グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

「表現の不自由展」はリスクに値するか?

今回の騒動で重要なのは、「表現の不自由展」はリスクに値するか?という点だと思う。もし、セックスワーカー像を展示して、「日本の明るい未来のために、このセックスワーカー像を展示することは必要で絶対避けては通れない。そのためならば自分は狂人に刺し殺される覚悟がある」と言ったならば、そこに問題は存在しない。あるいは、天皇の肖像を燃やしながら「日本の天皇制を考える上で、天皇の肖像を燃やすのは重要だし、二世代前の歴史的人物の肖像なのだから問題ない。しかし、もしもこの展示が原因で刺し殺されたとしても、それはそれで仕方がない」といったとすれば、やはりそこに問題は存在しない。問題なのは、暴力のターゲットになる覚悟もなくこのような展示を企画するという、世の中を舐めているとしかいいようのない態度である。こういうことをすれば殺人予告の一つや二つがあるのは当たり前で、なかったとしたらむしろその方が不思議なくらいだ。ところが、「不自由展」の主催者には、自分達が暴力のターゲットになること、さらには究極的には自分達が暴力のターゲットになることによって企画の目的は達せられるという覚悟はまったくみられなかった。「不自由展」などリベラル派が大好きな「ヘイト」にすぎないから、これが中止になろうがどうでもいい。しかし、どうしてもヘイトをやりたいならば、それなりの覚悟をもってやっていただきたい。

久々のパナップ

久々に、アイスのパナップを食う機会があった。最後にパナップを食ったのは何年前なのか忘れてしまったほど久々だったが、昔のパナップとは色々と違っていると思った。まずわかったのは、いまのパナップは昔のパナップと比べて小さくなっている。手に持ったときの大きさの感覚がまったく違う。昔のパナップはこんなに小さくなかった。何割くらい減っているのかネットで出てこないのだが、イメージ的には昔と比べて3割くらい減っているようにも思う。実際には3割も減ってないのかもしれないが、そう思うほど小さくなっている。一方で、量の変化と同じくらい印象に残ったのは味の変化だ。ソースとバニラアイスの質が変わったわけでもないようだが、昔パナップを食ったときよりもうまくなっているような気がした。思えば昔のパナップはソースの入れ方が雑だった。ソースが上から下まで三本、管状に入っていたのである。それはそれでパナップ独特の愛嬌になっていたわけだが、いまのパナップはソースが細かく、均等に入っている。ソースの割合も昔より多くなっているようだ。サイズが小さくなったのに加えてこのような変更があることで、今のパナップは昔のパナップと比べて外見の面でも味の面でも、明らかに洗練されたアイスになっている。百円アイス(コンビニエンスストアなどでは140円とかなのだろうが)の中では間違いなく、よいアイスの部類であると思う。

言論の自由という茶番

私は講演会を中止に追い込まれたり、サイン会会場を爆破するぞという脅迫を受けたり、あるいは私のサイン本を置く書店の不買運動をネットで呼び掛けられたり(津田大介もそれをした1人)ということを何度も経験していますが、あなたは一度でもそれに対して何か言いましたか?

https://mobile.twitter.com/hyakutanaoki/status/1157591907540692993

国が、法が定める範囲内において民間が独立に行う表現活動に干渉しない、という意味での言論の自由ならば、それはだれもが当たり前に思っているだけで現にはっきりと存在しているわけだが、市民レベルにおける言論の自由となると難しい。なぜなら、そうなると言論の自由とは一言で言って、自分にとって不愉快なことを言う他人の権利のために戦うことだからだ。いったい、敵のために戦うまでする人が何人いるのだろうか?ほとんど、というか完全にゼロではないだろうか?みんなせいぜい小声で、消極的に反対意見を口にするだけだろう。自分の敵に対して行使される暴力はよい暴力、自分や自分と同じイデオロギーを信じるものに対して行使される暴力は悪い暴力。みんな内心ではこう思っているのが現実で、それは古今東西例外がないしこれからも変わらないだろう。でも、それでいいのではないだろうか。今回中止になった展示が歴史に関する省察(どうでもいいが、これはしょうさつではなく、せいさつと読むものだと今スマートフォンに教えてもらった)を深めるためになんの役に立つのかというと、なんの役にも立たないだろう。単にお馴染みのステレオタイプを増強する役割を果たすだけ。新しい視点があるわけでもなく、下らない。下らないから暴力を行使すべきと言いたいのではないが、しかし今回の事例をみると、下らないから暴力を行使されるという側面はあったように思う。世間の暴力的な反応を引き落とすから表現の質が高いかというと、そうでもない。言論の自由がどうこう言う前に検討すべき事実である。

ブログを書きつづけること

芸人のエントリーを書いたからなのだろうか、この間珍しくアクセス数が270位になった。このブログの普段のアクセス数は130とかで、場合によっては80なんてこともあるからこれは非常に珍しい。もちろん、珍しいことがあると何かが変わると決まっているわけではない。ただ一日だけアクセスが多い日があったというだけの話で、それ以外に意味はない。このようなことを書くのは、もうずいぶんと長くこのブログをやっているからなのだろう。なんのためにブログを続けているのか理由はいろいろあるだろうが、正直、ブログなんてやったところで多少文章を書き慣れる程度でいいことはない。ネタを集めて考え、それを文章として表現するととんでもない時間を消費する。先程エントリーの数を数えたら450くらいあった。450エントリーを書くとなると、それは相当な時間である。この時間を他のことに使っていれば、みたいなことはある程度長くブログをやっているブロガーなら誰でも考えることだろうが、それでもブログを続けているのは、こういう形でブログを続けてること自体が一つの表現になっているからなのかもしれない。

