グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

子供の「国語力」の低下はどこまで適応か?

今の子供の読解力というのは世間が考えている以上に低いという話を読んだ。

なんでも、中学3年生の6人に一人が文章の主語もわからず、半分の生徒が推論とはなんなのか、つまり文章が示す論理関係を理解していない事が分かったという。

www.tokyo-np.co.jp

まずこのような記事を読む上で注意すべきなのは、いったいこのような傾向が最近始まったものなのか、それとも元々日本人の読解力というのはこの程度だったものが今になって発見されたのか、という事だ。

本などを読まない人は全く読まない、というのは昔から変わりがないし、テレビの字幕やゲーム、スマートフォンなどの影響で子供が読む活字の量は逆に増えているかもしれないので個人的には子供の読解力がそれほど変わるとはどうも信じられない。

昔から主語が分からないレベルで読解力が低い日本人というのはたくさんいたと思う。

問題はそのような日本人が増加しているのかどうか、ということで、この調査だけではこの肝心なところが分からない。

しかし、もし日本の子供の読解力が低下傾向にあるとすると、僕はそれがある種の適応の結果なのかとても興味がある。

 

僕が思うに、みんな揃って読解力は大切だ、みたいな事を言っているけれども世間は読解力など全然求めていないと思うのだ。

たとえば、ビジネスの世界ではいつも「元気の良いバカ」が称賛される。

読解力があっても行動力がない人よりも、読解力ゼロで行動力がある人間のほうがカネを稼げるのは当たり前の話だ。

はっきりいって読解力と、カネを稼ぐ力=「立派な社会人」として生きていく力との間に直接的な関係は何もないと思う。

それどころか、もし読解力と考える力がイコールだとしたら読解力などなければないほど有利かもしれない。

考えれば考えるほど人は立ちすくむ。

というか難しい事を考えたところで立ちすくむだけ、というのが現実だろう。

それならば考える時間を少なくして結果を出していったほうがいいし、社会もそういう人を評価する。

僕は基本的に昔の子供が今の子供よりも読解力があった、とは思わないが、しかし子供が社会に適応した結果読解力が低下する事はあり得ると思う。

 

僕は文章を正確に読めるかどうか、という事と論理的な判断能力の有無には何の関係もないと思っている。

そして文章を正確に読めなくても社会生活を送る上で何の問題もない。

たとえば、上の記事では子供の国語力が低いと免許証の習得にも支障をきたす(ので低学歴層の就労に差し支える)というような事が書いてある。

しかし運転免許の試験こそ、読解力も論理的判断も思考能力もまったく関係のない、完全に丸暗記だけのパターンマッチを要求するような試験ではないか。

繰り返すが読解力がない人間など昔からいくらでもいた。

しかし、そのような読解力がない人間が読解力がないから困ったという話を僕は聞いた事がない。

「立派な社会人」をするのに読解力など必要ないのだ。

 

人間の言語能力の総量は今も昔も変わりがない。

という事は、もし子供の読解力が低下しているならば子供の他の言語能力は向上しているはずである。

人間の能力というのは必要がなければ退化するし、必要があれば進歩する。

例えばスマートフォンで毎日LINEをしている子供はスマートフォンを使っていない子供よりも文章を素早く書く力が向上しているかもしれない。

読解力というのは言語能力のほんの一部分にすぎない。

しかしテストでは読解力しか計測することができないので子供の言語能力がどのように変化しているか分からない。

読解力の低下というのは言語能力の退化ではなく変化であるという事は十分に注意する必要がある。

 

現実の社会というのはせいぜい、運転免許証の試験みたいなものである。

読解力が必要なケースというのはそれほどない。

現に今の子供は主語も推論もわからなくても普通にスマートフォンで文字情報をやり取りしている。

これまでの世代が読解力の欠如で困る事がなかったのと同じように、今の子供が将来読解力がなくて困る事はないだろう。

それなのに読解力の話になると運転免許証みたいな話が出てきてしまいがちなところに読解力に関する議論の滑稽さがあると思わないでもない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

