グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

学校のための教育

いま行われている教育の何が問題であるかというと、それがテストのための教育であるということだと思う。別の言い方をすれば、学習の結果がテストによって測定できるようなものばかりが教えられ、テストによって測定できないものは教えられない。

この教育の問題点は、教えられている内容のレベルが低くなることだ。このようなテスト中心の教育だと、教育の内容が学問上のアイディアを理解することよりも問題を解くための技術を習得することに重点が置かれるようになる。そして、技術というのはだれでも習得できなければならないわけなので、教えることができる内容は当然限定される。

高校の数学などはいい例だ。あれは要するに、この範囲内で問題を作ったら高校生が解けるはず、というような範囲で教えられる内容が決まっているのである。しかし、それでは高校数学の内容が全国の受験生が投じるエネルギーに見合うほどの価値があるかというと、そんな価値は全くないと思う。

実際の世の中では、テストによって学習成果が測定できるものが重要であるとは限らない。もっというと、ほんとうに重要なのはアイディアとかコンセプトを理解することで、問題を解くための技術はほとんど価値がないと思う。しかし、今のテスト中心の教育だとアイディアとかコンセプトを考えることは軽視され、難しい問題を正確に解く技術を習得する努力の重要性ばかりが重視される。

本来はレベルの高いアイディアやコンセプトを学ぶ反面、問題をとく技術はごく基本的なものさえあればいいのに、これが逆になっている。つまり、教わるアイディアはコンセプトは非常に下らないものなのに、要求される問題をとく技術はやたらと高度なのだ。

僕は難しい問題を解く技術というのは本来、教育においてまったく必要ないと思う。難しい問題を解く方法は将来必要になったときに学ぶなり考えるなりすればいいだけのことで、学校で難しい問題をとく必要はないと思う。もしアイディアやコンセプトが理解できていれば、なにかしら問題を解くためのアイディアだって出てくるものだ。

それもこれも、教育の中心に学校というものがあるからだめなのだ。もう完全に教育のために学校があるのではなく、学校のために教育がある、というような感じになってしまっている。

学校というのはまず第一に選抜を行う場所だから、教育の内容というのはどうしても二の次三の次になる。 AIなどの情報技術が進歩するに従って、ますます教育の重要性が強調されるようになっている。しかし、重要なのは教育の内容の方であって学校ではない。

数十年、数百年の単位で見ると、学校の重要性は低下していくのではないだろうか。これからの時代は難しい問題を正確に解くみたいな力よりも、ほんとうに重要なアイディアやコンセプトを理解していることが重要になってくる。そして、アイディアやコンセプトというのは別に学校にいなくても学ぶことができるものだからである。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

東日本大震災から7年

今日は2月の10日だから、あと一月ほどで東日本大震災から7年になる。もう7年たったのか、というべきか、まだ7年しかたっていないのか、というべきか。7年というがとんでもなく昔に起きた出来事なような気がする。

今から考えると誠におめでたい限りだけれども、震災当時、僕もあの震災にそれなりに衝撃を受けて、この震災は日本を変えることになるし、自分もこの震災を契機に違う生き方をしないといけない、と思っていた。僕だけでなく、同じようにあの震災を受け止めた人は多いと思う。

しかし、それでは大震災から7年後のいまとなって振り返ると、僕は大震災の後でなにか変わったのだろうか。はっきりいって、大震災が僕にもたらした変化は完全にゼロであると自信を持っていえる。

あのころ、震災をきっかけとして違う生き方をしないといけないと思った人で7年後の今も震災前とは違った生き方をしている人はどれくらいいるのだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。そして生き方が変わった人がほとんどいないとしたら、社会だってそんな変わっていないと思う。

しかしながら、僕がのんきにこんなことを書いているのは、僕が震災当時、たまたま被災地から離れたところで暮らしていたからに過ぎない。もし僕の家が津波の直撃をうけたエリアにあったとしたら、ひきこもりをしている僕など100%の確率で死んでいただろう。

