グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

国語の授業で「山月記」をどう取り上げるべきか

先ほど「山月記」関連に関するエントリーを2つ書いたが、山月記というのは国語の授業でどのように取り上げられているのか気になったので調べてみた。

ものを書くことを好む人が多いのか、どうも国語教師というのはネットをやる人が多いようで、検索をすると「山月記」の授業に関しても膨大な量のエントリーが見つかる。

それを見ていて改めて思うのは、「山月記」を授業で取り上げるというのは結構難しいなあ、ということだ。

 

まず、「山月記」が李徴のような人間を煽りまくる目的で書かれたという側面があるのは間違いないだろう。

文学の世界では、今も昔も李徴のような人間には事欠かないわけで、中島敦に李徴のような生き方を批判する意図があったのは間違いない。

中島敦には書くことがなくなったのに作家という肩書にしがみつく職業作家を批判した一文があるが、職業作家に対する認識がこれなのだから、李徴のような生き方をしている者に対する認識はより厳しいものであっただろう。

だから、「山月記」を俗人受けする説教と考えるのはある意味では間違っているとは言えない。

globalizer-ja.hatenablog.com

その一方で、「山月記」に出てくる虎の置かれている状況と、中島敦が置かれている状況との間には対応関係がある。

「格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるもの」だが「第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」未発表の作品を「長短およそ三十篇」書き溜めているのは李徴も中島敦も同じである。

李徴は「進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたり」することなく詩作を続けたが、中島敦も文学コミュニティーからは距離をおいて創作活動をつづけた人物で、人生の大半は無名であった。

さらに、李徴は完全に虎になりつつある事で創作活動を終えようとしているが、中島敦も持病である喘息のために、「山月記」を発表して10か月で亡くなっている。

山月記」の虎は洞窟で横になって「長安風流人士」によって作品が読まれる夢をみているが、中島敦も病床にありながら文学で名を成すことを願っていた。

李徴は袁参の一行に自らの作品を口述するのも、中島敦が亡くなる前にこれまで書いたものを知人にまとめて委託することに相当するし、妻子を心配する前に作品がどうなるかという心配をしてしまうところまで一緒なのである。

そう考えると、「山月記」には中島敦の自己総括という側面もあることは間違いない。

globalizer-ja.hatenablog.com

もちろん、中島敦は概ね李徴よりもハッピーな人生を送った人であったということには注意が必要であるだろう。

中島敦は大学卒業後の人生の大半を女子高の教師として過ごしたが、その職業生活は(喘息による体調不良を除き)全く順調なものであったと伝えられる。

大学院を中退して女子高の教師になったのも、雀荘に入り浸った挙句に雀荘の女性店員と出来婚をしたからで、文学の才能に絶望していたわけでもなんでもなかった。

hamarepo.com

しかしながら、中島敦には教員生活を楽しむ一方、どこかで「こんなことをしていていいのかなあ」という気分もあったのだろう。

山月記」の後半は恥も外面もなく泣き叫ぶような感じになっていて、これは受けを狙って悪乗りをして書いたのか(ある種の本当なのかわからない匿名ダイアリーのエントリーのように)、それとも精神的に弱っていたからそのような調子になったのかは分からないが、それでも自分の文学者としての生涯を振り返った時、多少の後悔はあったのかもしれない。

だから中島敦は、李徴のような人間を批判しながらも、自分にも李徴のような部分があるなあ、と内心考えていたのではないだろうか。

 

李徴はどうして虎になったのか?

 李徴を猛獣のように支配する羞恥心や自尊心が、李徴の外面をも猛獣のように変えたから(40字)

まあ、正解であろう(たぶん)。

しかし、本当のことを言えば次のような回答のほうがより真実に近いような気がする。

「虎人伝」という中国の古典をネタ元にしているから(25文字)

ある意味、「李徴はどうして虎になったのか?」という問いは全く見当違いのものといえる。

李徴が虎になったのはそのほうが話が面白くなるからで、それ以上の意味はない。

重要なのは、虎の置かれている状況と中島敦が置かれている状況は同じようなものだったということで、このことを理解しないと「山月記」の内容は良く出来た作り物のように思えてしまう。

 

国語というのは、基本的には作品に書いてあることだけに基づいて成り立つものである。

だから、国語の授業が「李徴はどうして虎になったのか?」というような問に答えるためのものになるのは仕方がないし、ある程度はそうあるべきだ。

しかし、問いに正解することと作品の内容を理解することは別の話である。

そして「山月記」を「山月記」に書かれた内容だけを考えて読んだ場合、大したものは出てこない。

そこに「山月記」を扱うことの難しさがあると思う。

 

山月記」の授業に関するエントリーを見ると、作品の理解と正しく文章を読む技術を教えるという2つの目的を同時に達成しようとして、どちらも中途半端になっている授業が少なくないように思える。

僕が国語教師ならば、「山月記」の授業は「このような作品を読むと、国語教師はこの点とこの点に注目して、このような問題を作ります。回答がここを押さえていれば何点、ここを押さえていれば何点です」という風に授業を進めると思う。

おそらく、作品の仕組みよりも国語という教科の仕組みを教えることに重点を置いた方が間違いなく役に立つ。

その一方で、「山月記」を執筆中の中島敦は虎のような状況にあった、というような、作品の内容の理解に役に立つことをオマケとして話せばいいのではないかなあ、ということを無責任に思った。

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