グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

言論の自由という茶番

私は講演会を中止に追い込まれたり、サイン会会場を爆破するぞという脅迫を受けたり、あるいは私のサイン本を置く書店の不買運動をネットで呼び掛けられたり(津田大介もそれをした1人)ということを何度も経験していますが、あなたは一度でもそれに対して何か言いましたか?

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国が、法が定める範囲内において民間が独立に行う表現活動に干渉しない、という意味での言論の自由ならば、それはだれもが当たり前に思っているだけで現にはっきりと存在しているわけだが、市民レベルにおける言論の自由となると難しい。なぜなら、そうなると言論の自由とは一言で言って、自分にとって不愉快なことを言う他人の権利のために戦うことだからだ。いったい、敵のために戦うまでする人が何人いるのだろうか?ほとんど、というか完全にゼロではないだろうか?みんなせいぜい小声で、消極的に反対意見を口にするだけだろう。自分の敵に対して行使される暴力はよい暴力、自分や自分と同じイデオロギーを信じるものに対して行使される暴力は悪い暴力。みんな内心ではこう思っているのが現実で、それは古今東西例外がないしこれからも変わらないだろう。でも、それでいいのではないだろうか。今回中止になった展示が歴史に関する省察(どうでもいいが、これはしょうさつではなく、せいさつと読むものだと今スマートフォンに教えてもらった)を深めるためになんの役に立つのかというと、なんの役にも立たないだろう。単にお馴染みのステレオタイプを増強する役割を果たすだけ。新しい視点があるわけでもなく、下らない。下らないから暴力を行使すべきと言いたいのではないが、しかし今回の事例をみると、下らないから暴力を行使されるという側面はあったように思う。世間の暴力的な反応を引き落とすから表現の質が高いかというと、そうでもない。言論の自由がどうこう言う前に検討すべき事実である。