鹿児島沖に世界最大級の溶岩ドーム見つかる | NHKニュース

九州の巨大海底火山の活動が活発化しているらしいという話を読んだ。もしこのような火山が爆発したら、最大で一億人が死ぬらしい。日本でこのような火山は過去12万年間に10回爆発していて、前回の爆発があったのはのは7,300年前という。だから、ほんとうに明日日本人が一億人死ぬとしてもぜんぜんおかしくない。全くSFのような話だが、最新の地質学の知見ではそういうことになっている。

今後100年で巨大火山が爆発する確率は1%と見積もられている。もちろん、今後100年で1%だとしても99%はおきないわけである。実際、これまでの過去100年間だって巨大火山が噴火する確率は1%あったわけだが、巨大火山は噴火していない。しかし、東日本大震災だって、1911年3月10日から2011年3月10日まで何も起こっていないのだ。大災害が起きるその瞬間まで、世間は何事もなく暮らしている。まったく2011年3月10日のように暮らしているのである。それは、一億人が死ぬような大災害でも変わりない。

いったい、日本の人口が一億人死んだとしたらどうなるのか?考えるだけで大変なことだし、その結果として発生するはずの無秩序状態は想像するだけで恐ろしい。しかし、確かなのは、海底火山が爆発した100年後には、人々は普通に暮らしているだろうということだ。まあ、百年でそれ以前の日本社会の安定性が回復される保証はないが、たぶん時間の問題だろう。

あの狂気の第二次世界大戦終結してからまだ70年ほどしか経っていない。しかし、限られた当事者以外、日々戦争について考えている人は、一部の専門家かマニアだけである。七十年前の出来事でもこうなのだから、百年前に起こったことなど第一次世界大戦くらいおぼろげにしかイメージできないはずだ。

それにしても、自然がもたらしうる大惨事と比べて、世間が大騒ぎしていることは何とちっぽけなことなのだろうか。明日にも一億人が死ぬかもしれないのに、はあちゅうが何を言ったかで大騒ぎをするなんて滑稽でなくて何だろう。

もちろん、もし明日世界が破滅する可能性があるとしたら(実際、多くの日本人はそのような状況で毎日暮らしているわけだが)何をすべきかというのは難しい問題である。どうせ死ぬなら何をしても同じ、というのはたしかにその通りだから、なにをやってもいいような気がしてくる。

しかしながら、せっかく東日本大震災の記念日というのがあるのだから、それを機会に世の中の大半のことは九州の巨大海底火山と比べたらまったくちっぽけなものであるという端的な事実を再確認するのは無駄なことではないと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

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戦争と経済右翼

そういえば最近、財政再建についてぜんぜん聞かなくなった。ついこの間まで、特に民主党が政権党だった頃は毎日のように1.000兆円の借金ガー!1.000兆円の借金ガー!とうるさくて仕方がなかったのに、最近はぜんぜん財政再建の話はきかなくなった。もしかして、財政再建という言葉自体、例の「構造改革」という言葉といっしょにそのうち使われなくなるのではないかと思うほどだ。

まあ、財政再建構造改革というのは二つで一つみたいなところがあって、構造改革がいわれなくなったら財政再建もいわれなくなるというのはある。それに、いまの自民党は本心はともかく、構造改革からは一定の距離を置いているので、マスコミのほうも情報の施しを受けるために大っぴらに財政再建をいわない、というのもあるだろう。

しかし、構造改革もそうだが、世間で財政再建が言われなくなったのは、貧民から官僚にいたるまで、アサヒ新聞的なものに対する懐疑、あるいは敵意が広がってきているからだと思う。

