グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

バイデン

「スーバーチューズデー」も終わり、大統領選挙の季節が近づいてきた。大統領選挙の季節が近づいてきたということは、陰謀論の季節が近づいてきたということだ。考えてみたら、前回の大統領選挙も半分くらいは陰謀論で結果が決まったようなものかもしれない。全くもって、ヒラリーみたいな人物は陰謀論のターゲットとしてうってつけだったと思う。そしてヒラリーとは全く逆の人物が大統領になった後、リベラルメディアは気違いのようになって「ロシア疑惑」に熱中した。結果が決まってからほとんど2年半もの間、陰謀論にうつつを抜かしていたのである。保守であるかリベラルであるかを問わず、アメリカ国民は陰謀論が大好きなのだ。さて、「スーバーチューズデー」の結果からすると、どうやら民主党の大統領候補者はバイデンになりそうだと言われている。マイノリティー票の動向や、選挙から撤退した中道候補の支持者の票がどこに流れるかを考えるとサンダースが勝つとは思えないから、僕もバイデンが勝つと思う。楽しみなのは、バイデンで選挙戦になった場合、どんな陰謀論吹き出してくるか、ということだ。善良な人柄で知られるバイデンだが、僕が思うにバイデンは叩けばいろいろ出てくる人なのではないかと思うのだ。バイデンはオバマ政権で副大統領だった。それだけで陰謀論のターゲットとしては文句なしだろう。今回の大統領選挙の結果はほとんど最初から決まっている。リベラルメディアでも「バイデンが大統領となるこれだけの理由」みたいな論評を僕は一度も見たことがない。もしバイデンが2期大統領だったとすると退任する頃には86だ。これほどの高齢者を大統領にするなどどう考えても常軌を逸している。そういうわけで結果は決まっているようなものなのだが、とりあえず大統領選挙は行わなければならないわけである。結果が予想できるだけに良い見世物になるのではないだろうか。

正義マンとそれに対する苛立ち

少し興味深いブログのエントリーを見た。ちょっと前に痴漢を取り押さえようとした男性が階段で突き飛ばされ、一時は意識不明の重体になったことがあったが、この男性を「正義マン」でとして嘲笑するという風潮を問題視するエントリーだった。僕は「正義マン」という言葉はそれで初めて知ったのだが、正義マンという概念はなかなか興味深いと思った。それでは正義マンの何が興味深いのか?それには、現実ではなくフィクションの世界を考えるとわかりやすい。アメコミや映画などではいろいろな何とかマンがでてくる。これらの何とかマンは、人類を救うために自らの危険を顧みず、悪の組織などに立ち向かう。人類を破滅させることができる位なのだから当然、敵は強い。一方、正義マンが立ち向かうのはまったく強くない。正義マンが立ち向かう相手は別に人類を滅亡に導くような秘密兵器を持っているわけでもないし、なにか人並み外れた特殊能力があるわけでもない。逆に、だれであっても一方的に攻撃を加えることができるような絶対的弱者である。そこが世間の苛立ちを誘うのだと思う。正義というのは多かれ少なかれ迷惑なことが多い。今回の事例だって、階段で突き落とされて意識不明になったら膨大なリソースを消費するし、職場にだって多大な負担が生じる。ある意味、素人が余計なことをしなければこれらのコストは生じなかった、ともいえる。今回嘲笑のターゲットになった男性がどのような人物なのか僕には分からない。しかし、正義マン的な正義には必要以上に近づかないのが賢明で、また道徳的であると思う。そして、正義を行う場合、人はそれに対して謙虚になるべきではないだろうか。正義とは多かれ少なかれ迷惑なものであるのだから。

ブルームバーグ

ブルームバーグが大統領になりたかったのは事実だと思う。しかし、ブルームバーグは大統領に受動的な形でなりたかったのだと思う。つまり、アメリカ中の国民が自然に「そうだ!ブルームバーグがいるじゃないか!ブルームバーグに任せてみよう!」みたいなことを言いだして、いつの間にか自分が大統領になっている、というのがブルームバーグの願望だったと思うのだ。ブルームバーグには自信があった。金融の世界で大成功し、ニューヨーク市長としても十二年間大成功した。元々金融業界にいたからデータに明るく、大富豪だから人脈も豊富で、問題があっても自分ならば解決できる、とブルームバーグは信じていた。そんなブルームバーグからみると、今の大統領戦の候補者はまったくどうしようもない人々に見えたはずで、だから世の中にはそのうちブルームバーグ待望論が自然と盛り上がってくるはずだ、とブルームバーグは考えていたのではないか。そして、そのようなことが起こらない限り自分が大統領になることはない、ともブルームバーグは考えていたと思う。しかし、大統領選が近づいても、そのような声は一向に聞こえてこなかった。共和党ではブルームバーグに対する待望論は皆無で、仕方なく民主党に鞍替えしたが(トランプと同様、元々民主党員である)民主党でもブルームバーグ待望論は聞かれなかった。それでも、アメリカ国民に選択肢を提示する義務がある、とブルームバーグは考えて、一応は予備選にでてみたが、はっきりいって大した意欲はなかったと思う。バカだなあ、自分に任せておけば絶対にうまくいくのに、なんて感じのことを、今ごろブルームバーグは考えているのではないだろうか。ブルームバーグみたいな人物について、いったいどのように評価すべきなのだろうか。アメリカの歴史を通して、ブルームバーグみたいな人物が大統領になったためしはないのであるが、正直僕はアメリカの大統領がカリスマ性に満ち満ちている必要があるとは思えない。もちろん、年齢が年齢だから、その時点でブルームバーグが大統領になる可能性は低いわけで、この点ブルームバーグはいろいろタイミングが悪い人であった。そして、この点について考えるだけでも、ブルームバーグは大統領になるべくしてなるような人物ではないという印象があるのも事実である。しかし、だからこそ、と言ったらよいのか、もしブルームバーグみたいな人物が大統領になったらそれは本当に画期的であったと思う。

