グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

日本がドイツみたいに反省するわけない 13

「日本は植民地主義を乗り越えるチャンス」…'日韓通'の韓国市民運動家が見る日韓の葛藤

https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20190814-00138415/

日本はドイツみたいに反省せよ!とは、一部の左翼と韓国人が一年のうち365日唱えている念仏であるけれども、反省だっていろいろある。とにかく政治的な圧力に強要された形での反省もあれば、重要な事実を全て理解した上で完全に納得して行われる謝罪もある。これらを簡単に、無知に基づく謝罪とそうでない謝罪と分類することができるかもしれない。もちろん、前者の謝罪は偽物の謝罪で本物なのは後者だが、問題なのは、歴史というのは知れば知るほど加害者の方にもどうしようもない理由があった、ということになってきてしまうのが普通である。つまり、被害者が善で加害者が悪、というような境界がぼやけてきて、いったい誰が悪なのかよく分からなくなってくる。そうなると、謝罪をするにしてもその謝罪の内容はどうしてもはっきりしないものになってしまうだろう。そういうわけだから、謝罪という政治目的のために歴史というものは構成されなければならない、という考えが出てくるわけで、実際、ほんの数年前までこのような考えが日本では主流であったのだが、ここ数年に起きた歴史問題関係の騒動は、そのような歴史はやはり時間の経過に伴って崩れていく作り物にすぎないことを示しているように思われる。あるいは、そのような歴史は、よくも悪くもその政治的な役割を戦後数十年たって果たし終えた後で耐用期限を迎えたとも言えるかもしれない。時代が変化すれば歴史も変化する。歴史が変化すれば、それ以前の歴史に基づいた政治を行うことは最早できない。だから日本はドイツみたいに謝罪しないし、日本の歴史問題はどうもいまいち盛り上がらない。一部の左翼と韓国人が夢見る理想的な戦後など始まるわけもないのである。