教師は学校がブラック職場である事にどれほど責任があるか
最近、教育現場での労働が過酷であるというような話題がはてなブックマークのタイムラインにも乗るようになった。
教師の仕事というのは普通の人が思っている以上に激務で、統計によると小中学校の教師はみんな40時間以上の残業をしていて、小学校教師の7割、中学校教師の9割が60時間以上の残業をしているという。
60時間以上残業をしている勤務医は6割だから、いかに教師の労働が過重であるかがよくわかる
人間が過労死するラインは残業100時間とされているので、教師というのは本当に過労死寸前の状況で働いているのだ。
もちろん、この統計がどれほど実態を反映しているかは分からないし、平均的な勤務医よりも平均的な教師のほうが過酷と言っても本当かな?と思うのが正直なところだが、そのような比較をしなくても絶対的なレベルで学校がブラック職場であるという指摘はある程度は当たっているように見える。
しかし、このような過重労働について、教師が無理な事をやらされてかわいそう!という感傷的な意見ばかりが聞かれる事に僕は強い違和感を感じる。
というのは、このような意見というのは、それでは教師にこのような過重労働をさせているのはだれなのか、という観点が全く欠如しているからである。
一体、誰が教師に過重労働をさせているのだろうか。
そして教師の過重労働に対する責任は一体どこにあるのだろうか。
教師の労働環境についてのエントリーを読んで僕が思い出すのは去年大きな社会問題になった「組体操」である。
組体操の事故の件数は普通の人が考えているよりもはるかに多く、2014年には2,000件くらいの骨折があった。
子供に障害が残るケースもかなりあり、いくつかは訴訟になっている。
相次ぐ組体操の事故のために、教師の無責任と卑劣な責任逃れに対して世間の非難が集まった。
僕も組体操による被害の深刻さに驚いた者の一人である。
しかし僕がそれよりも驚いたのはこれほどの非難を浴びても組体操に執着する教師が多い事だった。
例えば、組体操の問題が騒ぎになる前の2015年には大阪市の小学校と中学校では合わせて348校で組体操が行われ、42人が骨折した。
そして世間の非難と文科省の(ヌルいとしか言いようのない)通達があった2016年には組体操を実施した小中学校は225校で、骨折した生徒は12人だった。
被害者が30人減ったとはいえ、去年になっても運動会のような下らないイベントで12人も骨折した生徒がいるのだ。
大阪市だけで12人である。
そしてこれまで組体操で生徒を障害者にしたり殺してきた(過去46年間で9人死んでいる)教師と、世間が同情する過剰労働のために月60時間もの残業をする教師は同じ教師なのである。
運動会を開催するのにどれくらいの時間がかかるのか僕には分からない。
しかしプログラムを決めたり準備をしたり生徒に猿回しを仕込むのにそれなりに時間はかかっているだろうと想像する事はたやすい。
そしてこれらすべてのために使われる時間分、教師の睡眠時間は減ることになるのだ。
被害児童に裁判でも起こされたら、訴えられた教師の睡眠時間はさらに減る事になるだろう。
正直に言って、組体操をしながら労働環境の過酷さを訴える教師がいても僕は一切同情しない。
いじめの問題などを見ても分かるように、学校というのは教師に強い自治権が与えられている。
教師は学校ではなんでも出来る。
学校が運動会をしなければならない、とか、運動会では組体操をしなければならない、と定める法律など何一つない。
これらはすべて教師が自分でやっている事なのだ。
運動会なんて「授業の研究をするために運動会はやめる事にします」といえば簡単に止められる。
そして運動会だけではなく、教師の過重労働のかなりの部分は教師によって作られているのではないかと僕は疑っている。
もっというと、これらの過重労働が100%生徒のためを思って行われているとも僕は思っていない。
教師の給料は、高いか安いかについては議論があるだろうが、まあ大体一般の公務員と同じ程度のようである。
給料だけをみればやや恵まれているといえるかもしれない。
しかし世の中を見ると、高給の仕事というと大抵、激務・重責・転勤の3点セットになっている。
つまり、教師の給料というのは毎月何十時間もサービス残業をして、生徒の一生を左右するかもしれない成績を付け、時にはとんでもない僻地や暴力が吹き荒れる「困難校」やその他のしんどい学校に飛ばされる事などを織り込んだ上で決まっているのだ。
そしてこれらの教師の仕事の過酷さというのは、究極的には教師がすべての権限を抱え込んでいる事からくる。
すべてを抱え込むから教師は教師なのであり、それに対して世間的にはやや恵まれた賃金が支払われているのだ。
以前、財政難のために埼玉県で公務員の退職金が引き下げられた事がある。
その時に埼玉県の一部の教師が早期退職をして以前と同じような退職金を受け取った後で再雇用され、何事もなかったかのように平然と教壇に立ち続けたとして世間の非難を浴びた。
このプロセスが具体的にどのようなものだったのかは分からないが、もし僕が校長ならば「そのような浅ましい人間を再雇用する事は絶対にありません。もし退職するならばその事を全校朝会で話をします」くらいの事は言ったと思う。
しかし高々数十万のために早期退職し、すかさず再雇用された教師がいるという事はその周りにそれを当然と思うような人間がたくさんいた、という事を意味する。
天下りの問題を見ても分かるように、官僚には(あるいは官僚になるような人間には、と言った方が正しいのかもしれないが)独特の金銭感覚がある。
この独特の金銭感覚は、おそらく学校がブラック職場である事と関連する。
もし教師が権限を委譲して学校がブラック職場で無くなったとしたら、教師の待遇は間違いなく切り下げられるだろう。
教師という仕事は重要だから云々などと言ってもどうしようもない。
他の職業だってそれぞれに重要なわけだし、そもそもにしてその重要な仕事を非常勤・低賃金でやっている教師がいるのだ。
教師がどのように働くべきかという問題は未来の学校はどのようなものであるべきか、という問題に直接つながる。
少しばかりの高給を与えて猛烈に働かせる、という方法は確かに財務省的には効率的であるだろう。
しかし、このような働き方(あるいはそのような働き方をする人)というのはこれまで行われてきた教育と一対一に対応する。
そのような教育システムは確かに強力なものであるが、その弊害もまた著しい。
今のような方法で学校を運営し続けるのは無理なのではないだろうか。
おそらく、教師に集中している権限は分散化させる方向に行くと思う。
若手の総務官僚が県庁に出向するように、文部科学省の官僚が学校の管理職になるみたいな事だってありうるかもしれない。
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