コミュニケーション能力重視と終身雇用
常々思うんだけれども、日本の就活でコミュニケーション能力というものを重視するのは、やっぱり終身雇用だからなんじゃないかな、ということだ。
日本の終身雇用というのも相当に揺らいできていると言われるが、いまでも日本人の意識としては、会社というのは目的を共有するメンバーが集まるチームであるというよりは家族のようなもので、基本的には一生をずっと共にするというようなイメージがあると思う。
そういうわけで、日本の会社の求めるコミュニケーション能力というのは、家族の和をみださないように家族のだれとでもうまくやって行く能力なのではないだろうか。
家族というのは簡単にリストラできないから家族なわけで、もしおかしな人間が会社に入ってきてしまったらたいへんだ。
つつがなく会社員生活を送りたい、というのはみんな同じなのだから、経歴とかで少しでも変な所がありそうな人間を採用することには慎重になるというのも分かる気がする。
しかしながら問題は、仕事に必要な能力とコミュニケーション能力というのは必ずしも関係があるわけではない、という事だ。
もっと言うならば、世の中にはかえってコミュニケーション能力が低いような人間のほうがうまくやれるような事というのもたくさんあるんじゃないか、という気がする。
どうも今の世間のコミュニケーション能力重視の風潮を見ていると、適材適所という考えが希薄であるように思えてしょうがない。
コミュニケーション能力重視というのは、効率的なようで実はものすごい無駄を作り出しているのではないだろうか。
往々にして、人間の能力というのはそれぞれ相反するものだ。
日本社会におけるコミュニケーション能力の重視は、適材適所を難しくしている。
みんななんとなく分かっているんじゃないかと思うが、しかし能力を問題にするよりも、おかしな人間とは関わり合いになりたくない、というインセンティブのほうにみんな流されてしまっていると思う。
それでうまくいけばいいが、そういうモデルはある一定の条件においてしかうまくいかないのは今の東芝の有様をみても分かることだ。
アメリカの会社というのは欠陥のある人間をうまく使うのがうまい、と言われる。
それはおそらく、人間にはそれぞれ得意不得意というものがあるのだから、適材適所の考え方を徹底したほうが生産性が上がる、という考えかたから来ている。
適所適材という考えかたを徹底させれば、リストラというのも日本ほどには深刻なものとはならない。
日本でリストラをされたとしたら家族から絶縁された気分になるだろうが、アメリカではそれは一応、適材が適所に移動していくプロセスに過ぎないのである。
まあ、アメリカにもアメリカ特有の不条理というのもあるだろうし、グローバル化の影響でこのような前提は相当変化しているだろうが、しかし日本の社会と比べてアメリカの社会において適材適所が実現されている事は疑い得ない。
そして、それは社会の生産性にはっきりと表れている。
もしかして、日本社会が「コミュ力重視」といっている限り、日本はダメなままなんじゃないだろうか。
なぜならそれは、無能なのにコミュ力だけはある人間が不当な利益を得る一方、コミュ力がない人間が適所に行くどころか社会的コストになるような社会だからである。
どんな社会にもよい面があるけれども、コミュニケーション能力重視の日本社会が行き詰っているのは明らかだ。
今の日本の現状を見るにつけ、日本が復活するには、日本社会をコミュニケーション能力がなくても別に問題ない社会にしていくことが重要だと思えてならない。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
野菜系のスムージーを買ってみた
先日、生まれて初めて野菜系のスムージーを飲んでみた。
普段意識していないとなかなか分からない事だけれども、今まで飲んだことのない食べ物とか飲み物というものは結構あるもので、野菜系のスムージーというのもその一つだったのだが、考えてみたらスムージー自体飲んだ事がなかったかもしれない。
買ってみたのはこれ。
日本ハムの関連会社が販売している「ときめきカフェ グリーンスムージー」というものだ。
