英語の教科書はぜんぶマンガにしたほうがいい
英語教育には常にコンテンツの問題が付いて回る。
つまり、言葉というのは意味を持つもの、つまりコンテンツを通して学ぶしかないわけだけれども、そのコンテンツをどうするか、という問題がある。
学校で使うコンテンツとなると、まずあまりイデオロギー的に極端なものを出すわけにはいかない。
それがどんなにうまく書けていたとしても、例えば極右によって書かれたリベラルを罵倒するような文章を載せるわけにはいかないのである。
ところが、コンテンツというのはある意味、極端なものであればあるほど面白いわけで、だれにでも受け入れられるようなコンテンツというのはコンテンツとして死んでいることが多い。
コンテンツというのは何を主張か、が重要なわけだけれども、それがメッセージであるならば賛否両論を引き起こすのが当たり前だし、賛否両論を引き起こすようなものでなければいけない。
そういうコンテンツでないと、わざわざ英語で読む意味がよく分からないだろう。
これが独学だと、自分で読みたいものを読んで、見たいものを視聴すればそれですむ。
けれども、学校ではなかなかそうもいかない。
生徒の関心も知的バックグラウンドもぜんぜん違う中で生徒全員が使えるようなものにしないといけない。
一部の生徒だけにはものすごい教育的効果があっても他の生徒はなんの事かさっぱりわからない、というものであってはいけないのである。
いっそのこと、英語の教科書というのは全部マンガにしたほうがいいのではないか?
はっきりいって、文章だけで一つの完結した内容を生徒に伝えるというのは限界があるような気がする。
特に、低学年の場合は使える語彙数とか構文も限られるから、文字だけでやると内容的どうしても退屈なものにならざるをえない。
これがマンガだったら、作品のクオリティーによってはどんな大文学にもひけを取らないようなメッセージを伝える事が可能になる。
学校英語の範囲内で作品が表現できる幅というのは文章だけの場合にくらべて比較にならない。
マンガなら、生徒全員を納得させるのはもちろん、大人が読んでも全く問題ないような教科書を作る事ができる。
コンテンツのレベルの上限というのが存在しない、というのがマンガのいいところである。
それにマンガというのは絵というものがあるので、内容のイメージがつかみやすい。
出てきた単語も相当覚えやすくなるはずだ。
いっそのこと、従来の教科書ではなかなか使えなかったような高級な単語がセリフにガンガン出てくるようなマンガにすれば、悲惨としか言いようがない日本の英語教育もずいぶん変わるのではないだろうか。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
英語の学習を学校でやることの難しさ
言葉というのは当然ながら内容というものがあるというか、内容があって初めて言葉があるわけで、言葉と内容というものは切り離せない。
学校で英語を勉強することの難しさというのはここにあるんじゃないか、とつくづく感じる。
僕は英語を勉強するときにほとんど何の苦労もなかったけれども、なんで苦労をしなかったのかを今考えると、やはり自分が政治、社会、あるいは国際関係に強い関心を持っていたからだと思う。
そういう事に関心を持っていると、英語の勉強はただ海外の新聞をネットで読んで、社会科学系の洋書を読んで、BBCを見てるだけで勝手に進んでいくから、まずよほどの事が無い限りはコケることがない。
勝手に英語が日常生活の一部になる。
ところが、学校で英語の授業を受けているほとんどの生徒にとって、英語というのは数学みたいなものであるだろう。
つまり普通の生徒というのは、勉強している数学の内容などには全く興味がないけど、テストでいい点というか、必要なだけの得点をするために必要だというだけの理由で数学を勉強している。
学校で行われる英語教育というのもこれと同じで、英語の教科書に書かれている内容などは生徒にとっては間違いなくどうでもいい。
教科書が教科書である以上、教科書のコンテンツとしての価値というのはどれほど努力をしても限界がある。
だから生徒が数学のコンテンツに関してぜんぜん無関心に数学を勉強するのと同じように、ぜんぜん興味のない英語のコンテンツを無関心に勉強することになる。
