もし体育の授業が筋力トレーニングだけになったらどうなるだろうか
以前ネットで、体育の授業は全部筋力トレーニングにすればいいのではないか?という内容の記事を読んだことがある。
今改めて考えても素晴らしいアイディアだと思う。
本当に体育の授業というのは、何のためにあるのか分からない。普通授業というのは教師が何かを教えるから授業なのだと僕は理解しているが、体育の授業で教師は何も教えていない。あるいはほとんど何も教えていない。
柔道の授業ならただ組ませるだけ、サッカーの授業ならただボールを蹴らせるだけ。教師はただ見ているだけである。個人個人の運動能力を見て適当なマッチングをすることすらしていない。
体育の授業のなにが不愉快なのかというと、それが集団で行うものだということである。
これがほかの教科ならば、たとえ授業に一切ついていけなくても自分が退屈するだけで他人に迷惑が及ぶことはない。ところが体育の授業では、運動能力がないと他の生徒と軋轢が生じる。ここで授業の内容が柔道とかだと運動能力がなくても問題はないが、体育の授業には球技があるからそうはいかない。
クラスでの対人関係がうまくいっていないと二人一組で組んで行う活動も苦痛である。もっというならば、体育というのはいじめを始めるきっかけとしても最高だ。本当に、体育の授業は生徒にいじめをする機会を提供するためにやっているのではないかと思うくらいだ。
しかし、ここで、体育の授業を筋力トレーニングだけにしたらどうなるか?
まず筋力トレーニングのいいところは、どんなことがあっても他人に迷惑がかからないことである。
筋力トレーニングは一人でやるものだから、基本的に他人の存在は関係ない。当然、運動能力の有無など一切関係ない。運動能力がある生徒もない生徒も同じことができる。
さらに筋力トレーニングのいいところは、やれば必ず結果が出るということである。
今の体育の授業を何百時間受けたところで何の進歩もないが、筋力トレーニングはやればやっただけ結果が出る。何百時間筋力トレーニングをしたら体育の授業をしているだけの場合とは決定的な違いが出るだろう。
もちろん、体質によって筋肉が付きやすい生徒と付きにくい生徒とで差が出てくるだろうが、筋肉が付きにくいからといって他人の迷惑になることもない。
いじめの防止にも、体育の時間を筋力トレーニングにするのは有益だとおもう。
結局、ガタイが貧弱だからナメられるわけで、もし全員が体を鍛えていたら相手も殴り返してくるかもしれないからいじめにも慎重になるだろう。
少なくとも、いじめられている生徒の方では、ただいじめられて泣き寝入り、というのではなく、新しい方向性を見つける一助になるのではないか。
最後に、筋肉は実際に生きる上で役に立つ。
筋肉がないよりもあった方が人生の可能性が広がる。もちろん、筋肉が個人個人の問題をすべて解決するわけではないが、体育の授業なんかよりも比べものにならないほど役に立つのは明らかだ。
僕はスポーツも学習の一種だと考えているので、適切なトレーニングを行えば運動能力のない生徒の運動能力を向上させることは普通に出来ると思う。
しかしながら、今の体育教師には生徒の運動能力を向上させようとする意欲もなければ能力もない。
それで能力別の教育は絶対にイヤ!だというなら、もう体育の授業は全部筋力トレーニングにした方がいいと思う。
それはまさに文字通り「体育」であるわけだし、やればやっただけ成果がでる活動を長期的に続けることは教育として非常に意義があるのではないか。
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