グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

もし体育の授業が筋力トレーニングだけになったらどうなるだろうか

以前ネットで、体育の授業は全部筋力トレーニングにすればいいのではないか?という内容の記事を読んだことがある。

今改めて考えても素晴らしいアイディアだと思う。

本当に体育の授業というのは、何のためにあるのか分からない。普通授業というのは教師が何かを教えるから授業なのだと僕は理解しているが、体育の授業で教師は何も教えていない。あるいはほとんど何も教えていない。

柔道の授業ならただ組ませるだけ、サッカーの授業ならただボールを蹴らせるだけ。教師はただ見ているだけである。個人個人の運動能力を見て適当なマッチングをすることすらしていない。

体育の授業のなにが不愉快なのかというと、それが集団で行うものだということである。

これがほかの教科ならば、たとえ授業に一切ついていけなくても自分が退屈するだけで他人に迷惑が及ぶことはない。ところが体育の授業では、運動能力がないと他の生徒と軋轢が生じる。

ここで授業の内容が柔道とかだと運動能力がなくても問題はないが、体育の授業には球技があるからそうはいかない。クラスでの対人関係がうまくいっていないと二人一組で組んで行う活動も苦痛である。

もっというならば、体育というのはいじめを始めるきっかけとしても最高だ。本当に、体育の授業は生徒にいじめをする機会を提供するためにやっているのではないかと思うくらいだ。

しかし、ここで、体育の授業を筋力トレーニングだけにしたらどうなるか?

まず筋力トレーニングのいいところは、どんなことがあっても他人に迷惑がかからないことである。

筋力トレーニングは一人でやるものだから、基本的に他人の存在は関係ない。当然、運動能力の有無など一切関係ない。運動能力がある生徒もない生徒も同じことができる。

さらに筋力トレーニングのいいところは、やれば必ず結果が出るということである。

今の体育の授業を何百時間受けたところで何の進歩もないが、筋力トレーニングはやればやっただけ結果が出る。何百時間筋力トレーニングをしたら体育の授業をしているだけの場合とは決定的な違いが出るだろう。

もちろん、体質によって筋肉が付きやすい生徒と付きにくい生徒とで差が出てくるだろうが、筋肉が付きにくいからといって他人の迷惑になることもない。

いじめの防止にも、体育の時間を筋力トレーニングにするのは有益だとおもう。

結局、ガタイが貧弱だからナメられるわけで、もし全員が体を鍛えていたら相手も殴り返してくるかもしれないからいじめにも慎重になるだろう。

少なくとも、いじめられている生徒の方では、ただいじめられて泣き寝入り、というのではなく、新しい方向性を見つける一助になるのではないか。

そして、筋肉は実際に生きる上で役に立つ。

筋肉がないよりもあった方が人生の可能性が広がる。もちろん、筋肉が個人個人の問題をすべて解決するわけではないが、体育の授業なんかよりも比べものにならないほど役に立つのは明らかだ。

僕はスポーツも学習の一種だと考えているので、適切なトレーニングを行えば運動能力のない生徒の運動能力を向上させることは普通に出来ると思う。

しかしながら、今の体育教師には生徒の運動能力を向上させようとする意欲もなければ能力もない。

それで能力別の教育は絶対にイヤ!だというなら、もう体育の授業は全部筋力トレーニングにした方がいいと思う。

それはまさに文字通り「体育」であるわけだし、やればやっただけ成果がでる活動を長期的に続けることは教育として非常に意義があるのではないか。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

日本社会の「生産性」と睡眠不足

ネットをしていると、日本社会の生産性がいかに低いか、と言うような議論が山のようにある。

日本の製造業の残念なニュースもそうだし、日本の行政もそうだが、とにかく日本社会というのは無駄が多い。まあ、素人からみたら「無駄」であってもプロからみたら重要な事もたくさんあるのだろうが、でもこれって誰がなんと言おうと意味なさそうだな、と言いたくなるようなことがたくさんあるのも事実だ。

