グローバル引きこもりブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール acc4297gあっとgmail.com

なつかしのブルーベリーガム

すこし前のことになる。

 

数十年ぶりにガムを噛みたくなって売り場のガム売り場にいってみたのだが、なんだか昔ながらの板ガムがぜんぜん売っていない。どれも粒タイプになってしまっていて、いかにも健康に配慮したかんじのものしかなくなっている。

仕方がないから粒タイプのものを買って噛んでみたが、まあ味はともかくとして包み紙が小さいのが気にくわない。僕は基本的にガムは何個かまとめて噛むのだが、粒タイプのものは包み紙が小さすぎて噛んだ後のガムを処分するのが面倒である。

結局、一度買っただけでガムのことは忘れてしまった。

 

ところが、先日100円均一の店の菓子売り場を見て回っていたら、ロッテのブルーベリーガムが売っていた。

じつは前回ガムを買った時に買おうとしたのがこのブルーベリーガムだった。板ガムというと真っ先に思い浮かぶのがブルーベリーガムなのである。

定番中の定番だからまさか生産中止になっているだろうとは思わなかったが、とりあえずホッとした。僕にとっては板ガムといったらブルーベリーガムなので、ブルーベリーガムがなくなるというのは板ガムがこの世から消えて無くなるようなものだからだ。

 

会計を済ませ、さっそくガムを取り出してみると赤紫色のガムからしてすでに懐かしい。味の方もほんとうに30年前と同じくらい前に食べたものとまったく同じである。

考えてみたら、僕はブルーベリーガムをもう30年以上噛んでいなかった。中学以降ブルーベリーガムを買った記憶はないので、今回ブルーベリーガムを噛んだのははほとんど30年ぶりくらいなのである。

もちろん、30年まえのブルーベリーガムを買って味を確かめるのは不可能なので30年前ほど前の僕が噛んだブルーベリーガムと今の僕が入手できるブルーベリーガムとでどれくらい違いがあるのかはわからない。

確かなのは、ブルーベリーガムは昔も今もまさしくブルーベリーガムの味がするということだ。

 

僕が小学生だった30年ほど前、ガムはもっと身近な存在だったと思う。まあ、9枚100円で味だけを楽しむガムというのはもしかしてちょっとした贅沢品なのかもしれないが、ガムを噛む習慣がだんだんなくなりかけているとしたら残念なことだ。

しかしながら、こんなことを書いている僕だって、ガムをかむのはほとんど30年ぶりくらいだった。僕みたいに長年ガムを噛んでいない人は、ブルーベリーガムをみかけたら試しに買ってみてほしい。

なにか思いがけない発見があるはずだ。

意味のある英会話中心の英語学習は可能か?

英語の勉強を英会話から始めるのは最悪だ。

 

なぜかというと、英語に限らずあらゆる語学は究極的には単語と文法だからである。

もちろん、単語と文法といってもその知識は実際に英語を使うために役に立つものでなければならないので、実際に英語をつかいながらでないとなかなかみにつかないのだが、英語というのは結局は単語と文法である。

日常的に出てくる単語をほとんど知っていて、英語で意味を表すには単語をどのように組み合わせればいいかが分かっていれば、英語はつかえるのだ。

 

英会話が最悪なのは、英会話が必要な単語をおぼえるのにも、必要な文法事項を学習するためにもまるで役に立たないからである。

 

まず単語だが、英会話で一度や二度、これは英語では何と言います、といってオウムのようにフレーズをくりかえしておぼえられるならば苦労はない。

単語というのは、おぼえる必要がある単語のリストを作成し、そのリストをおぼえては忘れ、おぼえては忘れるというサイクルを繰り返してやっと覚えられるものだ。

まあ、単語というのはだれでも、集中して覚えれば1万単語くらいたやすく覚えてしまうものなのだが、反対に集中しないと全く記憶に残らない。

ようは、英会話というのは英単語をおぼえるには効率が悪すぎるのだ。

 

文法に至っては、文法は英語を勉強するのに必要ない、という考えがあるから英会話なわけで、全く勉強にならない。

文法なんて一つ一つの文法事項を考えれば理屈で説明すればせいぜい2、3分でわかることなのに、文法事項を理屈抜きで身につけようなんて正気ではない。

 

英語というのは、必要な単語と文法を知っていればわかるし、知らなければ分からない。

自分が何を話しているのかもよく分かっていないのに教師がいうフレーズをオウムみたいに繰り返しても英語ができるようになるわけがない。

 

