グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

内申制度と間違った努力

次のような匿名ダイアリーが話題になっている。

■東京都の「不登校は中学に復帰するな」こんな指導をしなきゃいけない現状を知ってほしい。都民ファースト公明党、都議会自民党などの皆さん

 

学校に行きたい中3生に「学校に行くな」と指導する辛さ

 

皆さんは、長期欠席からの復帰を望む中3生に「学校に行くな」と指導することができますか。

この辛さが分かりますか?

東京都のある公立中学3年生の話です。

温厚すぎる性格が災いしたのか、イジメが原因によって、一時期、学校にいけない状態に。だから、内申点は著しく低いものでした。

でもこの子、勉強がすごくできる。塾で受ける模試で、偏差値70オーバー。将来の夢は大きく科学者。

中学2年生の時、地元の難関校、都立国立高校の文化祭で見たクラス演劇に感動。

「地元で最難関の都立国立高校に進学したい。そこでもう一度、リセットして再出発をしたい。」

今までだったら、このような生徒であっても、都立の進学校に行くことができました。

それは、特別選考枠といって、募集定員の1割を「内申点を見ないで当日の筆記試験の得点だけで決める」という枠があったからです。

この枠のおかげで、学力はあるけれども、病気、ケガ、イジメ……様々な事情で学校に通えない時期があった中3生の多くが救われてきました。

不登校でオール1の内申しか付かなかった生徒が、都立最難関の西高校に合格したという例は伝説として語り継がれています。

もう何年も前の話だけれども、この実話が、どれだけ多くの生徒達に勇気と希望を与えてくれたことか。

私立中学校の数が日本一多い東京都。さまざまな事情から外部の高校受験を希望する生徒も東京にはたくさんいます。

そういう生徒は、外部受験の意向を学校に伝えると、嫌がらせのように内申点を大きく下げられたりすることがあります。

残念なことですけれども、事実です。

でも、特別選考枠があったおかげで、救われてきました。

 

舛添前知事の時代に突然廃止 多くの人達の批判をまったく聞かず

 

それが、舛添知事の時に、突然に廃止された。理由は、「入試制度が複雑になりすぎる」「あってもなくても同じ」とかだったと思います。

この制度がなくなった今、東京都内の多くの生徒達が本当に困っています。

東京都には、本当に様々な生徒がいるのだ。内申点がなくても、卓越した能力を持つ中学生がたくさんいます。

そういった生徒を一様に排除したのが、特別選考枠の廃止です。

ある生徒は唖然とし、廃止を知らなかった人の中には、泣き出す親子もいました。

東京都教育委員会に電話をしてみました。困っている生徒がいるのだと。

反応はこうです。「現行の制度ではこうなので、仕方がない。」と。

では、救う手はあるのか。一つだけあります。

それは、中学校には一切通わない、ということ。

たとえ中学校に復帰できる状態になっても、絶対に復帰しないということです。

なぜかというと、1度でも学校に行ってしまうと、その時点で、学校の内申点が付いてしまいます。

内申点がついた時点で、終わりです。もうあなたは、学力相応の都立高校へ進学はできません。

1度も学校に行かなければ、内申点は付きません。判定不能です。こうなれば、高校側は内申点を除外して合否判定をしてくれます。

舛添前知事が特別選考枠を廃止した結果、今、東京都内では、実力相応の都立高校への進学を希望する生徒に、

「中学校は絶対に登校するな。1度でも登校すると、都立高校へ進学できなくなるぞ。」

と指導しています。

中学校に行きたいよね。復帰の意欲もあるもんね。

でもね。ダメなんだ。君は勉強ができる。だから、都立の進学校へ行って、たくさん勉強して、大学へ進学してほしい。

君が中学校に1度でも通った瞬間に、内申点が付いて、君の進学への道はすべて閉ざされるんだ。

ごめんね。ごめんね。


皆さんで東京都に意見を出してほしい 都民ファースト、公明、自民、皆に声を届けたい


本当にひどい制度です。

そして、その制度を、都民ファーストの会公明党小池都知事は未だに継続しています。

みなさん、ぜひこの現状をぜひ拡散してください。広く知ってください。

小池都知事都民ファーストの会の皆様、都議会公明党自民党共産党、だれでも構いません。

この状況が早急に変えられることを願います。 

東京都の「不登校は中学に復帰するな」こんな指導をしなきゃいけない現状を知ってほしい。都民ファースト、公明党、都議会自民党などの皆さん

一言で言って、内申という制度は、やったふりをする人間が得をする制度である。よく、真面目に「努力」した生徒が報われるような制度にしないといけない、ということがいわれるが、もし真面目に努力をしたのならどうして成績が悪いということがあるのか?本当に努力をしたのならば、努力の結果として当然成績はよくなるはずで、内申などを見る必要はないはずである。

