グローバル引きこもり的ブログ

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「山月記」はそんなに優れた作品なんだろうか?

言うまでもなく、「山月記」というと中島敦の作品の中で最も有名な作品である。

中島敦 山月記

戦前の小説には漢籍をアレンジしたものが多く、これも「人虎伝」という作品のアレンジなのだが、国語の教科書で取り上げられているからみんな知っている。

『人虎伝』まとめ | フロンティア古典教室

実際の所、国語の教科書の内でどれくらいのものが「山月記」を取り上げているのかは知らないが、世間の「山月記」に対する反応を見ると、おそらく大抵の教科書に載っているのだろう。

そして、「山月記」の内容の方も、それなりに好評をもって国民に受け入れられているのではないだろうか。

 

しかし、僕は、「山月記」が文学作品として本当に優れているのかについてかなりの疑問を持っている。

 

とりあえず、「山月記」の前半部分は文句なしに素晴らしい。

美しい文章が澱むことなく、するすると流れる。

膨大な情報が一切の無駄なく、しかもいささかの不自然さもなく展開される様は驚異的で、漢文調の文体を採用したことが大きな効果を挙げている。

内容としても、

一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。

という身も蓋もない言い方をしているのはこの時代の文学ならではだし、

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

という所も、なかなか深いものがある。

今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。

という下りも、深刻なのにどこか滑稽な所があって、中島敦らしくてとても良い。

 

しかし、

しかし、袁參は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。

という記述が出てきてから、小説の流れがおかしくなる。

読んでの通り、この後はひたすら李徴の泣き言が続くのだが、これを泣き言にしてしまった事でこの小説の価値はものすごい低下をしたと思う。

なんで泣き言にしてはいけないのか、というと、これを泣き言にしてしまうことで「山月記」は人々の思考を完全に停止させるものになってしまっているからである。

もっというならば、この山月記の後半は人々の持つある種のルサンチマンに強く訴えかけるものになっており、それが非常に問題なのだ。

 

一見、「山月記」の説くところは、何の疑う必要もないこの世の真実のように思える。

しかし、世の中というのは本当に「山月記」が言っている通りなのだろうか?

 

山月記」の舞台となっている時代の中国の社会とか文化的な状況は分からないが、しかし李徴のような高学歴で相当のセンスを持っている人間ならば、いくら狷介な性格でもある程度の理解者が出てくるのが普通であるような気がする。

李徴のような人物でもなんとかやっていけるのが、実際の世の中なのではないか、と思うし、だいたい芸術のような事をしている人というのは、どこか李徴のような所があるのではないか?

山月記」では李徴の失敗を性格的欠陥に求めているけれども、この性格だって本人にはどうすることも出来ない場合がほとんどである。

性格というのは、円満家庭でのびのび育てば人格円満になるし、そうでない家庭でそだてば欠陥が満載された性格になる。

そういうどうしようもなさを泣き言にしてもどうしようもない。

物事というのはほんの少しの違いで、成功するか、失敗するかどうかが決まるものである。

李徴だって、少しめぐり合わせが違えば、大成功するかはともかくとしてそこそこ成功していたかもしれない。

その場合、李徴の人生に対する評価は全く異なったものになるだろう。

 

「李徴は単に少し運が悪かっただけなのでは?」

「李徴の子供時代はどのようなものであったのか?」

「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」

「普通とは違ったことをする人は、少しくらいは性格的な欠陥があるのが普通ではないのか?」

「李徴のように、才能はあるが迷惑な性格をもった人を、社会はどう扱えばいいのか?」

 

冷静に「山月記」を読むと、いろいろな疑問が浮かんでくる。

しかし、「山月記」は、このような問題を提起するような書き方はしていない。

それは単に、世間が信じる「働かざるもの食うべからず」みたいな道徳に挑戦した者が当然のように敗北する、というだけの話になっている。

俗人にとっては完璧なハッピーエンディングである。

せっかくのハッピーエンディングなのに、これ以上何を考える必要があるというのか?

 

せっかく面白いテーマを見つけたのに、中島敦は「山月記」を下らない道徳の問題にしてしまった。

その結果として、「山月記」は教育関係者が歓喜して飛びつくような内容になっている。

しかし、世の中を進歩させてきたのは、むしろ李徴のように少し頭のネジが飛んでしまっている人間ではないだろうか。

李徴のような人間と袁参のような人間の両方がいる事で世の中は成り立つ。

そのような問題を読者に考えさせるのが文学の役割であるとすると、「山月記」は文学になっていない。

せめて後半の部分が淡々とした突き放したものになっていればまだいいが、あのように甘ったるくなってしまってはどうしようもない。

 

結局、「山月記」は、李徴のような人間を無条件で排除する事を肯定するだけの影響しかないような気がする。

それは、教育関係者をはじめとして日本国民に大うけする作品であるが、そんなことでいいのだろうか。

中島敦の作品のなかで「山月記」だけが読まれている事は問題だと思う。

中島敦の作品にはもっと優れたものがある。

中島敦 章魚木の下で

中島敦 鏡花氏の文章

もうそろそろ、「山月記」以外の作品を取り上げる時期であると僕は考える。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

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