才能があるということは、やめられないということだと思う
才能というのは物事を続ける力である、ということはよく言われる。実際、めざましい成果を上げて世間から注目されている人は大抵、その成果を上げるまでに膨大な時間とエネルギーをつぎ込んだ人で、そういう人は普通の人ならせいぜい数日で投げ出すところを、一日も欠かさず10年、20年、あるいはそれ以上の年月「努力」を積み重ねてきているのだ。当然、その積み重ねというのはとんでもないものであり、その芸というのは普通の人には想像もつかないレベルにある。膨大な時間が芸のレベルに変換されているのだ。
しかし、才能というのは物事を続ける力、という言い方は、理屈では分かっていても、普段生活をする上で感じる実感とは少し異なっているようにも感じられる。では、なぜ先ほどの表現が現実から少しずれているように感じられるのかというと、それは先ほどの表現が間違っている訳ではないとしても、やや不正確なものであるからだと思う。それでは、もし「天才とは努力する才能」みたいなフレーズをもっと正確に言い表したらどうなるか?
僕は、それは「才能がある人とはやめられない人である」といえば、かなり真実に近いのではないかと思う。つまり、才能がある人というのは、普通の人ならばすぐにやめてしまう事をなかなかやめられない人なのだ。
たとえば、英語で書かれている本を読むのは何だかんだで面倒なので、読んでいるうちに投げ出したくなるのが普通である。しかし、その一方で、英語の勉強を始めてそれほど経たない段階でも英語の本を読み始めたらなかなか読むのをやめられないし、読むのをやめた後でも先が気になってすぐに読み始めてしまう、という人もいる。ゲーマーがゲームばかりやってしまうように、そういう人はなかなか英語の本を読むのをやめられないのである。
先ほど「才能がある人とは何かをなかなかやめられない人である」と言ったが、この分類法によると、こういう人は間違いなく英語の才能があるのだ。そして、英語の才能がある人の生活は段々と英語一色になっていき、英語の実力が向上する一方なのはもちろん、そのうちに英語とは関係ない仕事をするのは全くできなくなるだろう。
このやめることができない、というのは日常生活でもそうであるが、より長い期間を考えても使える判定基準である。才能がある人は人生においても、これまでやってきたことをなかなかやめられないのである。よく言う「夢をあきらめられない」というやつだ。そういう人は無名であっても、やめることができないままになんとなくこれまで通り活動を続けてしまう。無名有名というのは偶然で決まるという面があるから、活動をつづけていればそのうち「チャンス」がめぐってきてブレイクするだろう。
もちろん、そのためには才能が本物であることが必要である。つまり、親や周囲の期待があるからやめられないとか、いままでやってきたことを無駄にしたくないからやめられない、というのではだめである。さらに、競争が激しい分野で活動をしている場合、才能の質はよくても才能の量が足りなくてうまくいかない、ということもあるだろう。
スポーツなどをやっている場合、いくら才能があっても致命的なケガをして選手生命が終わる、ということもありうる。身体的なケガはなくても精神障害など頭が故障する場合だってある。故障から復活できるかはまあ、はっきり言って運次第だ。
才能がある人がすることは、多かれ少なかれ受動的な側面がある。つまり、そのように生きるしかないのだ。それは宿命と言っていい。誰にどのような才能が割り当てられるがは誰も分からない。場合によっては、自分が全く希望していない才能が割り当てられる場合もある。
才能にも報いられる確率が高い才能と報いられる確率がほとんどない才能がある。もし持っている才能が勉強の才能や英語の才能、あるいは人と仲良くする才能のように報いられる可能性が高い才能ならいい。しかし、リスキーだったり割に合わない才能に当たった人は大変だ。なにせ、それがリスキーだったり割に合わないと理屈では分かっていてもそれを続けるしかないのだから。だからと言って、都合の悪いところのある才能を他の才能と交換するわけにはいかない。宿命を背負って一生を生きるしかない。