逆に言えば、英会話で英語を勉強するのがだめなのは単語と文法をやらないからだから、単語と文法をたたきこむような英会話だと案外学習効果があるかもしれない。

まあ、そのようなものを英会話というかはともかくとして、僕がイメージするのはDUO3.0みたいな学習法だ。

DUO3.0に載っている例文なんて、よくもまあこんなゴミクズを頭の中に突っ込めるな、と僕は思うのだが、しかしながらきちがいみたいになってあれをやれば一定の英語力が(個人的にはいい英語力とは思わないが)身につくのは確かだろう。

 

結局、英会話というのは、生徒が自分が何をやっているのかも分かっていないからだめなのだ。

もし教師が、必要な単語と文法事項を生徒にスパルタでたたき込むなら、英会話というのは効率の上でそれなりに可能性があるような気がする。

しかしながら、今の英語教育関係者にそんな事をする力量などあるはずもないので、やはり英会話中心の英語学習は間違っているとも思う。

英語教師って、普段何を読んでいるんだろう?

報道によると、中学校の英語教師で英検準一級レベルの英語力をもつ教師は3割、高校教師だと6割ほどであるらしい。

つまり、中学校で英語を教えている教師の7割、高校で教えている教師の4割は英検二級レベルかそれ以下だということだ。

英検二級というとちょうど高校卒業程度である。

高校卒業程度といっても東大の英語とか京大の英語だって高校卒業程度なので、英検二級がどれくらい難しいのか僕にはわからない。

しかし、世間でこれだけ英語教師の語学力の程度の低さが言われる一方、「いや、じつは英語教師は相当英語ができるよ」というような話は一切聞こえないから、まあ英語教師の語学力の程度はある程度推測できる。

 

僕が不思議に思うのは、いったい中学なり高校なりに勤務している英語教師はふだん何を読んで、何を聞いているのかということだ。

もし英語教師の全員が毎日英語を読んだり聞いたりしているならば、英語教師の語学力が問題になることはないはずだ。

 

僕が英語の勉強をだいたい十年やっているが、英語を読んだり聞いたりしない日はない。

ネイティブがアクセスしている英語に365日アクセスしている。

それを十年続けてきたので、英語に関してはまあ、たいていのことはなんとかなる、という感覚を持っている。

 

ところが、英語教師がふだんどのような英語を読んで、どのような英語を聞いているのかという話は一向に伝わってこない。

僕が中学校とか高校に在籍していた頃も、英語教師が普段から英語を勉強しているようにはまったく見えなかった。

もし英語教師が英語を勉強しているならば、話の中に自然と読んでいる洋書の話とか、重要だったり興味深いと思った英語のニュースの話がでてくるはずなのに、英語教師がそのようなことを話すのは一度も聞いたことがない。

 

英語教師はまず、英語教師である以前に自らが一英語学習者であるべきだ。

自分が英語を勉強していないならばどう英語を教えればいいかなんてわかるわけがない。

今の英語教育の腐敗というのは、つまるところ英語教師が英語の勉強を怠っていることに根本的な原因があるのではないか。

日本の英語教育を変えるには、まず英語教師が生き方を改める必要があると思う。

駒大苫小牧高校と横浜高校

先日、スポーツ情報番組で駒大苫小牧高校野球部が取り上げられていたのをみたが、なんだかどうして駒大苫小牧が低迷しているのかよく分かるような内容だった。

普通、野球部というとイメージされるような活気というものはあまり感じなかった。

逆に、生徒は山ほどある不満をぐっと呑み込んでいるように見えた。

少なくとも、駒大苫小牧の野球部がうまくいっていないということは画面からはっきりと伝わってきた。

 

佐々木監督には、駒大苫小牧が強かったころのイメージがあると思う。

 

駒大苫小牧の佐々木監督は駒大苫小牧が初優勝したときの主将で、最後のフライも佐々木監督がとった。

駒大苫小牧を卒業後は駒澤大学に進学し、卒業後はもう一度香田監督のもとで野球がやりたいと駒大苫小牧に赴任した。

香田監督のもとで20年、30年と野球をやるつもりでいたのに、赴任したとたんに香田監督は解任され、自分が監督をやることになってしまった(さらにいえば、佐々木監督が赴任したことが香田監督の解任のきっかけとなった)。

