グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

広告とブランド

先日、選挙と広告というのは似ている、というようなエントリーを書いたけれども、この記事を書いた後で思った事がある。それは、広告というのは商品を宣伝しているというよりは、どちらかというとブランドそのものを宣伝しているのではないか、という事だ。

もちろん、どんな商品の広告でもメーカーのブランドイメージを確立するという役割と商品のプロモーションという側面の両方があるだろうが、ブランドそのもののプロモーションというのは結構大きいような気がする。

それについて思いだすのは、大学の「枠」の話である。以前ネットで近畿大学の「早慶近」のプロモーションが話題を呼んだ事がある。日本人ならば誰でも知っているように、私立大学の業界では早稲田と慶応の二つの大学が非常にブランドが強い大学であるわけだが(厳密に早稲田と慶応が同等のブランドパワーを持っているかは知らないけれども)、この早慶の枠に近畿大学も入れてくれよ、というのだ。

旧帝大早慶上理日東駒専関関同立産近甲龍。いきなりですけど、こんな大学の”くくり”一度は聞いたことありますよね?他にもイカツイ感じの”大東亜帝国”とか、ちょいと粋なところで、”関東上流江戸桜”なんてのもあります。なかなかのネーミングセンス!でも冷静に見ると滑稽な感じがしませんか?旧帝大とか「いつの時代やねん!」って、そろそろ誰かがツッコミ入れてもええんちゃいますの?とはいえ、これが受験生の大学選びで、物凄く影響力をもっているのも事実。じゃあ、世界ではどうか。最新の「THE世界大学ランキング」で、一定以上の評価をされた日本の私立大学を頭文字でくくってみると、まさかの”早慶近”。どうですか?え?「それは無いやろ」って?はい、分かって言ってます。でもね、”早慶近”はさておき、日本は語呂が良いだけの大学の”くくり”に、依存してませんか?こんなもん世界から見たら、通用するわけがない。2017年。そんな大学界の常識、そろそろ見直してもいい頃じゃないですか?私たちも、皆さんも。でもさすがに”早慶近”って、言いだした自分でもアホくさくて、笑てまうわ。

近畿大学が「早慶近」なんて事を言い出した年はイギリスのTimesでやっている大学ランキングで、私立大学の比較では近畿大学早慶の次の三位にランクインした年である。どうも近大マグロなど、産業界との連携が評価されたようである。

www.timeshighereducation.com

もちろん、近大の広告が明記するように「早慶近」というのはギャグに過ぎない。今のランキングを見ると別に近大は3位ではないし、直接的にはカネにならない基礎研究のレベルが評価の中で大きなウェイトを占める大学の世界でこのようなランキングをまともに取る人間などだれもいない。しかし、世間の中で大学のブランドというのはどのように決まるか、というのは興味深いテーマではある。

考えてみたら、学生が大学に期待しているのはブランドだけで、大学の中身に特別な期待があるわけではない。そして、これは一般の消費活動にも同じ事が言える。消費者というのは消費する商品の事をよく理解した上で何かを買っているわけではない。はっきりいって消費する商品を理解するというのは不可能である。それでは何を頼りに選択をするか、というとブランドである。大手という「くくり」で決めるのだ。

大手であるかどうか、というのはもちろん業態も影響するだろう。食品メーカーといっても、食品全体を扱って年商1,000億なのか、それとも駄菓子だけを製造販売しているのとでは分けが違う。大手というのは歴史もあるし、大手とそうでない会社とでは資本も違う。しかし、大手かどうかというのは基本的には、商品がみんなに買われるかどうか、だと思う。みんな買うから私も買おう、となるかどうかが大手かどうかの差だと思うのだ。

この広く売れる、という事に関して広告の役割というのは少なからずあるものなのかもしれない。広告がたくさん出せる、という事はそれだけ多くの人が商品を買っている、という事である。広告が言いたいことは要するに、ウチの会社の商品をみんな買ってるんですよ!ウチの商品は安心して買える商品なんですよ!という事なのだ。

そうした広告を見てるうちに、消費者のほうでは会社の「くくり」ができてくる。どことどこの会社は「大手」、というような認識が出来てくるのである。考えてみたら、僕が大手と思うような食品メーカーというのはみんな、大々的に広告を打っている企業ばかりだ。