なんで日本の社会というのはこうも非効率なのかというと、僕が思うにそれは一つは睡眠時間が足りていないからだとおもう。睡眠時間が足りないから、頭のパフォーマンスが低下して物事を効率化するためのアイディアが一向に浮かばないのだと思う。

そして、物事が効率的にならないからやらなければならない仕事が膨大になり、残業で睡眠時間が取れないからますます物事を効率化するためのアイディアが浮かばない、ということになるのだ。

脳というのは結局は臓器の一つなので、きちんと休ませないと本来のパフォーマンスがでない。今の日本人の睡眠時間は明らかに少なすぎる。そして睡眠時間が少ないということは、日本人全体の脳みそのパフォーマンスが低下しているということだ。

なんとなく思うのだが、睡眠時間を削って猛烈に生きる、みたいな生き方をしていると、どうでもいいアイディアを100思いつく、ということになりがちなような気がする。これは企業活動などでもそうで、組織の効率というのはこの手の下らない思いつきによって低下するという面がある。

本当に重要なのは、どうでもいいアイディアを沢山思いつくことではなく、なにか一つ重要なことを思いつくことではないだろうか。そのためには、とにかく睡眠時間が必要だ。はっきりいって、日本の問題の半分は日本人の睡眠時間を一日あたり3時間増やすだけで解決すると思う。

相も変わらず過労とか過労死のニュースを聞くことが多いが、このようなことが海外でも起こっているという話は聞かない。つまり外国人は日本人より寝ているのだ。よく寝ている人間と睡眠不足の人間が勝負したら、睡眠不足の方が負けるに決まっている。

もちろん生産性は色々な要因で決まるものだが、これからは睡眠が競争力を決める上で非常に重要になってくるのは間違いのないところだと思う。情報技術の発達もあるし、これからは国民がよく寝ている国が勝つ時代になるかもしれない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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テストで得点するために「頭がいいこと」は十分条件に過ぎない

例の橘怜氏による著書の影響なのか、最近、子供の学力は遺伝で決まる、というような意見が聞かれるようになった。

gendai.ismedia.jp

確かに何をするにしても人間には向き不向きというものがあって、これは勉強についても例外ではない。勉強が得意な人もいれる一方、勉強が苦手な人も当然いるだろう。

しかし、僕はどうしても「頭がいいこと」がテストでハイスコアを取るための必要条件だとは思えない。

もちろん、「頭がいい子」が勉強ができるのは(定義からして)当然だが、別にテストでいい点を取るのに「頭がいい」必要はないと思う。「頭がいいこと」はテストでいい点を取るための十分条件ではあっても、必要条件ではないと思う。これがハイレベルな争いになると勉強の才能が効いてくるのは確かだろうが、平均的な親が満足する程度の学業成績を達成するくらいならば誰でもできると思う。

なぜかというと、結局の所テストというのは解答に必要な知識を知っているかどうかである。つまり、記憶の問題なのである。これは基本的にはどの教科でも変わりがない。解答に必要な事項を知っていれば解答できるし、知らないならば解答できない。

そして、記憶というものはその気になれば誰にでもできるものである。もちろん、どれくらい効率的に記憶できるかは人によって異なるし、得意な教科に関する事項は苦手教科に関する事項よりも憶えやすいだろう。しかし、記憶すること自体は誰にでもできる。 

英語などは典型的だ。英語というのは必要な単語を覚えれば九割以上習得したようなものだが、単語を憶えることは誰でもできる。

どれほど英語が苦手な生徒でも「ポリティシャンポリティシャン」と繰り返させればポリティシャンが政治家のことだと分かるし、「パーリアメントパーリアメント」と繰り返させればパーリアメントが議会の事だと分かる。はっきりいってポケモンの名前を憶えるのと何の変わりもない。

子供がポケモンの名前は簡単に憶えるのに英単語をなかなか憶えないのは、勉強時間と比べてポケモンをしている時間のほうが比べものにならないほど長いのと、ポケモンのほうが英語の教科書などよりも比べものにならないほどよくできているというだけの話だ。

