グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

紀州のドンファン

紀州ドンファンこと、野﨑幸助氏が変死したということで、野﨑氏の二巻本の自伝を買って読んでみた。正直、野﨑氏の女性遍歴に関しては大して面白いとは思わなかったが、成功している中小企業の社長というのはどのようなものかを知る上で非常に参考になった。意外だったのは、野﨑氏の商売上の成功はかなりの部分人脈によるものだということだ。それはうまい儲け話だったり、商売が行き詰まったときに役に立つアドバイスだったりするのだが、とにかく野﨑氏のまわりには儲け話を待って来る人や、商売上の知恵を教えてくれる人がいつもいて、野﨑氏の成功はそれらの人の話を聞くことでなりたっているのである。もちろん野﨑氏のほうも、商売上役に立つアイディアや情報を商売仲間に惜しげなく分け与えていたのだろう。金儲けなんて女遊びに必要な収入を確保できればそれでいい、というのが野﨑氏のスタンスで、ビジネス上の判断も一円でも多く稼ぐというよりは出会いを大切にするという観点を重視していたようだ。そしてそうしたビジネス上の判断がまた野﨑氏の人脈を広める結果になるのである。話が面白い「助平」老人ということで、野﨑氏は従業員にも人気があったようである。さて、野﨑氏の変死についてだが、僕は野﨑氏が「ハッスル」するために自ら違法薬物を摂取した可能性は少なからずあると思っている。もしそうならば、野﨑氏は殺人事件の犠牲者どころか、違法薬物を違法に所持、使用した犯罪者ということになってしまうわけで全く迷惑な話だが、「助平」に関する失敗が原因で亡くなるというのはいかにもドンファンにふさわしい亡くなり方といえなくもない。

一人分の差

ワールドカップで日本代表がコロンビアに勝利した。わずか開始3分でコロンビア側にレッドカードがでて、それ以降はコロンビア側が一人少ない状況で試合がおこなわれるという、コロンビアがコロンビアに負けたとでもいうべき試合だった。この試合のニュースを聞いて僕が思ったのは、日本サッカーと「世界」との差というのは一人分位あるんだな、ということだ。初めのペナルティーキックを考えに入れないとするとこの試合は1対1の同点である。つまり、今の日本代表というのはコロンビア相手だと一人分のハンデをもらってやっと互角になるのである。「歴史的勝利」などと浮かれてもいいようなものでは決してないと思う。

もし中国が世界を支配できなかったら、中国人はどのような代償を払うことになるのだろうか?

最近の中国政府の外交政策を見ると、あたかも中国が世界一の大国になるかのような攻撃的な政策が多い。僕は一部のリベラル派が信じるように中国が世界を支配するなんて予想は全く信じていないが、しかし信じる代わりに思うのは、もし中国が世界を支配したら、中国人にどのようないいことがあるのだろうか、ということだ。むかし、日本は世界一の国になるだろうという話があった。しかし、いまの日本で日本が世界を支配する国を目指すべき、なんてことを考える日本人はいないだろう。そんなことをしてもろくなことにならないことが分かっているからである。それと同じように、中国が世界一を目指しても長期的にはろくなことにならないと思う。こういうのは損得ではなく夢を見ること自体、夢を見る過程に価値があるのかもしれないし、もし中国が世界を支配したら(今の中国を見る限りまったくありそうにない話だが)世界を支配したという栄誉はのこるのだろうけれども、しかしながらもし中国が世界を支配できなかった場合、中国人はどのような代償を払うのだろうか?

教師の過労が解消しないのは教師の賃下げができないから

結構以前から教師の過労というのは問題になっているような感じがするが、基本的になんで教師が過労になるかというと、根本的な理由は教師が高賃金な職業だからだとおもう。高賃金な職業というのはかならず、責任が重い・転勤・重労働という三点がセットになっているものだ。だから、教師の過労を解消するには根本的には教師の待遇を引き下げるしかない。それができないならば教師の過労はいつまでたっても解消しないだろう。

「コミュニケーション能力」よりも人と違うことのほうが大事なのではないか?

