グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

政治に飽きた

考えてみたら、僕はこれまで政治の事ばかりについて考えてきたような気がする。もしかして考える時間の9割以上を政治について考える事に使ってきたかもしれない。僕は理系の分野に行く事を期待され、実際に理系の学部に進学したけれども、正直いって僕が一番関心を持っていたのは数学でも物理でも情報科学でもなくて政治的な事だったと思う。

なんで政治に興味があったのか?普通の人は政治など興味を持たない。政治などに興味を持ってもなんのいい事もない。関わるほどに不愉快な思いをするのが政治というものである。まあ、僕は具体的に政治に関わっているわけでもなく、政治活動といえばブログで政治的なエントリーを書くくらいだけれども(これを政治活動といっていいものかは分からないが)、政治などに関心を持たないほうが建設的に日々を送れるという事は分かり切ったことだ。

それでも僕が政治的な人間であったのは、なによりも僕にとって政治というのが謎だったからかもしれない。

僕の政治に対する関心についての原点は、間違いなく学校にある。僕にとって学校というのは巨大な謎だった。子供の頃の僕は、学校というものが全く理解できなかった。とりあえず授業というものが必要なのは分かった。もちろん授業というものの必要性(あるいは必然性)は自明ではないが、なにせ子供だったのでさすがに授業というものについて疑問を持つという事はなかった。全く理解できなかったのは様々な学校行事である。

それらは一つ残らず愚劣に見えた。運動会、学習発表会、合唱発表会、球技大会・・なんで教師がそれら愚劣極まる学校行事に熱中するのか僕には全く理解できなかった。学校というのは勉強をする所ではないのか?子供の頃の僕には、これらの行事はすべて子供を愚鈍にするためのものにしか思えなかった。

そして長じて政治の世界をみると、これも小学校や中学校と同じくらいのレベルの気違い沙汰なのである。いったいなんでこんな気違い沙汰が長年続いているのか、と不思議に思うような事ばかりが目立つ。たとえば財務省と御用マスコミ、腐敗左翼が喧伝する財政破綻論などは典型的な気違い沙汰と言えるだろう。

なんで国の「借金」がこれほど膨れ上がるのかというと、富裕層が蓄財をするからである。日本の家計金融資産は1,800兆円で国の借金は1,000兆円くらいだという。なんでたとえば家計の金融資産が800兆円で国の借金がゼロというような状況になっていないのか?富裕層が資産を溜め込む限り国を運営するためには国債を発行するしかない。そして国債が発行された分富裕層の資産は増える事になる。

債務と債権というのはセットである。一体日本の借金の債権者というのは誰なのか?これが最も重要な事なのに、政治家も官僚も腐敗左翼もこの事について一言も言う事がない。そして出てくる処方箋というのはいつもの通り、緊縮と構造改革である。税制というと消費税増税所得税減税、法人税減税なのだ。

しかしながら、気違い沙汰が気違い沙汰として続くことには理由がある。たとえば学校というものが何十年もあのように運営されているというのも、やはり理由というものがあるのだ。最終的に僕が理解したのは、学校というのは子供を賢くするためにあるのではなく、子供を調教するためにあるのだ、という事である。学校で行われる事が愚劣である事が問題なのではない。学校というのは愚劣である事に価値があるのだ。そしてなんだかんだで日本の識字率が100%なのも、日本の学校による洗脳が非常に強力だからである。子供、もっといえば大人に対する洗脳がガンギマリに決まっているからなのである。

学校と同じく、日本の経済政策の気違い沙汰だってこれが何十年にもわたって続くのにはそれなりの理由がある。一体、誰かの債券は誰かの債務、というような合理的な認識を持った人間が過労死寸前になりながら経済活動に邁進するだろうか?国の借金はけしからん!貧困問題は甘え!このような幼稚としか言いようがない認識をもっているからこそ人は蓄財という資本主義の基本に忠実に生きる事が出来る。日本の経済的繁栄(その繁栄はだんだん怪しくなってきているというか、はっきりいって崩壊過程にあるのであろうが)と日本の経済政策の気違い沙汰はセットである。あるいは、少なくとも後者は前者の帰結である。

気違い沙汰に関してもう一つ僕が理解したことは、それが必ず何らかの形で損得に関わっている、という事である。あらゆる経済政策、政治政策、社会政策の背後には利害関係がある。もちろん政策というものは打ち出される際はいかにも中立的な立場から見て公平なものであるかのようにプロモーションが行われる。しかし、マスコミで喧伝されるような政策が公平である事はほとんどない。よく見ると、それらはことごとく裕福に暮らすリベラル派が得するように設計されているのである。

経済政策などは典型的だ。日本の経済政策が気違い沙汰であるのは日本経済が不況である事で利益を得る者がいるからである。結局、日本経済が好況になる事を望んでいる既得権益者など誰もいないのだ。口では景気の低迷は深刻だ、というような事を言っていても、本当に景気を良くしようなんて誰も思っていない。だから不況が長引くわけで、いくらもっともらしくとも緊縮財政・構造改革は利益を誘導するためのツールである。学校の気違い沙汰の背景にも、何らかの形で利益を得ている連中がいるのだろう。

気違い沙汰をある種の信仰とするならば、政治というのは信仰と損得勘定との連関である、というのがもう少なからぬ年月を生きてきた僕がたどり着いた認識である。信仰の背景には損得があり、損得の背景には信仰がある。信仰も損得も動かしようがないものだから政治というのはどうしようもない。

物分かりが悪い僕のようなものも、ようやく政治というものの必然性というものが分かるようになった。多分、気違い沙汰でない政治というのは無理なのだろう。合理的な理屈に基づいた政治が現実に機能するとは、僕は正直信じられない。しかし、もし政治が気違い沙汰でなければならないとしても僕自身はその気違い沙汰を肯定するわけにはいかない。気違い沙汰はやはり気違い沙汰である。

政治に関して言えば、僕は最近、自分が政治の当事者ではない、という感覚を非常に強く持つようになった。勝手にしてくれや、というのが僕の正直な心境である。僕は一介の無職にすぎない。社会は僕の所有物でないのだから、僕が何を言おうが社会が変わるわけでもない。社会を変える事ができるのは社会だけである。僕は気違い沙汰とは無縁でありたい。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。