才能があるとはそういうことだと思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
少なくとも岸勇希氏は、はあちゅうに馬鹿にされてない
電通時代、元電通の岸勇希氏にかなり強烈なパワハラ・セクハラをされたことを告発して世間の注目を集めたはあちゅうだが、過去に弱者男性を馬鹿にするような発言を繰り返していたとして逆に非難を浴びる結果となってしまった。
どうも、はあちゅうは弱者男性は公然と馬鹿にしてもいい!というスタンスのようで、非難を浴びた後でも弱者男性を馬鹿にするという意図はなかった、と明言することはしていない。はあちゅうに弱者男性を馬鹿にするような性根があるのはまず間違いのないところだろう。
まあ、僕のような者から見ても、見ていてウンザリしてくるような弱者男性は少なくないので、これは分からないでもない。しかし、ここで興味深いのは、告発された岸氏というのはまさに、強者女性が「死ねばいいのに」と思っている弱者男性とは全く正反対の生き方をしている人物であるということだ。
カネも、社会的地位も、男としての意気地もない弱者男性とは違って、広告業界で大成功していた岸氏は世間の基準からしたら相当なカネを持っているだろうし、はあちゅうをパワハラ・セクハラするだけの度胸?もある。おそらく、強者女性がなんとなく考える理想というのは案外、パワハラ・セクハラをしない岸氏なのではないか?
しかし、パワハラ・セクハラをしない岸氏とパワハラ・セクハラをする岸氏との距離というのはほとんど一歩くらいの距離しかないだろう。MeTooみたいなムーブメントは、だから空しい。本当は岸氏みたいな男性が大好きなくせに、岸氏みたいな男性は許せない!とか言っているのだから。実際、CNNとかでセクハラを非難されている有名人は、みんな最高に出世をした人物である。
今回の件で、たしかに岸氏は世間から非難をされているが、少なくとも馬鹿にはされていない。そして、言うまでもないが、馬鹿にされるよりは非難されるほうが何百倍もマシである。弱者男性は岸氏に拍手喝采すべき!とまでいうつもりはないし、岸氏が行ったパワハラ・セクハラはあまりにもレベルが低すぎてウンザリするが(まあ、レベルの高いパワハラ・セクハラなんてあるんだろうかと思うが)岸氏の生き方にはなにか、弱者男性が見習うべき重要な点があるのではないか。まあ、弱者男性は岸氏を見習うべき!なんて、強者女性は死んでもいえないだろうが。
一ついえることは、岸氏は強者女性の幸福などには何の関心も持たなかった、ということである。そんなことに関心をもってもいいことは何もないからだ。このことは弱者男性にとってはますますそうで、弱者男性の分際で強者女性の幸福を心配してもいいことは何ひとつない。もし弱者男性なのに強者女性の幸福をどうしても心配したい人がいるとしたら、少なくとも、そのような心配は強者男性になってからすべきことだろう。
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CSは正しい
プロ野球で2017年度のポストシーズンの話題は、なんといっても広島がCSで敗退したことだろう。
去年、日本シリーズで日本ハムファイターズ相手に二連勝したあと四連敗した広島だったが、今年は一勝したあと四連敗だったというのから去年よりもなお悪い。
まあ、去年は「大谷君」がメジャーに挑戦する前の有終の美、という意味合いもあって、やっぱりこれだけのスターは有終の美を飾ることになっているのかな、と感心する人も多かったと思うが、今年こそは!と意気込んでいた広島ファンにとってはまさに悲鳴を上げたくなる(Crymax)ポストシーズンだったのではないか。
さて、CSというのは当然リーグ優勝したチームが敗退する可能性もあるわけで、それが実際に起こったのが今年だったが、広島がDeNAに負けたことを受けて、やっぱりCSはおかしい!という意見が聞かれた。