リンゴ・キウイフルーツ・ほうれんそう・にんじん・小松菜・セロリが入った、いかにも健康によさそうな製品である。
150円くらい。
僕は健康なんかには全然興味がないが、ライフスタイルとして菜食主義にはある程度の関心を持っているので、なんだか面白そうなので買ってみた。
緑色の飲料を買うのは初めてなので少し躊躇したけれども、こんなことでビビっていたらブログなんかやっていられない。
それで、飲んでみた感想。
少し香りが青菜みたいな感じだな、と感じたが、 そのうち気にならなくなる。
味は成分通り、リンゴとキウイフルーツと青菜の味が同時にする。
キウイフルーツを食べるという事は普段あまりない事だと思うので、キウイを食べたいけれども何かと面倒、というときはこれを買ってみるというのも有りかもしれない。
飲み心地もなめらかでいう事なし。
思うんだけど、スムージーというのは飲んだ後に充実感があるのがよい。
ある種の缶飲料というのは、飲んだ後に多かれ少なかれ空しさが残るものだが、スムージーだとそういう事が無い。
忙しくて食事をする暇がないとか、体調の都合で食べ物を食べたくない場合にはちょうどいいのではないか。
結構色々な可能性のある飲み物だと感じた。
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英語の教科書はぜんぶマンガにしたほうがいい
英語教育には常にコンテンツの問題が付いて回る。
つまり、言葉というのは意味を持つもの、つまりコンテンツを通して学ぶしかないわけだけれども、そのコンテンツをどうするか、という問題がある。
学校で使うコンテンツとなると、まずあまりイデオロギー的に極端なものを出すわけにはいかない。
それがどんなにうまく書けていたとしても、例えば極右によって書かれたリベラルを罵倒するような文章を載せるわけにはいかないのである。
ところが、コンテンツというのはある意味、極端なものであればあるほど面白いわけで、だれにでも受け入れられるようなコンテンツというのはコンテンツとして死んでいることが多い。
コンテンツというのは何を主張か、が重要なわけだけれども、それがメッセージであるならば賛否両論を引き起こすのが当たり前だし、賛否両論を引き起こすようなものでなければいけない。
そういうコンテンツでないと、わざわざ英語で読む意味がよく分からないだろう。
これが独学だと、自分で読みたいものを読んで、見たいものを視聴すればそれですむ。
けれども、学校ではなかなかそうもいかない。
生徒の関心も知的バックグラウンドもぜんぜん違う中で生徒全員が使えるようなものにしないといけない。
一部の生徒だけにはものすごい教育的効果があっても他の生徒はなんの事かさっぱりわからない、というものであってはいけないのである。
いっそのこと、英語の教科書というのは全部マンガにしたほうがいいのではないか?
はっきりいって、文章だけで一つの完結した内容を生徒に伝えるというのは限界があるような気がする。
特に、低学年の場合は使える語彙数とか構文も限られるから、文字だけでやると内容的どうしても退屈なものにならざるをえない。
これがマンガだったら、作品のクオリティーによってはどんな大文学にもひけを取らないようなメッセージを伝える事が可能になる。
学校英語の範囲内で作品が表現できる幅というのは文章だけの場合にくらべて比較にならない。
マンガなら、生徒全員を納得させるのはもちろん、大人が読んでも全く問題ないような教科書を作る事ができる。
コンテンツのレベルの上限というのが存在しない、というのがマンガのいいところである。
それにマンガというのは絵というものがあるので、内容のイメージがつかみやすい。
出てきた単語も相当覚えやすくなるはずだ。
いっそのこと、従来の教科書ではなかなか使えなかったような高級な単語がセリフにガンガン出てくるようなマンガにすれば、悲惨としか言いようがない日本の英語教育もずいぶん変わるのではないだろうか。
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英語の学習を学校でやることの難しさ
言葉というのは当然ながら内容というものがあるというか、内容があって初めて言葉があるわけで、言葉と内容というものは切り離せない。