内申がよくて学力が低い生徒は勉強をしているふりがうまいだけで、実際には勉強をしていない。実際に勉強をしていないから学力が低くなるのだ。一方、不登校などでろくに学校に行っていないのに成績がいい子供は本当の努力を行っている。いい成績というのはある程度の努力なしに取れるものではない。成績がいい子供は努力をするから成績がよいのであり、成績が悪い子は努力をしないから成績が悪いのだ。

内申という制度は、努力をしたふりをした生徒を評価して本当の努力をした生徒を評価しない酷い制度である。内申は、努力をしたふりを評価して本当の努力を評価しない日本社会の腐敗を象徴するもので、徹底的に破壊しなければならない。

・・とまあ、このように結論できたら話は簡単だが、現実はそれほど簡単ではない。もちろん、日本社会では形だけを見て実質を見ていないことが多いのだが(そしてこれは教育制度において著しいが)、これは現実の一面に過ぎない。

教育役人が内申に執着する理由は分からないでもない。学校教育というのは生徒の成績を上げるためにあるものではないからだ。なので、学校のいう通りに「努力」をしたら成績の方はあまり期待できないことがおおいだろう。学校の指示通りに勉強するというのは、英文法を勉強せずに英語を勉強するようなものだ。学校教育が指示する努力は、成績を上げるという観点からすると間違った努力なのである。

今から考えたら僕は中学時代から健康上かなり強烈なハンデをかかえていたのだが、それでも地元の「トップ高」に簡単に入るくらいのパフォーマンスは出せていたし、実際にトップ高に進学した。しかし、僕の成績がよかったのは僕が筑駒志望の中学生がやってそうな問題集を三回やるなどしていたからで、学校の勉強を真面目にやっていたからでは断じてない。学校の「宿題」なんか、僕は一度も出していない。

内申の問題はここにある。ひっきりなしに「勉強しなさい!宿題はやったの!?」 と繰り返す愚かな家庭に育ち、学校の教師のいうことだけを聞いた結果として成績がぜんぜんさえなかった場合、そのような生徒はどのように扱えばいいのか?

現実的なのは運用でダブルスタンダードを確立することだろう。

内申の扱いというのは地方によってかなり差があるようだが、僕の地元ではトップ高だけは内申は見ないといううわさだった。だから、内申が悪い生徒は二番手の高校よりもトップ高を受けた方が難易度的に遙かに合格しやすいとされていた。

田舎でこのようなダブルスタンダードが採用されているのにはいくつか理由が考えられるが、田舎の成績のいい生徒は多かれ少なかれ地域の期待を背負う、と言うのがあるだろう。このまま勉強を続けて、中央で成功して故郷に錦を飾ってほしい、というのは田舎では誰にでもある。だから、成績がいいなら少しの事は大目に見るのだ。これは東京出身者にはわからない感覚だと思う。勉強できる子はみんなトップ高、という図式を崩したくないというのもあるかもしれない。

東京都でも、いくつか高校を選んでそこの高校は内申を提出しなくても受験できるようにすればいいのではないか。そうすれば、内申制度の弊害はいくらか緩和されるだろう。

もっとも、私立高校の無償化やオルタナティブ教育の存在もあり、これからは公立高校もだんだんと競争に巻き込まれていくことが予想される。内申制度だって今後はどうなるか分からないが、いずれにしても、これからの学校が態度中心から勉強中心になっていくことを願ってやまない。

電子出版した本 

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

フリック入力と役に立つ勉強

去年の年末から、ブログをスマートフォンを使って書いている。

SIMフリースマートフォンは2年前から持っていた。しかし、フリック入力が使えないとスマートフォンなど単なるWifiが使えるカメラのようなもので、ほとんど使っていなかった。はじめはQWERTY配列や手書き入力でスマートフォンを使おうと思ったが、当然使い物にならずにそのままになっていたのである。

そもそもにして、僕はスマートフォンを大して重要なものとも思っていなかった。キーボードからの入力に慣れている僕からするとフリック入力を使って文字を入力するなんてものすごい非効率に見えた。スマートフォンは画面も小さいし、こんな面倒なことをするくらいなら家でPCを使うからいいか、と思っていた。

しかし、思うところがあって今は文章は全てフリック入力で入力している。ブログもすべてスマートフォンで書くようになった。というか、スマートフォンを使う時間が増えてPCを使う時間はかなり減った。