数学だってポケモンの話と同じで、結局はポケモンをプレイする時間と同じくらい数学の問題をプレイ?していないだけだ。ポケモンに関する学習はすんなりと進むのに数学に関する学習が一向にうまくいかないのは、先ほども言ったように数学に取り組む時間がポケモンに取り組む時間とは比べものにならないほど少ないのと、数学教育の出来がポケモンと比べて比べものにならないほど悪いからである。

よく分からないのは、学力は遺伝で決まると言うような事を言っている人たちがこれらの点について何も考えていない事である。先ほどの慶応の教授などは典型的だ。

遺伝要因は子ども自身にはどうすることもできない。その上、親も家庭環境も子どもが自由に選ぶことはできない。子ども自身にどうしようもない要因で、学業成績の80~90%が説明されてしまうのである。

にもかかわらず、学校でも塾でも親からも「できないのはおまえのせいだ。努力不足だ、勉強の工夫が足りない、やる気がない。だから成績が伸びないのだ」と成績の出来不出来の責任を子ども本人に押しつけている。こんな不条理があるだろうか。

著者の慶応の教授は、このように学力が遺伝による事が理解されていない事を嘆いて見せるが、そこには今行われている教育のクオリティーについての批判もなければ、勉強が出来るというのは所詮、テストに解答するのに必要な知識をもっているだけで「考える力」などとはほとんど関係ないのではないか?というような懐疑もない。実際は「高学歴」の世界にはびっくりするほどのバカが少なくないのに、あたかも「学力」がなにか絶対的に価値があるものであるかのような認識なのである。ところが、この世の中で学力がある馬鹿ほど迷惑なものはないのだ。

勉強などはできれば結構だが、出来なくても大して問題がない程度に考えていればいいのだ。勉強ができる事と考える力がある事とは何の関係もないし、今行われているような教育に従って勉強をしたからといって考える力が強くなるとも限らない。

高学歴の人生というのは言われているほど素晴らしいものではない。高学歴には高学歴の弱点がある。学力がどうのこうの言う連中は完全にビジネス目的でものをいっている。ああ、こういう連中(とこういう連中の言説を流通させているマスコミや出版社)は金儲けがしたいだけなんだろうな、と聞き流すのが賢明だろう。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ネットをやっているとつくづく「タダほど高いものはない」と思う

ネットをやっていると、タダほど高いものはないと言うのは本当だな、と思うことがある。

まあ、なんというか、ネットで氾濫している膨大な無料情報というのは当然のことながら、そのほとんどはどうでもいい。読んでちょっと面白い情報は多いが、所詮はちょっと面白いだけで結局はどうでもいい情報がほとんどだ。ネットをやっていると、本当にどうでもいい情報が多いな、とつくづく感じる。

もちろん、ネットが普及する以前は人々が質の高い情報を吟味して取り入れていたか、というとそんな事はない。ネットが普及する前だって、テレビや新聞や雑誌で流通していた情報のほとんどはどうでもいいものだったはずで人々はただ漫然とそれらを消費していたのである。

それがどうして今、情報のどうでもよさが段々と気になってくるのかというと、それはネット特有のゴミコンテンツが洪水のように流れるようになった事と、ゴミコンテンツによる金儲けが露骨に行われるようになったからだろう。

確かにネットで流れる情報のほとんどはタダである。しかし、考えてみると自分の時間をどのように使うかは情報がタダであるかどうかよりも比べものにならないほど重要である。

世の中で流通する情報の大半がどうでもいいのは、今も昔も同じである。しかしネットが一般化したことによって、この傾向には拍車がかかっている。あるいは拍車がかかっているように感じられる。

ネットのゴミコンテンツで無駄に使った時間は取り返しがつかない。ネット時代ではこれまでにもまして、どのような情報を取り入れてどのような情報から距離を置くか、自主的な判断が求められるのである。