ブランドというのは不思議なものだ。それは人々の心の中にある。人々の心の中にあるという事は、それは学習されなければならない。僕はこれまで広告というのが何のためにあるのか良くわからなかったが、そういう考えてみると広告というのは大手企業にとって非常に重要なものなんだろうなあ、と思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

選挙と広告

先日テレビを見ていたら、今回の国政選挙で立候補する候補者が直々にポスターの掲示をお願いして選挙区を回っているところを放送していた。どうも今回の選挙では選挙区の地域が変更になったようで「新しい地元ではなかなかポスターを張らせてもらえない」と苦笑いしながら語っていた。

僕はこれをみて、広告についてかねてから疑問に思っていた事の答えがなんとなく分かった気がした。

 

選挙があるたびに僕が不思議に思っていたのは、選挙のポスターというのはいったい何のためにあるのか、という事である。というのは、選挙のポスターに書いてある内容はどれもありたきりなもので、全然意味がないような気がしたのだ。

もちろん、今から考えればポスターというのは有権者にとって地元の政治家の名前を知るために欠かせない手段である。ポスターがあるから地域の住民はどういう政治家がどの政党で政治活動をしているのかが分かる。なんだかんだで政治家というのは名前を憶えてもらえなければどうしようもないのかもしれない。

ポスターがたくさん張ってあるとそれだけ知名度は上がるだろう。それに政党のポスターというのはたまに政党が主催する講演会などのイベントなどが告知されるから、この点でも政治の世界においてポスターというのは重要に思える。

ポスターにはそのような働きがあるにも関わらず、なんで僕はそれらの意味に気づくことなくポスターなんて意味がないと思ったのか、考えてみると僕は多分、冒頭に書いたような政治活動の実態というものが見えていなかったかったからだったと思う。

ポスターを張るというのは、有権者に名前を知ってもらうとかイベントの告知をするという事だけが目的なのではない。ポスターを張らせて下さい、と地域住民にお願いして回る事自体が政治活動なのだ。

ポスターを一枚張るという事はそれだけ勢力が拡大する、という事である。まあ、僕は政治のポスターの世界がどうなっているのかは詳しく知らないが、とにかく支持者を一人増やすきっかけとしてもポスターというのは意味を持つのだろうな、というのは何となく感じる。

 

そう考えると、世の中の広告というものがなんであるのか、というのも何となく理解できるような気がする。僕はこれまで、マスコミで流れている広告には何の意味があるのか全然わからなかった。

たとえば車の宣伝なんかはそうで、何百万もするような買い物の動向がたかだか十秒だか十五秒程度のテレビCMで決まるとはとても思えなかった。もちろん車というのはショールームに来てもらわないと始まらないだろうが、車くらい大きな買い物となると広告に関係なしに地元にあるすべての車会社のショールームを回りそうなものだ。

日曜品に関する広告も同様だ。基本的に商品というのは店頭で手に取ってみて選ぶもので、だいたいコマーシャルなんて漠然と見るものだからテレビを見終わった後はコマーシャルで紹介された商品の事など何も憶えていないだろう。

僕は広告がどれほど売り上げに影響するか、という問題については何も知らない。広告の効果というのは僕が考えているよりもはるかに大きいのかもしれない。しかし、企業の広告費用がマスメディアというものを成立させるぐらいの額である事を考えると、広告というのはそんなに意味があるものなのかどうもよく分からなかった。 

しかし、選挙と広告というのは似たような事をやっている、と考えると広告の意味というものが何となく納得できるような気がする。

 

僕は広告というのは宣伝を消費者に届けるだけの事だと思っていたが、多分広告というのはそれだけではない。政治家とか秘書がポスターを張らせてもらうと地元でお願いをして回るように、メディアの広告の枠を買うという事自体がすでに広報活動なのだ。

メディアの広告の枠を買うとメディアとのつながりができる。企業というのはメディアとパイプを作っておいたほうが何かと得なんだと思う。例えば何か売れている商品があれば優先的に取り上げてくれるかもしれないし、マイナーな良書などを出版したら著者に話を聞きに来てくれるかもしれない。企業でなにか新しい取り組みがあれば社会欄とか経済欄の特集などで紹介してくれるという可能性もあるだろう。そしておそらく、世間ではそういう事が積み重なる事で企業のイメージがだんだん決まってくるのである。

