グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

正義マンとそれに対する苛立ち

少し興味深いブログのエントリーを見た。ちょっと前に痴漢を取り押さえようとした男性が階段で突き飛ばされ、一時は意識不明の重体になったことがあったが、この男性を「正義マン」でとして嘲笑するという風潮を問題視するエントリーだった。僕は「正義マン」という言葉はそれで初めて知ったのだが、正義マンという概念はなかなか興味深いと思った。それでは正義マンの何が興味深いのか?それには、現実ではなくフィクションの世界を考えるとわかりやすい。アメコミや映画などではいろいろな何とかマンがでてくる。これらの何とかマンは、人類を救うために自らの危険を顧みず、悪の組織などに立ち向かう。人類を破滅させることができる位なのだから当然、敵は強い。一方、正義マンが立ち向かうのはまったく強くない。正義マンが立ち向かう相手は別に人類を滅亡に導くような秘密兵器を持っているわけでもないし、なにか人並み外れた特殊能力があるわけでもない。逆に、だれであっても一方的に攻撃を加えることができるような絶対的弱者である。そこが世間の苛立ちを誘うのだと思う。正義というのは多かれ少なかれ迷惑なことが多い。今回の事例だって、階段で突き落とされて意識不明になったら膨大なリソースを消費するし、職場にだって多大な負担が生じる。ある意味、素人が余計なことをしなければこれらのコストは生じなかった、ともいえる。今回嘲笑のターゲットになった男性がどのような人物なのか僕には分からない。しかし、正義マン的な正義には必要以上に近づかないのが賢明で、また道徳的であると思う。そして、正義を行う場合、人はそれに対して謙虚になるべきではないだろうか。正義とは多かれ少なかれ迷惑なものであるのだから。