グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

医学部入試などで男に下駄を履かせるのは、女性が聡明で男がバカだから

東京医科大学が入試の点数で男子に下駄を履かせていたことが話題になっているが、このような話は至る所にある。

なんで「力がある」女性を落とし、それよりも点数で劣る男子のほうを優遇するのか?それは、女性が聡明で男がバカだからだ。

世の中に聡明な女性は山ほどいる。これらの女性は、賢く、まじめで、言われたことをスマートにこなし、従ってテストなどでも成績がよい。

しかしながら、女性の持つこのような聡明さというのは、どうしても国難を救うとか、世の中をひっくり返すような革命を起こすなどの方向につながらないというのも事実だ。

聡明な人間は、本当に難しいことには関わり合いにならない。そのかわり、難しそうに見えるが確実にこなせることをやる。入試で必要なだけ得点するなどはこの手の難しさの典型といえるだろう。

しかし、本当に難しいことはバカにしかできない。頭の切れるバカ、泰然としたバカ、やたらと元気なバカ、何でもいいが、とにかく損得を度外視できるバカでないと無理である。

だから、どんな分野でも、上の方は男ばかりになるし、本当に難しいことを要求されるような分野での選抜では女子よりも男子が優先される。それは、女性が聡明で男がバカだからだ。

改憲教

たしかに9条9条と繰り返すばかりの人たちが宗教的であることに異論は無いが、僕が思うに、憲法を改正改正しなければならない!と頑張っている人の方もそれに劣らず宗教的だと思う。つまり、憲法改憲すべき、という結論ありきで、改憲した場合のメリットとデメリットを考慮した上で改憲を選択しているようにはとても思えない。ものごとにはメリットとデメリットの両方あるのが世の常だが、デメリットを一切無視してメリットばかり並び立てるのならば、それは信仰にほかならない。その上、改憲派がいう憲法を改正することのメリットというのも全然わからない。日本の軍事力を強化したいのならば軍事費を増やせばいいだけの話で別に憲法とは何の関係もないように思えるし、そもそもにして今後の世界情勢が軍事的に緊迫していくとも思えない。日本人で日本の軍事力が問題と考えている人はわずかで、そんなことよりも国家としての基礎体力が(国家の基礎体力というのは相対的な問題であるけれども)急激に低下しつつあることの方が問題と考える人が大半だろう。国家としての体力が無いならば、どんなすばらしい憲法があったとしても絵に描いた餅である。今の日本で憲法改正を議論することは、一生懸命に餅の絵を描くようなものなのではないだろうか。そして、このような世間の見方が「こんなことも分からないのか」という改憲派に対する冷笑につながっていると思う。

カネと時間は似ている

何が似ているかというと、どちらも少しでも油断したらあっという間になくなることが似ている。たとえばドラッグストアやスーパーで何も考えずに飲み食いしたいものをかごに放り込んで会計する、ということを日常的にしていればカネというのはあっという間になくなる。一点の買い物、一回の買い物なんて金額的にたかがしれているのに、それらを何も考えずに繰り返していると、少し飲み食いしただけのはずなのに何でこんなに無くなるの?ということになる。時間もおなじだ。少しテレビ見ただけ、少しネットしただけで時間というものはあっというまになくなる。そして1日が終わった後で、きょうは少しテレビを見て少しネットしただけなのになんで1日が終わってしまうのだろう、ということになってしまう。カネを使うにしろ、時間を使うにしろ、使い道を明確にすることが必要なのだと思う。

タクシー通学とサイバー田舎

先日テレビを見ていたら、過疎のために集約された小学校が取り上げられていた。しかも、はじめからみていないのでよく分からないが、その小学校は津波対策のためか高台にあり、生徒が暮らす集落とは離れているということだった。そのために生徒は徒歩による通学ができず、全校生徒が乗り合いバスやタクシーに乗って通学してくる。タクシー(プリウス)のドアが開いて小学生が降りてくるのを見て、これはすごい未来的だと思った。生徒は本当にあちこちに分散して暮らしているらしく、番組に取り上げられた生徒の家は、一番親しい友人の家まで車で15分ほど離れているという話だった。それで、放課後は友達と遊ぶこともなく、普段はiPadを使ってLINEをしたり、YouTuberの動画などを見て暮らしているらしい。これも未来的だと思った。テクノロジーの存在感は、都会よりも田舎の方がかえって大きいのかもしれない。

ブロックチェーンと共産主義

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180720-00010007-fnnprimev-sci