この前、田原総一朗による「その場しのぎのポヒュリズムのいく末は戦争だ」という記事を読んだ。

その場凌ぎのポピュリズムの行く末は戦争だ:日経ビジネスオンライン

ヨーロッパとアメリカでポピュリズムの勢いが増している、ポピュリズムは相手を尊重せずに敵を作るのでけしからん、だれも財政再建をいわないのはけしからん、消費税を上げないのはけしからん、ポピュリズムは先のことを考えないので無責任である、など、いかにもアサヒ新聞が言いそうな御託がならんでいる。

田原もそうだが、僕が面白いと思うのは、財政再建をいう連中は絶対に

・債務には債権があるが、国の債権1,000兆円は誰が持っているか

・巨額の財政赤字というが、財政支出された金はどこに流入しているのか

を絶対にいわない。

国が本当に1,000兆円の借金をしているならば日本国民の財布に1,000兆円近いカネが入っているはずだ。もし財政再建をしたいならば、1,000兆円が流れ込んだ先から税金を取らないとバランスが取れない。それなのに、僕はこれまで、国のカネがどこに流れ込んでいるのかをアサヒ新聞が議論しているのを聞いたことがない。

だいたい、アサヒ新聞が本当に貧困問題を深刻に考えているならば、富裕層のもつ金融資産にたいする課税を強化せよというキャンペーンを展開しなければならないはずだ。しかし、アサヒ新聞の紙面を見る限りアサヒ新聞がそのような主張をしているようには全然みえない。逆に、このような話題に関する報道はきわめて消極的であるようにみえる。金融緩和によるインフレ課税にもアサヒは大反対である。

アサヒ新聞の紙面を見ると、アサヒが弱者にとって苛烈な新聞であることが伝わってくる。アサヒが熱心なのは消費税、女性の社会進出、移民推進など、どれも逆進性が著しく強いものばかりだ。

アサヒ新聞の報道姿勢は、困窮する地方を横目にデモクラシーにうつつを抜かした大正時代のリベラル派を連想させる。日本だけではなく、第二次世界大戦が起きる前、社会は世界的に政治的に左傾化し、経済的には右傾化していた。大正時代やワイマール時代は様々な民権運動ばかりが注目されるが、その裏でリベラル派が緊縮財政をやっていたことはもっと注目されてよい。そして、世界が戦争へと突っ込んでいったのは緊縮などの右翼的な経済政策の結果なのだ。

左翼が右翼的な経済政策を推進した反動で世界は劇的に社会的には右傾化、経済的には左傾化した。具体的には戦争で、国民の人権はゼロになり、経済システムは統制経済に移行した。

戦争というと、国民の人権がゼロになったことばかりが問題とされる。しかし、それと同じくらい、あるいはそれよりも重要なのは世界が経済的に左傾化したことで、戦後の「民主主義」は戦時中の統制経済によってはじめて可能となった。

近年の日本やドイツ、あるいは世界全体を見ると、第二次世界大戦がはじまる前の時代と確かに似ている。つまり、社会的には極左化し、経済的には極右となっているのである。社会的には極左だからポリティカルコレクトネスに反することは何も言えないし、経済極右だから富裕層のもつストックには一向に課税されない。社会にはよいが富裕層に都合の悪い制度も一向に導入されない。

これでは社会が右傾化するのは当たり前だ。そして、社会が右傾化する一方で世間の経済に対する見方は左傾化している。最近財政再建の話が聞かれなくなったのはその現れだ。結局、財政の問題というのは財産の私的所有権をどの程度重視するか、という話にすぎないからである。

戦争を引き起こすのは右翼ではなく、アサヒ新聞や田原のような左翼である。左翼が福祉にはカネが必要、とうそぶきながら弱者にとって苛烈な経済政策を推進し、儲けたカネを富裕層で抱え込むのは古今東西変わりがない。だから、左翼が権力を握るとだんだん世の中は「これならば戦争の方がまだマシ」という感じになってきてしまうのだ。

そういう意味で、田原のようなことをいう人間を最近あまり見かけなくなったのは、「世界平和」の観点からしても非常にいいことであると思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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はてなブックマークのタイムラインは総合カテゴリーだけ見るようにしている