先日テレビを見ていたら、女子高生が自殺をした、というニュースをやっていた。なんでも、「インスタ」で人気になったことで学校での人間関係が悪化していじめのようになっていたのだという。

自殺した女子高生は3年生になったばかりということだった。3年ならばあと1年まてばいじめなどどうでもよくなるはずなのに、ここで自殺をするということは(少なくとも亡くなった女子高生にとっては)よほどのことがあったのだろう。

僕がこの話を聞いて思ったのは、もしこの女子高生が英語でもやっていれば自殺なんてすることはなかったんだろうな、ということだ。

もちろん、英語ができると一言で言ってもいろいろなレベルがあるし、英語をどのように習得したかで話は色々変わってくるのだが、しかしある程度英語ができる女子高生が高校3年にもなって自殺するという事態はすこし考えられない。

さらに、この女子高生が英語ではなくてたとえばフランス語とか中国語を独学で勉強しているような生徒だったとしたら、自殺するなんてことはますます考えられないだろう。

女子高生がインスタグラムでどのように人気だったのかは知らない。SNSで人気ユーザーになるのにもいろいろなパターンがある。しかし、女子高生がなくなるという結果だけ見ると、なくなった女子高生はたぶん、周りに同調するような形で人気になったのではないか、とおもう。もし女子高生の活動が本質的に他人と異なっており、従って女子高生自身が他人と異なっている場合、自殺という結果にはならないとおもう。

人と同じことをするのは安全で、人と違うことをするのはリスクであると世間では信じられている。これは一般的には正しい。余計なことを考えずに世間の勧めるままに生きていれば、普通はそこそこ満足のいく人生を歩むことができるものだ。

しかし、この事例は、場合によっては普通であることはリスクでもある、ということを改めて教えてくれる。普通に生きてきて深刻なトラブルになった場合、普通であることは案外役に立たない。普通とは違うことのほうがそういう場合は役に立つ。

普通であることは場合によっては危険である、ということはもっと認識されていいと思う。

反論されると怒る人は何に対して怒っているのか

世の中には、自分の意見に対して反論されることが我慢できない人がいる。これは誰でも経験があると思うが、世の中には自分の意見に反論されるのはもちろん、なかには「そういう意見もあるけどこういう意見もあるよ」というような、別に反論というほどではないような意見に関してもきちがいのようになる人がいるのだ。

そういう人はなにか気にいらないことをいわれると、いかにももっともらしいが、しかしまったく本質的ではないようなことを言って反撃?してくることが少なくない。まあ、この手の人は逆上すると何をいっているのかわからなくなるタイプも多いのだが、ある程度の「教育」を受けている場合はとりあえず理解はできる反論をしてくる。しかし、その反論というのは常に怒りにドリブンされた(まず怒りありき)のもので、内容を理解吟味した後で怒っているというわけではないのである。

このような人に関して僕が思い出すのはフルート奏者、作曲家としてしられるクヴァンツに関するエピソードだ。 フリードリッヒ大王はフルートを演奏したのだが、フリードリッヒ大王の師匠であるクヴァンツだけがフリードリッヒ大王の演奏にケチをつける権利があったというのだ。

本来、音楽というものは権力には何の関係もないはずだ。したがって、社会的地位に一切関係なく、誰であってもフリードリッヒ大王の演奏に対して論評することができるはずなのに、(このような振る舞いを許容することは絶対王政による統治の妨げになりうるという事情を考えなければ)これはおかしなことと言える。

僕はこのエピソードが史実に基づくものなのか分からない。もしかしてこの話はフリードリッヒ大王の統治のスタイルを説明するための作り話なのかもしれない。しかし、この話がなんで反論されると怒る人と関係あると僕が考えるのかというと、反論されて怒る人というのは多分フリードリッヒ大王のようなものだと思うのだ。

フリードリッヒ大王はクヴァンツの批判は受け付けるが、それ以外の者による批判は一切受け付けない。クヴァンツ以外の人間がフリードリッヒ大王のフルートにケチをつけるのは礼儀に反することなのだ。それと同じように、反論されて怒る人というのは自分が認めた相手からの反論しか認めないのである。

つまり、反論されて怒る人というのは、非常にしたしかったり、非常にリスペクトしている相手からの反論は受け付けるが、それ以外の人間が自分の意見にケチをつけるのは我慢できない。反論されると怒る人にとってそれは失礼なことなのであり、反論されると怒る人というのはこの失礼に対して怒っているのである。フリードリッヒ大王のたとえでいうと、クヴァンツでもないのに俺のフルートにケチをつけやがって、ということだ。

要するに、反論されると怒る人は議論の内容ではなく、議論が誰によってなされたかによって態度を変える。たとえば、もし反論されると怒る人が孫正義をリスペクトしているならば、孫正義がいうことならばとりあえずは(話の内容を理解できるかはともかくとして)おとなしく聞くはずだ。一方、批判されると怒る人をうっかり批判してしまう人というのは、議論というのは音楽のように人間関係とは関係なく成り立つものだと思っている。だから反論されると怒る人がおこりだすとびっくりしてしまうのだ。

反論されると怒る人の中で困ったタイプは、とりあえず反射神経だけはやたらといいというタイプだ。この手のタイプはとりあえず、その場だけの切り返しはものすごいうまい。よくもまあ、うまい理屈を作り出すものだな、と感心するばかりだ。そして自分が一切責任を負わない形でこちらに攻撃を仕掛けてくる。ある種の発達した卑怯さとでもいうべきものがこの手の人間には備わっている。話のすり替えは非常にうまい。