せっかく10ゲーム差をつけて優勝したのに三位のチームが日本シリーズに勝ち進むなんて、いったいこの一年のリーグ戦はなんだったのか?「一番強い」広島が日本シリーズに進出するべきだ!というのである。
正直、来年は広島の方がCS制度のお世話になる可能性が高いと思うが、それにしてもおかしな話だ。
そんなに公平に優勝チームを決めたいのならば、オリックスの宮内氏が主張するように、セリーグとパリーグの区別などやめて12球団を一つのリーグにまとめればいい。
そうすれば一番勝ったチームが優勝するのだからこれが一番公平だし、巨人戦のためにセリーグばかり儲かるということもない(もっとも、プロ野球のテレビ中継は以前とは比べものにならないほどへっているので今はセリーグばかり儲かるということはないと思うが)。
それなのに、なんでわざわざセリーグとパリーグに球団を分け、優勝チームをふたつ決めて日本シリーズをするかというと、普通、本当の強さ(あるいは弱さ)というのは一発勝負や短期決戦のようなぎりぎりの状況で初めて分かると信じられているからだ。
オリンピックの柔道競技や甲子園などがいい例だ。
オリンピックの柔道はどんな選手でも一回負けるだけで銀メダルか銅メダル、あるいはメダルなしになってしまうが、この一発勝負で金メダリストをきめるというやり方をおかしいという人はいないし、このやり方に不平を述べる柔道選手なんて聞いたこともない。
甲子園だって一回負けたらそれで終わりで、あとは泣きながら「甲子園の土」を集めて帰るだけだが(実際には泣いてない選手の方が多いだろうし、土なんて持って帰るな!と指導されていることもあるけれども)生徒にとって甲子園はあまりに過酷ではないかという指摘はあっても、一発勝負で優勝チームを決めるのを疑問に思う人は少ないだろう。
そして、一発勝負で勝者を決めてなにかおかしな事になるかというと、特にそんなこともない。
オリンピックの柔道競技の金メダリストはやっぱり金メダルを取るべくしてとった感じの人ばかりだし、甲子園で優勝するのは必ず優勝する理由がはっきりとあるチームである。
だから、リーグ戦で勝ったチームが強い、というのは話が逆で、一発勝負とか短期決戦で勝つ方が強い、というのが普通の理解であるだろう。
しかし、もしそうだとしたら、いったい日本シリーズに進出するチームをリーグ戦の成績だけで決めるのはいいことなのか、という話になる。
もし日本シリーズが本当の日本一を決めるものならば、その出場チームは本当の実力が出る総力戦で決めた方が自然である。
つまり、CSというのは、一リーグ制ではなく、12球団をセリーグとパリーグに分けて日本シリーズで日本一を決めるという考えを徹底させたものなのだ。
日本シリーズの結果について、広島で三番を打つ丸佳浩は「結局、自分たちの実力がなかったということ。実力があればこうはならない」と語っている。
それはそうだ。
もし広島が本当に強かったら、二勝四敗の次は一勝四敗なんて結果になるはずもない。
だから、今回の広島の敗北はある意味、CSという制度が正しく機能していることの現れと考えるべきだろう。
CS制度では、とりあえず三位に入っておけばいいという「甘え」が生じるのでリーグ戦が盛り上がらなくなる、という意見もよくわからない。
それを言うなら、CS制度がないならないで、一位になれそうにないから諦めてしまったり、一位を独走しているから安心するという別の「甘え」が生じそうなものだし、三位以内に入ることだって決して簡単ではない。
2017年度のレギュラーシーズンでの各球団の最終成績を見ると、セリーグでは三位のDeNAと最下位のヤクルトで19.5ゲーム差、パリーグに至っては三位の楽天と最下位のロッテでは23.5ゲーム差ある。
CSは金儲けのための仕組みだとよく言われるが、僕はそうは思わない。
反対意見がある中、なんだかんだでCSが続いているのは仕組みとしてそれなりに筋が通っているからだと思う。
今後CSがなくなって以前のようなやり方に戻るとはとても考えられない。