AIがあっても英語学習の必要性は絶対になくならない

Google翻訳がある程度の成功をしたことで、将来AIによって自動的に翻訳ができるようになるから英語を勉強する意味がなくなるのではないか、という意見が聞かれるようになった。

たしかにGoogle翻訳はすごい。

もちろん今のGoogle翻訳は、英語が使える人には便利、という程度のものだが、Google翻訳を使っているとプログラムでもこれを訳せるのか!と驚くことも少なくない。

僕はAIがあらゆる英語を翻訳できるようになるとは思わない。

しかし口語的な英語は無理でもフォーマルな英語を直訳するのはプログラムでも相当なレベルでできるようになると考えている。

今のGoogle翻訳はどう見ても機械でできそうなものでも翻訳できなかったりするので、伸び代は相当あるだろう。

だから外国語の世界で機械翻訳が非常に大きな重要性を持つようになるのは時間の問題だと思う。

 

しかし、いくら機械翻訳が進歩しても英語を学習する必要性は絶対に無くならない。

これは翻訳プログラムが最も有能な翻訳家と同じレベルの翻訳をするようになったとしても変わらない。

なぜかというと翻訳を読むだけでは西洋文明とは何かを理解することは不可能だからだ。

 

もちろん翻訳というのは非常にありがたいものである。

どんなに外国語が得意な人でも外国語を読む速度は日本語を読む時と比べると数分の一、場合によっては数十分の一に落ちる。

事実関係を確認するという意味では、翻訳ですむならば翻訳だけを読んでいた方が効率はよい。

 

しかし、翻訳をするとなるとなにか重要なものが決定的に変わってしまうというのも確かだ。

 

生活をする上で、翻訳というのはいたるところにある。

NHKのニュースでも海外の重要人物がスピーチを行う場面には字幕が入るし、ネットをしていると翻訳された記事を一日に何本も読む事になる。

このように翻訳というのは日本語生活に溶け込んでいて、僕も含めて世間の人々は翻訳というものに対して違和感なく暮らしている。

翻訳というのは日本語の中にたまにあるならそれほど意識をしなくて済むし、みんな意識をしていない。

 

ところが周りに翻訳しかないような状況になると、翻訳のありがたさと一緒に翻訳の限界も分かってくる。

それが一番分かりやすいのは翻訳書で、僕も翻訳書を読む事があるが読むたびに違和感を感じる。

なんというか文章の意味と文章の精神が一致していないような違和感である。

これは文章をどう翻訳するかによって印象が相当異なるのだが、英語と日本語ではやはり違いがある。

英語と日本語では表現できる事が異なるのだ。

 

西洋文明を学ぶにはフランス語でもロシア語でもなんでもいいが、とにかくなにか西洋語を学ぶ必要がある。

どんな言語でも意味を伝える事はできるが、意味を伝達するのと精神を伝達するのとでは分けが違う。

そして西洋文明を学ぶ上で重要なのは意味ではなくてむしろ精神のほうなのである。

確かに翻訳は意味を伝える事ができるし、意味だけでなく精神のほうもそれなりに伝えるのだが(そうでなければ文学書の翻訳というものは成り立たない)、日本語を使っている限りその伝え方はどうしても間接的になる。

直接西洋語で言われたら分かる事でも、日本語に訳するとうまく伝わらない事はたくさんある。

 

西洋文明を学ぶ事は西洋語を学ぶ事で、西洋語を学ぶ事は西洋文明を学ぶ事である。

西洋文明の精神を学ぶ事の重要性は今後も絶対に無くならないから、英語学習の必要性も無くなる事はないだろう。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

今年もあと100日で終わる

今年があと何日あるのか調べてみたら、今日の時点であと100日ある事が分かった。

カレンダーによると10月が31日、11月が30日、12月が31日あるから、10月から12月までの3か月間で92日ある。

今月は9月30日まであるので、今日つまり9月22日が終わると今年はあと100日しかない。

明日が終わるとあと99日、明後日が終わるとあと98日、という風に一日が経つごとに今年の残り日数は少なくなっていく。

そしてこれが100回繰り返されると新年になる。

 

いつのまにか今年もあと100日になってしまった!