僕は高校時代は健康上の理由で廃人同様だったから、英語の教科書をまともに読んだことがない。
だから英語の教科書を勉強するという事がどういう事なのか分からない。
語彙数や構文のレベルも分からないし、読んでみたら案外面白いコンテンツなのかもしれない。
英語の教科書というものは徹底的に勉強するならばそれなりに英語力が付くように出来ていると思う。
しかし、ほとんどの生徒にとって、今の教科書を使った英語教育はほとんど無意味である。
思うに、日本の英語教育というのは、言葉というのは内容と切り離せないというか、切り離してはいけないという建前に縛られて、まったく中途半端なものになってしまっているような気がする。
おそらく、英語というのは数学みたいなものと考えないと、学校での英語学習というのはうまくいかない。
はっきりいって、僕は学校の授業で長文を読ませる必要はまったくないと思う。
もし学校で英語をするなら、まず文法をやって、それから英文解釈教室にあるような読むのが難しい短文を数学の問題を解くように学習して、それからDUO2.0をマシにしたような感じの英文を暗唱でもさせて必要な単語を叩き込む、という風にするのが現実的ではないだろうか。
僕は英文の暗唱に関してはかなり警戒感をもっているので、単語を叩き込むための英文は本当にまともなものにしてもらわないと困るけれども、それはともかくこれらの事はすべて学校でもできるし、これをやれば確実に読む・書く・話すができる生徒が出来上がる。
長文の勉強は、難しい短文が分かれば全部読めるので受験勉強に任せればいい。
日本の英語教育が腐っているのは、言葉というのはなんとなく身につくものであるという根本的に間違った思い込みを前提にしているからである。
しかし、数学の問題がなんとなく解けるようになるなんてことがないのと同様、英語というのはなんとなく分かるようには絶対にならない。
逆に、もし英語を数学のように勉強すれば、「使える英語」を学校で勉強するというのは案外簡単じゃないかと思う。
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ブログの記事の理想の長さ
ブログにはブログの数だけ色々なスタイルがあるけれども、基本的にブログの世界では、記事の長さというのは長文であればあるほどいいというということになっている。
記事の長さが長くないと、内容にどれほど価値があっても検索エンジンによる評価がされないしブックマークコメントもつかないから記事を書く意味がない、という事で、多くの人に読まれる事を目標にしているブログは大体長文である事が多い。
特に、いわゆる「実績の上がっている」ブログで長文でないブログというのを思い浮かべても正直ぜんぜん思い浮かばない。
でも、はたしてブログの文章は長文であるほどいい、というのは本当なんだろうか?
僕がたまに思うのは、普段ネットで読んでいるような文章の長さというのは、もしかして普通の書き手にとっては長すぎるのではないか、ということだ。
いつも1,200文字くらいのエントリーばかり書いている僕からしてみたら、あんなに大量の文章を毎日書き続けるなんて大変すぎるんじゃないかと思えて仕方がない。
もちろん文章のスタイルは人それぞれだから、僕のように大抵の場合は1,200文字とかせいぜい2,000文字で言いたい事が終わってしまう人もいれば、なにか言いたい事を書こうとするとあっという間に5,000文字とか10,000文字になってしまう、という人もいるだろう。
そういう長文を書きたくて仕方がないくらいの人なら長文を書く事にまったく問題はないだろうが、でも長文主体のブログをやっている人の中には結構、無理をして長文を書いている人もいるんじゃないの?と思う事がある。
長文を書くスタイルのブロガーでブログのほうは止まってるのにTwitterは更新されているような人を見るたびに、長文を書くのが面倒になったのだろうか?と疑わずにはいられない。
僕はいつも1,200文字くらいのエントリーばかりを書いているので結構気楽にブログを書いている方だと思う。
140文字のtweet一つを書く感覚の延長でエントリーを書いている。