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勉強に関する匿名ダイアリーを読んで思ったこと

ここ5,6年の悩みで最近はっきりわかってきたんだけど、俺いつのころからかどうやって勉強していいのかわからなくなった。
IT系の仕事だから、新しいソフトウェアとか技術とか勉強してマスターしたいって思っているんだけど、空き時間に勉強してもぜんっぜん頭に入ってこないのよね。
仕事は幸いにもそこまでブラックじゃないのよ。こうやって増田に愚痴ブログかける時間もあるし、残業もたまにあるぐらい。仕事のストレスでどうって話じゃない。
一番大きいのは結婚して子供できて自由な時間が減ったことなんだろうけど、でもそれ以前から勉強ぜんぜんできなくなったの。
参考書とかチュートリアル動画とかに数十万円くらい費やしてきたけど、それの1割も満足に読めてない。
とにかく勉強して何か成長したって実感がここ10年ぜんぜん持ててないから勉強することへのモチベが全然あがらない。
何をしないよりもなんかしたほうがマシだろうとチュートリアル動画とか見てても、全然あたまに入ってこないの。20分も見てると眠くなってきちゃう。
なんとか嫁さんに頼み込んで時間と金工面して仕事後に講義うけにいっても、全然身につかないから取るのやめちゃった。
たまにプロジェクト内で新しい技術つかわなあかんときはなんとかやってる感あるけど、基本ここの会社が「できる人がやる」って方針だからその技術を知らない人にはそういった仕事は回ってこない。
んで勉強しても全然あたまに入らなくて身につかなくて、仕事も回ってこないの悪循環。
なんか俺、勉強の仕方を根本的に間違えているのかな?よくわからない。
年末に嫁さんが子供連れて実家に帰るから3年ぶりくらいに3週間ほど一人の時間が持てるからそんときにいままでできなかった勉強いろいろしたいと思っているんだけど、今のままじゃ何をしても無駄に終わるんじゃね?って思えて怖い。
自己啓発セミナーとか行く人間の気持ちがよくわかる。このドン底のモチベーションを無理やりでもあげられるならわらにでもすがりたい気分。
マジみんなどうしてるの?根本に俺が怠け者なのが原因なのはわかっているんだけど、どうやったらちゃんと勉強できるんだろう?

勉強の仕方がわからない 追記あり その2

僕はこのエントリーを読んでアフリカかどこかの原住民の呪術の話を思い出した。

その部族は日照りが続くと雨を呼ぶための儀式をするのだそうだが、この儀式を行うと必ず雨が降るというのだ。雨が降る理由は非常にシンプルで、要するに雨が降るまで儀式をやめないとそのうち必ず雨が降る。

実際にこのような儀式があるのか僕は知らない。物事を続けることの大切さを説明するための作り話なのかもしれない。しかしながら、この話がいろいろと考えさせられるものである事は確かだ。

勉強というのは、この雨を呼ぶための儀式と似たところがある。何かを理解できるまで考え続けたら大抵のものは理解できる。勉強しても分からない、というのは大体、一時間どころか30分も考えていない場合がほとんどだ。もちろん、すべての物事が30分や一時間で分かるわけもないが、考え続ければ大抵の事はそのうち分かる。

しかし、先ほどの増田からは、この考えるという姿勢が全く感じられない。考える代わりに、何も考えずに理解できるものを探し回っているだけに見える。

確かにITに関する教科書とかネットに落ちている解説は、なんでこんな簡単な事をゴチャゴチャと複雑に書くのか訳が分からないものが非常に多い。どこかに簡単に理解できる説明があるかもしれない、と考えるのは分からないではないし、運がよければ一目見たら分かるような説明に行き当たる事もある。

しかしながら世の中では、ひどい資料ばかりでまともな解説が全く存在しない場合も少なくない。その場合は、自分で例を考えるなどして、少ないヒントから自分で解説を考えるしかない。

当然これは試行錯誤を必要とするプロセスで、それなりに時間がかかる。しかしながら多くの場合、勉強のやり方はこれしかない。先ほどの増田にはこれが分かっていない。

先ほどの増田があれこれ色々なものに手を出しているように見えるのも気にかかる。

ITの世界は技術の移り変わりが激しい。今年は2017年だが、2007年に流行した技術で今も使われているものはどれほどあるのか?もし10年後には忘れ去られている技術なら、それを勉強してもしなくても10年後には同じである。

