情報は僕が書店をふらふらと歩く間に得る情報や、コンビニエンスストアやスーパーなどで買う菓子や清涼飲料水のようなもので、別にないならないでいいどころか、僕の将来を考えるとない方がいい位のものである。

ある意味、僕の人生は中途半端を極めることで成り立っているところがある。他の人たちが部活や勉強、社会人になってからは仕事に打ち込む中、僕は何もせずに生きてきた。これは別の言葉でいえば何もせずに生きることをしてきた、ともいえるわけで、僕の生き方はある意味では非常に徹底したものである。徹底した生き方をしていればそれがなんであれ当然成果があるわけで、僕はこれまでの人生にたいしてなんの後悔もない。後悔はないが、最近の僕の周りの状況を冷静に観察すると、もう中途半端な生き方を続けるのは難しいかな、と思うのも事実だ。

中途半端なものを消費するのはそれはそれで楽しさがある。しかし、消費には当然コストがともなうわけで、いろいろあって僕は中途半端なものを消費するためのコストを調達できなくなりつつある。僕は一時的に、立ち読み、買い食い、キュレーションサイトの閲覧をやめようと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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