困るのは、この手のタイプは仕事ができる人間であることが少なくない。そして仕事ができればできるだけ、ますますフリードリッヒ大王状態になってしまうのだ。しかも上に対して余計なことを言わないからますます出世に有利である。もちろん、反論されると怒る人だと必ず人格的に不快というわけでもない。いい人の中にだって、反論にたいする耐性が全くない人がいる。

反論されて怒る人というのは、物事を突き詰めて考えないので言うことが粗だらけである。粗だらけだから、議論というものが音楽と同じように人間関係とは関係なく成り立つと考える人は、ついうっかり親切心を起こして欠陥を指摘してしまう。そのようにして世界中で今日も相変わらず、全く誰も得をしない争いが起こっているのだ。

もし反論されると怒る人に関わり合いになったらどうするか?重要なのは、このような人はフリードリッヒ大王のようなものだと考えることだろう。フリードリッヒ大王はフルートに関してはクヴァンツによる批判しか受け付けなかったが、だからといってフリードリッヒ大王の君主としての功績が損なわれるわけではない。

人間ならば誰しも得意不得意がある。一般的に言えば、理屈を人間関係なしに理解できるという能力は特殊技能に属する。特殊技能ならば出来ないとしてもしょうがない。だから、決してフリードリッヒ大王をフリードリッヒ大王以外のものに変えようと思わないことだ。そして、フリードリッヒ大王がフリードリッヒ大王のままでも別に世界が終わるわけではないのである。

「行動力」なんて、そんなものは実はないのではないか?

「仕事も人生も遊びでいい」は「想定外」にいい本だった。堀江さんの本のなかで誰かに一冊勧めるとしたらダントツでこれだろう。

内容は、堀江さんの本や過去の発言などから読者がメモしそうな感じの部分を集めてきたものである。これまで僕はこのような本には全く関心がなかったが、実際に読んでみると非常によかった。何がいいかというと、この本を読むと堀江さんのものの考え方の全体像がよく分かる。この本は堀江さんの考え方の全体像を紹介するために作られた本だからそれは当然だが、とにかく読んでいて、堀江さんの考えの全体像というのはこのようなものなのかな、と頭の中が整理されていくような本である。そして、頭の中が整理されていくにつれて、堀江さんのもつ違う側面も見えてくる。

僕が非常に興味深いと思ったのは、堀江さんの「流れ」に対する考え方だ。この本を読んで、僕は堀江貴文という人物を理解する上ではこの「流れ」について考えることが一番重要だと思った。

堀江さんというのはよく、計画的に(そしてときには力づくで)欲しいものを手に入れ、目標を達成していく人とおもわれているが、この本を読んだ限りでは堀江さんというのは全く逆のタイプの人間なのではないか、という印象を持った。つまり、堀江さんというのは流れに乗るのがだれよりもうまい人なのである。

流れに乗るというのは、例えば何か面白そうな「チャンス」があるならば堀江さんはとりあえず流れに乗ってみる。そこに流れがあるからチャンスというものがあるわけだから、チャンスに乗れば流れに乗ることができるのだ。そうして流れにのれば当然堀江さんは遠くまで運ばれていくわけだけれども、運ばれていった先にも当然流れというものはある。そこで、堀江さんは次の流れに乗るのである。

外から見ると、堀江さんはものすごい行動力で自分で道を切り開いているように見える。しかし、たぶん堀江さんにはそのような意識はなくて、どちらかというとサーファーがビッグウェーブに乗るようにそこにあるなにか大きな流れ(あるいは力といってもいいかもしれないが)を利用して先に進んでいく、という感覚なのではないだろうか。

世の中でいわれる「行動力」というのは実はそんなものはなくて、要は流れに乗るか乗らないかというだけのことのような気がする。行動というのはバンジージャンプのようなものではないだろうか?ある意味、バンジージャンプをするのにはほとんど何の行動力もいらない。一歩分足を踏み出しただけで勝手に落ちていくのである。サーフィンだってそうだ。サーファーが前に進むのは、サーファーが一生懸命前に進もうとしているからではない。

よく、現実は小説より奇なり、というが、現実というのは人間の想像のはるか上を行くのが普通である。それならば、将来のことをあれこれ考えるよりは流れにのり、流れるに任せた方が合理的ともいえる。そうすれば考えても無駄だと分かっていることをいつまでも考えてしまうなんてこともないし、見当違いの努力の結果時代に取り残されるということもない。計画なんてどうせ計画通りうまくいくことなんてないのだから、計画や準備はほどほどにして、あとは行き当たりばったり、その時々の流れに乗っていくというのが結局は一番うまくいくのかもしれない。