グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

議論という形式の問題点

僕は基本的に、ネットで議論はしないことにしている。なぜかというと、議論なんてしなくても全く問題はないからだ。

議論という形式のどこが問題なのか、というと、自分の考えを表わすために争いという形をとる所に問題がある。争いになると当然、勝った負けた、という話になる。しかし、はっきり言って世の中には「負けました」と言える人はほとんどいない。僕なんかは自分の言っている事よりも相手の言っている事の方が説得力があったら平気で考えを変えて、自分がどういう理由で考えを変えたのか説明するけれども、そのようなスタンスを取る事ができる人というのは例外的である。負ける事ができない人同士で争いをしているわけだから、まともな議論が成り立つわけがない(そもそも、議論というものに勝った負けたという考えを持ち込む事自体が問題なのだが)。

その他にも、議論という形式にはいろいろな問題点がある。その中でも大きいのは、議論というのは争いなのでどうしてもゴタゴタするという事である。すっきりした争い、理路整然とした争いというのは存在しない。ようするに、議論というのは何を言っているのか分かりにくい。はてな左翼の内輪もめなど、もう一目みるだけで読む気をなくす。

一人で文章を書いていても、物事をすっきりとまとめるというのはとても難しい。それを二人でやるわけだから、論争を読んでいる第三者から見ると何を言っているのか分けがわからなくなる。だいたい、論争というのは相手が何を考えているのか分かっていないから論争になるわけで、訳が分からなくなるのは当然とも言える。それでも、本気で相手の考えを理解しようと議論をするならまだいいが、そのような心掛けをもって議論をする人などほとんどいない。

議論というのは自分の考えを表す形式の一つに過ぎない。つまり、議論というのは相手を利用して自分の考えを表しているわけだが、議論を通して表せる考えは別に議論しないでも表せる。ブログならば、何か世の中から反応があれば、その反応に応じて新しく自分の立場を解説するエントリーを書けばいいだけの話だ。エントリーを書く際に、内容を自分に対する反論などに依存しないようにするのがポイントである(具体的には、その反論などを読まなくても読める記事を書くということ)。つまり、再反論ではなく、相手の反論にインスパイア―された記事を書くのである。そうすると、下らない泥仕合に巻き込まれる事もないし、記事もそれ単体で有意義なものになる(あくまで一般論である。具体的に、泥仕合に巻き込まれそうになって迷惑したことがある、ということを言いたいのではない)。