逆に、あんまり儲けているのに広告を出さないとなるとメディアの心証も悪くなっていくだろう。そういう意味で、広告を出すというのはそれなりの意味があるし、広告というのは僕が考えていた以上にリスクのある事なのかもしれない。だからどこの会社も広告を出しているのだ。もちろん政治の世界と同じように、広告が少ないと企業の影が薄くなってくるというのもあるだろう。しかし、今の「報道期間」がどのような「報道」をしているのかを見ると、広告にはリスクマネージメントの意味もかなりありそうだ。

実際に広告枠を買うとどのような影響があるのか、もちろん僕のような立場の人間には知る由もない。しかし、これだけのカネが広告に使われているのだから広告にはそれなりに意味があるはずだ。そして、広告の意味を考えるには消費者の側だけではなくて広告の枠を売ることで社員が生活をしているメディア側の立場を考えないと全体を理解するのは難しいだろう。もっと言うと広告というのは案外、消費者の事なんてどうでもよくてメディア側に対する工作のほうが重要なのかもしれない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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なぜ官僚・政治家・学者・財界人は消費税が大好きなのか

とうとう総選挙になったけれども、消費税の人気は相変わらず根強い。官僚・政治家・学者・財界人はこれまで通り消費税が大好きのようだ。世間の消費税に対する懐疑的な見方を気にしているのか、あるいは黙っておいた方が消費税増税がかえって消費税増税がやりやすいという認識が広まったのか、一時ほど騒々しい消費税のプロモーションはなくなったが、消費税の人気というのは目立たないだけでしっかりある。

その証拠に、今回の総選挙でも消費税の減税、あるいは消費税の廃止を公約として掲げる政党は全くもって見当たらない。どの政党も、「今」消費税を増税するのは反対!と言っているだけである。要するに、消費税を増税する事自体はいい事なのだが、落選したくないから「今」消費税を増税するのは反対、というスタンスなのだ。本音では今すぐにでも消費税の税率を30%くらいに上げたくて仕方がないような政治家もたくさんいるのではないか。

僕はこれまで、消費税というものがどうしてこれほど人気があるのかどうしても理解できなかった。というのは、僕は基本的に消費というのは善で過剰な蓄財というのは悪だと思っていたからだ。カネというのは使われる事で意味を持つわけで、溜め込んでいては全く意味を持たない。それなのに、カネに意味を持たせる消費活動にペナルティーを与える消費税がこれほど人気なのはなぜなのだろうか?

それにはもちろん、消費税が徴税の際に面倒がないとか、既得権益層であるほどうれしい♡税金であるという事もあるだろう。これらはもちろん消費税賛成派が消費税増税を叫ぶ原動力になっている。しかし最近、僕はどうも消費税賛成の背景にはただの損得勘定だけではないものがあるのではないか、と思い始めた。どうも、これらの消費税賛成派は消費税を他の税よりも倫理的な税金であると思っているようなのだ。

先日、ドイツにおけるベーシックインカムの推進論に関する記事をネットで見た。その記事で興味深いと思ったのだが、ドイツではベーシックインカムを実施する際に、所得税法人税を廃止して税金を消費税に一本化すべきだ、という意見があるらしい。所得税とか法人税というのは経済活動を行う人間を罰する税金なのでけしからん!というのである。いかにもドイツ人らしい気違いじみた考え方だと思ったが、僕はこの話を読んでなんで官僚・政治家・学者・財界人の間でこれほど消費税が人気なのか始めて理解ができた気がした。これらの人達の中では、蓄財というのは善で消費というのは悪なのだ。

たしかに資本主義というのは蓄財がなければ成り立たない。資本が蓄積されているからこそ現代社会では巨大企業が巨大なビジネスを行う事が出来るのである。しかしながら興味深いのは、基本的に資本主義というのは消費を元に成り立っているという事だ。

この間に話題になった電通などはいい例だ。電通の社員は猛烈に仕事をしているわけだが、ではその電通の社員がしている仕事はというとこれは消費税大好きな人たちが嫌う消費を限界までプロモートする事である。そして、このことは多くの経団連企業についても同様なのである。それでは、消費者が消費をするための原資がどこから来るのかをたどってみると、それは消費が嫌いで節約が大好きな人達の資産だったりするのだ。