「消費税は善」という洗脳から離れ、未熟な民主政治を斥けよう

「消費税は悪」の洗脳から離れ,未熟な民主政治を脱しよう。

https://lite.blogos.com/article/394622/

「消費税は悪」の洗脳から離れ、というのは少し日本語がおかしいような気がするが、本当のところ、消費税が徴税方法として良いものかどうかなんて実験をして決めるしかないと思う。そんなにごちゃごちゃいうならばさっさと実験すればいいんじゃないの?というのが僕の正直な印象だ。とりあえず税率を何パーセントか下げて様子を見たところで日本が破滅するとは思えないし、少なくとも、法人税減税よりも消費税減税の方が、世の中的には明るいニュースであるだろう。しかし、消費税が大好きな人にはこのような問題意識は全然ない。たぶん、そういう人は消費税を愛しすぎているのだと思う。消費税というのはフラットタックスだから、富裕層にとって非常に心地のよい税である。しかもこれを支持していると、いかにも自分が責任ある市民であるかのように見える(politically correctである)のでますます心地がよい。世の中には消費税をただちに増税すべき!という議論がそれこそ山のようにあるけれども、それら議論の背景にはどうも消費税は善!という結論が最初にあるような気がしてしかたがない。そして、消費税が善なのは、結局のところ、それが自分にとって都合がいいからなのではないだろうか。その証拠に、「財政再建」を理由に消費税増税を主張する人が金融資産に対する課税の強化を主張するのを僕はほとんど見たことがない。「財政再建」をするための政策は富裕層の痛みなしには推進できないにも関わらずだ(もっとも、資本主義体制の上で財政を再建する方法が存在するとは、僕はまったく思わないが)。消費税を徹底的に引き上げるべきとかいっている人たちの言うことはいかにももっともらしい。しかし、あとから見て大間違いだった議論はすべてもっともらしいのである。長期的には、消費税は引き下げられるだろう。国民が消費税賛成派の議論を未来永劫信用し続けるとは僕にはとても思えない。

韓国人という麻薬中毒者

【中国人の反応】日本の韓国制裁の背後には何の陰謀もない!すべては韓国がしつこすぎるせいだ!!

http://chinesestyle.seesaa.net/article/468343857.html

政府関係者によると、いま日韓関係は国交正常化以来最悪の状態であるらしい。ということは、いまの事態は日韓関係がいまよりも良好だった状態で進行したということになる。結局、日韓関係を良くしようと日本が韓国人のいうことを聞きすぎたから、このようなことになっている。歴史問題に関連して韓国人のやっていることは韓国人にとてつもないレベルの不利益をもたらしている。韓国人が謝罪と賠償を受けとるほど、韓国人は過去に雁字搦めになっていく。そして正常な理性を失って常識では考えられないような振る舞いをするようになる。韓国人にとって、歴史問題は麻薬のようなものではないだろうか?麻薬を打てば一時的に苦痛は和らぐが、麻薬が切れればさらに大量の麻薬を打たなければならなくなる。そして、過去に日本人のやって来たことは、韓国人に要求されるがままに大量の麻薬を韓国人に投与することだったのだ。こんなことをしているから、韓国人はすっかり麻薬の中毒者になって、その心身は荒廃する一方だ。今回の徴用工の問題で見るように、その荒廃の度合いは正常な判断能力を完全に喪失するようなレベルになっている。いまの韓国人に必要なのは、謝罪と賠償という麻薬では断じてない。必要なのは麻薬の要求に対する拒絶であり、麻薬に手を出そうとした場合に対する処罰である。謝罪と賠償によって日韓関係を改善しようとするのは、麻薬中毒者にさらに麻薬を投与して状態を改善しようとするようなものだ。断薬と処罰によって韓国人をシラフに戻さなければならない。韓国人がシラフに戻れば、日韓関係は勝手に改善するだろう。

お笑いと弱者

松本人志についてのノート|sugitasyunsuke|note

https://note.mu/sssugita/n/nb02c291c3fad

基本的に、お笑いというものは弱者がやるものだと思う。たとえば、お笑いの根底には空気を読む、というのがあるが、これはまさに典型的な弱者の振る舞いである。もし本当の強者ならば空気なんて読むわけがない。空気が何であろうと、言うべきことをいうだけである。ところがお笑い芸人は空気を読む。もちろん、笑いといじめの境界ははっきりと決まっているわけではないし、一般人だって日々、何をどこまでいうのかいつも悩むところではあるが、お笑い芸人は空気を読む必要がない、あるいは空気を読むべきではない状況でも空気を読む傾向がある。そして、ある意味この弱者性をもっとも徹底している芸人が松本なのではないだろうか。松本の政治的発言、そこには空気を読む以外何一つない。弱者は自分の意見を持ってはいけない。絶対に弱者でも言っていいようなことしか言ってはいけないのである。そして、松本の発言はまさに、この弱者の発言を徹底したもので、それゆえ不自然なまでに薄っぺらい。一言でお笑いといってもいろいろあるが、お笑いは弱者がやるものであると考えることで芸人がやっていることのかなりの部分は説明できると思う。