グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

アートにおける冗談と「表現の不自由展」の成功

愛知トリエンナーレと「表現の不自由展」に行ってきた

https://note.mu/segawashin/n/nd000935e7c61

表現の不自由展・その後

https://censorship.social/artists/

空気#1

https://forzastyle.com/articles/-/49000

焼かれるべき絵

https://ksl-live.com/blog24863

落米の恐れあり

https://www.huffingtonpost.jp/2017/11/29/rakubei-no-osoreari_a_23292343/

アート、特に現代アートには冗談の要素が欠かせない。「表現の不自由展」においても、それらの作品の背景にある政治的な立場とは別についつい笑ってしまうような作品がいくつかあった。たとえば、米軍関連のものがよく落ちてくる沖縄の現状を表現した「落米の恐れあり」とか、日本国民であればテレビなどで、知らず知らずのうちに一度は目にしているだろう例の部屋を表現した「空気#1」などは理屈を抜きにして笑ってしまう。僕も多くの人と同様、表現の不自由展で何が展示されていたのかまったく知らなかったわけだけれども、これをみて主催者側の立場もわかった気がした。つまり、この展示は、その政治性以前にある種のギャグであったのだ。笑った後で考える、というのがこれらの作品の意義であったのだが、しかし世間には、これらがギャグであることが伝わらない。セックスワーカー像があったとか、天皇の肖像が燃やされたとか、そのような噂しか伝わらないからである。それにも関連するが、これらの作品からはどれも、やはり直接的にであれ間接的にであれ、公金をつかって公共の場所で展示するには適当でない感じがバリバリ伝わってくる。なんというか、美術館とかには場違いなのである。それは表現の自由とかの問題とは少し違うような気がするし、これらの作品は美術館などで展示を拒否されるのが作品として自然なあり方だとも思う。展示を拒否されて雑誌の取材を受けたり裁判をして敗訴したり部分勝訴したりする。人々から作品を遠ざけるために展示を拒否したはずなのに、騒ぎのなかでかえって作品の存在が広く世間に知れわたる。僕だって、不自由展が中止にならなければ不自由展で出品された作品を知ることはなかったわけで、そのような滑稽もあわせて初めて作品が完結する、と考えるのが現代アートなのではないか。その意味で不自由展は、中止に追い込まれることで大成功したと言ってもいいと思う。