もっとも僕は文章を書くのがかなり遅い方なので、エントリーをひとつ書くのにかかる時間は長文のブロガーとたいして変わらないだろうが、それでもある種の気楽さはある。
長文ばかりを書いているブログだと1,000文字くらいで終わってしまうような内容だと書きにくくなるかもしれないが、普段から1,000文字くらいの記事ばかり書いていれば長さを気にする必要がないし、なにかものすごい忙しくなったとしても1,000文字くらいならば書くことを続けることができる。
もちろん、長文を少しずつ書いていくことができる人もいるが、やはりブログというのは気分が乗っている時に一気に書いてしまいたい、というのが普通だろう。
まあ、自分のスタイルというものは思うように変えられるものではないし、究極のところは「実績」をとるか自分のやりたいように文章を書くか、という選択になるだろうけれども、忙しくなるなどしてブログが面倒になっているのならば一時的にでも短文主体に移行するのも悪くないのではないだろうか。
短文を書いている間は「実績」は大して上がらないだろうが、書き続けるという事にはそれ自体に価値があるし、短文を書くことで学ぶ事だってあるんじゃないか?というようなことを、更新が止まっているブログを見るたびに思わないでもない。
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マスコミとファクト
元・財務官僚の高橋洋一さんによる以下のツイートはなかなか考えさせられるものがある。
役所とマスコミ。記者クラブで特定マスコミとねんごろ。その上で特定記者にブツ(紙)を渡して世論誘導。紙を求める記者が多くオレはヤギといっていた。記者クラブなんてブツを渡さないと記事が書けないヤツばかりだよ。それなのに世間に対しては上から目線なんでいつも笑っていた
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
役所とマスコミ続。役所内で紙を書く人とマスコミに渡す人は分離。オレは書く人だったが、マスコミから隔離されていた、本当のことを知っているので下手にマスコミ対応できないし、マスコミ対応で紙書き業務に支障が出るから。よく知らない人から紙もらって記事を書くのだからその程度はしれている https://t.co/KB4khnlyVw
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
役所とマスコミ続続。記者の能力なんて、ブツが役所からもらえるかどうかの差。役所のほうは特定記者にだけ渡すが、それでマスコミ社内の出世競争を煽るわけ。ズーと同じ記者ばかりだと天狗になって役所に意見する者もでてくるので適当に切って使い捨て。スクープ連発していたのにパタッと止まる
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2017年2月27日
アメリカ大統領選挙以来、いわゆるフェイクニュースというものが話題になっていて、マスコミにもしばしば取り上げられる。
つまり、いままでは既存のニュースメディアが真実に基づく報道をしていたのに、インターネットの普及でそのような良質な報道が成り立たなくなっている、その一方で取材などになんのコストもかけずに出鱈目を書きまくる悪質な情報源が力を持ちつつあるのだがどうしたらいいか分からない、という事のようだ。
今の時代は情報というものがどれほどの人に読まれたのか、という事が数字としてある程度はっきりと表れる世の中なので、自分が自信をもって書いた記事の反響が全然ない、という事が続いたらまあ、こういう事も言いたくなるだろう。
どんなに自信をもって記事を書いたとしても、もっといえば内容が重要であれば重要であるほど反響というのは期待できないわけで、分かってはいるけれども他の大反響を呼んでいるような「コンテンツ」を見るとなんとも言えない無力感を感じるものだ。
僕もブログをしているから、自分の記事というものを読んでもらうという事がどれほど難しい事か毎日のように実感しているので、そのような感覚は分からないでもない。