勤勉と節約を重んじるような価値観が支配的な社会では、カネを儲ける事自体が目的になりやすい。カネがあっても使い方が分からないのでもっとカネを儲けるためにカネを使うようになるのだ。カネというのはリソースの配分手段にすぎないのに、カネが神格化されるのである。しかし、カネが神格化されれば資本主義は変調をきたす。なぜなら、それはカネが本来の機能を失っている状態であるからだ。

資本主義社会において蓄財と消費というのは車の両輪である。これからの社会では、蓄財が善で消費が悪、というような考え方は改めるべきだと僕は考えている。今の社会では蓄財が美徳とされすぎるために蓄財と消費とでバランスがとれていない。これからは蓄財をこれまでよりも悪とみなし、消費をこれまでよりも善であるとみなす事でバランスをとっていく事が必要である。そういう意味でいうと、今の既得権益層がプロモートしている消費税増税法人税減税の流れは方向としては全く見当違いであるように思う。

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腹筋ローラーの話を聞くたびに思うこと

最近たまに腹筋ローラーの話を聞くが、あれってどれくらいの人が続けているのだろうか?

たとえば1月続ける人ってどれくらいいるのだろうか?

3か月続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

6か月続ける人はどれくらいいるのだろうか?

1年続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

3年続ける人というのはどれくらいいるのだろうか?

こういう事を書くのは、なんだかブログとかでも腹筋ローラーを始めました、というエントリーのほうが経過報告のエントリーよりも多いような気がするからだ。腹筋ローラーを続けている人が多いならばこんなことにはならないはずだ。腹筋ローラーを始めた、というエントリーを書くのは一度だけの事だが、続けているならば

腹筋ローラーを始めて健康になった。

腹筋ローラーを始めてモテるようになった。

腹筋ローラーを始めて3か月たった。

腹筋ローラーなんてすぐ飽きると思ってたけれども意外と続いている。

・・みたいな感じで腹筋ローラーに関するエントリーがいろいろ書かれるだろうから、腹筋ローラーを始めた、というエントリーよりも腹筋ローラーでトレーニングをした結果に関するエントリーのほうが多くなるはずなのである。

それなのに腹筋ローラーを始めた、というエントリーばかりが目立つように思えるのは、あれは結構続けるのが大変だからなのかもしれない。この間テレビで言っていたのだが、腹筋ローラーというのは10往復を3回、それを一日で5回することになっているらしいのだ。一日にしたら150往復である。

これが多いか少ないのか腹筋ローラー未体験者の僕としては知る由もない。それに腹筋ローラーを使ったトレーニングの方法は様々あるだろうし、トレーニングの段階などによっても負荷や回数は変わってくるだろう。しかし、10往復するたびにハーハーゼーゼーするのを15回繰り返すとしたらこれはかなりハードである。

もちろん楽をして体を鍛える方法などあるわけもない。楽なままで過ごすならば体の方では変化をする理由が何もない。なので体を鍛えるというのはある程度大変な事なのであろうが、15回ハーハーゼーゼーするのを毎日のように何年も続けるにはそれなりの意思が必要になりそうだ。大変すぎるから回数や負荷を調整するなどしても、ある程度の意思の強さが必要になるというのはまず間違いのない所である。

いろいろなブログの記事を読むと腹筋ローラーに効果があるのは確かなようである。効率にしても、腹筋をやるよりも効率的にトレーニングができるのだろう(そうでなければわざわざローラーを買う意味がない)。しかし、いかに効果的・効率的な事でも、続けるというのはそれだけで大変な事なんだろうなあ、と改めて思う。

正直、僕は腹筋ローラーについてのエントリーについてよく調べているわけではない。腹筋ローラーというのはとにかくアフィリエイト目的のゴミエントリーが多いので、実態というのが分かりにくい、というのもある。もしかしたら、腹筋ローラーを使って見栄えのする腹筋を手に入れる事に成功した人は僕が思っているよりもはるかに多いのかもしれない。しかし、腹筋ローラーを買った人で何パーセントが一年後も続けているのか、というのは是非とも知りたいデータではある。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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財界と英語教育

英語教育における会話重視に「財界」の意向が働いているというような話を聞く事がある。実際、財界人が中学校で3年、高校で3年、それから4年大学に行っているのに英語が話せないのはけしからん!とか言っているのはたまに聞く。