PCからスマートフォンに移行したのは、一つはキーボードを使って入力したところで何の進歩もない、という当たり前の事実に気づいたからである。

僕はキーボードはもう何十年も使っている。もちろん、ファンクションキーなどホームポジションから離れたキーを打つとき以外は手元は見ない。もっとも、僕のダイビングの速度はタッチタイプをしている人の中ではとんでもなく遅い部類で打ち間違いも多いのだが、もう何十年もキーボードを使って入力しているので基本的にはいくらキーボードを使って文字を打ったところでこれ以上の進歩はない。

しかし、今フリック入力を習得すると、これは以前使えなかったスマートフォンを利用できるようになるということだから明らかな進歩である。僕は今後スマートフォンを使う局面は絶対出てくると考えた。もし引きこもるのをやめて「社会」に出て活動する場合、絶対にスマートフォンは必要になる。それならば今のうちにフリック入力の勉強をしておくべきなのは明らかである。

しかも、都合がよいことに僕はブログをやっている。はてなのアプリケーションをダウンロードしてスマートフォンでブログを書いていれば、そのうちフリック入力に慣れてくることは予想できた。

それでフリック入力を使ってブログを書き始めたのだが、初めのうちは大変だった。なにせ、画面には「あかさたなはまやらわ」の10文字しかない。他の文字を入力するには、どこをどの方向にフリックすればいいのか全部覚えていないといけない。初めのうちはこの組み合わせを思い出すだけでものすごい頭が疲れた。反対方向にフリックするという間違いも多かった。「し」と「せ」、「る」と「ろ」、「り」と「れ」など、しょっちゅう間違えた。そういうわけで、初めのうちは時間はかかるし間違いは多いしで大変だった。

スマートフォンを使い始めて一月ほど経った今、フリック入力にも大体慣れた。今でもたまに指が止まったり、間違った方向にフリックすることはあるものの、だいたい無意識に入力できるようになった。まだキーボードを無意識に打つくらいのレベルではないが、少なくともスマートフォンを使い始めた頃とは比べものにならないほど上達したと思う。まあ、平均的な女子高生の半分くらいの速度で入力できているのではないか。

それで、フリック入力ができるようになってスマートフォンが使えるようになったのだが、使ってみるとスマートフォンというのは便利なのだ。正直、スマートフォンがこれほど便利なものだとは思わなかった。この便利さは言葉ではとうてい説明できない。もう、スマートフォンなしの生活は考えられない。

フリック入力の勉強をして、つくづくおもったことがある。それは、勉強というのはよい勉強と悪い勉強があるということだ。

よい勉強というのは、勉強することで大きく世界が広がる勉強である。勉強することで世界が大きく広がるほどよい勉強と言えるだろう。そういう意味では、フリック入力というのは非常によい勉強の典型例だと思う。スマートフォンが使えるようになって僕の生活はものすごく便利になった。スマートフォンは世界を変えたとよく言うが、実際にスマートフォンを使ってみるとスマートフォンというのは本当に革命的だな、と実感する。

しかし、スマートフォンを使うにはまず、フリック入力の勉強をしないといけない。フリック入力の勉強は大変である。キーボードだとすらすらと入力できるものを一文字につき何秒かをかけて、ときには間違えながら打ち込んでいくのはとても根気がいる。しかし、このように一文字一文字を時間をかけて打ち込むという練習なしにはいつまでたってもスマートフォンは使えない。

フリック入力の勉強のように、本当に役に立つ勉強というのは学習するのが大変であることが多い。だから、本当に役に立つ勉強というのは、それが役に立つと頭では分かっていてもなかなか始めにくい。どうしてもしんどそうな印象が先に立つし、実際にある程度はしんどい。

フリック入力の勉強も、確かにしんどいといえばしんどかった。しかし、考えてみたら、いくらフリック入力の勉強がしんどいと言っても、それはせいぜい一月ほどのことなのだ。一月ほどたった今では、僕はフリック入力の練習がしんどかったことなど忘れて普通にスマートフォンを使っている。おそらく、大抵の勉強も、やってみれば一月ほどの学習でできてしまうものがほとんどなのではないか。

僕もそうだが、役に立つ勉強というのは大変なので、どうしても役に立つ勉強を避けて役に立たない勉強の方に流れがちである。役に立つ勉強よりも役に立たない勉強のほうが楽だからである。しかし、当たり前の話だが、役に立たない勉強を重ねるよりは役に立つ勉強をしたほうがいいに決まっている。