学校で英語を勉強することの難しさというのはここにあるんじゃないか、とつくづく感じる。
僕は英語を勉強するときにほとんど何の苦労もなかったけれども、なんで苦労をしなかったのかを今考えると、やはり自分が政治、社会、あるいは国際関係に強い関心を持っていたからだと思う。
そういう事に関心を持っていると、英語の勉強はただ海外の新聞をネットで読んで、社会科学系の洋書を読んで、BBCを見てるだけで勝手に進んでいくから、まずよほどの事が無い限りはコケることがない。
勝手に英語が日常生活の一部になる。
ところが、学校で英語の授業を受けているほとんどの生徒にとって、英語というのは数学みたいなものであるだろう。
つまり普通の生徒というのは、勉強している数学の内容などには全く興味がないけど、テストでいい点というか、必要なだけの得点をするために必要だというだけの理由で数学を勉強している。
学校で行われる英語教育というのもこれと同じで、英語の教科書に書かれている内容などは生徒にとっては間違いなくどうでもいい。
教科書が教科書である以上、教科書のコンテンツとしての価値というのはどれほど努力をしても限界がある。
だから生徒が数学のコンテンツに関してぜんぜん無関心に数学を勉強するのと同じように、ぜんぜん興味のない英語のコンテンツを無関心に勉強することになる。
僕は高校時代は健康上の理由で廃人同様だったから、英語の教科書をまともに読んだことがない。
だから英語の教科書を勉強するという事がどういう事なのか分からない。
語彙数や構文のレベルも分からないし、読んでみたら案外面白いコンテンツなのかもしれない。
英語の教科書というものは徹底的に勉強するならばそれなりに英語力が付くように出来ていると思う。
しかし、ほとんどの生徒にとって、今の教科書を使った英語教育はほとんど無意味である。
思うに、日本の英語教育というのは、言葉というのは内容と切り離せないというか、切り離してはいけないという建前に縛られて、まったく中途半端なものになってしまっているような気がする。
おそらく、英語というのは数学みたいなものと考えないと、学校での英語学習というのはうまくいかない。
はっきりいって、僕は学校の授業で長文を読ませる必要はまったくないと思う。
もし学校で英語をするなら、まず文法をやって、それから英文解釈教室にあるような読むのが難しい短文を数学の問題を解くように学習して、それからDUO2.0をマシにしたような感じの英文を暗唱でもさせて必要な単語を叩き込む、という風にするのが現実的ではないだろうか。
僕は英文の暗唱に関してはかなり警戒感をもっているので、単語を叩き込むための英文は本当にまともなものにしてもらわないと困るけれども、それはともかくこれらの事はすべて学校でもできるし、これをやれば確実に読む・書く・話すができる生徒が出来上がる。
長文の勉強は、難しい短文が分かれば全部読めるので受験勉強に任せればいい。
日本の英語教育が腐っているのは、言葉というのはなんとなく身につくものであるという根本的に間違った思い込みを前提にしているからである。
しかし、数学の問題がなんとなく解けるようになるなんてことがないのと同様、英語というのはなんとなく分かるようには絶対にならない。
逆に、もし英語を数学のように勉強すれば、「使える英語」を学校で勉強するというのは案外簡単じゃないかと思う。
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ブログの記事の理想の長さ
ブログにはブログの数だけ色々なスタイルがあるけれども、基本的にブログの世界では、記事の長さというのは長文であればあるほどいいというということになっている。
記事の長さが長くないと、内容にどれほど価値があっても検索エンジンによる評価がされないしブックマークコメントもつかないから記事を書く意味がない、という事で、多くの人に読まれる事を目標にしているブログは大体長文である事が多い。
特に、いわゆる「実績の上がっている」ブログで長文でないブログというのを思い浮かべても正直ぜんぜん思い浮かばない。
でも、はたしてブログの文章は長文であるほどいい、というのは本当なんだろうか?
