グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

保活のジレンマ

女性が社会進出すると、「保活」の難易度は上昇する。なぜかというと、乳幼児の育児を安価で丸投げしてその間にカネを稼ぐ「働くママ」が増える一方、薄給ではたらく奴隷的保育士の数は減少するはずだからだ。誰だって奴隷的保育士になるよりは奴隷的保育士を使う側に回りたいに決まっている。そして「働くママ」からは、働くママが子育てをアウトソーシングすることで儲けることは許されない、という意見はまったく聞かれない。育児をアウトソーシングして儲けることと託児サービスへのフリーアクセスは両立しない。両立するはずのないものを両立させろと喚くところに「働くママ」というものがいかに愚かであるかが示されている。

丸刈りと甲子園利権

第百回全国高校野球選手権大会(通称・夏の甲子園)では、選手の髪型が丸刈りでない高校が2校あった。その2校が丸刈りでない理由はまったく対極的だったが、あらためて野球部の丸刈りについて注目が集まったことも第百回という節目を象徴しているように思う。野球部の丸刈りについて考えるには、まずこの丸刈りが誰のために行われているかを考えなければならない。まあ、野球部の丸刈りには「防犯上の理由」もあるだろうが、僕はこの丸刈りの風習が続いている原因のかなりの部分は甲子園利権にあると思う。ようするに、甲子園というのは暑苦しいのだ。アンダーシャツの上にユニフォームを着用するし、ズボンの方も生地が分厚くてぴったりしている。その上にグローブをはめ、頭にはヘルメットを被る。そんな格好でグラウンドがゆらゆらと揺れて見えるような炎天下で野球をやるから、みているだけで暑苦しい。せめて髪型くらいは涼しげなものにしてほしい、というのが外でセミが大音量で鳴く中テレビを見ている「高校野球ファン」の本音だろう。しかも、丸刈りという髪型は、遊びたいのを我慢して厳しい練習に打ち込み、汗と涙を大量に流しながらひたむきに甲子園を目指す、みたいな「球児」のイメージにぴったりくる。甲子園といえば丸刈り高校野球と言えば丸刈りで、当の球児もそのようなイメージの中で生きている。高校野球の感動の半分以上、もしかしたら8割程度は選手が丸刈りであることから来ているのではないだろうか。このような構図はもちろん、朝日新聞社をはじめとする甲子園ビジネスを行う側にとっても好都合だ。朝日新聞社が反丸刈りキャンペーンを展開するなど、とても想像できない。高校野球の世界で丸刈りの風習が続いてきたのは当然のことと言えるだろう。

髪形で野球部の強さは変わるか?

きのう、テレビを見ていたらたまたま甲子園で慶應の試合をやっていた。髪形と強さってあんまり関係なさそうだな、と思った。慶応というのは珍しい学校で、野球部なのに髪型が自由である。でも現に激戦区神奈川の地方予選を勝ち抜いたわけだし、慶応の生徒を丸刈りにしたら慶応がますます強くなる、という声は聞かれない。髪形が自由だから勝負に弱い、というわけでもないと思う。昨日の試合も逆転サヨナラだった。僕はべつに、丸刈りを強制するのは間違いだから丸刈りは止めるべきだ、と言うことを言いたいのではない。生徒の方は案外丸刈りに満足していると思う。それに、丸刈りといっても丸刈りの範囲で色々できる。菊池雄星が現役の「球児」だった頃の髪型は前髪も襟足ももみあげも伸ばしまくりで、これで丸刈りなの?と言いたくなるようなものだった。丸刈りに抵抗がある生徒は、丸刈りっぽくない丸刈りにすればいい。前髪があるだけで印象は全然違う。しかし、野球部がこうまで丸刈りばかりなら、少しくらい丸刈りでない野球部があってもいいのではないか、とも慶応の試合を見て思った。たとえば、部員数が少なくて他の部からメンバーを借りてくるような野球部ならば、部員が丸刈りである合理性は全くないと思う。あるいは、低迷しているかつての名門校がイメージを一新するためにも、髪型の変更は使えるだろう。たとえば駒大苫小牧丸刈りでなくなったら(まあ、駒大苫小牧は最近相当強くなってきているという話だが)相当面白いことになると思う。他とは違う取り組みを行うのが重要なのは野球でも同様であるはずだ。この間洞窟から救助されたタイのサッカー少年のように、みんな同じような感じの短髪にすることから始めてみてもいいのではないかと思う。