佐々木監督は、香田監督が残した伝統を守ろうと必死なのだと思う。

 

香田監督の指導は基本的にスパルタである。

スパルタ指導が成果をあげるには条件があって、それは指導者に強烈なカリスマがあるということだ。

香田監督にはそれがあった。

香田監督が駒大苫小牧の監督をしていたころ、選手は香田監督についていけば甲子園に行って全国制覇できると本当に信じていた。

そして、本当に全国制覇してしまったのだ。

信じるというのは恐ろしいもので、本当に信じることができた場合には信じたことが実現してしまうことがある。

 

しかし、佐々木監督には、香田監督にあったカリスマがない。

生徒は口では全国制覇云々と言うだろうが、佐々木監督についていけば全国制覇できると心の底から信じている選手はただの一人もいないだろう。

そういう中でスパルタをやってもうまくいかないのは当たり前の話だ。

生徒が不満をため込むだけで終わるはずだ。

 

佐々木監督とはまったく逆のタイプの野球指導者として、横浜高校野球部の平田徹監督がいる。

平田監督は2001年に横浜高校が四強入りしたときの主将なのだが、実は本人は形式的に一試合試合に出ただけである。

香田監督や佐々木監督のように、アマチュア野球選手として大成功した人ではないのだ。

そのためもあってか、平田監督は成功体験からくる思い込みがまったくない。

だから、どんどん新しい手法を取り入れることができるし、時代の変化にも対応できる。

実際、平田氏が監督になってから横浜高校野球部のキャラクターは完全に今風になっていて、以前とはまったく違ったものとなっている。

 

野球指導者にとって、選手としての実績は深刻なハンデになりうる。

香田監督や佐々木監督みたいに選手として大成功した野球指導者は、往々にして選手を信じることができない。

どうしても選手の欠点から気になってしまうから、結果指導方法もスパルタになりがちだ。

スパルタ指導というのは選手に対する不信感が根底にあるので、チームが崩壊しやすくなる。 

あれほど強かった駒大苫小牧も、「ハンカチ王子」との対戦から3年もせずにチームが崩壊している。

香田監督の強烈なカリスマをもってしてもそうなのだから、いかにスパルタ指導が難しいかがわかろうというものだ。

 

一方、平田監督のように現役時代無名だった野球指導者はまず、選手の欠点ではなく選手の長所から目に入るので本当に選手を信じることができる。

そうすると選手の方も気分がいいし、何も言われなくても真面目に練習しないと申し訳ない気がしてくるだろうからチームの運営もうまくいきやすいだろう。

 

平田監督の選手の成長を第一に考えた采配には当然批判もある。

しかし、2017年度入団の高卒ルーキーでもっとも活躍したのが横浜高校出身の藤平尚真だったことは注目に値する。

去年の甲子園では、笑顔がチャームポイントの増田珠が話題になった。

生徒との距離を近くにとるという指導には難しさもあるだろうが、平田監督がチーム運営において大きな成果をあげていることは間違いない。

 

野球指導者として、佐々木監督は全国制覇というとてつもない重荷を背負う。

佐々木監督は2004年のあの夏を乗り越えることができるだろうか?

 

駒大苫小牧高校野球部の無理してる感がハンパない

駒大苫小牧の選抜出場を受け、スポーツ情報番組で野球部の特集をやっていた。

なんだかおかしなことになっているなあ、という印象をもった。

 

おかしいところはいろいろあるが、たとえば佐々木監督が生徒に激を飛ばすときはこんな感じだ。

 

佐々木監督「楽しくエンジョイベースボール、ないってそんなの!楽しくやるのはいつだ?(生徒沈黙。語気を強め)いつだ!?」

生徒「甲子園です!」

佐々木監督「試合でやるんだろ?」

 

言わされてる感がハンパない。

 

番組では、駒大苫小牧野球部の挨拶の時に人差し指を顔の前で掲げる独特なジェスチャーを紹介していた。

これは

・常に一番を意識する

・チームが一つであることを意識する

という意味があって、野球部の生徒は挨拶するごとにこれをやっているのだという。

あんまりいいことだとは思わない。

「一番」のジェスチャーというのは本当に特別な状況で使ってこそ意味を持つ。

ひっきりなしに使っていたのではジェスチャーの意味がまったくなくなってしまう。

そもそも平常心を保つという意味では一番のジェスチャーはマイナスだろう。

しんどいときにジェスチャーにすがるという逃げにつながると思う。

このジェスチャーをいつ、誰が始めたのかはわからない。

しかし、全国制覇する前に冗談半分でやるならまだしも、落ちぶれた今となってやるべきことではないと思う。

 

