グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

甲子園優勝という大変

多くの「球児」にとって、「夏の甲子園」こと全国高等高校野球選手権大会に出場してテレビにうつりまくって「全国制覇」することは永遠の夢だし、もし実際に優勝してしまったら(毎年18人、本当に優勝してしまう選手がいる)それは一生の思い出になるに違いない。しかしながら考えてみると、甲子園で優勝したとして、そういう一生の思い出になるような経験ができた、という事以外に何かいいことがあるかというと、プロになってそれなりに活躍でもしない限り特に何もないんじゃないかと思う。もちろん、甲子園で優勝することで出来る縁だってあるかもしれないが、損得を考えると(単純に比較できるものではないだろうが)かえって損の方が多いくらいなのではないだろうか。たとえば、つい先日に強盗傷害事件を起こして逮捕された千丸氏に関して言えば、明らかに甲子園で優勝することで損をする結果となっている。駒澤大学野球部に進学して一年もせずに退学したら、履歴書になんて書くのか?強盗なんかするくらいならバイトでもすればいいようなものだが、千丸氏の場合はどうか?千丸剛と氏名を書き、埼玉徳栄高校野球卒業、駒澤大学入学、同中退と書く。これはきつい。地元の町田では千丸氏のことは誰でも知っている。中退した後は相当メンタルをやられているだろうから、とりあえずバイトでも、というわけにもいかない。しかし学校にも行かず働かないとなると社会から孤立する。誰か手を差し伸べてくれる人がいなければ、そのまま破滅することだって十分ありうる。多かれ少なかれ、甲子園は社会との間に不協和をもたらす。普通の人にとって、甲子園優勝は夢であるから素晴らしいのではないだろうか。本当に優勝してしまったら大変だ。

野球と犯罪と適応能力

前代未聞のニュースが飛び込んできた。埼玉徳栄でキャプテンとして全国制覇した千丸氏が強盗傷害をして逮捕されたという。ネット上のうわさによると、シニア時代からアマチュア野球界で有名だった千丸氏はそれ以上にヤンキーとして有名だったというから(千丸氏の地元である町田はガラが悪いことで有名である)たぶん昔の悪い仲間との付き合いの結果こういう事態に到ったのだろうが、それにしても野球と立派な人格とかそれ以外の部分はあんまり関係がないんだろうな、と思った。現に、千丸氏は埼玉徳栄でキャプテンとなり、全国制覇までしているのだ。結局、野球で重要なのは、周りの環境に自分を合わせる適応能力なのではないだろうか。野球部に入れば野球部のカルチャーに染まり、昔の悪い仲間とつるめば一緒になって強盗をしてしまう。そういう適応能力があれば野球をやる上で有利だろう。たぶん千丸氏は適応能力が高い(逆に言えば周りに染まりやすい)人で、その結果として埼玉徳栄でキャプテンになる一方、大学を退学した後は強盗傷害事件を起こすことになったのだ。それならばどうして駒澤大学の野球部で「人間関係に悩み」退部に追い込まれたのか非常に気になるところだが、とにかく精神的な面から言えば、野球を一生懸命やってさえいれば「人間的に成長する」というような御目出度い話ではないんだろうな、と思う。

道徳教育

イランはイスラーム独裁によって支配される国であるけれども、独裁によってコントロールできるのは人々の全体的な行動までで、いかなる手段を使っても人々の精神まではコントロールできない。逆に、人々の精神に関して言うならば、独裁による強制は全くの効果をもたらすだろう。もし人々が(消極的であれ積極的であれ)世俗的な利益を目的として信仰をするようになるのならば、それはまさに宗教の衰退そのものである。そして、上記の記事にあるように、宗教的な理由でイスラーム独裁政権に対して懐疑的なイラン人は実際存在するのである。このようなジレンマは歴史上様々な形で繰り返し現れる。例えば共産主義に対する信仰などはそうだ。成立してから70年後にソヴィエトは崩壊したが、その時点でいったいどの程度の人々が共産主義の理想を信じていたのだろうか?今に至るまで続くロシアの混乱を見ると、共産主義という宗教現象はいったい何だったのだろうかと思わざるを得ない。もちろん、すべての宗教というのはそのようなもので、そのときは必要だったから宗教として成り立っていたわけだけれども、このように宗教の衰退するプロセスを見ると今とある東アジアの島国の小学校で行われている「道徳教育」がいかに馬鹿げているか分かるだろう。政府がこれを熱心に行うほどに結果はむしろ逆である。それは実質的には学校という独裁体制下で行われる演技の指導なのであり、思ってもないことが書き並べてある子供の作文そのものである。「道徳教育」は、教育というものに対する信仰が衰退していることの表れであると同時にそれに対する信仰の衰退を一層加速させることになるだろう。