 

以前にも書いたように、最近は本当に一日一日が重たい。

僕はまあ、相変わらず世間から離れて暮らしているものだから特に時間の進み方が早くなっているわけではないが、しかし一日一日の重みというものはそれなりに感じるようになっている。

特に夏が終わって秋から冬に向かおうとしている季節はそうである。

僕は寒い中出歩くのが苦手なので、冬の寒さに閉じ込められる前にやるべきことをやっておかないといけないという焦りのようなものが出てくる。

もちろん焦ったところで僕の能力で出来る事に変わりがあるわけではない。

しかし一日をどうしようもなく過ごした場合、自分の無力さというものが一層強く感じられるというのは確かだ。

 

これまでの今年の過ごし方を振り返ってみると、冬から春はこれまで通り随分と無気力な過ごし方をしていたものだとがっかりする。

しかし今考えると無気力な過ごし方を過ごしながらこれからの方向性を考えていた所もあって、それもあるのか夏はこれまでの夏よりは意欲的にすごせた方だと思う。

もちろん意欲的に過ごしたといってもこれまでがあまりにも無気力だったものだから、自分の置かれている状況を鑑みるとその意欲的さは著しく欠如している。

とはいえ健康状態がよいためなのかこれまでよりも意欲があるのは事実で、この事自体は感謝すべき事なのだろう。

しかし中途半端に意欲があるために今までにも増してこれまで無気力で過ごしてきた歳月がのしかかってくるというのも確かである。

 

まあ、そう生きるしかなかったのだから仕方ない。

とにかくあと100日で新年あけましておめでとう、である。

正直、僕の年になると新年などまったくおめでたくないのだが、おめでたくてもおめでたくなくても新年あけましておめでとう、である。

確かに100%不完全燃焼のまま中年のオッサンになっているというのは悲しい。

しかし考えてみれば中年のオッサンになるまで生きている事自体はおめでたい。

せっかく生きているのだから、せいぜい100日後には今よりもさらにマシな中年のオッサンになっている事を目指して今の自分の能力でも出来そうな事をやっていくしかない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。 

教師は学校がブラック職場である事にどれほど責任があるか

最近、教育現場での労働が過酷であるというような話題がはてなブックマークのタイムラインにも乗るようになった。

教師の仕事というのは普通の人が思っている以上に激務で、統計によると小中学校の教師はみんな40時間以上の残業をしていて、小学校教師の7割、中学校教師の9割が60時間以上の残業をしているという。

60時間以上残業をしている勤務医は6割だから、いかに教師の労働が過重であるかがよくわかる

人間が過労死するラインは残業100時間とされているので、教師というのは本当に過労死寸前の状況で働いているのだ。

もちろん、この統計がどれほど実態を反映しているかは分からないし、平均的な勤務医よりも平均的な教師のほうが過酷と言っても本当かな?と思うのが正直なところだが、そのような比較をしなくても絶対的なレベルで学校がブラック職場であるという指摘はある程度は当たっているように見える。

 

しかし、このような過重労働について、教師が無理な事をやらされてかわいそう!という感傷的な意見ばかりが聞かれる事に僕は強い違和感を感じる。

というのは、このような意見というのは、それでは教師にこのような過重労働をさせているのはだれなのか、という観点が全く欠如しているからである。

一体、誰が教師に過重労働をさせているのだろうか。

そして教師の過重労働に対する責任は一体どこにあるのだろうか。

 

教師の労働環境についてのエントリーを読んで僕が思い出すのは去年大きな社会問題になった「組体操」である。

組体操の事故の件数は普通の人が考えているよりもはるかに多く、2014年には2,000件くらいの骨折があった。

子供に障害が残るケースもかなりあり、いくつかは訴訟になっている。

相次ぐ組体操の事故のために、教師の無責任と卑劣な責任逃れに対して世間の非難が集まった。

僕も組体操による被害の深刻さに驚いた者の一人である。

 

