グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

演劇と世の中の変わらなさ

演劇界隈炎上への雑感|出世景清|note

https://note.com/waratteyoritomo/n/ne7af1edc2e32

演劇界は「貧乏だから支援してほしい」のではない。芸術を失うことが社会的な損失になる理由【劇作家・平田オリザ】 | J-WAVE NEWS

https://news.j-wave.fm/news/2020/04/post-5702.html

芸術というのは維持するのにとてもコストがかかる。そのコストにはいろいろなものがあるが、世間が負担する心理的なコストも無視できないだけあるだろう。はっきりいって、芸術に関わる人たちには面倒な人が多い。それは今回、コロナウイルスの影響を受けて打撃を被った演劇業界への支援を求める演劇関係者の態度を見てもわかる。これらの関係者の発言には、どこか人々を苛立たせるものがある。同じ内容でも他の言い方をすれば世間は少しは納得するはずのものでも、わざわざ世間の神経を苛立たせるような言い方をしてしまう(そして言った後で、別の言い方をすればよかったな、と後悔したりするのだろう)。まあ、そのような演劇関係者は一部の既得権益がある人たちだけなのかもしれないけれども、たぶん演劇関係者の中にはそういう人たちが沢山いて、そういう人たちはそういうところがあるから演劇なんかをやっているのである。それでは、今回のコロナウイルスの影響でそういう人たちの居場所がなくなってしまったらどうなるか?こういう人たちの才能は演劇でしか発揮されないものだからこれは社会の損失であるというのが演劇関係者の主張で、確かにそれはそうであるのだろうが、その一方でべつに演劇なんかがなくなっても世間がお構いなしに動いていくのは間違いない。もし演劇がなくなった影響でテレビがその分だけ面白くなくなったとしたら人々のテレビを見る時間がその分だけ少なくなるだけだし、何かの因果で逆にテレビが面白くなるかもしれない。そもそもにして、演劇というのは多額のコストがかかる表現であるというのが問題なのだから、演劇がなくなっても単に演劇からもっとコストのかからない表現形態へと才能が移動するだけなような気もする。今年の夏、オリンピックはなくなった。そして世間はオリンピックなんて完全に忘れてしまっている。もちろん来年とか再来年にはオリンピックがあるのだろうが、もしこれがなくなったとしてもオリンピックのことなんて世間は忘れたままだろう。オリンピックですらそうなのだから演劇なんかはなおさらどうでもいいわけで、演劇関係者はこの当たり前の事実を再確認することになるだけのような気がしないでもない。