グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

N高というのは生徒が参加する高校なんだと思う

N高というのは要するにニコ生のコミュニティーの延長として学校を作ろうという話だと思う。運営のほうも生徒もニコ生ユーザーから引っ張ってこようと考えているだろうし、学校のあり方もニコ生的な要素をいろいろと取り入れているはずだ。それで思うのは、N高が他の学校とどこが違うのか、というと、生徒が自主的に学校に参加できるという所が違うのではないかと思う。

そもそもにして、N高に進学しようという決断をすること自体が自主的である。どこの高校に進学するか、というのは大体の場合、受動的に決まる。入試の難易度、治安が良いかどうか、学費がどれくらいかかるか、とかそういう事だ。もちろんこれらの選択に悩む場合も多いだろうけれども、こういう悩みというのはあくまで消極的なものである。田舎のトップ高に進学するとかいうのはその典型だろう。ただ偏差値が一番高いからトップ校に行くだけの事なのであって、その学校の選び方は完全に受動的で進学の際に先のことなど何一つ考えていない。

ところがN高に進学するには自分の意思が必要になる。どちらかというと、あえてN高みたいな高校に進学しようと思う人がN高に入学するわけである。ま、例えばニコ生に入り浸っているからN高にしよう、と考える事が能動的か受動的か、というのは分からないし、子供がどうしようもなくなった状態の親が子供をN高に進学させるという事もあるので、主体的にN高に進学した生徒の割合がどれくらいなのかは明らかではないのだが。

とにかく、N高の生徒だというのはそれ自体インパクトがあると思うのである。筑駒とか灘から東大に進学したところで珍しくもなんともないけど、N高から東大に合格したら神だろう。それなら普通の高校から東大に受かるよりはN高から東大に行って神になってやろう、と考える子供がいてもおかしくない。もちろん現実というのは想像以上に退屈で、そのようなぶっ飛んだ子供なんて実際にはゼロと考えたほうがよいだろうが、その他にもN高の肩書というのを生かせば相当にいろいろな事が出来そうだ。

N高の運命というのは生徒がどれくらい頑張るかによると思う。普通の高校ならば生徒は受動的に学校に行くだけで、生徒がどうなろうが学校は続いていくけれども、N高の場合は生徒が何をするかで学校がどうなるかが変わっていくと思う。ユーザーがニコ生を作るように、生徒がN高を作るという要素も少しはあると思うのだ。

運営の期待に答えるだけの力があるN高の生徒がどれくらいいるかはわからない。もちろん川上量生氏は理想だけ追求してコケるということのあほらしさを良くわかっている人なので、そこらへんは大丈夫だと思うけど、ネット上で生徒からの発信が見当たらないというのは少し気になる点である(ニコ生のアカウントもとって調べてみよう)。1期生が入学したのが今年の4月なのでその内情報も出てくることだろう。