しかしそれと同時に、僕はそういうフェイクニュースがものすごい勢いで拡散する風潮を憂慮するような事をいうジャーナリストにどうしようもない違和感を感じる。
どうしてかと言うと、そのような発言というのはジャーナリストが、自分たちの報道というものがあたかも100%ファクトに基づいたものだ、と信じ込んでいる事の現れであるからだ。
「ファクト」と「フェイクニュース」との境界というのは言われるほどはっきりしたものではない。
たとえば、先ほどの高橋氏のTweetにあったように、役所からプロパガンダ用の「ブツ」の施しを受けて、それをそのまま報道するとするならば一体それは「ファクト」なのだろうか。
もちろん、役所が出す資料なのだからその情報はウソではないだろう。
しかし、もしその情報が高橋氏のいうように純粋に世論誘導を目的としたものだとしたら、それはファクトに見せかけたファクト、つまりフェイク・ファクトとでもいうべきものではないだろうか。
ここで気になるのは、マスコミの出すファクトのなかでどれくらいの割合がフェイク・ファクトなのかという事だ。
もし世の中のジャーナリストのほとんどが「ブツを渡さないと記事が書けない」程度ならば、その報道の信憑性というものはかなり低いものであると予想される。
もちろん、疑わしいのは行政に関する報道に限らない。
大企業など他の大組織に関する報道も、おそらくは同じようなものだろう。
こういう事を言うと、国内の報道機関がそんな感じなのは分かっているよ、海外デハーという声が聞こえてきそうだ。
しかし僕が海外メディアの様子を見る限りでは、海外でも事情は似たようなものなのではないだろうかと思う。
なんでそう思うかというと、国内のメディアも海外のメディアも雰囲気はそんなに違わないからだ。
いくらなんでも海外メディアのレベルなんて国内メディアと全く同じ、とまで言うつもりはないが、僕は言われているほど国内と国外とで報道の質が違うとは思わない。
はたしてジャーナリストというのは、ポピュリズムがけしからんフェイクニュースがけしからん、などと世間に説教できるほど偉いのだろうか?
フェイクニュースを批判する前に、メディア関係者は今の自分たちの報道が本当にファクトなのかどうか、しっかりと反省をするべきだ。
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できるはずの事と実際にできる事との差が大きすぎる
最近思う事がある。
出来るはずの事と実際に出来る事の差が大きすぎる。
世の中でできる事とできない事を2つに分類するとすると、もちろんどう頑張っても絶対にできない事はものすごいたくさんあるのであるが、実際にできるはずの事というのも膨大な量ある。
実際には人間は出来ない事については考えもしないので、意識の上では出来るはずの事のほうが多いかもしれない。
簡単にできそうなものだけを考えるとしても、簡単に出来るはずのものでしかも絶対にやった方がいい事というのはいくらでもある。
それなのに、僕の生活の中で実際に簡単に出来る事というのはほとんどない。
いったい、出来るはずの事と実際にできる事との間にこれほどの差があるのはなぜだろうか。
僕はメンタルのトラブルとそれ以外の健康上のトラブルをしこたま食らって、ノックアウトされる形で引きこもりになってからもうずいぶんなるのだが、基本的にはもう何もやりたくない。
もちろん、勉強をするとかブログに書くような内容を考えるなど、そういう受動的な事については学生時代と比べたらものすごい出来るようになったのだが、実際になにかをしないといけない用事はもう、考えるのもいやで実際にほとんど考えない。
基本的にはいつも疲れてしまっている感じで、すこし元気というかやる気があったとしても、何かやるとなるとすぐに手持ちのやる気を使い切る。
もっというならば、二日に一度くらいブログで1,200文字程度のエントリーを書くだけで手持ちのやる気のかなりの部分を使ってしまっているような気がする。
あとはいくつか受動的にできる事をすれば、ほかにはもう何もやる気がしない。
たとえばこのブログのデザインなんかも、カスタマイズをしないといけないと分かっているのにデフォルトのままで放置したままになっている。