考えてみたら、情報源として僕が一番使っているのははてなブックマークのタイムラインだと思う。毎日のように新聞を読むようなもので、はてなブックマークのタイムラインに目を通さない日は1日もない。

もちろん、新聞と同じように、はてなブックマークに上ってくるものが今インターネットで流れている中で最も重要な情報だとは思わない。しかし、はてなブックマークのタイムラインというのは新聞と同じように不思議なバランスがある。

他のキュレーションサイトとはちがい、はてなブックマークには匿名ダイアリーのエントリーやはてなブログのエントリーも上がってくる。これがはてなブックマークのタイムラインのバランスに大きく影響していると思う。

ホットエントリーのタイムラインを見ていれば、世間でなにがおきているかもはてなで何が起こっているかもある程度はフォローできる。キュレーションサイトはいろいろあるが、なんだかんだいってはてなブックマークが一番バランスが取れているような気がする。

問題があるとすれば、これは他のキュレーションサイトでもそうだが、上がってくるエントリーが多すぎることだろうか。

最近は、はてなブックマークのカテゴリーは総合だけを見るようにしている。正直、全部のカテゴリーを見ていると時間がいくらあっても足りない。ほんとうにそれだけで1日が終わってしまう。だから最近は総合カテゴリー以外のカテゴリーは見ていない。

そのために、はてなブックマークのタイムラインを見る時間は以前と比べて三分の一以下になったと思う。

当然ながらその分、自由な時間は増えた。自由な?時間ではてなブックマークのタイムラインを見ているわけだから自由な時間が増えたというのもおかしいが、以前よりも日常に余裕ができた。

面白いのは、総合カテゴリーだけしか見なくなっても世の中の動きがフォローできているような気がすることだ。結局、どれほど情報を集めたところでそれは世の中で起きていることのほんの一部に過ぎない。だから、総合カテゴリーだけみればそれが世の中で起きていることになるのだ。

それで、定期的にブログを書き続けるだけの情報は手に入る。というか、ブログを書くための情報源としては、総合カテゴリーのタイムラインでも多すぎるくらいだ。

つくづく思うのは、人間というものは知ることによっては変わらないなあ、ということだ。何を知っても知識が増えるだけのことで、それを知った自分自身は変わっていないという感覚を最近強く感じている。この変わっていない、というのを進歩がない、といってもいいだろうが、情報を知ったところでそれがよい変化をもたらすことは稀である。

もちろん、今の自分は無駄な知識によって始めて成り立っているものだが、これまでの自分の人生を振り返るとそう考えざるを得ない。これからは知るということに対してもっと懐疑的でありたいと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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最強の菓子の食べ方

以前、テレビを見ていたら体重が百キロほどもある引きこもりの女がでていた。

どんな番組だったかは思い出せない。多分、ダイエット企画かそんな感じの番組だったのだろう。その女がなんで引きこもったのかも、その番組の顛末がどうなったのかも忘れた。しかし、その体重100キロの女の菓子の食い方は憶えている。

その女は引きこもってひたすら菓子を食べる生活をした結果体重が百キロまで増加したのだということだったが、その女の菓子の食い方にはなるほどなあ、と思う工夫?があった。その工夫とはどのようなものかというと、菓子を食うときは甘い菓子と塩辛い菓子を交互に食うというものだ。甘い菓子にあきたら塩辛い菓子を、塩辛い菓子にあきたら甘い菓子を食うようにすれば、いつまでも飽きることなく菓子を食べ続ける事ができるというのだ。

この間スーパーに行ったとき、ふとこの話を思い出して、ためしに僕も同じ菓子の食い方をしてみようと思った。それで袋入りのキットカットとサラダせんべいをそれぞれ一袋かって、キットカットとサラダせんべいを交互に食べてみた。