旧帝大の医学部など一部の医学部以外、合格者の男女比率は警察官や自衛官、消防士などの公安職と同じにしろ

東京医科大学において、入学試験で男女比率の調整が行われている事が話題になっている。僕は東京医大は当たり前のことをやっただけだと思う。というのは、基本的に医者というのは警察官や自衛官、消防士などの公安職とおなじようなものだと思うからだ。つまり、臨床の最先端で働く医者というのは、戦争中に不眠不休で働く軍人のようなものなのだ。医者も公安職も、緊急時にはどんなに疲れていても駆けつけるのが仕事である。人の命がかかっているのだ。そのような職の選抜プロセスが性別に関係なく行われること自体、間違っている。先ほど地元の警察の採用情報を見たが、A採用(大卒採用)で男子45名ほど、女子5名ほどということだった。男子の方が女子よりも9倍も多い。自衛官や消防士の割合は調べていないが、おそらく似たようなものだろう。それなのに、なんで医学部の入試ならば調整を行うことは許されない、ということになるのか?臨床中心の私立医大の学生の男女比率は公安職と同じくらい、つまり男性医師九人に対して女医一人くらいでいい。必要な女医はそれで足りる。

医学部入試などで男に下駄を履かせるのは、女性が聡明で男がバカだから

東京医科大学が入試の点数で男子に下駄を履かせていたことが話題になっているが、このような話は至る所にある。

なんで「力がある」女性を落とし、それよりも点数で劣る男子のほうを優遇するのか?それは、女性が聡明で男がバカだからだ。

世の中に聡明な女性は山ほどいる。これらの女性は、賢く、まじめで、言われたことをスマートにこなし、従ってテストなどでも成績がよい。

しかしながら、女性の持つこのような聡明さというのは、どうしても国難を救うとか、世の中をひっくり返すような革命を起こすなどの方向につながらないというのも事実だ。

聡明な人間は、本当に難しいことには関わり合いにならない。そのかわり、難しそうに見えるが確実にこなせることをやる。入試で必要なだけ得点するなどはこの手の難しさの典型といえるだろう。

しかし、本当に難しいことはバカにしかできない。頭の切れるバカ、泰然としたバカ、やたらと元気なバカ、何でもいいが、とにかく損得を度外視できるバカでないと無理である。

だから、どんな分野でも、上の方は男ばかりになるし、本当に難しいことを要求されるような分野での選抜では女子よりも男子が優先される。それは、女性が聡明で男がバカだからだ。

改憲教

たしかに9条9条と繰り返すばかりの人たちが宗教的であることに異論は無いが、僕が思うに、憲法を改正改正しなければならない!と頑張っている人の方もそれに劣らず宗教的だと思う。つまり、憲法改憲すべき、という結論ありきで、改憲した場合のメリットとデメリットを考慮した上で改憲を選択しているようにはとても思えない。ものごとにはメリットとデメリットの両方あるのが世の常だが、デメリットを一切無視してメリットばかり並び立てるのならば、それは信仰にほかならない。その上、改憲派がいう憲法を改正することのメリットというのも全然わからない。日本の軍事力を強化したいのならば軍事費を増やせばいいだけの話で別に憲法とは何の関係もないように思えるし、そもそもにして今後の世界情勢が軍事的に緊迫していくとも思えない。日本人で日本の軍事力が問題と考えている人はわずかで、そんなことよりも国家としての基礎体力が(国家の基礎体力というのは相対的な問題であるけれども)急激に低下しつつあることの方が問題と考える人が大半だろう。国家としての体力が無いならば、どんなすばらしい憲法があったとしても絵に描いた餅である。今の日本で憲法改正を議論することは、一生懸命に餅の絵を描くようなものなのではないだろうか。そして、このような世間の見方が「こんなことも分からないのか」という改憲派に対する冷笑につながっていると思う。

カネと時間は似ている

何が似ているかというと、どちらも少しでも油断したらあっという間になくなることが似ている。たとえばドラッグストアやスーパーで何も考えずに飲み食いしたいものをかごに放り込んで会計する、ということを日常的にしていればカネというのはあっという間になくなる。一点の買い物、一回の買い物なんて金額的にたかがしれているのに、それらを何も考えずに繰り返していると、少し飲み食いしただけのはずなのに何でこんなに無くなるの?ということになる。時間もおなじだ。少しテレビ見ただけ、少しネットしただけで時間というものはあっというまになくなる。そして1日が終わった後で、きょうは少しテレビを見て少しネットしただけなのになんで1日が終わってしまうのだろう、ということになってしまう。カネを使うにしろ、時間を使うにしろ、使い道を明確にすることが必要なのだと思う。