僕がたまに思うのは、普段ネットで読んでいるような文章の長さというのは、もしかして普通の書き手にとっては長すぎるのではないか、ということだ。
いつも1,200文字くらいのエントリーばかり書いている僕からしてみたら、あんなに大量の文章を毎日書き続けるなんて大変すぎるんじゃないかと思えて仕方がない。
もちろん文章のスタイルは人それぞれだから、僕のように大抵の場合は1,200文字とかせいぜい2,000文字で言いたい事が終わってしまう人もいれば、なにか言いたい事を書こうとするとあっという間に5,000文字とか10,000文字になってしまう、という人もいるだろう。
そういう長文を書きたくて仕方がないくらいの人なら長文を書く事にまったく問題はないだろうが、でも長文主体のブログをやっている人の中には結構、無理をして長文を書いている人もいるんじゃないの?と思う事がある。
長文を書くスタイルのブロガーでブログのほうは止まってるのにTwitterは更新されているような人を見るたびに、長文を書くのが面倒になったのだろうか?と疑わずにはいられない。
僕はいつも1,200文字くらいのエントリーばかりを書いているので結構気楽にブログを書いている方だと思う。
140文字のtweet一つを書く感覚の延長でエントリーを書いている。
もっとも僕は文章を書くのがかなり遅い方なので、エントリーをひとつ書くのにかかる時間は長文のブロガーとたいして変わらないだろうが、それでもある種の気楽さはある。
長文ばかりを書いているブログだと1,000文字くらいで終わってしまうような内容だと書きにくくなるかもしれないが、普段から1,000文字くらいの記事ばかり書いていれば長さを気にする必要がないし、なにかものすごい忙しくなったとしても1,000文字くらいならば書くことを続けることができる。
もちろん、長文を少しずつ書いていくことができる人もいるが、やはりブログというのは気分が乗っている時に一気に書いてしまいたい、というのが普通だろう。
まあ、自分のスタイルというものは思うように変えられるものではないし、究極のところは「実績」をとるか自分のやりたいように文章を書くか、という選択になるだろうけれども、忙しくなるなどしてブログが面倒になっているのならば一時的にでも短文主体に移行するのも悪くないのではないだろうか。
短文を書いている間は「実績」は大して上がらないだろうが、書き続けるという事にはそれ自体に価値があるし、短文を書くことで学ぶ事だってあるんじゃないか?というようなことを、更新が止まっているブログを見るたびに思わないでもない。
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マスコミとファクト
元・財務官僚の高橋洋一さんによる以下のツイートはなかなか考えさせられるものがある。
役所とマスコミ。記者クラブで特定マスコミとねんごろ。その上で特定記者にブツ(紙)を渡して世論誘導。紙を求める記者が多くオレはヤギといっていた。記者クラブなんてブツを渡さないと記事が書けないヤツばかりだよ。それなのに世間に対しては上から目線なんでいつも笑っていた
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
役所とマスコミ続。役所内で紙を書く人とマスコミに渡す人は分離。オレは書く人だったが、マスコミから隔離されていた、本当のことを知っているので下手にマスコミ対応できないし、マスコミ対応で紙書き業務に支障が出るから。よく知らない人から紙もらって記事を書くのだからその程度はしれている https://t.co/KB4khnlyVw
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
役所とマスコミ続続。記者の能力なんて、ブツが役所からもらえるかどうかの差。役所のほうは特定記者にだけ渡すが、それでマスコミ社内の出世競争を煽るわけ。ズーと同じ記者ばかりだと天狗になって役所に意見する者もでてくるので適当に切って使い捨て。スクープ連発していたのにパタッと止まる
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
アメリカ大統領選挙以来、いわゆるフェイクニュースというものが話題になっていて、マスコミにもしばしば取り上げられる。
つまり、いままでは既存のニュースメディアが真実に基づく報道をしていたのに、インターネットの普及でそのような良質な報道が成り立たなくなっている、その一方で取材などになんのコストもかけずに出鱈目を書きまくる悪質な情報源が力を持ちつつあるのだがどうしたらいいか分からない、という事のようだ。
今の時代は情報というものがどれほどの人に読まれたのか、という事が数字としてある程度はっきりと表れる世の中なので、自分が自信をもって書いた記事の反響が全然ない、という事が続いたらまあ、こういう事も言いたくなるだろう。
どんなに自信をもって記事を書いたとしても、もっといえば内容が重要であれば重要であるほど反響というのは期待できないわけで、分かってはいるけれども他の大反響を呼んでいるような「コンテンツ」を見るとなんとも言えない無力感を感じるものだ。
僕もブログをしているから、自分の記事というものを読んでもらうという事がどれほど難しい事か毎日のように実感しているので、そのような感覚は分からないでもない。
しかしそれと同時に、僕はそういうフェイクニュースがものすごい勢いで拡散する風潮を憂慮するような事をいうジャーナリストにどうしようもない違和感を感じる。
どうしてかと言うと、そのような発言というのはジャーナリストが、自分たちの報道というものがあたかも100%ファクトに基づいたものだ、と信じ込んでいる事の現れであるからだ。
「ファクト」と「フェイクニュース」との境界というのは言われるほどはっきりしたものではない。
たとえば、先ほどの高橋氏のTweetにあったように、役所からプロパガンダ用の「ブツ」の施しを受けて、それをそのまま報道するとするならば一体それは「ファクト」なのだろうか。
もちろん、役所が出す資料なのだからその情報はウソではないだろう。
しかし、もしその情報が高橋氏のいうように純粋に世論誘導を目的としたものだとしたら、それはファクトに見せかけたファクト、つまりフェイク・ファクトとでもいうべきものではないだろうか。
ここで気になるのは、マスコミの出すファクトのなかでどれくらいの割合がフェイク・ファクトなのかという事だ。
もし世の中のジャーナリストのほとんどが「ブツを渡さないと記事が書けない」程度ならば、その報道の信憑性というものはかなり低いものであると予想される。
もちろん、疑わしいのは行政に関する報道に限らない。
大企業など他の大組織に関する報道も、おそらくは同じようなものだろう。
こういう事を言うと、国内の報道機関がそんな感じなのは分かっているよ、海外デハーという声が聞こえてきそうだ。
しかし僕が海外メディアの様子を見る限りでは、海外でも事情は似たようなものなのではないだろうかと思う。
なんでそう思うかというと、国内のメディアも海外のメディアも雰囲気はそんなに違わないからだ。
いくらなんでも海外メディアのレベルなんて国内メディアと全く同じ、とまで言うつもりはないが、僕は言われているほど国内と国外とで報道の質が違うとは思わない。
はたしてジャーナリストというのは、ポピュリズムがけしからんフェイクニュースがけしからん、などと世間に説教できるほど偉いのだろうか?