だいたい、今のような何が起こるかわからない激動の時代に、リーグ戦の結果だけで日本シリーズに進出するチームを決めるというのは時代に合っていないのだ。
何が起こるかわからない時代なのだから、プロ野球の方も何が起こるかわからないものでないといけないのである。
来年だって案外、広島が三位から日本シリーズに進出して、そのまま優勝してしまうなんてこともあるかもしれない。
その時はCSに元々反対だった広島ファンも、CSにもいいところがあるな、と思うのではないか。
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なぜ新自由主義はうまくいかないのか
ここ数十年、日本は変わりつつある、と毎日のようにいわれてきたわけだが、言われている割には日本社会の方向は全然変わってなかったと思う。
そういう発言がされるときは、何か感想を言うときにそういうことを言っていればとりあえず形になるからそう言っておこう、という場合が多かったのではないか。
あるいは、人々の認識は変わってきていても、その変化は、それが人々の実際の行動の変化に現れるほどのものではなかった。
具体的には、日本は相も変わらず、「努力」したものは報われるべき、「怠けた」ものは処罰されるべき、したがって様々な競争に勝ったものは全てを手に入れるべきであり、競争に負けたものは勝ったものに奉仕するために生きるべき、という、既得権益者にとって都合のいい解釈をされた新自由主義がこの数十年の日本を支配してきたのである。
あるいは、これは物事の判断の全てをマーケットに任せて、マーケットが高くプライシングした人が得をする仕組みであればあるほど正しいと考えるのと同じだと言っていい。
そうすることによって、マーケットによる力(あるいは暴力)によって社会正義が実現され、社会は最高の効率で機能するようになると喧伝されてきたのだ。
その結果どうなったか?
ここ数十年のネオリベ政治を通じて人々が理解しつつあることは、このようなアプローチは極めて筋が悪いということだ。
マーケットにまかせておけば、マーケットの参加者はマーケットで勝つために倫理的に正しいことをするはずだ(正直者は報われる)、というのが新自由主義が支持された理由だった。
しかし、実際に起こったことはと言うと、マーケットの参加者はマーケットで生き残るために必要ならばどんな悪いことでもするようになり、社会全体の効率が低下した。
悪いことをしないまでも、問題に対処をする際、短期的な「成果」を出すためのその場限りの先延ばしが社会の至る所で行われるようになった結果、社会全体を閉塞感が支配するようになった。
結局、「格差」がひどくなる一方の新自由主義はある時点でうまくいかなくなる。
なぜなら、格差を肯定する新自由主義ではマーケットの敗者から容赦のない搾取が行われるが、これは前向きな努力を促す以上に生き残るためには悪いことでもする、というインセンティブを強化するからである。
そして、悪いことをして「結果」を出す(マーケットで評価をされる)と、マーケットで評価されているのだから悪いことをするのが正しい、ということになってしまうのだ。
これが、マーケットを機能させるのに社会保障が重要な理由である。
生き残るために悪いことをしなければいけないならば、みんな悪いことをするにきまっているのだ。
マーケットは悪を排除しない。
世の中で繁盛している悪質なビジネスをみれば、このことは明らかである。
これからの社会はベーシックインカムがないと回らないと思う。
マーケットを機能させるためには社会保障が重要であるが、これまでの社会保障はあまりにも効率が悪すぎるし、役人が命綱を握ることは「弱者」の「自立」を阻害する。
情報技術の発達により、ベーシックインカムの実現性はますます高まってきている。
どんなギャンブル中毒者でも、一月に六万円ではなく毎日2,000円振り込まれるならギャンブルをせずに食材を買ってくるだろう。
案外、いますぐにでも国民全員に15,000円程度でいいからカネを撒きはじめてもいいのではないか?