まあ、少し検索をして作業をすれば2,3時間で終わるのかもしれないけれども、なにもかもが面倒になってしまっているので今日もしないならば明日もしない、明日も同様、という感じで、いつになればカスタマイズに手をつけることができるのか見当がつかない。
それなのにアクセスカウンターを見るたびにブログをやっててもいまいちアクセスが伸びないなあ、とか言っているのだから(実際に声を出して言うわけではないけれども)滑稽にもほどがある。
Amazonアソシエイトとか、その他のASPなどもまだ導入していない。
まだ大したアクセスがあるわけではないのだから、と延々と先延ばしを続けている。
とにかくもう何もやりたくないし、何でやりたくないのかも全然わからない。
メンタルとか体調がその程度しか回復していないといえばそれだけの話で、だからもしそこらへんの状態が今よりも断然に調子が良かったとしたらこんな事を考える必要は全く何もないのだろうが、それにしてもどうしようもない。
やる気の量を増やすのは難しいので、手持ちのエネルギーというかやる気を無駄遣いしないようにして、簡単に出来そうなもののなかでも最も簡単に出来るものから取り組むように心がけていくしかないのかもしれない。
電子出版した本
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AIと大学無償化
最近、大学無償化の話をあちこちで聞くようになってきた。
自民党悲願の憲法改正との抱き合わせという意味もあるんだろうが、ともかく自民党・非自民党問わず大学の無償化を支持している国会議員は少なくないようなので案外あっけなく無償化になるかもしれない。
僕はこれまで大学の無償化というか、今の教育システム自体に懐疑的だった。
なんか世間では教育を充実させるといい事があるかのように言っているけれども、今の日本で本当に問題なのは過剰教育であると思っていた。
つまりいらない教育があまりにも多すぎるために教育が社会の停滞のもとになっていると思っていたのである。
いまの教育というのはムダのかたまりで、必要な事は適当に済ますのにどうでもいいことを長々と時間を掛けてやる。
学校が学校であるためにはムダが必要なのでムダというのは一向になくならない。
だからこれからの社会では学校の機能をどんどん削減していって、学校では本当に重要な事を徹底的にやる一方でその他に必要な事があるならば個人の自己学習にまかせるような社会にしていかなければいけないと考えていた。
大体にして、勉強というものはすればするほどよい、というのが世間での一般的な建前だが、実際はぜんぜんそうではない。
社会が必要としているのはある程度以上に根気強く勉強できるというメンタリティーだけで、勉強の内容に関しては大した価値を認めていないのはオーバードクターの問題を見ても明らかである。
そういうわけで僕は大学の無償化についても懐疑的だったのだが、しかし最近は一概にはそうはいえないかな、とも思い始めている。
産業構造が変わるにつれて、もしかしたら人間に求められる能力が変わってくるかもしれないからだ。
人材の流動化
大学無償化の一つのメリットとして、人材の流動化の促進につながる事が期待できる事があげられる。
無償化というのは普通、裕福な人は何不自由なく進学が出来るのに貧乏な人は進学をあきらめないといけないか、進学をしたとしてもものすごい苦労を強いられるので不公平ではないか、という観点から論じられるが、僕は社会人の再教育において大学無償化がどのような意味を持つかという事に関心を持っている。
つまり、いままでの社会というのはある程度キャリアというものが決まってしまったらよほどの事が無い限りキャリアを変更できない社会だった。
ようするに、なにか別のキャリアを目指すにしてもキャリアを変えるとっかかりがなかなかない。
なので、たとえ他の方向に進みたいと思っていても基本的には今までやってきた事にしがみつくしかない。
これがもう一度タダで大学に再入学できるとなると、キャリアはだいぶ変えやすくなるだろう。
もしAIが言われるようなペースで発達していくとすると、キャリアの流動化はますます重要になってくる。