そうしたら、女の言うとおり、これがまったくあきないのだ。

キットカットは非常によくできたチョコレートだが、それでも一袋全部を一人で食べるとすると最後の方ではさすがにすこしは飽きを感じるだろう。サラダせんべいだって、一袋全部を一気に食べるとさすがにすこし味が単調に感じられてくると思う。

しかし、キットカットとサラダせんべいを交互に食べると飽きというものを全く感じないので驚いた。本当にすこしもあきることなく、キットカット一袋とサラダせんべい一袋をまるごと食べ切ってしまった。菓子をこれほどうまく食べることができたのは本当に久々のことだったかもしれない。

いや、それにしてもこの食い方は危険だ。キットカット一袋とサラダせんべい一袋と簡単に言うが、これはかなりの量である。カロリーにすると何キロカロリーになるのだろうか。

僕は消化器系がおかしい所があるのか、どんなに暴飲暴食しても体重がかわらないのだが、毎日のようにこんな菓子の食い方をしていたら普通ならば本当に体重百キロになってしまうかもしれないし、体重が百キロにならなくても体にどんな負担がかかるのか考えたくもない。

しかしながら、この食い方をすれば大量の菓子をおいしく食べられるというのも確かである。もちろん、いくら菓子をおいしく食べられたとしても体重百キロになって外にも出歩けなくなったら何の意味もないし、いくらうまいからといって菓子を食いまくる生活をすることが正しい事なのか疑問もあるが、とにかく菓子をおいしく食べたいという人は試してみる価値があるかもしれない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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国は今すぐベーシックおこづかいを創設すべきだ

僕は、基本的に今の社会保障ベーシックインカムに置き換えていくべきだと考えている。

人間というのはカネさえあれば生きていくことができるのだから、カネを国民全員に渡すのが最も効率がいい。

日本において、社会保障は腐敗や汚職の大きな原因になっているだが、カネを全員に渡してしまえば腐敗や汚職など起こりようもない。

しかしながら、当然のことながらベーシックインカムには根強い反対がある。

ベーシックインカムなんてない方が好都合な人が沢山いるのだから当然だ。

それで僕は思うのだが、ベーシックインカムはまず子供から始めればいいのではないかと思う。

小学校から高校まで、月に一万五千円程度のベーシックおこずかいを渡すのだ。

カネの価値というのは、もっている人間の年齢に反比例する。

子供がもつ一万円は、老人が持っている十万ほどの価値があるだろう。

カネというのは、子供に投下するのがもっともインパクトがあるとおもうのだ。

ベーシックおこずかいは格差の是正にたいしても効果があるだろう。

カネがない子供の生活というのは本当にみじめなものである。

着ている服もみすぼらしくなるし、カネがないと他の子供との交際に支障をきたす。

はっきりいってカネがない子供よりもカネがある子供と遊んだ方が楽しいから、裕福な子供は人気がでやすいし、貧乏な子供は疎外されやすい。

最悪なのは、親がカネをもっているのに病的なケチである場合である。

運悪く親がこの類であった場合、子供は裕福な子供ともそうでない子供ともうまくつきあう事ができず、かなりの確率で孤立する。

その結果、子供のうちに身につけておかなければならないヒューマンスキル(俗にコミュニケーション能力といわれているもの)が身につかず、「社会」に出たときに大損害を被ることになる。

このときに損害を被っているのは個人個人だけではない。

実は、日本社会全体も同時に損害を被っているのである。

子供の貧困(それは先ほどいったように親が金持ちのケチという場合もある)は子供の心をねじ曲げる。

そして、多くの場合、子供のころにねじ曲がった心は一生もとに戻らず、成人してからも様々な形で社会に損害を与えることになるのだ。

子供の持つカネの価値は大人の持つカネの価値よりに大きいし、子供の貧困が改善されれば将来生じるトラブルを予防することにもなる。

子供が健全に成長するために、子供にはカネが必要だ。

国は今すぐベーシックおこづかいを創設すべきだ。

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「女流棋士ってなんで弱いの」という増田を読んで思ったこと