役に立つ勉強というのはフリック入力の勉強のようなものなんだろうな、とスマートフォンを使えるようになって思った。

電子出版した本 

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ブロガーとして生きるということ

それにしても、ブロガーとして生きるということはたいへんだ。

僕もこのブログをはじめて結構になるが、昔よりかは楽になったとはいえ、今でも大変だ。まず文章を書くのが大変だし、とにかく時間がかかる。文章を書くのは早い人は早いが、僕は文章を書くのが遅いので朝にブログのエントリーを一本書くと本当に半日が終わった気分になる。というか、だいたいブログのエントリーを一本書くと疲れて寝てしまうので、本当に半日が終ってしまう。ブログのエントリーというのはあっという間に読み終わるのでブログなんて簡単に書けると思うけれども、実際に自分でやってみるとかなりたいへんだ。

それでジャンジャンとアクセスが見込める一万文字くらいの長文エントリーができあがるかというとそんなことはない。せいぜい1,500文字とかそんな程度だ。しかも、僕のブログで具体的な情報ではなくアイディアとか思考を書いているので検索エンジンからの受けはとても悪い。270記事書いて一日のアクセスは200少しだ。年末よりは50ほど増えたが、これだって最近更新が少しばかり多いからかもしれない。エントリーを一本かいたら疲れて寝ているのにこれなのだから、我ながらものすごいことをしていると思う。

たとえばこれからあと十年、今のような調子でブログを続けていたとしたら、その十年でブログにどれほどの時間とエネルギーを費やすことになるのか見当も付かない。もちろん、十年後も今のように悠長にブログを続けていられるかどうかはしらないが、もし今のブログ生活が十年続くとなるとものすごいことになりそうだ。

それでも僕がブログを書くのは、

・ブログしか社会との接点がない

・ブログしかできることがない

・書きたいことがある

という3つの理由があると思う。

僕は引きこもっているので理屈の上ではなにをしてもよいはずだが、世間とのやり取りが全くないというのはかなり苦痛だ。苦痛というか、なんともいえない虚しさがある。

ブログを始める前は世間とのやり取りがゼロの状態が常態だったので、あまり苦痛とか虚しさを感じていたわけではなかった。しかし、実際ブログを始めてみると、世間とのやりとりをゼロにして引きこもっているのはやはり自然な状態ではない、と改めて実感した。

ブログを始めて、僕の生活はかなり自然になったと思う。もちろん、世間から見たら僕の生活には何の変わりもないけれども、引きこもって暮らしている本人には大きな違いがある。もっといえば、ブログをせずに単純作業などをして「社会復帰」するよりは、ブログをしながら引きこもっているほうが僕にとっては自然な生き方だろう。それどころか、「先生」になって頭脳労働に携わるより、ブログをやっている方が自分に合っているかもしてない。

二番目の「ブログしかできることがない」についてだが、もちろん理屈では人間というのは何でもできる事になっている。もちろん、一人一人の人間ができないことは無限にあるが、できることもまた無限にある。しかしながら、理屈ではできることと実際にできることの間には大きな差があって、実際に続けることができることはかなり限られている。

僕にとって、とりあえずブログは続けることができる数少ないものの一つになっている。何かを続けるには調子の悪いときでも続けなければいけないが、僕はとりあえず、ブログはどんな状態でも書ける。

なんだかんだでブログ以外のことをやるのは大変なのである。ブログを書くのもそれなりに大変だが、ある意味文字を書けばいいだけなので楽と言えば楽だし、いつでもどこでも、どんな状態でもできる。体の具合が悪くて引きこもっているような人間にもできるのである。その上、これは引きこもり的に非常に重要なのだが、ブログを書くのにカネは全くかからない。インターネットに接続がある限り、カネのことを一切気にせずに延々と書き続けることができる。

しかしながら、なんで僕がブログを書いているのかというと書きたいことがあるから書いているのだろう。たしかに社会とのやり取りが全くないのがしんどい、というのもあるし、現状できることと言ったらブログくらいしかない、というのもあるが、もし書きたいことが何もないならブログを書く以外のことをしているだろう。

しかも、何か書きたいことがあるからとブログのエントリーを書き始めると、たいてい書き始める前には思いもよらなかった論点が出てくる。なので、ブログを書くことは非常に勉強になる。ブログを始める前と比べて、僕のものの考え方は相当に進化したと思う。ブログを書いていなければ、僕のもののの考え方は今とは比べものにならないほど低いレベルにとどまっていたと思う。