イランとソヴィエト

https://www.economist.com/news/2020/01/28/trapped-in-iran

イスラム独裁政権の影響もあって、世間では謎の国として知られるイランだが、実はイランはトルコと同じくらい(トルコを中東に分類すべきかは微妙なところだが)世俗的な国である。こういう国でイスラム革命が起きてそれが四十年も続いているのは考えてみたら不思議な話だ。なぜイスラム独裁政権が四十年も続いているのか?おそらくそれは、他の中東諸国と比べてイランの独裁政権がマシな部類だからだろう。例の一神教を信仰している国ではたいてい政治腐敗が深刻な問題なのであるが、イランに関しては国が崩壊するようなレベルの腐敗があるという話は(先進国に見られるような程度の腐敗はあるのだろうが)聞かれない。宗教警察の取締りはいい加減で、人々は常識の範囲内でわりとハッピーに生活している。そもそも「革命防衛隊」の役人からして、大して宗教を信じていない。宗教警察の役人だって同じようなものだろう。このような社会のあり方は、ソヴィエトの社会と非常に似ている。どちらも貧しいが安定した社会で、文化が繁栄する中、人々は案外楽しく暮らしている。天然資源を売って獲得した外貨により国が運営されている所も似ている。だからイランのイスラーム独裁政権は要するに共産党のようなものなのだ。問題は、このようなイランの政治体制は永続するものではないということだ。ソヴィエトが崩壊したように、イランのイスラーム独裁もそのうち終わる。イスラーム独裁なしに、イランの文化的繁栄は継続するのだろうか?

イランの核とアメリカの核はどちらが危険か?

なんだか、イランというと狂信的な宗教的熱狂に支配された危険な国でイランが核兵器を所持することはあらゆる手段を使っても阻止しなければいけない、というような議論ばかりが聞こえてくるのだが、それではアメリカの核というのは本当に安全なのだろうか?というのは、アメリカはイランと同様、あるいはもしかしたらそれ以上に宗教的熱狂によって見当違いなことをする国であるからだ。はっきりいって、中東でアメリカによってもたらされた被害は、イランによってもたらされた被害とはスケールにおいて比べものにならない。そういう国がとんでもない量の核兵器を所有しているのだから、アメリカの核を危険視する人が少しはいてもいいような気がするけれども、しかしながらそういう人は世間で全然見られない。もちろん、ロシアの核とアメリカの核がバランスすることで先進国では「世界平和」が実現されてるわけだし、アメリカの圧倒的な軍事力を考えるとアメリカの核を危険とするのはおかしな考えであるのだが、もしアメリカの核が安全ならばイランの核だって安全なのではないかと思ってしまう。

核の独占と平和の独占

なぜイランは核兵器保有すべきか 核の均衡と戦略環境の安定

https://www.foreignaffairsj.co.jp/articles/201207_waltz/

第二次世界大戦後、「先進国」の住民が享受しているこの上なくありがたい「平和」というものは核兵器によって実現されているということは理性をもつ人々ならばだれでも分かっている事実だが、それならばイランとサウジアラビア(とイスラエル)がそれぞれ核をもつならば中東においても「冷戦」が実現するのではないかと普通ならば期待する。期待するはずなのだが、物事が政治的、つまり多数決によって決まるのは中東政策業界についても同様で、このような意見は世間ではほとんど全く見られない。というか、単に現状を全力で維持し続けることが最も責任のある態度と言えはそれは確かにそうだし、そもそも中東の現状を変えるインセンティブが「先進国」にないのならば「先進国」がイランの核開発を問題視するのは当たり前の話なのかもしれない。結局、平和とは基本的なインフラというよりは「先進国」の住民だけが独占すべき贅沢品なのであろうか?

悲劇と平和

ソレイマニ司令官の爆殺によって生じた中東情勢の緊張はイランのおざなりというしかない米軍基地への攻撃によって(「殉教者ソレイマニ」という作戦名だそうであるが)一気に沈静化したが、ウクライナ機の撃墜はまるでダメ押しであるかのように、それまで起こった何もかもを吹き飛ばした感がある。撃墜の後で各国指導者が示した安堵の表情は忘れられない。亡くなった一人ひとりとその関係者にとっては悲劇でも、政治的にこの事故はなんとも都合のよいものだった。乗客の多くはカナダの大学に留学しているイラン人で、頭の中のかなりの部分が西洋人と同じになっているような人々である。ソレイマニ司令官を崇拝していたような層(カナダに留学するなどのような高等教育にはなんの関係もないような階層)にとって、これらの人々はほとんど敵のようなものだろう。それが、そういう人々がああいった形で百数十人亡くなったのだから、この撃墜はソレイマニ司令官の爆殺とちょうど釣り合っていると言えなくもない。ウクライナ機の撃墜によって、ソレイマニ司令官の爆殺によって生じたバランスの狂いは完全に調整されたと思う。