これからは機械化の進行によってぜんぜん成り立たなくなるような産業が出てくることが予想されるが、必死になって旧産業にしがみつかれるよりはタダで大学に入ってもらい、他のキャリアを目指してもらった方がまだマシなのだ。
役に立たなそうな勉強がしやすくなる
僕は機械化が進むにつれて、働くことよりも考える事のほうが重要になってくるのではないか、と考えている。
これまでの日本社会は考える暇があったら働け、というのが基本の社会で、あんまり考える事が重視されてこなかった。
そして考える事なく働いてきた(あるいは働くフリをしてきた)結果が今の日本の惨状である事はいうまでもない。
ところが、それではいままでとは違う発想を学ぶ事が出来るような学問が重要だということになったとしても、そういう学問というのは一般にカネを掛けて勉強するには気が引けるようなものが多い。
法学とか経済学ならば就職はバッチリだから何百万も払えるだろうが、文化人類学とか宗教学、哲学などの学問に何百万を投じるというのはなかなか気が引ける。
もしそういうマイナーな分野の勉強をして失敗したら再起不能になるかもしれないからだ。
しかし、これからのビジネスを考えた場合、本当に役に立つ学問というのはどっちだろうかというと、まだしも文化人類学とか宗教学、哲学のような進学を反対されるような学問のほうがビジネスのヒントになるような気がする。
そういう意味で、これからのビジネスとか社会に本当に必要とされる知識を学びやすくなるという点で大学の無償化の意義は少なくない。
考える時間ができる
考えてみれば、大学に在籍することの価値のかなりの部分は考える時間がある程度出来るという事で、勉強そのものはオマケとも考えられる。
一度社会人になるといそがしくなってしまい考える時間がなかなかないが、その一方で社会人こそ考える時間に価値がある、ともいえる。
忙しくて取り組めなかった事に取り組むのもいいし、なにか人生につまづいたら、大学にいってのんびり自分の人生を考え直す、という事があってもいい。
もっといえば、大学がタダになれば大学が最後の逃げ場になるというか、いざとなったら大学に逃げればいいか、と考える人が多くなれば社会の閉塞感も改善されるのではないか。
ダブルメジャーが身近になる
アメリカと日本の教育システムで大きく違う事はいろいろあるけれども、アメリカではダブルメジャーが一般的だというのは日本と大きく違う所の一つだろう。
ダブルメジャーというのは学士号を二つ持っているということで、例えばアメリカでは音楽の学士号とコンピューターサイエンスの学士号のどちらも持っているとか、そういう人が普通にいる。
そうすると、音楽の才能を生かしてITビジネスを立ち上げたり、プログラマーとして生計を立てながら音楽活動をするという事ができる。
学部と修士課程、博士課程とで専門が違う、という事も一般的で、専門を変える事による差別もない。
アメリカの経済が好調なのは、このように才能を無駄遣いしないような教育システムになっている事が非常に大きい。
僕は日本でもダブルメジャーは非常に重要になってくると思うが、今の教育システムでダブルメジャーを取ろうとしても現実問題としてなかなか無理がある。
ここで大学がタダになれば、流れとしてはダブルメジャーが一般的になる方向に大きく傾くだろう。
新卒主義の破壊
経歴が多様化するので、失敗ゼロで最短ルートで就職活動する人間が一番優秀と言えなくなる。
まとめ
僕は今の教育システムははっきりいってものすごい社会的コストになっていると思う。
まちがった選択をしたら教育を受ければ受けるほど損をするし、こけたら自己責任で再起不能になる。
おかしな教育システムのせいで、膨大な才能が無駄遣いをされている。
大学教育の無償化はこのような状況を変える可能性を持っている。
すくなくとも、今の教育システムがもたらす社会的コストがうまく削減された場合、おつりがくるんじゃないだろうか。
大学無償化には懐疑論も多いし、今の腐った大学ビジネスに公金を投入するのは恐ろしいが、しかし大学教育が無償化に向かうというのはある程度の必然性があると思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
AI時代に有利になる学部はどこか?
