グローバル引きこもり的ブログ

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機械翻訳がまともになってきた

これまでの機械翻訳というものは全く何の役にも立たないものだった。本当になんでこんなにひどいの?という感じの支離滅裂な文章しか出てこないのである。どんなに簡単な英文を入力してもそうなのだ。なんでこんな簡単な英語も訳せないのか不思議で仕方がなかった。

もっとも僕はウェブ上の機械翻訳を試してみただけなので商用の翻訳ソフトはもう少しまともだったのかもしれないが、しかしウェブ上の翻訳ソフトは人間には到底作成できない支離滅裂な訳文を出力するジョークプログラムに過ぎなかった。その当時の翻訳プログラムがどのような技術的困難に直面していたのかちょっと興味があるところだが、しかしとにかくひどかったのである。

ところが最近、機械学習の技術が発達したことによって翻訳プログラムの精度が相当に上がってきたらしいという噂をネットで耳にすることが多くなってきた。機械学習というと将棋や囲碁のプログラムなどが注目を集めているけれども、同じような技術の影響が翻訳プログラムの世界にも及んできたのだ。

それで、最近の機械翻訳はどれくらいマシになったのかと少し試してみたら、これが以前とはくらべものにならないほどまともになってきたので関心した。とりあえず翻訳プログラムならばこの程度はできないとね、という感じで感動とか驚くまではしなかったが、しかし翻訳プログラムの性能がものすごい勢いで改善されているのは分かる。というのは、Google翻訳ニューラルネットになったという噂を聞いて試してみた時には以前の翻訳プログラムと大して印象が違わなかったからだ。

例としてGoogle翻訳ヒラリー・クリントンに関する英語版のウィキペディアの項目を翻訳させてみると、次のような文章が生成される。

 

ヒラリー・ダイアン・ロダム・クリントン(Hillary Diane Rodham Clinton / 1947年10月26日 - )は、2009年から2013年にかけて第67回米国国務長官であったアメリカの政治家、2001年から2009年までニューヨークの上院議員、彼女は1993年から2001年にかけてアメリカを訪問しました。彼女は、2016年の選挙でアメリカ大統領の民主党の指名者でした。
シカゴで生まれ、イリノイ州パークリッジの郊外に生まれたクリントンは、1969年に卒業したウェルズリー・カレッジに通い、1973年にエール・ロー・スクールからJDを取得しました。議会の法律顧問を務めた後、彼女はアーカンソー州に移り、ビルと結婚しました1977年、彼女は子供と家族のためのアーカンソー州の提唱者を共同設立しました。彼女は1978年に法務サービスコーポレーションの最初の女性議長に任命され、翌年にはローズ・ローラント・ファームの最初の女性パートナーとなりました。アーカンソー州ファーストレディーとして、彼女はアーカンソー州の公立学校の改革を助け、いくつかの団体に派遣された特別委員会を指揮した。
クリントンは、米国のファースト・レディとして、1993年のクリントン保健医療計画を制定しようとする努力に失敗しました。1997年と1999年に、国家児童健康保険プログラムの作成を手伝ってくれました。彼女はまた、養子縁組と家族の安全と養育の問題に取り組んだ。 1995年の国連女性会議(北京)でクリントン大統領は、「人権は女性の権利であり、女性の権利は人権である」という論議的で影響力のある演説で述べている。彼女の結婚は1998年のルウィンスキーのスキャンダルから生き残りました。そして、ファーストレディーとしての彼女の役割は、国民からの賛否両論を引き出しました。クリントンは、2000年に選出された。彼女は9月11日のテロ攻撃の後、アフガニスタンでの戦争を承認することに投票した。彼女はまた、イラク決議案(後で彼女が後悔したという投票)に投票した。彼女は、9/11の最初の対応者が直面した健康問題を調査する上で主導的役割を果たしました。彼女はさらに、ブッシュ減税と北極野生動物保護区の掘削に反対した。彼女は2006年に上院に再選された。2008年に大統領に就任した彼女は、以前の女性候補よりはるかに多くの代表を獲得したが、投票を増やしたにもかかわらず民主党オバマ候補を失った[1]
クリントン大統領は、2009年から2013年にかけてオバマ政権の国務次官として、アラブ春に応え、その間にリビアへの米軍の介入を提唱した。彼女は、その国の核計画の縮小を強制するために、イランに対する外交的孤立と国際制裁体制を整えるのを手助けした。 2015年の第2次大統領選挙を発表する前に、彼女は5番目の本を書いて講演をしていたが、これは2015年に多国籍共同行動計画に結びついた。
クリントン大統領は、2016年の民主党大統領選で大多数の投票と一次代表団を受賞し、2016年7月28日に米国大統領候補に正式に党の指名を受け入れた。彼女は、米国の主要政党が大統領にノミネートされた最初の女性候補になりました。彼女は2016年のプラットフォームの一環として、収入の向上、手頃な価格のケア法の改善、選挙資金とウォールストリートの改革を強調しました。彼女は、不法入国者のための市民権、気候変動への対処、LGBTと女性の権利の拡大と保護、育児休暇と普遍的な就学前教育を通じて家族支援を開始することを可能にしました。しかし、国務長官としての在任期間中に個人的にホストされた電子メールサーバーに関する論争は、キャンペーンの閉会日を含む重大な問題となった。クリントン大統領は、2016年11月8日、共和党のライバルのドナルド・トランプ選挙で、国民投票を複数受けたにもかかわらず、選挙で270票も得られなかった選挙を失った。