財界人は当然、政界や官界にも知人が多いわけで、今の英語教育には財界の意向がそれなりに反映されているのは確かだろう。日本の教育の目的は財界が要求するような人間を大量生産することにあるのだから、これは当然の事と言える。

 

実際日本企業がどれくらい英語に困っているのかは分からないが、たしかに中学と高校での英語の授業が何百時間あるのに日本人のほとんどが基本的な英語の運用能力を持たない、というのは考えてみたらとても変な事である。

どんな事をやるにしても、何百時間をかけて物事を学べばそれなりに上達してもよいようなものなのに日本人の英語というのは一向に上達する様子がない。結果がすべてのビジネスの世界で実績を上げ、出世をしてきた財界の偉い人にとってはまったく理解ができない事に違いない。

 

しかし、日本人の英語力の低さを問題にするのはいいとしても、なんで財界が英会話ばかりを重視するのか考えてみたら不思議である。普通に考えるならば、英会話をするにしても語彙とか文法を理解した上でやったほうが効率がいいに決まっている。必要な語彙がなければ考えを英語で表しようがないし、文法だって知っているかどうかで上達のスピードが違ってくる。何をやるにしても、語彙と文法は語学の基礎である。語彙と文法というのは英会話をする上でこそ重要なはずなのだ。

ところが語彙と文法に対して財界が何か言っているのを僕は聞いたことがない。例えば、財界の誰かが日本の学校で教えられる語彙は下らないものばかりで使い物にならないからもっと高級な語彙を教えるようにしろ、という話をしているのを僕は聞いたことがない。文法についても、文法というのは語学の基本だから学校でも基本的な事をしっかり教えるようにしよう、という事を大声で言うような財界人が一人や二人いてもよさそうだものだが、そのような財界人は一向に見当たらない。

 

日本の英語教育がダメなのは、語彙と文法に関する教育の質が低すぎるからである。学校の英語教育にしても生徒の語彙力を意識的に向上させようという目的意識をもって設計されていないし、文法に関しては完全に無視である。これでは英語ができるようになるわけがない。しかし財界から聞こえるのは語彙と文法に関する教育のクオリティーを向上させろ、という真っ当な意見ではなく、文法なんかしているから英語が話せないのだ!というような見当違いの意見ばかりという印象を受ける。

個々の財界人が英語についてどう考えているかは分からない。しかし語彙力軽視・文法軽視の風潮に対して反対する財界人の声は全く聞こえてこない。大企業の財界人というのは多かれ少なかれ国際的なビジネスに関わった経験がある人が多いわけで、なんだかんだで文法が分かっていると効率が違う、とか英語というのは語彙が分かると何とかなる、というような事をいう財界人がいないのは不思議である。

 

財界人というと東芝とかシャープ、東京電力など、いかにもサラリーマン社長というような残念な事例ばかりが注目されがちだが、何万人、場合によっては何十万人にもなる大組織のトップに立つというのは並大抵の事ではない。

もちろん財界人にも優秀な人とそうでない人がいるのだろう。しかし基本的には財界人というのはアイディアと行動力に満ち溢れた人が多いのではないかと僕は想像している。大組織の中にも激しい競争がある。上に上がってくる人が出世するのはそれなりに理由があるはずで、特に業績が好調で先行きも明るい企業のトップというのはそれなりの人物でないと務まらないはずなのだ。

それなのに英語教育の話になると(まあ英語教育だけの事ではないが)財界からはどうしてこういう合理性無視で非効率極まりないどうしようもないソリューションしか出てこないのか、財界の人と話す機会があれば是非とも聞いてみたい気がする。

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朝は水を一杯飲むだけにしている

僕は基本的に朝食は取らない。もう何年もそうである。朝食を取るとどうしてもだらけた感じになってしまう。体質が虚弱な人にとっては誰でもそうだと思うが、僕にとって食事をするというのは体力的には相当のコストである。だから食事をするとそれだけでつかれてしまい何もする気がなくなる。普段からのだらけた生活がますますだらけた生活になったら一日が何もできずに終わってしまう。元々だらけた生活を送っているのにこれ以上だらけた生活になるとさすがにいろいろな事に差し支える。だから僕は朝食はとらない。もう何年もそうである。