ブログをやるにはとんでもないコストがかかる。時間もかかるし、体力も消費する。それはこのブログを一年半くらいやっていやというほど実感した。正直、今後十年間ブログをやるとしたらどれだけのコストを支払うことになるのか気が遠くなる思いがする。

はっきりいって、ブログを書くなんて事は気違い沙汰以外の何でもない。しかし、それでも僕はブログを書き続けると思う。書かなければならないことがあるから僕はブログを書き続ける。その結果どんなことになろうともである。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

語学で必要なのは単語・文法・リスニング

中3で英検3級の面接試験で落ちて以来、英会話への苦手意識が刷り込まれていた。

5年くらい前に仕事で英語出来るに越したことないとなってきて、真面目に勉強し始めようとした。

英会話スクールの体験レッスンに行ったり、先輩に連れられて英語カフェに行ったりしたが、あまりにもな自分の英会話力に絶望して続けられる気がせず、買ったテキストも三日坊主に終わっていた。

必要に迫られたらやろう、とそれからまた避けていたのだけど、結局できない奴にはそういう仕事が来ないだけなので、やっぱり出来るようにならないとな、と新年からまた気負わない程度に英語の勉強を始めることにした。


勉強を始めて徐々にわかってきた自分の現状を分析してみる。


曲がりなりにも受験戦争を突破してきたので、読みは時間をかければだいたい意味は把握できる。

絶望的なのは、「ヒアリング」と喋るための「作文力」だ。

英会話レッスンの時、英語で質問されてから答えるまでに、絶望的に長い沈黙になってしまったのだけど、なんで長くなるかって言うと、3つのことを順番に考えないと喋れないからだ。


1.相手が何て言ったのか(英→日)

2.質問に対しての答え(←1が間違っているとここでつまづく)

3.答えを英語で何と言うのか(日→英)


さらに言うと、読みならなんとなくわかるせいで、聞いた英語を頭の中で文字で英文に書き起こさないと理解できないということがわかった。


…と、ここまで分析してみたけど、

結局聞き取れるようになるには英文と結びつけながらたくさん何度も聞くしかないし、

英作文を鍛えるには文法も理解して単語もいろいろ覚えないと無理だし、

会話の瞬発力をつけるにはたくさん自分の中にストックしておくしかないし、

結局物理で数をこなすしかないのか…と思い至りました。


今はとりあえず通勤時間で出来る範囲で「リトル・チャロ」をシーズン1から、

英文見ながら聞く、日本語訳を追いながら聞く、気がすむまで聞く、最後にキーフレーズの英作文テストをする。

を繰り返している。一応3日は続いたので、続けられるようにしようと思う。

 

英語マスダーのみなさま、こんなひよっこの私にオススメの勉強法(電車の中で出来ることだと嬉しい)やアドバイスなどあったらお願いします…!!

語学は物理で殴るしかないのか

突き詰めて考えると、語学で必要なのは重要なものから並べて、単語・文法・リスニングである。

まず、なによりも重要なのが単語であるのとは言うまでもない。どんな英語でも単語が分かれば何を言っているのかだいたいのことは分かるものだし、片言でも単語を並べてさえいれば何らかの意思疎通はできる。いくら文法に詳しくても単語を知らなければ手も足も出ない。

よく、知らない単語は推測すればいいというが、これをやるにはすでに相当の単語を憶えておかないといけない。僕も英語を読むときはいちいち単語なんて調べないが、英語の勉強を始めたころは一つひとつ辞書で単語を調べないと何も分からなかった。

どれくらい単語を知っていると辞書なしで英語が読めるようになるのか、はっきりしたことはわからないが、まあ辞書なしで英語が読めるようになるころには一万単語くらいは知っているのではないか。とりあえず一万単語英単語を知っているレベルになると、一通りのことはできるようになると思う。

次に重要なのは文法である。先ほど単語が分かればなんとかなる、と言ったが、これは先方が非常に親切だったり、先方にこちらの話を理解する必要がある場合のことで、実際に英文を読む・書く・聞く・話すとなった場合に文法を知らないと少し英語が難しくなれば手も足も出なくなる。

もちろん、語学に関するカンが鋭い人は、観察によって正しい文法規則を見いだすことができるだろうが、僕も含めた一般の人は語学の天才でも何でもないから文法は本で読んだ方が早い。大卒なら受験で英文法をやっているだろうから、「ナントカ総合英語」みたいな受験参考書を買ってきて英文法を復習すればよい。三日どころか週末の土日で必要な英文法は理解できる。