フェイクニュースを批判する前に、メディア関係者は今の自分たちの報道が本当にファクトなのかどうか、しっかりと反省をするべきだ。
電子出版した本
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できるはずの事と実際にできる事との差が大きすぎる
最近思う事がある。
出来るはずの事と実際に出来る事の差が大きすぎる。
世の中でできる事とできない事を2つに分類するとすると、もちろんどう頑張っても絶対にできない事はものすごいたくさんあるのであるが、実際にできるはずの事というのも膨大な量ある。
実際には人間は出来ない事については考えもしないので、意識の上では出来るはずの事のほうが多いかもしれない。
簡単にできそうなものだけを考えるとしても、簡単に出来るはずのものでしかも絶対にやった方がいい事というのはいくらでもある。
それなのに、僕の生活の中で実際に簡単に出来る事というのはほとんどない。
いったい、出来るはずの事と実際にできる事との間にこれほどの差があるのはなぜだろうか。
僕はメンタルのトラブルとそれ以外の健康上のトラブルをしこたま食らって、ノックアウトされる形で引きこもりになってからもうずいぶんなるのだが、基本的にはもう何もやりたくない。
もちろん、勉強をするとかブログに書くような内容を考えるなど、そういう受動的な事については学生時代と比べたらものすごい出来るようになったのだが、実際になにかをしないといけない用事はもう、考えるのもいやで実際にほとんど考えない。
基本的にはいつも疲れてしまっている感じで、すこし元気というかやる気があったとしても、何かやるとなるとすぐに手持ちのやる気を使い切る。
もっというならば、二日に一度くらいブログで1,200文字程度のエントリーを書くだけで手持ちのやる気のかなりの部分を使ってしまっているような気がする。
あとはいくつか受動的にできる事をすれば、ほかにはもう何もやる気がしない。
たとえばこのブログのデザインなんかも、カスタマイズをしないといけないと分かっているのにデフォルトのままで放置したままになっている。
まあ、少し検索をして作業をすれば2,3時間で終わるのかもしれないけれども、なにもかもが面倒になってしまっているので今日もしないならば明日もしない、明日も同様、という感じで、いつになればカスタマイズに手をつけることができるのか見当がつかない。
それなのにアクセスカウンターを見るたびにブログをやっててもいまいちアクセスが伸びないなあ、とか言っているのだから(実際に声を出して言うわけではないけれども)滑稽にもほどがある。
Amazonアソシエイトとか、その他のASPなどもまだ導入していない。
まだ大したアクセスがあるわけではないのだから、と延々と先延ばしを続けている。
とにかくもう何もやりたくないし、何でやりたくないのかも全然わからない。
メンタルとか体調がその程度しか回復していないといえばそれだけの話で、だからもしそこらへんの状態が今よりも断然に調子が良かったとしたらこんな事を考える必要は全く何もないのだろうが、それにしてもどうしようもない。
やる気の量を増やすのは難しいので、手持ちのエネルギーというかやる気を無駄遣いしないようにして、簡単に出来そうなもののなかでも最も簡単に出来るものから取り組むように心がけていくしかないのかもしれない。
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