Hillary Clinton - Wikipedia

 

一文一文、個別に見てみよう。

Hillary Diane Rodham Clinton (/ˈhɪləri daɪˈæn ˈrɒdəm ˈklɪntən/; born October 26, 1947) is an American politician who was the 67th United States Secretary of State from 2009 to 2013, U.S. Senator from New York from 2001 to 2009, and First Lady of the United States from 1993 to 2001.

ヒラリー・ダイアン・ロダム・クリントン(Hillary Diane Rodham Clinton / 1947年10月26日 - )は、2009年から2013年にかけて第67回米国国務長官であったアメリカの政治家、2001年から2009年までニューヨークの上院議員、彼女は1993年から2001年にかけてアメリカを訪問しました。

 

She was the Democratic Party's nominee for President of the United States in the 2016 election.

彼女は、2016年の選挙でアメリカ大統領の民主党の指名者でした。

 

Born in Chicago and raised in the suburban town of Park Ridge, Illinois, Clinton attended Wellesley College, graduating in 1969, and earned a J.D. from Yale Law School in 1973.

シカゴで生まれ、イリノイ州パークリッジの郊外に生まれたクリントンは、1969年に卒業したウェルズリー・カレッジに通い、1973年にエール・ロー・スクールからJDを取得しました。


After serving as a congressional legal counsel, she moved to Arkansas and married Bill Clinton in 1975.

議会の法律顧問を務めた後、彼女はアーカンソー州に移り、ビルと結婚しました

 

In 1977, she co-founded Arkansas Advocates for Children and Families.

1977年、彼女は子供と家族のためのアーカンソー州の提唱者を共同設立しました。

 

She was appointed the first female chair of the Legal Services Corporation in 1978 and became the first woman partner at Rose Law Firm the following year.

彼女は1978年に法務サービスコーポレーションの最初の女性議長に任命され、翌年にはローズ・ローラント・ファームの最初の女性パートナーとなりました。

 

As First Lady of Arkansas, she led a task force whose recommendations helped reform Arkansas's public schools, and served on several corporate boards.

アーカンソー州ファーストレディーとして、彼女はアーカンソー州の公立学校の改革を助け、いくつかの団体に派遣された特別委員会を指揮した。

 

As First Lady of the United States, Clinton led the unsuccessful effort to enact the Clinton health care plan of 1993.