さて、英語の勉強では単語と文法が重要だが、単語と文法を身につけるにはどうすればいいか、というと、実際に外人が読んでいる英文を読むのがいちばんいい。理解するということと身につけるということは全く別のことである。単語だけ、文法だけを憶えることは理屈ではできるが、それらが実際にどう使われているかを知らないとあっという間に忘れて身につかない。文法の知識を総動員しながら英文を読んで、出てくる知らない単語を全部憶えていけば実際の英語で文法がどのように使われているか分かるし、語彙力もそのうち一万単語レベルになるので、英語に困ることはなくなる。

ここで重要なのは実際に外人が読んでいる英文をよむことで、「なんとかのチャロ」みたいなものに手を出してはダメ絶対!である。外国人が読んでいる英語は受験英語の長文と変わらないというか、入試の長文は大学教師が職業生活で読んだネイティブ向けの英文そのものである。入試の英語がよめればネイティブが読んでいる英語は全部よめるので、いきなりネイティブがよんでいるものを読まないといけない。読んだほうがいい、というのではない。ネイティブが読むものを読まないと内容の程度が低すぎて勉強にならない。「なんとかのチャロ」など全くの論外である。

どうしても英語教材を使って英語を勉強したいならTOEICの英語を勉強すればいい。ビジネス英語に偏った内容だが、内容の程度が低いというわけではないし、すくなくともTOEICの英語は無駄にならない。

あと、実際の英語を読み始めるときは英文解釈の受験参考書をやっておいたほうがいい。難読英語の読み方をシステマチックに解説しているので英語を勉強するのに非常に役に立つ。

最後にリスニングだが、これはとにかく時間がかかる。本当に何千時間も英語を聞かないといけない。集中すれば語彙と文法は短期間で相当なレベルに持っていけるのだが、短期間で英語を聞けるようにもっていくのは難しい。英語のニュースでアナウンサーが話す内容が大体わかる、というレベルで1,000時間かかる。一日に十時間英語をきくという生活をして3か月ほどなので、やろうとすればできるのだが、実際は難しい。なので、リスニングをやるにはどうしても時間がいる。

リスニングは時間がかかるので、受動的なやり方であるほどいい。勉強するのに時間がかかるものは、受動的なほどうまくいくし、能動的であるほど失敗しやすい。だからリスニングをやるならスカパー!でBBCだけ契約すればいいのではないか(CNNは勧められない。CNNはBBCと比べて内容が幼稚だし、アメリカ英語は英語学習者にとって学びにくい)。

YouTubeを見るとかは能動的な勉強方法なので、普通の人が持ち合わせる意思力では絶対無理だと思う。やるなら絶対一日に何本の動画を見る、とか、徹底的にログをつける必要があるだろう。

個人的に、アクトプットの勉強をするのはすすめない。英語を話すとか、英語を書くなどのアウトプットをする力はリスニングの力に比例するので、リスニングをするだけでアウトプットはできるようになる。何千時間も聞いていれば英語でなにをどう言えばいいかくらいは一通り分かる。リスニングである程度のレベルにいくには5、6千時間は必要だが、アウトプットの勉強をしている間はリスニングの勉強ができない。そして、リスニングをしていればアウトプットはできるようになるのだから、はっきりいってアウトプットの勉強は時間の無駄だと思う。アウトプットの勉強をしている時間があるならばその時間を全部リスニングに回した方がいい。そうした方がかえって総合的にはアウトプットする力も付くと思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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自動調理家電によって日本の料理のレベルは向上すると思う

一部で評判の電気調理鍋だが、これは日本の食い物全体のレベルをかなり向上させる可能性があると思う。

なぜかというと、僕が思うに料理のレベルというのは料理を作る人間の舌のレベルとイコールだと思うのだ。つまり、まずいものをまずいと感じない人は料理が下手で、まずいものをまずいと感じる人は料理がうまくなると思う。

まずいものをまずいと感じる人は、失敗料理を作ってもどこで間違ったのがすぐに分かるし、そもそもまずい料理なんて食いたくないから料理の腕がある程度の水準を下回ることがない。

ところが、まずいものをまずいと感じない人は、どんなまずい料理を作っても何がまずいのか分からないのだから料理を改善しようがない。だから一生まずい物を作って周りに迷惑をかけることになる。

では、人の味覚がどのようにして決まるのかというと、それは子供の頃になにを食ったかで決まるとおもう。

子供の頃にまともな味のものを食べていれば当然、うまいまずいの判断はできるようになる。しかし、料理が下手な親が作るまずい物を食べている子供は、まずい食い物に慣れてしまう。つまり、まずいものをまずいと感じなくなるのである。そして、そういうこどもが親になったらまた子供にまずい料理をつくることになるのだ。