しかし僕がそれよりも驚いたのはこれほどの非難を浴びても組体操に執着する教師が多い事だった。

例えば、組体操の問題が騒ぎになる前の2015年には大阪市の小学校と中学校では合わせて348校で組体操が行われ、42人が骨折した。

そして世間の非難と文科省の(ヌルいとしか言いようのない)通達があった2016年には組体操を実施した小中学校は225校で、骨折した生徒は12人だった。

被害者が30人減ったとはいえ、去年になっても運動会のような下らないイベントで12人も骨折した生徒がいるのだ。

大阪市だけで12人である。

そしてこれまで組体操で生徒を障害者にしたり殺してきた(過去46年間で9人死んでいる)教師と、世間が同情する過剰労働のために月60時間もの残業をする教師は同じ教師なのである。

 

運動会を開催するのにどれくらいの時間がかかるのか僕には分からない。

しかしプログラムを決めたり準備をしたり生徒に猿回しを仕込むのにそれなりに時間はかかっているだろうと想像する事はたやすい。

そしてこれらすべてのために使われる時間分、教師の睡眠時間は減ることになるのだ。

被害児童に裁判でも起こされたら、訴えられた教師の睡眠時間はさらに減る事になるだろう。

正直に言って、組体操をしながら労働環境の過酷さを訴える教師がいても僕は一切同情しない。

 

いじめの問題などを見ても分かるように、学校というのは教師に強い自治権が与えられている。

教師は学校ではなんでも出来る。

学校が運動会をしなければならない、とか、運動会では組体操をしなければならない、と定める法律など何一つない。

これらはすべて教師が自分でやっている事なのだ。

運動会なんて「授業の研究をするために運動会はやめる事にします」といえば簡単に止められる。

そして運動会だけではなく、教師の過重労働のかなりの部分は教師によって作られているのではないかと僕は疑っている。

もっというと、これらの過重労働が100%生徒のためを思って行われているとも僕は思っていない。

 

教師の給料は、高いか安いかについては議論があるだろうが、まあ大体一般の公務員と同じ程度のようである。

給料だけをみればやや恵まれているといえるかもしれない。

しかし世の中を見ると、高給の仕事というと大抵、激務・重責・転勤の3点セットになっている。

つまり、教師の給料というのは毎月何十時間もサービス残業をして、生徒の一生を左右するかもしれない成績を付け、時にはとんでもない僻地や暴力が吹き荒れる「困難校」やその他のしんどい学校に飛ばされる事などを織り込んだ上で決まっているのだ。

そしてこれらの教師の仕事の過酷さというのは、究極的には教師がすべての権限を抱え込んでいる事からくる。

すべてを抱え込むから教師は教師なのであり、それに対して世間的にはやや恵まれた賃金が支払われているのだ。

 

以前、財政難のために埼玉県で公務員の退職金が引き下げられた事がある。

その時に埼玉県の一部の教師が早期退職をして以前と同じような退職金を受け取った後で再雇用され、何事もなかったかのように平然と教壇に立ち続けたとして世間の非難を浴びた。

このプロセスが具体的にどのようなものだったのかは分からないが、もし僕が校長ならば「そのような浅ましい人間を再雇用する事は絶対にありません。もし退職するならばその事を全校朝会で話をします」くらいの事は言ったと思う。

しかし高々数十万のために早期退職し、すかさず再雇用された教師がいるという事はその周りにそれを当然と思うような人間がたくさんいた、という事を意味する。

天下りの問題を見ても分かるように、官僚には(あるいは官僚になるような人間には、と言った方が正しいのかもしれないが)独特の金銭感覚がある。

この独特の金銭感覚は、おそらく学校がブラック職場である事と関連する。

もし教師が権限を委譲して学校がブラック職場で無くなったとしたら、教師の待遇は間違いなく切り下げられるだろう。

教師という仕事は重要だから云々などと言ってもどうしようもない。

他の職業だってそれぞれに重要なわけだし、そもそもにしてその重要な仕事を非常勤・低賃金でやっている教師がいるのだ。

 

教師がどのように働くべきかという問題は未来の学校はどのようなものであるべきか、という問題に直接つながる。

少しばかりの高給を与えて猛烈に働かせる、という方法は確かに財務省的には効率的であるだろう。

しかし、このような働き方(あるいはそのような働き方をする人)というのはこれまで行われてきた教育と一対一に対応する。

そのような教育システムは確かに強力なものであるが、その弊害もまた著しい。

今のような方法で学校を運営し続けるのは無理なのではないだろうか。

おそらく、教師に集中している権限は分散化させる方向に行くと思う。

若手の総務官僚が県庁に出向するように、文部科学省の官僚が学校の管理職になるみたいな事だってありうるかもしれない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。 

月収100万円の生き方を考える

もし収入が月に100万円あったらどうするか?