クリントンは、米国のファースト・レディとして、1993年のクリントン保健医療計画を制定しようとする努力に失敗しました。

 

In 1997 and 1999, she helped create the State Children's Health Insurance Program.

1997年と1999年に、国家児童健康保険プログラムの作成を手伝ってくれました。

 

She also tackled the problems of adoption and family safety and foster care.

彼女はまた、養子縁組と家族の安全と養育の問題に取り組んだ。

 

At the 1995 UN conference on women (held in Beijing), Clinton stated in a then controversial and influential speech, that "human rights are women's rights and women's rights are human rights".

1995年の国連女性会議(北京)でクリントン大統領は、「人権は女性の権利であり、女性の権利は人権である」という論議的で影響力のある演説で述べている。

 

Her marriage survived the Lewinsky scandal of 1998, and her role as first lady drew a polarized response from the public.

彼女の結婚は1998年のルウィンスキーのスキャンダルから生き残りました。そして、ファーストレディーとしての彼女の役割は、国民からの賛否両論を引き出しました。

 

Clinton was elected in 2000 as the first female senator from New York, the only first lady ever to seek elective office.

クリントンは、2000年に選出された。

 

Following the September 11 terrorist attacks, she voted to approve the war in Afghanistan.

彼女は9月11日のテロ攻撃の後、アフガニスタンでの戦争を承認することに投票した。

 

She also voted for the Iraq Resolution (a vote she later said she regretted).

彼女はまた、イラク決議案(後で彼女が後悔したという投票)に投票した。

 

She took a leading role in investigating the health issues faced by 9/11 first responders.

彼女は、9/11の最初の対応者が直面した健康問題を調査する上で主導的役割を果たしました。

 

She further voted against the Bush tax cuts, and against drilling in the Arctic National Wildlife Refuge.

彼女はさらに、ブッシュ減税と北極野生動物保護区の掘削に反対した。

 

She was re-elected to the Senate in 2006.

彼女は2006年に上院に再選された。

 

Running for president in 2008, she won far more delegates than any previous female candidate, but lost the Democratic nomination to Barack Obama despite receiving more votes.[1]

2008年に大統領に就任した彼女は、以前の女性候補よりはるかに多くの代表を獲得したが、投票を増やしたにもかかわらず民主党オバマ候補を失った[1]

 

As Secretary of State in the Obama Administration from 2009 to 2013, Clinton responded to the Arab Spring, during which she advocated the U.S. military intervention in Libya.

クリントン大統領は、2009年から2013年にかけてオバマ政権の国務次官として、アラブ春に応え、その間にリビアへの米軍の介入を提唱した。

 

She helped organize a diplomatic isolation and international sanctions regime against Iran, in an effort to force curtailment of that country's nuclear program;

彼女は、その国の核計画の縮小を強制するために、イランに対する外交的孤立と国際制裁体制を整えるのを手助けした。

 

this would eventually lead to the multinational Joint Comprehensive Plan of Action agreement in 2015.Leaving office after Obama's first term, she wrote her fifth book and undertook speaking engagements before announcing her second presidential run in the 2016 election.

2015年の第2次大統領選挙を発表する前に、彼女は5番目の本を書いて講演をしていたが、これは2015年に多国籍共同行動計画に結びついた。

 

Clinton received the most votes and primary delegates in the 2016 Democratic primaries, formally accepting her party's nomination for President of the United States on July 28, 2016, with vice presidential running mate Senator Tim Kaine.

クリントン大統領は、2016年の民主党大統領選で大多数の投票と一次代表団を受賞し、2016年7月28日に米国大統領候補に正式に党の指名を受け入れた。

 

She became the first female candidate to be nominated for president by a major U.S. political party.

彼女は、米国の主要政党が大統領にノミネートされた最初の女性候補になりました。

 

As part of her 2016 platform, she emphasized raising incomes, improvements to the Affordable Care Act and reform of campaign finance and Wall Street.