少なくとも困窮家庭で暮らす人の交通費や電車賃くらいにはなるし、これだけでも相当な効果があるとおもう。
15,000あれば、一応死にはしないのだ。
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歴史になりつつある過去
結局、何で「歴史問題」が問題になるかというと、関係者がまだ生きているからだと思う。
関係者が生きていると、どうしても関係者に遠慮が出てくるから、なかなか思っていることが言いにくくい。
いかんせん、関係者に有利なことばかりが報道され、関係者にとって不利なことは揃って見て見ぬふりをすることになる。
なぜなら、関係者にとって不利なことをいうと、「関係者の尊厳を損なった!」などと攻撃をしてくる連中が出てくるからだ。
しかしながら、当たり前のことだが、関係者だって永遠に生きているわけではない。
特に、第二次世界大戦が終わったのは今から72年前のことであり、当時20歳だった人はいまでは92歳なのである。
だから、これらの関係者はあと数年のうちに全員なくなる。
このことは、世界中の「歴史認識」に大きな影響を与えるだろう。
あと数年ほどで、反日ジャーナリストが関係者を訪ね歩ねたり、サンフランシスコの反日政治家が関係者を議会に呼びつけるということもできなくなるのだ。
そうなって初めて、人々は昔のことについて気兼ねなしに語ることができるようになる。
遠い未来の話ではない。
あと数年でそうなるのだ。
「歴史問題」というが、ある意味、そこで問題になっている歴史というのはまだ存在していない。
それを歴史というのは、生きているイカをスルメであると主張するようなものである。
イカが動き回っているうちはイカのことを十分に観察することができないように、関係者が生きているうちは歴史というものは客観的に認識されないのである。
しかし、あと数年で過去はすべて歴史になる。
ここ数年、世界で反日活動が激化しているのも、過去が急速に歴史となりつつあることの現れに他ならない。
反日アジア人の行動を見ていると、そのうちにこれまでのような反日が通じなくなるのではないか、という焦りがはっきりと感じられる。
歴史というのは、過去とは比べものにならないほど政治利用が難しい。
過去が完全に歴史となった世界では、歴史を歴史として語らないという態度は全くの場違いなものとなる。
アメリカで設置された反日像なども案外(今の時点でさえ、黙っていれば誰も気にもとめないだろうが)あと数年ほどで完全に場違いなものになるのではないか。
そう考えると、一部の反日アジア人によって行われている反日活動を深刻にとらえすぎるのもどうかな、と思わないでもない。
過去が歴史になることで、いま大騒ぎしている「歴史問題」のかなりの部分は消滅するだろう。
それは普通の人にとって自然科学のようなものになる(もともと、それは自然科学のようなものでなければならないのであるが)。
結局、これまで「歴史」といわれてきたものは実際には政治に他ならなかった。
そして、世間は実際には歴史でないものを歴史と思い込まされてきたのである。
これからはそうではない。
まあ、歴史が完全に非政治的なものであることはないだろうが、これからは政治的な作り物ではなく、よりリアルな歴史観が世界中で広まっていくことが期待される。
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ロシアの「愚行」とイメージ戦略