もちろん手取りで月に100万といっても状況によっては全然たりなかったりするのだろうが、ここでは月に本当に丸々100万円自分だけのために自由に使えるカネが入ってくる、という状況を考える。

この質問というのは結構興味深い。

というのは、この質問を考えるという事は自分にとって本当に重要なものは何かを考える事であるからだ。

 

世の中の多くの事というのはほとんど月に100万円もなくても出来るような事ばかりである。

テレビを見るというのもそうで、大金持ちも貧民も同じようにテレビを見るし同じように見るしかない。

せいぜい大金持ちならバカでかいリビングでテレビを見ているくらいの違いしかない。

食い物にしても読書にしてもマンガ・アニメ・ゲームにしてもそうである。

これらのコンテンツを普通に消費する限り、カネというのは大して必要ないのだ。

 

それではカネがないといけない活動というのは何であろうか?

僕が思うに、人間関係が絡むとカネというのは途端にかかるようになる。

というより究極的にいうと人間の出費というのはほとんど人間関係がらみなのではないか。

人付き合いというのはカネがかかる。

もし人間関係をすべて切り捨てるという生き方をするならばカネというのはほとんどかからないと思う。

 

カネがあると、人間関係の幅を広げやすくなる、という以外に面倒をカネで解決できる、というメリットがある。

少なくともカネを使えば面倒を先送りする事ができる。

例えば僕は最近部屋の片づけをしているのだが、月に100万使えるならば部屋の片づけをせずにそのままどこかに部屋を借りて引っ越すという事も出来る。

部屋を探すにしても月に100万あれば普通の物件ならばどこでも借りれるわけだから相当楽だろう。

他にもカネでもって解決できる問題というのは相当たくさんあるような気がする。

しかし例え僕がいきなりカネが使えるようになったとしてもいづれ部屋の片づけをしないといけない事には変わりがないわけで、多分カネの力というのは問題を解決するというよりは問題の解決を楽にするという事に限定されるような気がする。

 

僕のように世間から離れていると、無意識のうちにカネがないから何もしないで過ごそう、というような方向に流されやすい。

しかし考えてみたら、実際に自分がしないといけない事はほとんどカネなしでできるものばかりだ。

カネがあれば楽に出来るが、カネがなくても少しばかりの労力を使えばなんとかなる場合が大半である。

カネのあるなしで一体何が違うのか?

自分の生活を反省するために一日一度くらい月収100万円の生活を考えてみるというのは結構悪くないかもしれない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

高級ブランドとしてのApple

コンピューター産業におけるAppleの成功はコンピューターを高級ブランドにした事だと思う。

 

思うに高級ブランドというのは高級であると同時にコモディティーである必要がある。

つまり誰でもアクセスができなければいけないのだ。

この点においてエルメスとかロレックスなどは典型的な高級ブランドである。

エルメスのハンドバッグもロレックスの時計も、カネさえあれば誰でも買える。

もちろんこれらの贅沢品を買おうとする人は限られるし、実際に買える人はさらに限られるけれども、エルメスやロレックスの製品を買うのに何らかの資格や社会的地位が必要なわけではない。

十分なカネをもってショップに行けば誰にでも売ってくれる。

 

これらの高級ブランドの製品はブランドの高級さを損なわない程度に大量生産されている。

そしてこれらの製品が大量生産されているのは誰でも気軽に買えるようにするためなのだ。

製品の値段が高級ブランドの本質なのではない。

その本質は、誰にでもアクセスできる大量生産されたコモディティーであるという所にある。

 