日本ではあまり知られていない大富豪であるMark Cubanの動画を見た。
今後の教育についてなかなか面白い事を言っていた。
どうもCubanはトランプと何回か話した事があるらしくて(自分の事をIndependentと言っているから選挙の時に献金をしたのであろうが)、動画でもトランプ政権の話がほとんどなのだが、今後の教育の在り方についてかなり問題意識をもっているようだ。
「ファイナンスは不要、リベラル・アーツにこそ未来がある」 マーク・キューバン氏 | BUSINESS INSIDER JAPAN
Mark Cuban: Liberal arts is the future - Business Insider
Cubanによると、これから人間のやっている仕事がAIによって置き換わっていくにつれてリベラルアーツの重要性が増えていくだろう、という。
たとえば、金融関係なんてコンピューターが出すデータを少しみて判断すればいいだけになるので金融関係の学問をやるのは下らない、これから重要性が増すばかりだと思われているプログラミングの勉強さえ、人工知能がプログラムを書くようになるので数年のうちに重要でなくなるだろうと予想しているようだ。
その代わりに重要になってくるのが外国語や哲学、英文学(English)などのリベラルアーツ(一般教養)なのだそうで、これらの学問はあと10年もすればプログラミングや工学よりも重要になるらしい。
なぜ一般教養が重要になってくるかというと、これからはAIで出来るような仕事をすることが重要なのではなく、AIが吐き出すデータを深く理解する事が重要になってくるからだという。
個人的には人口知能がそんなに簡単に実現できるものなのか疑問だし、経済学やプログラミングにもリベラルアーツの側面があると思うのだが、しかし人工知能が発達するとどのような学問が重要になるか、という話は興味深い。
いつも思うのだが、実学というのはたしかに役に立つけれども、それを使って何をするか、までは教えてくれない。
たとえばプログラミングなんかもそうで、プログラミングを勉強したらプログラムの組み方は分かるけれども、ではコンピューターで何をするのかというのはプログラミングの勉強自体からは出てこない。
Facebookのシステムを設計・運営する技術を持つことと、ハーバードに入学してSNSを立ち上げ、ハーバードブランドを使って世界的なウェブサービスにまでもっていって何兆円もの収益を上げることでは話が全く別である。
これはCubanのいう、これからはデータを解釈する能力が重要になる、という話と少し似ている所がある。
もし、会計やプログラミングというものがどんどん進歩して電卓のように簡単に使えるようになれば、会計やプログラミングの知識そのものよりも会計やプログラミングで何をするか、という事が問われる事になるのであり、その問いに答えるために重要になるのがリベラルアーツということなのだろう。
もちろん、人工知能が言われるように進歩するという保証はどこにもない。
しかし、ITの分野で世界の先端を突っ走るアメリカの大学教育がリベラルアーツを非常に重視しているという事実は注目に値する。
例えば、アメリカのIT業界の大物には哲学科の出身者が何人かいる。
ピーター・ティールはスタンフォードの哲学科を卒業した後でロースクールに進学しているのだが、ティールがこれほどの成功をしたのは哲学を専攻していたという事実と無関係ではないだろう。
ビジネスをするには常識を疑って真実を見抜くことが大事で、そのためには他の人とは違った発想をする必要がある。
実際、ティールの発言は非常に哲学的であり、普通の人とはぜんぜん発想が違う。
外国語を勉強するというのも、普通の思い込みから抜け出すには哲学と同じような効用がある。
言葉が違うと発想も全く異なったものになるからである。
これからは機械翻訳が発達するから外国語は勉強しなくてよくなると言われることがあるが、いくら機械翻訳が発達しても外国語の重要性はなくならない。
他の言葉を話している人を理解するには外国語を理解するしかないわけで、それはこれからの時代にますます重要になる。
グローバルなビジネスをやろうとする場合は特にそうである。
そういう意味で、AIの時代には哲学や外国語が重要になるというCubanの主張はそれなりにもっともな主張だと思う。
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