グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

反論されると怒る人は何に対して怒っているのか

世の中には、自分の意見に対して反論されることが我慢できない人がいる。これは誰でも経験があると思うが、世の中には自分の意見に反論されるのはもちろん、なかには「そういう意見もあるけどこういう意見もあるよ」というような、別に反論というほどではないような意見に関してもきちがいのようになる人がいるのだ。

そういう人はなにか気にいらないことをいわれると、いかにももっともらしいが、しかしまったく本質的ではないようなことを言って反撃?してくることが少なくない。まあ、この手の人は逆上すると何をいっているのかわからなくなるタイプも多いのだが、ある程度の「教育」を受けている場合はとりあえず理解はできる反論をしてくる。しかし、その反論というのは常に怒りにドリブンされた(まず怒りありき)のもので、内容を理解吟味した後で怒っているというわけではないのである。

このような人に関して僕が思い出すのはフルート奏者、作曲家としてしられるクヴァンツに関するエピソードだ。 フリードリッヒ大王はフルートを演奏したのだが、フリードリッヒ大王の師匠であるクヴァンツだけがフリードリッヒ大王の演奏にケチをつける権利があったというのだ。

本来、音楽というものは権力には何の関係もないはずだ。したがって、社会的地位に一切関係なく、誰であってもフリードリッヒ大王の演奏に対して論評することができるはずなのに、(このような振る舞いを許容することは絶対王政による統治の妨げになりうるという事情を考えなければ)これはおかしなことと言える。

僕はこのエピソードが史実に基づくものなのか分からない。もしかしてこの話はフリードリッヒ大王の統治のスタイルを説明するための作り話なのかもしれない。しかし、この話がなんで反論されると怒る人と関係あると僕が考えるのかというと、反論されて怒る人というのは多分フリードリッヒ大王のようなものだと思うのだ。

フリードリッヒ大王はクヴァンツの批判は受け付けるが、それ以外の者による批判は一切受け付けない。クヴァンツ以外の人間がフリードリッヒ大王のフルートにケチをつけるのは礼儀に反することなのだ。それと同じように、反論されて怒る人というのは自分が認めた相手からの反論しか認めないのである。

つまり、反論されて怒る人というのは、非常にしたしかったり、非常にリスペクトしている相手からの反論は受け付けるが、それ以外の人間が自分の意見にケチをつけるのは我慢できない。反論されると怒る人にとってそれは失礼なことなのであり、反論されると怒る人というのはこの失礼に対して怒っているのである。フリードリッヒ大王のたとえでいうと、クヴァンツでもないのに俺のフルートにケチをつけやがって、ということだ。

要するに、反論されると怒る人は議論の内容ではなく、議論が誰によってなされたかによって態度を変える。たとえば、もし反論されると怒る人が孫正義をリスペクトしているならば、孫正義がいうことならばとりあえずは(話の内容を理解できるかはともかくとして)おとなしく聞くはずだ。一方、批判されると怒る人をうっかり批判してしまう人というのは、議論というのは音楽のように人間関係とは関係なく成り立つものだと思っている。だから反論されると怒る人がおこりだすとびっくりしてしまうのだ。

反論されると怒る人の中で困ったタイプは、とりあえず反射神経だけはやたらといいというタイプだ。この手のタイプはとりあえず、その場だけの切り返しはものすごいうまい。よくもまあ、うまい理屈を作り出すものだな、と感心するばかりだ。そして自分が一切責任を負わない形でこちらに攻撃を仕掛けてくる。ある種の発達した卑怯さとでもいうべきものがこの手の人間には備わっている。話のすり替えは非常にうまい。

困るのは、この手のタイプは仕事ができる人間であることが少なくない。そして仕事ができればできるだけ、ますますフリードリッヒ大王状態になってしまうのだ。しかも上に対して余計なことを言わないからますます出世に有利である。もちろん、反論されると怒る人だと必ず人格的に不快というわけでもない。いい人の中にだって、反論にたいする耐性が全くない人がいる。

反論されて怒る人というのは、物事を突き詰めて考えないので言うことが粗だらけである。粗だらけだから、議論というものが音楽と同じように人間関係とは関係なく成り立つと考える人は、ついうっかり親切心を起こして欠陥を指摘してしまう。そのようにして世界中で今日も相変わらず、全く誰も得をしない争いが起こっているのだ。

もし反論されると怒る人に関わり合いになったらどうするか?重要なのは、このような人はフリードリッヒ大王のようなものだと考えることだろう。フリードリッヒ大王はフルートに関してはクヴァンツによる批判しか受け付けなかったが、だからといってフリードリッヒ大王の君主としての功績が損なわれるわけではない。

人間ならば誰しも得意不得意がある。一般的に言えば、理屈を人間関係なしに理解できるという能力は特殊技能に属する。特殊技能ならば出来ないとしてもしょうがない。だから、決してフリードリッヒ大王をフリードリッヒ大王以外のものに変えようと思わないことだ。そして、フリードリッヒ大王がフリードリッヒ大王のままでも別に世界が終わるわけではないのである。