基本的に、ITの技術は理解をするのに以前の技術に関する知識を必要としない。いま必要な技術を勉強するのに2007年の技術を知っている必要はないし、10年後の技術を勉強するのに今の技術は知らなくていい。

だからある意味、いつも勉強していないと時代から取り残される、というのは嘘である。なぜなら、ITの技術など、ちょっと勉強したら簡単に時代に追いつけるものがほとんどだからだ。

上のような主張は、20年前に「C++を勉強しなければ時代に取り残される」と言っていたようなものである。今のITの仕事をするのに普通C++は関係ないし、C++を必要とする仕事をする人は必要になった時点でC++をすんなり理解できるレベルの人である。

だから増田は、時代に取り残されることを恐れてあれこれと手を出すのではなく、一つのことを理解ができるまで取り組むべきだ。もちろんそれが流行り廃りのない普遍的な知識であればよいが、そうでなくても一つのことでも身に付いた方が何も身に付かないよりましだろう。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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日本シリーズの感想

終わってみれば力の差が出た日本シリーズだったと言える。

桑原よりも柳田のほうがちょっとだけ力があった。

筒香よりも内川の方がちょっとだけ力があった。

山崎よりもサファテの方がちょっとだけ力があった。

そういうことだと思う。

どんな熱狂的なDeNAファンでも、これと逆の主張をする人はいないだろう。

投手全体、野手全体を考えても、やはりSBのほうが戦力がある。

ただ戦力があるだけではなく、戦力に分厚さがあるのを感じた。

 

しかしながら、DeNAからすると第6戦は十分に勝てた、勿体ない試合だったようにも思う。

第6戦のラミレス監督の采配はよくわからなかった。

今永はあの回も抑えるつもりだったと報じられたが、今永を下ろすタイミングはちょっと中途半端だったのではないか。

それから第6戦で濱口の登板もありうる、というアナウンスがあったのに、なんで濱口を投入しなかったのだろう。

今永を下ろした後は濱口を投入するべきだった。

第4戦で7と2/3イニングを無安打で抑えた濱口を投入していれば雰囲気も変わったはずだ。

全体に第6戦でのラミレス監督の采配からは総力戦という感じがしなかった。

総力戦というよりは、バタバタと慌てているうちに終わってしまった印象がある。

エスコバーに二回を投げさせたのもよくわからない。

 

もっとも、DeNAがこのような状況になったのはある程度は仕方のない事かもしれない。

なにせSBは年俸一億以上の選手が20人くらいいる。

つまり、いまのSBはバブル時代の西武のようなものなのだ。

もちろん、その20人の中にはプロとして使い物にならない状態の松坂もいたのだが、そんな松坂と3年12億という契約をすること自体SBの戦力の分厚さを物語る。

今でもSBは強いのに、この12億を無駄なくつかっていたら、SBは今よりまして強くなっていたはずである。

 

そんなSB相手にDeNAは十分見せ場を作った。

特に第4戦と第5戦は、業界人のいう「痺れる試合」だったと思う。

第5戦の8回、一発がでたらすべてが終わるという状況で登板した山崎は柳田と対決して、そして勝った。

あの場面は見ていて本当に感動した。

濱口の7回無安打と高城のホームランにも驚いたし、第5戦では筒香も打った。

筒香の打撃は第6戦では再び眠り込んでしまったが、やはり4番がここぞという場面で打つのはよいものだ。

サヨナラ負けをした第6戦だって途中まではDeNAが勝つ流れで、普段は「僕たちはスターなんですよ」といった表情でプレーしているSBの選手にも焦りが見えた。

あの巨大戦力のSBをよくここまで追い詰めたと思う。

CSでの快進撃も考えに入れると、DeNAポストシーズンは大成功と言っていいだろう。

その一方で、SBの選手のプレーも、さすがはスター!一億円プレーヤー!といいたくなるような素晴らしいものだった。

 