主将が檄を飛ばす場面も放送されていたが、声がうわずっていて貫禄とか凄みがぜんぜんない。

沢山しゃべるけども言葉に重みがない。

これは佐々木監督もそうで、見ていても貫禄とかすごみを感じない。

強い言葉には貫禄とか凄みが伴わないとバランスしないのに、それがないからちぐはぐな感じになる。

全体的に雰囲気が不自然である。

いろいろと不自然な押しつけをしているからだと思う。

 

駒大苫小牧対静岡高校の録画を少し見てみた。

駒大苫小牧の生徒の表情はどことなく弱々しいというか、エネルギーとか元気さが感じられないと思った。

静岡高校の選手のほうが表情に力強さがあった。

まあ、直前に主力が負傷するというトラブルもあり試合は7-0で駒大苫小牧が負けたのだが、メンタル面での差は相当ある感じだった。

 

佐々木監督は駒大苫小牧が初優勝したときの主将である。

数ある野球部のなかでも、甲子園で優勝経験のある監督は佐々木監督だけだろう。

佐々木監督に2004年頃の駒大苫小牧野球部のイメージがあることは間違いない。

しかし、いまの佐々木監督の指導のスタイルは佐々木監督のキャラにぜんぜんあっていない。

キャラにあわないことをして虚勢を張っているように見える。

もしかしたら、これも香田監督の存在があまりにも強烈過ぎたということなのかもしれない。

 

香田監督はいまの駒大苫小牧について、「孝介は俺を超えられない」といったと伝えられる。

結局、過去の栄光に執着しているからおかしな事になっているんだと思う。

これまでのやりかたでいい部分を2割のこして8割変える、という事ではなく、なにからなにまで変えてゼロからスタートするくらいでないと駒大苫小牧の復活はないだろう。

だいたい、今回の番組を見て駒大苫小牧に教え子を送り出そうと思う野球指導者がどこにいるというのか?

エンジョイベースボールの要素をうまく取り入れながら甲子園に来ているチームなんていくらでもあるわけで、才能がある子はそっちの方にいくに決まっている。

 

駒大苫小牧野球部が未来永劫弱いか、というと、僕はそうは思わない。

2004年から2006年までの3年間で、駒大苫小牧野球部は伝説のチームになった。

ユニフォームのセンスもいいし、佐々木監督の考えが変わるか、佐々木監督を追放するかすればいい選手を集めるのはできるはずだ。

遅かれ早かれ、何かしらの大きな変化があって、駒大苫小牧はまた強くなるのではないか。

そして、そうなって始めて、香田監督の教えが生きてくるのではないかと思う。

 

それにしても、いまの駒大苫小牧の現状を見ると、甲子園優勝って何なんだろう?全国制覇って何なんだろう?と考えてしまう。

優勝したら優勝したで大変なのが甲子園なのかもしれない。

バブル期の日本と同様、いまの中国は過大評価されていると思う

21世紀は中国が世界の中心になる、というような話は、今考えてもやはり時代遅れだと思う。

 

中国についてどうしても考えてしまうのは、開放政策以前の中国でなにか世界が驚くような目覚ましい達成があったのか?ということだ。

冷戦時代のソ連には、もちろんいろいろな問題があったのだが、文化であるとか学問に関していえばソ連の水準というのは西側諸国と比べてひけをとらないものだったと思う。

しかし、冷戦時代に中国で文化的、あるいは学問的になにが達成されたかを考えるとき、正直なにも思い浮かばない。

冷戦時代に中国でなにが起きていたのか僕は何も知らないのだが(そして、それはとても興味深いテーマだと思うが)、当時の中国はというと、ただただ人々の生活水準を向上させることで精一杯な国、という感じがする。

 

もちろん、冷戦下の中国はソ連のように搾取できる衛星国を持たなかったし、何百年前にも及ぶヨーロッパ文明の伝統があったわけでもない。

しかし、それらを考えに入れても、冷戦下の中国は世界的には何もなかったと思う。

江戸時代の日本は鎖国をしながらそれなりに繁栄していたのに、いったい何なのか不思議だ。

 