朝食をとる代わりに僕は水を一杯飲む事にしている。一晩寝ると水分が抜けるせいか、水分をとらないと少し頭が朦朧とする。朦朧とするし全体的に元気がでない。そこで冷たい水を一杯飲むとがぜん頭がすっきりする。体全体が目覚める感じになる。朝食をしっかりと取るよりも一日を快適に始める事ができると思う。僕のような虚弱な人間でもそれなりに元気に一日を始める事ができるのだから、普通に体力がある人ならばもっと快適に一日を始める事ができるだろう。

思うに、朝食の重要性というのはかなりの部分が水分をとる、という所にあると思うのだ。朝に水分を供給するのは重要である。面倒ということで朝に水分をとらないとやっぱり水分を取るまで調子がわるい。まあ、そんなに具合が悪くなるわけでもないが、後から振り返るとなんか調子がよくなかったな、というようなコンディションになる。しかし、水分をとる事は必要だけれども栄養を取る必要はそれほどないと思う。朝食を抜いたくらいで栄養が足りなくなるとは考えられない。もしかして重労働をするなら違うかもしれないが机の前にじっと座っているだけならば水を飲むだけで問題なく過ごせる。

朝は水を飲むだけにすると時間に余裕ができる。食事というのはなんだかんだで時間を食う。朝食は夕食よりも時間を食わないだろうが、それでもかなりの時間になる。朝食を取らないと一日で自由に使える時間は相当増える。これはやってみたらすぐに実感できると思う。しかも朝は一日のうちで一番疲労が少ないので朝になにかを始めると非常に捗る。朝に食事をとらないですぐ物事を始めるとなるとさらに捗る。少しおっくうな事でも気軽に取り掛かる事ができる。やはり、おっくうな事をするには疲労がない状態のほうが始めやすい。疲れていると理屈ではやらなければいけないと分かっている事でもなかなか取り掛かれない。なので、朝は水だけ飲んで、少しでもいいから面倒そうな事に着手したほうがよい。

せっかくの朝を食事に使うというのはもったいない。朝に水だけ飲む、というのはカネもかからないし、すぐにでも始められる事なので、なにか生活のあり方を変えたいと思っている人は一度試してる価値があると思う。なんだかんだでだらけた毎日を送っている僕がいうのもなんだが、もしかしたら惰性に雁字がらめになった日常から抜け出すきっかけになるかもしれない。

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政治に飽きた

考えてみたら、僕はこれまで政治の事ばかりについて考えてきたような気がする。もしかして考える時間の9割以上を政治について考える事に使ってきたかもしれない。僕は理系の分野に行く事を期待され、実際に理系の学部に進学したけれども、正直いって僕が一番関心を持っていたのは数学でも物理でも情報科学でもなくて政治的な事だったと思う。

なんで政治に興味があったのか?普通の人は政治など興味を持たない。政治などに興味を持ってもなんのいい事もない。関わるほどに不愉快な思いをするのが政治というものである。まあ、僕は具体的に政治に関わっているわけでもなく、政治活動といえばブログで政治的なエントリーを書くくらいだけれども(これを政治活動といっていいものかは分からないが)、政治などに関心を持たないほうが建設的に日々を送れるという事は分かり切ったことだ。

それでも僕が政治的な人間であったのは、なによりも僕にとって政治というのが謎だったからかもしれない。

僕の政治に対する関心についての原点は、間違いなく学校にある。僕にとって学校というのは巨大な謎だった。子供の頃の僕は、学校というものが全く理解できなかった。とりあえず授業というものが必要なのは分かった。もちろん授業というものの必要性(あるいは必然性)は自明ではないが、なにせ子供だったのでさすがに授業というものについて疑問を持つという事はなかった。全く理解できなかったのは様々な学校行事である。

それらは一つ残らず愚劣に見えた。運動会、学習発表会、合唱発表会、球技大会・・なんで教師がそれら愚劣極まる学校行事に熱中するのか僕には全く理解できなかった。学校というのは勉強をする所ではないのか?子供の頃の僕には、これらの行事はすべて子供を愚鈍にするためのものにしか思えなかった。

そして長じて政治の世界をみると、これも小学校や中学校と同じくらいのレベルの気違い沙汰なのである。いったいなんでこんな気違い沙汰が長年続いているのか、と不思議に思うような事ばかりが目立つ。たとえば財務省と御用マスコミ、腐敗左翼が喧伝する財政破綻論などは典型的な気違い沙汰と言えるだろう。