女流棋士ってなんで弱いの

進化の結果だと思う。

よく、鳥とか魚などでオスとメスでは見かけがぜんぜん違うものがあるが、それと同じようなものではないだろうか。

男子と女子で何が違うのかというと、男というのは勝つことを期待されるし、勝たないといけないと言うところが違う。

水利や農地などの利権の取り合い、村と村との争い、商売上の競合、はては国家間における戦争にいたるまで、全てそうだ。

ここで勝負の結果を決めるのは、大局的には知力である。

体力であったり、根性などの違いでは大した差は生じない。

勝つためのうまい手段だったり、うまいシステムを考えた方が勝つのである。

そして、勝つために必要なアイディアというものは、一見なんの役に立つのか全くわからないものであることが多い。

もっとも極端な例が原子爆弾だろう。

原子爆弾を作るためにアメリカ人は巨大な水力発電所を建設し、流域のほとんどすべての電力をつかってウランを濃縮した。

当時のアメリカで使われる総電力の十分の一がウランを濃縮するために使われたと言われている。

原子爆弾を設計するのに必要な数値計算をするために、何千人もの人手が動員された。

当時は数値計算に使える電子計算機が実用化されていなかったからである。

そして、マンハッタン計画には、当時アメリカでもっともinnovative(創造的)な理論物理学者が総動員されていた。

普段、もっとも役にたたないことをやっている人たちがいなければ、原子爆弾のようなものはできない。

理論物理学などは一見、戦争とはなんの関係もないように思える。

しかし、いざというときに本当に決定的なのは、このように何の役に立つのかわからないような知識なのである。

そう言うわけで、男子にはもともと、なんの役に立つのか全くわからないものに興味をもつ傾向が強い。

もし、男子が全員そのようなことに興味を持たないならば、戦いに負けて集団が全員滅びてしまう。

勝つために必要なアイディアというものは、意外なところに転がっているものだからである。

一方、男子と違って女子は戦うことがない。

歴史的に、女子がやってきたことは基本的にはすべて、戦う男子や集団のための後方支援である。

家事・育児とかそういうことだ。

そのため、女子は様々なことをそつなくこなす能力が発達している。

歴史的に女子がやってきたことは、全部そこそこできないと困るが、ある一定以上の水準をクリアしていればよいというものばかりだ。

たとえば、育児などにしても、無能な親と有能な親の違いはもちろんあるけれども、一人や二人ずば抜けて優秀な親がいたところで世の中全体としてはどうでもいい。

興味関心も、ファッション・食い物・恋愛など身近なものに偏りがちである。

当然、将棋なんかには興味は持たないし、知識の範囲が身近なものに限定されるから、アメリカで使われる総電力の十分の一のエネルギーをつかえばウランを濃縮できるから水力発電所をいくつつくろうとか、何千人を集めて計算させれば必要な数値計算を実行できるというようなぶっ飛んだアイディアも出てこない。

一般的に、女性というのは何でも器用にこなすけれども突出したものは一つもない、というタイプが多い。

これは、歴史的に女性が戦いではなく、戦いのロジ(後方支援)をやってきたからだ。

逆に、男子は他のことはぜんぜんダメだが得意分野においてはとんでもない力を発揮するというタイプが多くなる。

そうでないと、チームで総力戦になったときに負けるからだ。

争いになると、それぞれの得意分野を持った人間が分業したほうが絶対勝つ。

そこそこ何でもこなすというタイプを何万人集めたところで原子爆弾はできないのだ。

このように考えると、男子とくらべて女子が将棋に興味を持たず、女流棋士が男に勝てないのは当たり前の話といえる。

女流棋士が男に勝てないのは、社会が悪いからではない。

男子が戦うことに、女子がロジをやることに最適化されているからだ。

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