今年の日本シリーズも見所がたくさんあった。

ラミレス監督の采配も見所の一つで、2勝4敗という結果になったとはいえ、ラミレス監督の采配には至る所で勝利に対する嗅覚が感じられた(これは緒方監督には見られないものだ)。

4敗と言っても、考えてみたら大差になったのは初戦だけで、あとは一点差と延長サヨナラ負けなのである。

なにより、ラミレス監督はハートがある監督だということがこの日本シリーズを見てよくわかった。

来シーズンにラミレス監督がどのような手を打ってくるかが注目される。

今回のシリーズで悔しい思いをしたDeNAの選手の活躍にも期待したい。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

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子供の教育とテレビ

個人の生活がスマートフォンを中心に回るようになって、テレビというのは情報弱者が見るもの、というような意見が聞かれるようになった。

実際にテレビを持たない人というのは結構増えていると思う。ものというのはかさばるもので、狭いアパートで独り暮らしとかだとテレビ一つないだけでずいぶん部屋が広くなるし、引っ越しなどもそれだけ楽になる。それに、テレビを見る時間というのもバカにならない。録画などでも毎日2,3時間テレビ番組を視聴したら、今の忙しい世の中ではなにもできない、というのもわからないでもない。

しかし僕が思うのは、このままテレビを見る人が減ると子供の教育というものはどうなるんだろう、という事だ。

テレビというのは分野を問わず、映像で「デカい事」を取り上げるものである。それはなにかヒット商品が何十億、あるいは何百億と売れまくる事でもいいし、オリンピックで金メダルを取るとか甲子園で優勝するとかなんでもいいが、とにかく世の中ではデカいイベントがいろいろあってデカい事をしている人がいる、という事を日々紹介するのがテレビである。

僕は、子供がテレビを見る事で世の中にはどのようなビッグイベントがどのように起きているのかを理解することはとても重要だと思う。こういう事はどうしても活字では伝わらない。活字というのは映像の補助としては非常に有益だが、活字をいくら読んだところで映像から得られる情報は得られない。

一方、ビッグイベントというのは同時に勝負の世界でもある。

たとえば今、テレビでは日本シリーズが全国中継されている。日本全国の注目が集まる中、ここでどのようなプレーをしたか、というのは当然、出場選手の野球人生にとって重大な意味を持つ。特に日本シリーズに進出するのが何十年に一度というような球団の所属選手にとって、日本シリーズは一生に一度あるかないかの大舞台である。

しかし、野球には勝ち負けがある以上出場選手のパフォーマンスにも明暗が分かれる。重大な局面で連打を浴びたり、肝心な所で打てなかった選手はがっくりと肩を落とす。逆に、ピンチをぎりぎりのところで切り抜けたり、試合の展開をひっくり返すような長打を打った場合は日本中から脚光を浴びる。そして、その背景には期待をしている多くの熱狂的なファンがいる。当然、動くカネも巨大である。

そのようなビッグイベントを目の当たりにする事で勝負に対する感覚を身に着ける一方、場合によっては自分自身がデカい事をする当事者になりうる、という自覚を持つ事は子供にとって重要な事である。

世の中には、テレビを見ても何にもならないから、と子供がテレビを見る事を嫌う親が少なくない。テレビを見ているヒマがあったら「勉強」でもやってくれればいいのに、という事だろう。

しかし、僕自身もそうだが、そのように育った人間は大抵ロクな事になっていない。多分、勝負に対する感覚が鈍いからだと思う。そのような育て方をされると、自然に勝負をするという事ができなくなる。勝負をする前に余計な事を考えてしまい、リスクを正しく見積もる事ができない。したがってリスクをとるべき局面でリスクをとる事ができずにそのまま負ける、という事を繰り返す人間になりがちになる。

子供の教育について言えば、後になっては何の役にもたたない小学校時代の成績などよりも勝負に対する感覚を身に着ける事のほうが、その後の人生においては比べ物にならないほど重要である。そして、勝負に対する感覚を身に着ける上でテレビの存在というものは非常に重要であると思う。

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