僕が思うのは、冷戦下、あるいはそれ以前に中国は何もできなかったのに、なんでこれからの中国は世界の中心になるのか、ということだ。

日本には鎖国をしながらあれだけレベルの高い文明を300年間運営した実績があるので、没落をしてもそのうち復活してくるのは明らかである。

中国にはそのような実績はなにもない。

だから、昔だめだったら今もだめなんじゃないか?と思ってしまう。

 

最近、中国人が欧米のハイテク関連企業を大量に買収していることが問題になっている。

背景には、中国人が欧米のハイテク関連企業がもつ知財を盗み取っているのではないか、という懸念がある。

あれだけカネがあるのに、なんで自前でやろうとしないのだろうか?

海外から知財を持ってきたところで進歩は何もないし、カネが儲かるだけでおもしろくもなんともない。

まあ、日本の高度経済成長だってアメリカからの技術移転によってなされたという側面があるが、中国人による海外企業の買収は中国におけるクリエイティビティーの欠如を強く示唆する。

 

よく、特許の出願数、出版される学術論文の数、時価総額十億ドル(一千億円くらい)に相当する未上場企業の数(「ユニコーン企業」の数)が日本を上回った、日本は中国に負けた、という話を聞く。

バカじゃないかと思う。

中国の人口は日本の10倍あるのだから、本来あらゆる面で日本より規模が10倍でなければならないのだ。

ユニコーン企業だって、人口が十億人の国でそれなりに成功したら簡単にユニコーン企業になるだろう。

 

いまの中国の評価は明らかにバブルに基づく。

かつてのバブル時代に、日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれていたのと同じような雰囲気を僕はいまの中国の評価に感じている。

なんというか、カネはものすごいあるのは分かるのだが、実質がよく分からないのだ。

 

中国人の決断の大胆さを賞賛する「識者」は多い。

しかし、バブル期の日本企業だって有り余るジャパンマネーを背景にジャンジャンリスクを取っていたわけで、これが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の根拠になっていた。

バブル期の日本はどんな下らないものでも値段がつく、チャンスに満ちあふれた社会だった。

そのことでさらに下らないものに値段がつきやすくなり、社会におけるチャンスの総量が増えるというサイクルが回っていた。

いまの中国と基本的には同じだと思う(バブルの影では少子高齢化が進行しているところも似ている)。

いまチャイナ・アズ・ナンバーワンといっている人たちは、むかしジャパン・アズ・ナンバーワンといっていた人たちと同じような種類の人たちなのではないだろうか。

 

当局の強権によってこのバブルを持続させることができるか、というのは興味深い問題だ。

しかし、もし持続できたとしても、バブルは所詮バブルである。

日本のバブルが続いたとしても日本が覇権国になる可能性があったなんていまいち考えられないように、中国が覇権国になるという議論は疑わしい。

僕は中国のバブルが崩壊して中国があっという間に没落するとは思わないが、今の勢いを続けるのは無理じゃないかと思う。

英語と財政

英語というのは財政という観点からもよいものである、というのが世間一般の認識であると思う。

日本人が英語ができると、世界中から投資が集まってビジネスが活性化し、税収が増えることによって「借金」をどんどん返済することができる、そして財政が健全化すればさらに投資が集まりやすくなる、みたいなイメージだ。

しかし、僕は、日本の財政にとって(僕は資本主義体制下で財政均衡が可能なんてまったく思っていないが)日本人が英語が苦手なのはとてもいいことだと思っている。

日本の「財政」がなんでこれほど「悪化」しているのに国債の暴落がないかというと、結局は日本人が資産を持って国外に逃げられないということが大きい。

ある意味、日本の財政なんて簡単な話で、もしどうしても財政をリセットしたいというなら(そんなことをする必要があるとは思わないが)これまで払われるべき税金を一気に徴収すればいいだけのことだ。

ところが、海外で高収入な人間はみんな英語を話すので、自分の資産を持ち逃げしやすい。

英語ができれば拠点を海外に移すのはかんたんだから、国内でカネを儲けるだけ儲けて資産をロンダリングして国外に持ち出す、ということがしやすいのである。

みんなが英語を使うならば、英語を使って悪いことをしようと考える連中が出てくるのは当たり前の話だ。

国民がみんな英語を自由に使えればいいことばかりあるように思われるが、副作用は絶対にある。

今の日本をみていると、案外利益よりも副作用の方が大きいような気がする。