結局は時間で決まる
ここ数日、部屋の片づけをしている。
部屋の片付けといっても難しい所はまだ手を付けていないが、簡単な部分を片付けるだけでかなり違う。
いや、かなりではなくて部屋の雰囲気としては全く違うといってよいかもしれない。
ここで書く気にもならないくらい長い間、まともな片付けは一切やっていなかったのだから当然だ。
一日1,2時間を数日続けただけの事なのに偉い違いである。
それで片付けをしてつくづく思ったのは、片付けというのは片付けをした時間で決まる、という事だ。
片付けというのは片付けた時間の分だけ片付く。
片付けを全然しなかったら片付く事はまったくないし、片付けを十分に長い時間したら部屋は完全に片付くに違いない。
全く当たり前の話だ。
これは片付けだけでなく大抵の事でも同じなのだろう。
勉強をするのに時間をかければ成績は上がるし、全く勉強しなければ成績は悲惨になる。
仕事だって(僕自身は仕事らしきものをした経験はないけれども)うまく仕事をこなせるようになるにはそれなりの時間を必要とするだろう。
対人関係などもそうだ。
対人関係をうまく切り回せる人は、子供の頃からそれだけ対人関係に時間を使っている。
対人関係が下手な人は、そもそも対人関係に全く時間を使っていない。
取組む時間が重要という事を考えれば、何かをするためのコツというのもあまり意味がないように思える。
少なくとも始めの段階ではコツなど何もしらなくてもいい場合のほうが多いのではないか。
コツを知らなくてもできる事というのはいくらでもある。
片付けとかにしても、簡単に片づける事のできる物を処分するにはコツもなにも必要ない。
だから、とりあえずは時間を使う事だけを考えればいいような気がする。
そう考えると、今まで僕は一体何をしてきたのか良くわからなくなってくる。
色々な事をしたような気がするけれども何もしていない気もする。
しかしここ数年で何ができたかを考えると、どちらかというと何もやっていない、という評価の方が妥当だろう。
例えば部屋の片づけにしても、僕はここ数年で部屋の片づけにほとんどゼロといっていいほどの時間しか使っていない。
他の事も似たようなもので、要するにここ数年、僕はだらだらネットをする以外はほとんど何もしていない。
この事について強く後悔をしているか、というとそれほどの後悔はしていない。
考えてみれば少し前まで僕は自分の過去の過ごし方についてほとんど関心を持っていなかった。
結局、僕がそのような生活をしていたのはそのような生き方しかできなかったからで、選択肢がないのならば後悔の仕様がない。
健康状態の改善などの理由でそのような生活以外の生活ができるようになって初めて、過去の過ごし方が気になるのである。
もし他に選択肢があったとしたらとっくに違う方向に行っている。
片付けにしても、以前片付けをしたときは少し片付いたらすぐに投げ出してしまい、一向に片付かなかった。
まあ、過去の事は仕方がなかったと忘れて、これからは以前とは違う方向に時間を使っていくよう心掛けるしかないのだろう。
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