グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

福祉は誰のためにあるのか?健康で文化的な最低限度の生活を営む「義務」について

貧困がどこまで許されるか、というのはシンプルな話で、貧困が社会に損害を及ぼさない限り、というのが実際のところだと思う。

貧困というのは社会に損害を与える。貧困状態にある人間とか、貧困状態で育っている子供というのは深刻な社会的コストなのだ。そういう貧困がもたらすコストの計算もできないような低能に限ってエリート面をしているから困るのだが、貧困というのは深刻なコストである。

貧困がコストであるというのはどういう事か?説明のためにいささか極端なたとえ話をするが、仮にここに貧困状態のため家に風呂がなく、しかも銭湯などで入浴することもロクにできないので異臭がするくらい不潔な人がいるとする。「働かざるもの食うべからず」なのだから、そういう人間も当然どこかで働くわけだが、しかし風呂もロクに入らない人間はどこで働くべきなのだろうか。

少なくとも、レストランとか食いもの関係というのはやめてもらいたい所だ。そんな不潔な人間が調理するものなんて食べたくないし、不潔な人間に料理を持ってきてもらっても食べる気をなくす。客からは姿が見えない事務の仕事などはどうか?そんな人間の隣で働くなど拷問そのものだろう。

さらに、その貧困状態にある人間が仕事場に向かうとき、いったいどのような移動手段を使うのかも問題になる。歩きとか自転車などだったらいいが、これが満員電車とかだったら悲惨である。不潔な人間に体を押し付けられる乗り合わせた乗客はたまったものではない。これが朝だったらその日はずっと最悪な気分で過ごすことになるだろうし、場合によっては心理的外傷で精神障害を発症する可能性もある。

ここで問題になるのは、それでは風呂に入る(あるいは少なくともシャワーを浴びる)という権利はいったい誰のためにあるのか、という事である。

福祉というと、その利益を享受するのは福祉を受ける人間であるというのが世間一般の理解である。僕は、福祉に関するあらゆる議論が混乱するのはこの世間の理解が根本的に間違っているからだと思う。

先ほどの例でいえば、もし貧困者全員が風呂・シャワーを日常的に使えるならばだれも不潔な貧困者に接して不快になるという経験をせずにすむ。一方、風呂・シャワーも使えないほどの貧困状態が社会に蔓延していると、清潔で快適な生活を送るという貧困状態にない人間の権利が侵害される。風呂・シャワーを使う権利は誰のためにあるのか?清潔で快適な生活を送る権利を有する周りの人間のためにあるのである。

憲法によると、国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を有すると定められているけれども、これは実際には権利というよりは義務なのではないだろうか。健康で文化的な最低限度の生活を営んでいない人間は周囲に被害を及ぼすのである。だから国家には国民が最低限度の生活を営めるよう支援する義務がある。そうでなければ、義務教育を受ける義務があるのに公立の学校がない、というような話になってしまう。

「最低限」という表現が具体的に何を意味するか、というのも、この観点から理解されるべきだろう。それは、これ以上貧困がひどくなると社会に迷惑が及び始める最低限である。