自動調理機の意義はここにある。自動調理機の特徴は、料理のセンスに関係なくできる料理が同じであるということである。材料をレシピで決められた分量入れるだけだから同じものができる。

しかも、今の自動調理機は性能がいいので、出来上がる料理もレストランで出てくるものと変わらない。自動調理機はまだ歴史が浅いので、性能も日進月歩で進化しているはずだ。

もし、メシマズ親が全員自動販売機を使うようになれば、メシマズ親が将来のメシマズ親を作るという循環を断ち切ることができる。メシマズ親が調理するより、献立を自動調理機でできるものに限定して料理を自動販売機に任せる方がいいに決まっているのだ。メシマズ親のほうも、旦那や子供にメシマズであることを責められることもなくなるし、料理も楽になるのでハッピーである。

もしメシマズ親が自動調理機にとってかわられると、子供の味覚は正常になるからその分、日本人全体の味覚のレベルが上がる。日本人全体の味覚のレベルが上がると、まずいものは売れにくくなるし、外食や加工食品の開発者のレベルも上がる。そして、このことがさらに、日本人全体の味覚のレベルアップにつながるのである。

もちろん、メシマズ親がレシピにしたがわず、間違った自動調理機の使い方をするという可能性はあるが、全体的にはこのような流れになるはずだ。

僕は、今後数十年、あるいは数百年のことをかんがえると、自動調理機は絶対に普及すると思っている。なにせ、材料を切って、調味料を決められた分量入れて放っておくだけで、原価率をかんがえればレストランよりうまいものが出てくるのだ。普及しないわけがない。スーパーマーケットに並ぶ野菜なども自動調理機を考慮して、無洗米のように洗わないでいいと保障しているものが主流になるだろう。

自動調理機はすべての料理を作れるわけではないが、自動調理機の存在はすべての料理に影響を与えるとおもう。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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受動的なネットユーザーと能動的なネットユーザー

最近、CSで英語の放送を見る時間を取るようにしている。ちょっと日本語のテレビを見る時間が多くなりすぎた。

僕は英語の勉強を初めてからずっとテレビというとスカイパーフェクトTVでBBCかCNNを見るだけだったのだが、半年ほど前から地上波のテレビ番組を見るようになった。初めは録画したものを見るだけだったが、そのうちテレビのチャンネルを回して面白そうなものも見るようになった。

それで思ったのは、よくネットなどで言われている、ネットでの情報はテレビの情報よりも質が高い、というのはまったくのデマなんじゃないか、ということだ。ネットにあるコンテンツの方がテレビのコンテンツより質が高いとはどうしても思えないのだ。

どう考えてもよくできたテレビ番組を一時間みるほうがだらだらと一時間ネットをするより有意義だと思う。それは当たり前の話で、テレビ番組を一時間作るのにはとんでもないカネがかかるのだ。なんのカネもかかっていないネットのコンテンツと比べておもしろいのは当たり前である。

百聞は一見にしかず、というのはテレビのためにあるような言葉で、うまくできたテレビ番組の情報量は軽く本一冊分以上になる。というか、本を何冊読んでも分からない情報を提供するのがテレビなのである。もちろん、テレビ番組にはつまらないものもあるが、番組表からおもしろそうな番組を探して録画すると大抵おもしろい。

それなのに、どうしてテレビよりネットのほうが情報源として評価されがちなのか?

思うに、ネットユーザーには僕のように受動的にネットを使っている人と、能動的な使い方をしている人がいるのだと思う。

インターネットというのは、受動的な使い方をしているとつまらない。もちろん、Twitterのアカウントとかにはものすごいディープな情報や考えを流しているアカウントもあるので、そのようなアカウントのタイムラインを読んでいると自動的に有益な情報が入ってくるのだが、口を開けて「キュレーションサイト」を眺めるだけだとテレビを見ていたほうが有意義だろう。

能動的にネットを使っている人は自分に必要な情報が分かっている人で、自分に必要ない情報には興味がない人なのではないだろうか?そういう人は自分に必要ない情報はおもしろいと感じない。そういう人がネットを使うとなると、自分に関係ある情報だけを能動的に集める事になるだろう。だから、そういう人にとってはテレビよりもネットの情報のほうが価値があるのである。

コンテンツの出来と情報が役に立つか、というのは別のことである。もし、テレビで放送されている番組がすべておもしろいとしても、一日中テレビだけを見て生活するわけにはいかない。