ここ数日、The Atranticのロシア関係の記事を読んでいるが、読んでいるうちになんとなくこれまでずっと不思議で仕方がなかった疑問に心から納得できる答えを見つけることができたように思う。
その疑問とは他でもない、なんでロシアは何の利益にもならないような愚行を繰り返すのか、ということだ。
たとえば、今これを書いている時点でピョンチャンで冬季オリンピックが開催されるまであと2カ月もないが、4年前の冬季オリンピックはロシアのソチで開催されていた。
このソチのオリンピックは、世界でもっとも恐ろしいエリアの一つである北コーカサスに隣接する地域であるにも関わらず、テロが一つも起きなかったと言う時点で大成功と言えなくもない(まあ、これは混迷する中東情勢のためにイスラム過激派が大勢シリアなどに出払っていた、という事情もあるのだが。ソチを安全にするために、ロシア政府がイスラム過激派が中東に移動するのを支援していた、という噂もある)。
しかし、国際社会におけるロシアのイメージを改善するという意味では、ソチオリンピックは失敗以外の何物でもない。
ソチオリンピックの4年前に行われたバンクーバーオリンピックでのロシア選手団の成績はロシア国民の期待を大幅に裏切るものだった。
ソチではこのような成績は許されない、ということで、ロシアではソチオリンピックに向けて、トレーニング施設や海外からの教育者の招致などに大々的な投資が行われた。
そしてロシアはソチオリンピックで33枚のメダルを獲得し、メダル獲得数で一位となった(金メダル13枚、銀メダル11枚、銅メダル9枚)。
しかしながら、メダル獲得数一位という結果は組織的なドーピングによって獲得されたもので、これまでに11枚のメダルが剥奪されている。
もちろん、11枚のメダルが剥奪されてもまだ22枚のメダルがあるから(これらのメダルが本物であるということを絶対的に保証することはできないが)、ソチオリンピックでのロシアの成績は失敗とはいえない。
金メダルの数についていえば、ロシアのメダルが剥奪された後でもノルウェー11枚、カナダ10枚に続いてロシアとアメリカがそれぞれ9枚となっているので、最も金メダルを獲得したノルウェーとそれほどの違いはない。
しかしながら、自国でオリンピックを開催しながら組織的にドーピングをするというのは深刻な犯罪行為である。これを受けてIOCは、ロシアの選手をロシア選手団としてピョンチャンオリンピックに参加することを禁止する、と決定した。
ロシアの選手は単に「ロシア出身の選手」として、ロシアの代表としてではなく、あくまで個人としてピョンチャンオリンピックに参加することになるのである。
だから、もしロシアが金メダルを獲得してもロシア国歌は流れず、ロシアの国旗も上がらない。その代わりにオリンピックのテーマソングとオリンピックの旗が使用されるのだ。
ロシアとしては、勝っても負けても屈辱的なことだろう。
いわゆる西側諸国で暮らしている人間としては、いったいロシアは何がしたいのか?と言いたくなる。
普通の国では、ドーピングに手を染める選手や指導者は国の評判に泥を塗る国賊なのであり、国はこれらの反国家的犯罪が絶対に起こらないように監視をする立場にある。ところがロシアでは逆に、国自体が積極的にドーピングを行っているのだ。
普通の国は、オリンピックがカネになる、という理由は別にして、国際社会における国の評判をよくするためにオリンピックに参加している。国際社会の評判という観点からすると、ロシアがやっていることは全く愚かに見える。
しかし、もしこのような「愚行」がまさにロシアのイメージ戦略の一環であるとしたらどうだろうか?