これまでコンピューターの世界には高級ブランドというものがなかった。

確かにモトローラCISCプロセッサを使っていた頃のマッキントッシュはすでに高級ブランドを目指していた。

ジョブズはコンピューターはコモディティーでなければならない、と考えていた。

しかもそれはコモディティーとして「最高」のものでなければならない。

つまりAppleの製品は高級ブランドでなければならなかったのだ。

しかし当時、コンピューターというものは基本的には一部の専門家か、あるいは専門的知識を持つ学生が使うものだった。

インターネットがなければそうなるしかなかった、とも言える。

 

その後インターネットが世間に普及した結果、普通の人もコンピューターを使う事が当たり前になった。

コンピューターはテレビとか車のような誰でも使えるコモディティーになった。

そしてコンピューターがコモディティーになって初めて(途中で試行錯誤はあったが)Appleは高級ブランドとして成り立つようになった。

あらゆる高級ブランド品と同様、Appleの製品は少し高級でも誰でも買える。

この高級さというのはApple以外のコンピューターには見られない。

Apple以外の高級ブランドを立ち上げるにはハードとソフトを同時にやらないと無理だろう。

 

近年のAppleの製品には「イノベーション」が無いとよく言われる。

しかし僕はAppleの将来に対してそれほど悲観していない。

Appleは高級ブランドなのだ。

エルメスのバッグやロレックスの時計にイノベーションを求める人がいないように、消費者は別にAppleの製品にイノベーションを求めているわけではない。

消費者としてはAppleのコンピューターの画面が鮮明で、インターフェースがオシャレで、最上のカメラユニットを搭載し(といっても、カメラユニットの値段は最高級品でも30US$程度だという話だが)、ある程度安定して動作してケースの仕上げがよいだけで十分なのだ。

高級ブランドであるというのはそういう事だ。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

ブログ初心者はとりあえず二桁更新をめざせばいい

僕がこのブログを始めてから1年くらいになった。

世間では1年というと、まだ1年かという感じだろうけれども、ブログの世界では1年というのはそれなりの期間である。

 

ブログというのはだれでも簡単に始められるので、毎日ジャンジャンと新しいブログができる。

しかしブログというのは始めるのは簡単だけれどもやめるのも簡単である。

3日坊主という言葉があるが、1年続くブログというのはそれほどない。

そういや最近あのブログはどうなってるかな、と思ってみてみたら更新が止まっているとかブログ自体が消えている、みたいな事がしょっちゅうある。

そして僕の観察によると、ブログの更新頻度とブログの消えやすさには関連があるような気がする。

 

よく、ブログを開設してからものすごい勢いで毎日のように画像満載の長文エントリーをアップロードし続けるようなブログを見かける。

僕も最初の数週間は毎日のように記事を書いていたのであんまり大きな事は言えないが、このようなブログは消えやすい。

そのうちにブログが必要とするキャパがブロガーが持っているキャパを上回ってしまうからだろう。

そのようなブログを長い期間安定して運用するのは難しい。

はっきりとアフィリエイト目的でやるなら別だが、雑記ブログで毎日のように検索エンジンに受けるようなエントリーを書くのは普通に生活していれば無理である。

ブログというのは労力の割には見返りがないものだから、余裕がなければ続かない。

 

ブログの運営の仕方は人それぞれである。

常識的な運用をする限り、どのような運営の仕方をしても誰に迷惑がかかるわけでもない。

しかしブログを長く続けるにはブログ初心者はとりあえず1か月に二桁更新を目指せばいいと思う。

2日に1度というのは忙しかったり色々とトラブルがある状態だと結構きついが3日に1度だと何とかなる。

どんな状況でも、1日に400文字程度を書く位はできる。

一日に400文字を書くとすると3日で1,200文字である。

1,200文字あると一応ブログのエントリーとしては(検索受けを無視するならば)問題なく成り立つ。

 

月に10回くらい更新されていると、もちろん勢いがあるという感じはしないけれどもそれなりに安定して更新されている感じになる。

そして忙しかったり精神的に落ち込んでいたりで月に5回くらいの更新になってもそれほど劇的に更新が落ち込むような感じにもならない。

気分的に追い込まれずにブログを運営できるのだ。

なのでブログを始めるならばとりあえず月に10回くらいの更新を目標にすればいいのではないだろうか。

毎日更新するのは月に10回くらいならどんな状況でも確実に更新できるという事が分かった後にしてもいいと思う。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。