なんで国の「借金」がこれほど膨れ上がるのかというと、富裕層が蓄財をするからである。日本の家計金融資産は1,800兆円で国の借金は1,000兆円くらいだという。なんでたとえば家計の金融資産が800兆円で国の借金がゼロというような状況になっていないのか?富裕層が資産を溜め込む限り国を運営するためには国債を発行するしかない。そして国債が発行された分富裕層の資産は増える事になる。

債務と債権というのはセットである。一体日本の借金の債権者というのは誰なのか?これが最も重要な事なのに、政治家も官僚も腐敗左翼もこの事について一言も言う事がない。そして出てくる処方箋というのはいつもの通り、緊縮と構造改革である。税制というと消費税増税所得税減税、法人税減税なのだ。

しかしながら、気違い沙汰が気違い沙汰として続くことには理由がある。たとえば学校というものが何十年もあのように運営されているというのも、やはり理由というものがあるのだ。最終的に僕が理解したのは、学校というのは子供を賢くするためにあるのではなく、子供を調教するためにあるのだ、という事である。学校で行われる事が愚劣である事が問題なのではない。学校というのは愚劣である事に価値があるのだ。そしてなんだかんだで日本の識字率が100%なのも、日本の学校による洗脳が非常に強力だからである。子供、もっといえば大人に対する洗脳がガンギマリに決まっているからなのである。

学校と同じく、日本の経済政策の気違い沙汰だってこれが何十年にもわたって続くのにはそれなりの理由がある。一体、誰かの債券は誰かの債務、というような合理的な認識を持った人間が過労死寸前になりながら経済活動に邁進するだろうか?国の借金はけしからん!貧困問題は甘え!このような幼稚としか言いようがない認識をもっているからこそ人は蓄財という資本主義の基本に忠実に生きる事が出来る。日本の経済的繁栄(その繁栄はだんだん怪しくなってきているというか、はっきりいって崩壊過程にあるのであろうが)と日本の経済政策の気違い沙汰はセットである。あるいは、少なくとも後者は前者の帰結である。

気違い沙汰に関してもう一つ僕が理解したことは、それが必ず何らかの形で損得に関わっている、という事である。あらゆる経済政策、政治政策、社会政策の背後には利害関係がある。もちろん政策というものは打ち出される際はいかにも中立的な立場から見て公平なものであるかのようにプロモーションが行われる。しかし、マスコミで喧伝されるような政策が公平である事はほとんどない。よく見ると、それらはことごとく裕福に暮らすリベラル派が得するように設計されているのである。

経済政策などは典型的だ。日本の経済政策が気違い沙汰であるのは日本経済が不況である事で利益を得る者がいるからである。結局、日本経済が好況になる事を望んでいる既得権益者など誰もいないのだ。口では景気の低迷は深刻だ、というような事を言っていても、本当に景気を良くしようなんて誰も思っていない。だから不況が長引くわけで、いくらもっともらしくとも緊縮財政・構造改革は利益を誘導するためのツールである。学校の気違い沙汰の背景にも、何らかの形で利益を得ている連中がいるのだろう。

気違い沙汰をある種の信仰とするならば、政治というのは信仰と損得勘定との連関である、というのがもう少なからぬ年月を生きてきた僕がたどり着いた認識である。信仰の背景には損得があり、損得の背景には信仰がある。信仰も損得も動かしようがないものだから政治というのはどうしようもない。

物分かりが悪い僕のようなものも、ようやく政治というものの必然性というものが分かるようになった。多分、気違い沙汰でない政治というのは無理なのだろう。合理的な理屈に基づいた政治が現実に機能するとは、僕は正直信じられない。しかし、もし政治が気違い沙汰でなければならないとしても僕自身はその気違い沙汰を肯定するわけにはいかない。気違い沙汰はやはり気違い沙汰である。

政治に関して言えば、僕は最近、自分が政治の当事者ではない、という感覚を非常に強く持つようになった。勝手にしてくれや、というのが僕の正直な心境である。僕は一介の無職にすぎない。社会は僕の所有物でないのだから、僕が何を言おうが社会が変わるわけでもない。社会を変える事ができるのは社会だけである。僕は気違い沙汰とは無縁でありたい。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。