ここ最近一部で言われているブロックチェーンに基づく社会と共産主義というのは非常によく似ている。何が似ているかというと、国家というものはいずれ無くなる、という結論が最初にあるところが似ている。国なんてものがあるから資本家が悪事の限りを尽くすのだ、と共産主義者は考えた。共産主義なんていまからみたら馬鹿げた考えに思えるかもしれないが、共産主義が考案された19世紀は、ひどい貧困に苦しむ人がそこら中に溢れる一方で、戦争によって資本家は大もうけしていたわけで(ある程度は今もそうだが)、国家なんて不合理なものは人類の進歩とともに消え去るに違いない、国家は悪いことをしない共産党によって置き換えられるべきである、と考える人がでてきたのもまあ、必然といえば必然と言える。一方、ブロックチェーンに基づく社会というのはどのようなものかというと、これは共産党の代わりに世界に一つだけあるマーケットがすべてを決定するという社会である。つまり、国家みたいに悪いことをしない(ことになっている)マーケットによる独裁である。共産主義とおなじようにある種の独裁によって理想社会を建築しよう、というのがブロックチェーンビジネス界隈の人々が話していることだ。マーケットは常に正しい!全員がマーケットに従うべきだ、というわけで、共産党は常に正しい!国民全体が共産党に従うべき!と考えていた共産主義者マインドセットは変わらない。そして、このようなマインドセットの背景にはいつも、人間は科学技術によって進歩する、という信仰がある。共産主義者にとって資本主義が時代遅れであったように、ブロックチェーン界隈の人たちにとって中央集権を基にした社会は時代遅れなのだ。しかしながら残念なことに、科学技術は進歩するが肝心の人類の知性の方はというと一向に進歩していない。インターネットがいい例だ。あれこそ人類の知性の象徴だ。インターネットによって人類の見識は広がらず、相も変わらずドグマに基づいた議論ばかりが行われている。昔はやった表現を使えば、人類の知性というのは総じて「ひどいインターネット」なのである。インターネットでなんら進歩がなかった人類の知性がブロックチェーンで進歩するわけないだろう。そもそも、分散社会を機能させるには「中央」が必要なのは、資本主義の歴史を見たらいやというほど分かることではないのか?中央集権社会もまともに運用できないのに、分散社会が運用できるわけもない。

普通の人にとっては、英語というのは理論物理学みたいなものだとおもう

日本の将来にとって英語が重要ということはもう何十年も前から言われているが、僕はどうして英語が重要なのか全然わからない。僕が思うに、普通の人にとって英語というのは理論物理学のようなものだと思う。工学部の学生が電磁気学を正しく理解していることは重要だが、別に電磁気学を理解していなくてもテレビ・HDDレコーダー・パソコン・スマートフォンなどの電子機器は使える。それと同じで、普通の日本人が必要な情報は日本語としてすでにある。たとえば電磁気学の勉強にしたって日本語の教科書なり翻訳書があるから、べつに英語の知識がなくても勉強できる。もちろん、理論物理でも修士以上のレベルになれば英語の教科書なり論文なりをよむ必要が出てくるし、人文関係でも、真面目に勉強するならば英語の知識は絶対に必要になる。英語もわからないで西洋史を理解するのは難しい。英語が分からなければ(べつに英語でなくても西洋語なら何でもよいが)西洋とは何かが感覚的に分からない。しかし、これら英語でないとアクセスできない情報はすべて、普通の日本人がまったく興味を持たないようなものでもある。ふつうの日本人にとって電磁気学が全く関係ないのと同様、ふつうの日本人にとって英語は全く関係ない。なぜなら、英語でなければアクセスできないレベルの情報を全く必要としないからである。英語の習得は楽ではない。英単語を何千もおぼえ、何千ページの英文を読み、何千時間もの間英語を聞いて初めて英語は習得できる。ド素人のALT教師の授業を何時間か聞いたらできるようになるというものでは断じてない。もし語学が専門でないならば、ある程度の期間あらゆる遊びを断念するくらいでないと英語の習得は無理だろう。まわりが「青春」したり「人生の階段」を一歩一歩上る中、それらに背を向けて語学に打ち込む覚悟がある日本人はどれほどいるか?ほとんどいないのではないか。必要になったら必要なだけ英語を勉強すればいい、となるのは当たり前で、つまり今まで通りということだ。英語を使ってやりたい有意義なことが具体的に何があるか?英語が必要なレベルにない人には英語は必要ない。理論物理学が必要ないようにである。

日本人はどこまで英語が得意になるべきか?

英語というのは大変だ。何が大変かというと、使うのが大変なのである。英語を使うのが大変、というとまるで自分の語学力が乏しいように聞こえるから、英語関係の人はこういう話を絶対しないが、英語を使うのは大変である。たとえば英語の本を読むにしても、僕は文字通り一行一行根気強くよんでいくしかない。日本語の本の内容を一冊3時間で一通り理解する、なんて読み方はとうていできない。英語を辞書なしで読めるようになっても、英語を使うということは日本語を使うのと比べてものすごい効率が悪い。読むことに関していえば、下手すると10倍以上悪いかもしれない。もちろん、効率が10倍以上悪いとしても得るものがあるから英語を読むわけであるが(まあ、最近は色々忙しくて全然英語を読んでいないけれども)とにかく英語というのは相当に勉強したあとでもやはり大変である。何故英語が大変か?もちろん英語を勉強する時間が十分ではない、ということもあるだろうが、根本的には日本語の本の内容を一冊3時間で読めるくらいに日本語が得意だから、というのもあるように思う。英語の本を3時間で読めるレベルの英語力がある人の日本語力というのはどのようなものなのだろう?もう、日本語なんて半分忘れているような状態にならないとそこまでのレベルに行かないのではないだろうか。英語教育の必要性が叫ばれるようになって数十年になるが、英語教育をどの程度すればよいか、ということに関しての議論はまったくされない。日本の英語教育の絶望的な非効率性とあいまって、やればやるだけよい、としかいわれない。現状を見る限り、次の世代の日本人が英語ができるようになるという目標は、日本語能力を破壊することによってでしか達成されないかもしれないと思わないでもない。もし日本語より英語を使う方が楽ならば、日本人の英語力はアメリカ人と同じになるだろう。そして、日本人の日本語力は外国人並みになるだろう。そんなことが実際起こるとは僕は思わないが、このようにもっとも極端なケースを考えることは今後の英語学習について考える上で重要なのではないだろうか。