彼女は2016年のプラットフォームの一環として、収入の向上、手頃な価格のケア法の改善、選挙資金とウォールストリートの改革を強調しました。

 

She favored allowing pathways to citizenship for undocumented immigrants, combating climate change, expanding and protecting LGBT and women's rights, and instituting family support through paid parental leave and universal preschool.

彼女は、不法入国者のための市民権、気候変動への対処、LGBTと女性の権利の拡大と保護、育児休暇と普遍的な就学前教育を通じて家族支援を開始することを可能にしました。

 

However, a controversy relating to a privately-hosted email server during her tenure as Secretary of State became a significant issue, including in the closing days of the campaign.

しかし、国務長官としての在任期間中に個人的にホストされた電子メールサーバーに関する論争は、キャンペーンの閉会日を含む重大な問題となった。

 

On November 8, 2016, Clinton lost the election to Republican rival Donald Trump, failing to obtain the necessary 270 votes in the electoral college, despite receiving a plurality of the national popular vote.

クリントン大統領は、2016年11月8日、共和党のライバルのドナルド・トランプ選挙で、国民投票を複数受けたにもかかわらず、選挙で270票も得られなかった選挙を失った。

 

・・という感じ。

まず思うのは、訳文が正確であるか以前に、日本語として成り立っているな、という事だ。所々に誤訳はあるのだが、以前はそもそもにして訳文の日本語がほとんど意味不明だったのに今のGoogle翻訳はだいたい日本語として意味が分かるものになっている。あと感心したのは、難しくて翻訳ができない部分を検出して無視をすること。これは以前の翻訳プログラムは出来なかった事でかなり画期的だと思う。

もちろん、翻訳に必要な情報が省略されている場合は正しく翻訳されない。たとえば

Running for president in 2008, she won far more delegates than any previous female candidate, but lost the Democratic nomination to Barack Obama despite receiving more votes.[1]

2008年に大統領に就任した彼女は、以前の女性候補よりはるかに多くの代表を獲得したが、投票を増やしたにもかかわらず民主党オバマ候補を失った[1]

というのはアメリカ予備選における一票の格差の問題を理解していなければ翻訳できない。more popular votesと書かずに単にmore votesと書いてあるからだ(しかし2008年の予備選で、ヒラリーがオバマに総投票数で勝っていたとあるが本当か?)

ただ、プログラムとしてこれはすごいな、と思う出力結果もある。

She helped organize a diplomatic isolation and international sanctions regime against Iran, in an effort to force curtailment of that country's nuclear program;this would eventually lead to the multinational Joint Comprehensive Plan of Action agreement in 2015.Leaving office after Obama's first term, she wrote her fifth book and undertook speaking engagements before announcing her second presidential run in the 2016 election.

彼女は、その国の核計画の縮小を強制するために、イランに対する外交的孤立と国際制裁体制を整えるのを手助けした。 2015年の第2次大統領選挙を発表する前に、彼女は5番目の本を書いて講演をしていたが、これは2015年に多国籍共同行動計画に結びついた。

正しくは「彼女は、その国の核計画の縮小を強制するために、イランに対する外交的孤立と国際制裁体制を整える計画に携わり、このことは2015年の多国籍共同行動計画に結びついた。第一期オバマ政権を去った後から再度大統領選挙に立候補を表明するまで、彼女は5番目の著書を書いたり、講演をするなどしていた」となるのだが、間違っていても一見プログラムが文章を理解しようとしているように見えるのはすごいと思った。実際は「this would eventually ..」と「Leaving office after ..」の2文を間違って関連づけているだけなのだが、プログラムの動作としては面白いし可能性を感じる。

僕は完全な機械翻訳は本当の人工知能を実現しないと無理だと思うので機械翻訳もある所で頭打ちになるのではないか、と疑っているが、今の機械学習の技術が普及しはじめて数年でこれなのだから数十年後には相当な事ができるはずだし、それだけでも世の中に与える影響は大きいだろうな、と思った。