僕は英語の勉強を初めてから十年くらい、テレビは国際放送しか見なかった。確かに国際放送を見てはじめて分かることは多いが、おもしろさという点では日本のテレビのほうがおもしろい。 国際放送より日本のテレビの方がカネがかかっているからだ。しかし、もし十年間、国際放送のかわりに日本語のテレビだけを見ていたとしたら今の自分はない。国際放送をみても勉強になるだけ、といえばそうだが、英語力は残った。

社会から離れていると、どうしても情報の取り方が受動的になる。ネットの使い方を反省しないといけない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

引きこもりなのに英語の勉強をしないなんて勿体なさすぎる

はてなブックマークのタイムラインを眺めていると、ときどき引きこもりの話題が上がってくる。ぜんぶ悲惨な感じの話である。

引きこもり関係の状況が悲惨なのは、社会の引きこもりに対する認識と対処法が根本的に間違っているからなのだが、引きこもりの話を聞くたびに勿体ないなあ、と思う。引きこもっているならば時間は死ぬほどあるのだから英語でも勉強すればいいと思うのだ。

もちろん、もしひきこもりが英語を勉強したとしても、確実に社会復帰ができるということにはならないだろう。ひきこもりというのは勉強するだけで終わってしまう、というのは事実だし、「英語というのは実務能力と組み合わせないと意味がないんだよ。今まで何をしてきたの?」と偉そうに説教されるのが関の山かもしれない。

それでも、僕はひきこもりは英語を勉強した方がいいと思っている。なぜかというと、英語の勉強は健康にいいからだ。

英語ができると、精神的に楽である。世間から見たら、僕も報道されるようなひきこもりと同じようなものだろうが、正直あまり追い詰められている、という感じはしない。僕は辞書なしで英語を読み書きするし、当然辞書を引くことなく英語を聞いたり話したりできる。このことは、僕が世間から離れて生きる上でものすごい助けになっている。

英語ができてなにがいいかというと、世間が勝手に設定したカーストから離脱することができるのがいい。辞書なしで英語を使うというのは特殊技能だから、ある程度英語ができると自分の立ち位置がはっきりしなくなる。英語ができなかったらひきこもりなんてただの説教の対象だが、英語ができるひきこもりとなると単純に説教すればいいというわけにはいかなくなる。

「社会人」が英語の勉強を投げ出す確率は女性がダイエットに失敗する確率と変わらない。だから、英語コンプレックスがある「社会人」は英語がわかるひきこもりを批判できない。単に批判の対象とならずにすむということは、それだけで精神によい影響を与える。さらにいえば、実際に現実の世の中で批判の対象になるかどうかは全く問題ではない。単純に批判の対象とされずにすむと思えることが重要なのである。

ひきこもりにとって、英語というのは自分がどのような人間であるかということを示すのに非常に有用である。英語ができます、ということは、自分は英単語を一万単語覚えることができ、何千ページの英語を読み続けることができ、何千時間も英語を聞き続けることができる人間です、というのと同じである。何かについて継続的な努力ができるかどうかは精神状態を判断する上で重要な判断材料である。少なくとも、ゲームやアニメに時間を費やすだけの人よりは信用につながりやすいだろう。ひきこもりというのは引きこもっているだけだから、世間にはどのような人なのか分からない。英語ができれば、自分がどのような人間であるかを理解してもらう助けになる。これは精神的に非常によい。

英語の勉強が精神によい理由は他にもある。英語を勉強していると精神的に閉塞感を感じない。僕が英語の勉強をはじめたのは、学問をする者として西洋語が分からないのは恥ずかしいと思ったからだが、日本語しか分からないという状況に息苦しさを感じたからというのもあった。自分が引きこもっているという状況もあって、なんというか自分が日本に閉じ込められているような気がしたのである。英語を勉強するようになるとこのような閉塞感はなくなった。英語の勉強は僕がいままでやってきた事の中で一番精神によかったと自信を持っていえる。

よく言われるように、精神の状態は健康に少なからず影響を与える。ここ最近、僕の健康状態は以前とは比べものにならないほどよくなっているが(まあ、以前がひどすぎたので普通の人と比較するとまだまだだが)英語が分かることは健康状態の改善にものすごく影響していると思う。正直、英語が分からないままで今の歳になったかもしれないという可能性を考えるだけでも恐ろしい。

英語の勉強は、合理的にやれば誰にでもできる。世間で行われているような理不尽な勉強法だと確実にコケるが、合理的にやれば確実にできる。誰でもできるものなのでもちろん引きこもりにもできる。英語ができないひきこもりは今日からでも英語の勉強を始めるべきだ。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。