一斉休校

一斉休校でわかった日本人のレベルの低さ

https://www.newsweekjapan.jp/obata/2020/03/post-40.php

一斉休校のために子供の学力が低下するというのにこれを懸念する国民がいない!日本は終わった!という意見は、どう考えても終わっている。学校の授業が一ヶ月短くなったからと言って何が変わるわけでもないのは誰でも分かっていることで、だからみんな授業がなくなったことに対して反対しないのである。子供の学力は学校の授業では決まらない。読書をしていたか、とか、民間の教材を使った受験勉強をしているかどうかなど学校の外で決まる。もちろん読み書きや九九など最低限必要なレベルの学力を保証するために学校教育は必要だが、学校教育でできるのはそれまでであとはいくら学校教育をしたとしても子供の学力は頭打ちとなるだろう。それならば、学校を休校にして子供に学校外でいろいろな経験をさせた方が長期的には子供にはよいかもしれないし、そもそもにして日本の子供の学力が低いことで困っている人など僕はこれまで見たことがない。託児所が閉鎖されて困る人はいても授業がなくなって困る人がいないのは当然で、誰も困ってもない問題に大騒ぎする方が逆に終わっているのである。

JASRACと裁判所

例の音楽教育業界とJASRACとの間で争われていた裁判だけれども、つまりは著作権のある楽曲でビジネスをしているのだからその対価を払え、ということだと思う。極端な例を考えれば、たとえば音楽教室が大ヒット曲を使ったレッスンで一億円儲けたとして、著作権者に楽譜代だけしか入らないというのはやはりおかしい。だから音楽教室から利用料を徴収するのは別にかまわないと思うし、それがいやなら音楽教室著作権が切れた(しかもはるかに音楽的な価値のある)楽曲だけ使ってレッスンすればよいのである。問題は、この利用料の徴収を、現行法の解釈をねじ曲げる形で行おうとしていることだ。レッスンの受講生と「不特定多数の聴衆」が全く別のものであることは、法律の問題以前に完全に常識の問題ではないか。このような問題は法解釈のねじ曲げではなく著作権法の改正によって解決されるべきなのは明らかで、この観点から高裁はJASRACではなく音楽教室側を勝たせるべきである。

「ヘイト本」の反対は真実か?

ヘイト本、一方的に送りつけられ… まちの本屋の苦悩

https://www.asahi.com/articles/ASN2Q7SMLN28UCVL005.html

実のところ、ベストセラーとなるような本というのは価値のない本など1冊もなく、すべて何らかの価値があると思う。それらの本には何らかの形でいくらかの真実が反映されており、そのためにベストセラーはベストセラーになるのである。これは「ヘイト本」に関しても例外ではない。これら「ヘイト本」の著者の見識は往々にしてあまりに一面的であるけれども、一面的だからといって「ヘイト本」の内容がすべて間違っているということにはならない。一面的な本にはただ事実の一面が書いてあるだけである。もし「ヘイト本」の内容がすべて虚偽であるならば、ヘイト本の内容と正反対の本は真実そのものであるはずだが、そんなことがあるわけないのは理性があるものならば誰でも分かっていることで、結局は「ヘイト本」も「反ヘイト本」も同じようなものなのである。「ヘイト本」も「反ヘイト本」も、司法制度のようなものではないだろうか。検事は被告の刑罰をできるだけ重くしようとする。弁護士は被告の刑罰をできるだけ軽くしようとする。「ヘイト本」を出版するな!という主張は、弁護士は悪人を弁護するな!と言うようなものである。検事と弁護士の両者があって初めて事実が明らかになる。検事だけでも、弁護士だけでも真実は分からない。本の世界も同じだ。全く異なった価値観によって書かれた本があってこそ真実が明らかになるのである。

中国とクリエイティビティー

もし強権国家で行われるポリシーが正しいものであったとすると、自由主義国家よりも強権国家の方が効率的であるように見える。特に、新型ウィルスの感染拡大みたいな非常事態においては、国家の強権による速やかな対応は非常に有効であるだろう。しかし、強権国家では他人も社会も信用できないから国家による強権が必要とされる、という説明を聞くと、そもそも効率的だから何なのか、という気分になってくる。社会も他人も信用できない社会に暮らすということは、社会や他人から自分を守ることに大量に頭のリソースを使わなければならないということで、そんなことをしていればろくなアイディアも出てこない。日本はとかく危機意識が足りていないとよく言われるし、それは事実であるのだが、しかし危機意識がないからこそ現実とは全然関係ないようなことに取り組める、ともいえる。そして、現実に大きな影響を及ぼす画期的なアイディアは日本のような国から出てくるのだ。今回の新型ウィルスによって、どのような年齢層においてどの程度の死者が出るのかはまだ分からない。しかし、死者が出たところでそれはせいぜい数百人とか数千人のレベルだろう。毎年の普通の肺炎やインフルエンザによる死者数、自殺による死者数、交通事故による死者数などと比べると別に大したことがないともいえる。もし新型肺炎に対する対処が効果的だからといって中国が日本よりもすぐれた国であると考えるのならば、それは見当違いに過ぎない。