The Atranticのロシア関連の記事を読んでいて印象に残った部分がある。それはあるロシア政府に近い人物が語ったことなのだが、どうせロシアは結局は嫌われるのだから、せめて怖れられるほうがいい、というのだ。
ソチオリンピックにおける組織的なドーピングが明らかになった後、ロシアでは何人かの関係者が不審な状況下で亡くなった。もちろん、本当に何があったのかを正確に知ることは外部の人間には不可能なことだが、口封じのために消されたのだろうと広く信じられている。
要するに、ロシアでは権力に深入りすると普通に人が死ぬのである。
ロシア人は、国家の存続のためには個人を挽き潰してもなんとも思わない。メダルを剥奪されてオリンピックから永久追放された選手も全てをかけてスポーツに打ち込んできたのに、国策としてドーピングをした結果、スポーツ選手としての人生は全く台無しになってしまった。
もし仮にドーピングが発覚しなかったとすれば(そのような可能性があるとはロシア人も信じていなかったと思うが)、ロシアはメダルの獲得数でロシアの偉大さを示すことができる。
しかし、もしドーピングが発覚したとしても、全世界にロシアは恐ろしい国であるという強い印象を与えることができる。
むしろ、このような印象を世界に与えるために、バレることを前提としてドーピングを行ったと考える方が自然だろう。
このように考えると、ロシアがソチオリンピックで大々的にドーピングしたのは愚行であるどころか、極めて合理的な選択である。
しかも、これまでドーピングが発覚した競技は、クロスカントリースキー、ボブスレー、スケルトン、スピードスケート、バイアスロンなど、正直いって一般人にとってはどうでもいい競技ばかりなのである。
フィギュアスケートなどの華やかな競技では華麗なパフォーマンスで(もっとも、ロシアはフィギュアスケートでもドーピングをした疑いがあるのだが)世界を魅了する。
その一方、ドーピングにまつわる恐ろしい話で世界に強いメッセージを送る。
なかなかよくできたイメージ戦略ではないだろうか。
ロシアによるドーピングは、これまで不正によって実績を水増しするために行われるものだと理解されてきた。
しかし、ロシアによるドーピングの本当の目的は、海外のエージェントとその潜在的な協力者に、ロシアは怖ろしい国であり、ロシアの内政に干渉したり、海外のエージェントに協力することは怖ろしいことであるというメッセージを伝えることにあるとおもう。
ピョンチャンでロシアがドーピングを行うのか、そしてドーピングするならばどの程度の規模で行うのかは興味深いテーマだが、ドーピングをはじめとするロシアの「愚行」は、このようにロシアの安全保障の観点からも理解される必要があるのではないだろうか。
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国際交流って意味あるんだろうか?
サンフランシスコにおける例の反日像の影響で、どうも大阪市は本当にサンフランシスコとの姉妹都市の提携を解消するらしい。
これは維新出身の大阪市長が言い出したことだが、与党の自民党と公明党も賛成しているので何らかの介入がない限り提携の解消は確実だろう。自民党と公明党がどちらも賛成、というのは少し意外な気もするが、ともかくカネを使わずにインパクトを出せる方法ではある。
さて、例の反日像だが、これはもちろんカリフォルニアの反日アジア人が日本人に損害を与えることのみを目的としているもので他には何の意味もない。カリフォルニアというのはイメージだけをつくろったニセモノの一大産地という側面があるのだが(そして、それはカリフォルニアにはアジア系住民が多い事と無縁ではないと僕は考えているのだが)、この反日像などは典型的なカリフォルニア的ニセモノといえる。
しかしながら、この一件でつくづく考えさせられるのは、いったい国際交流って意味があるのだろうか、ということた。
これまで大阪市とサンフランシスコとの間にどのような交流が行われてきたのか僕は知らない。交流といっても無くなったところでだれも気づかないようなようなものだったのかもしれない。しかし、はっきりしているのは、大阪とカリフォルニアが姉妹都市であることはカリフォルニアの住民が客観的に歴史を考えることには何の役にも立っていないということだ。
国際交流というのは相互理解を深めることが目的であると僕は認識しているが、大阪市とサンフランシスコが交流したところで日本人が「国際社会の常識」を学習して終わるだけで全然相互理解にならないだろう。そして、カリフォルニアで反日アジア人がやりたい放題をしている現状などはこのことをある程度は反映しているのである。
普通、国際交流というのはいいことで、やればやるほど社会が文化的に豊かになると信じられている。しかしながら国際交流をして実際に起きることは何かというと、せいぜい、しがらみや利害関係などが堆積して人間の考えがどんどん薄っぺらくなっていくだけなのではないか。そして、カリフォルニアで起こっていることは、まさにこれの典型例だと思うのだ。
もし大阪市とサンフランシスコとの間で交流が何もなくなったとしても特に不都合があるわけでもないだろう。これを機会に、日本人は国際交流とか国際化に対する迷信を放棄するべきなのではないだろうか。
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