七年という歳月
2011年の3月11日午後3時に起こった東日本大震災から七年になる。
七年というと相当な歳月で、小学校六年の子供は大学生なり社会人になり(僕のように引きこもりをしている人もいるだろうが)、新入社員は30才くらいの主力になり、30代前半だった者はいま40くらいになっている。
結構な歳月だ。
ぼくも一応、七年前は30代の前半だった。
いまからすれば30代前半というと相当若いと感じるが、この30代の七年間を僕はどのように使ったのだろうか?
自分の健康が許す範囲内でできることを細々としてきた、というのが実態だったと思う。
健康状態という制限がある中ではある程度有意義に時間を使えたのではないか。
ここ数年、僕は生まれて以来初めて何か意味のあるまとまった事ができるようになった。
このブログなどもそのひとつで、今のようにブログを運営することは以前には絶対にできなかったとおもう。
これまでのように、僕はこの七年間ほとんど考えることしかしていないのだが、それ以前は考えることすらまともにできなかった。
この七年で健康状態は格段によくなった。
もちろん問題はまだあるが、もし昔からこれくらいの健康度があったら人生楽だったんだろうな、と思うくらいよくなった。
しかし正直、健康状態が改善する一方、意識が健康状態にぜんぜん追いついていないと感じる。
いま自分がやっていることが自分の限界とはとうてい思えない。
まあ、実際の限界は自分ができることが示すので、それが実際の限界なのだろうが。
この七年を考えることにつかったことで、個人的には大きな発見がいくつかあった。
世界はなぜこうあらざるを得ないか?というようなことを小学生の頃から考えていた僕にとってはものすごい成果があった七年間だと思う。
その一方で、いまのように健康が改善してみると、どうせ考えながら七年間を過ごすのならばバイトでもしながら考えたほうがよかったんじゃないの?とも思うが、まあ、健康状態が改善して初めてそう思えるようになるのだろう。
健康状態が著しく改善したことがこの七年での最大の成果かもしれない。
後悔はいくらでもある。
しかし、東日本大震災でなにが起こったのかを考えると、生きているだけで大成功なのだ。
東日本大震災のあと、僕もこの震災を契機として生き方を変えないといけないと思った一人だった。
しかし、僕はただ生き方を変えようと思っただけで行動の方は何も変わらなかったから、僕の生き方は以前と何も変わらなかった。
これからは現状に感謝をし、手持ちのリソースでできることをやっていきたい。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
部活と終身雇用は似ている
最近、教師の過労問題に関連して部活動をどうすればいいかという議論が聞かれるようになったが、そもそもにして部活動というのは日本社会にとってあったほうがいいのか、それともないほうがいいのかを議論する時期に来ていると思う。
というのは、もちろん部活というのは今の日本社会の結果だが、その一方で部活のあり方は日本社会に影響を与えているからだ。
そして、正直にいうと僕は今の部活のあり方は今の時代に合わないところがあるのではないか、と疑っている。
雇用の話だと終身雇用というのはすっかり時代に合わなくなっているという認識が一般的になっているが、日本の部活動も終身雇用と同じようなところがある。
というか、部活動と終身雇用というのは二つで1セットで、終身雇用がなくなったら今の部活動のあり方も変わってくるのではないかとおもう。
考えてみると、部活動と終身雇用はいろいろ似ている部分がある。
入ってから3年で定年というのはスポーツというものの性質からくるものだからいいとして、部活というのは移動できない。
この学校の何々部にあわないから6月から他の学校の何々部に加入します!というような話は聞いたことがない。
ふつう、部活をやめたら競技のほうも終わりである。
他の競技に興味が出てきたからといって組織をかわる事もないし、兼業だって無理である。
なんとなくリストラされたら行き場がないみたいな終身雇用中心の雇用慣行とにているなあと思ってしまう。
なんか、日本の会社と部活はにている。
会社も部活も、日本では絆というものが重視される。
絆が強ければ強いほど組織が強くなる、という考えは一般的に見られるもので、実際に絆が強くて強い組織というものはいくらでもあるだろう。
しかし、技術は持ち運べても絆は持ち運べない。
あまり絆を重視しすぎると、人材を効率的に活用することが難しくなる。
アメリカの社会には功罪あるが、とりあえずアメリカ社会についてよくいわれるのは、「人材をブロックのように組み合わせて組織を作るのがうまい」というのがある。
組織の目的が決まれば、あとは必要な人材をあつめてくるだけ。
基本的には絆よりも目的重視である。
もちろん、僕は欧米のやり方が日本のやり方と比べて何から何まですぐれているというつもりはない。
外資というのは、場合によっては目的を達成するためにかなり悪質なことをすることがあるし、アメリカのIT企業がやっているのとをみると正直、「なんだ、この程度か」と思う。
しかし、日本を始めとする他の国は「この程度」のこともできていないというのも事実である。
日本は目的が絆よりも後に来ることが多いと思う。
これまでの日本は、絆を重視しすぎて目的意識とか、効率性をないがしろにしてきたのではないか?
この絆重視のために、今の日本人はかえって多大なストレスを抱えて生きることになっている。
そして、部活というのはこの絆重視の傾向に大きくかかわっているような気がする。
部活をはじめとする日本の組織は、これからは絆重視ではなく目的重視にするべきだし、実際にそうなっていくだろう。
今の組織のあり方はインターネットもスマートフォンもない時代に決まったもので、これらの通信技術とともに成長した世代にとっては現実的ではない。
しかも、これは古来の日本の伝統であるわけでもなく、せいぜいここ百数十年ほどの期間に西洋の強い影響の下で成立した流行り物である。
流行り物であれば、それは流行がおわればいつのまにか別のものに変化しているだろう。
僕はこれから日本の組織は時代に合わせて進化・適応すると思う。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
年齢について
最近テレビをみるようになったという話は以前にもしたけれども、テレビを見るようになってまず思ったのは若者がやったら出てくるなあ、ということだ。
まあ、僕も生まれて40年くらい生きているわけだから、人口動態を考えに入れなければ世の中の半分は僕よりも年が下なわけで、テレビで若者が目立つのは当たり前のことといえる。
これは少しわかりにくい表現かもしれないが、僕は今まで子供だったり若者だったことがない。
もちろん、僕も10代20代だったことはあるけれども、ただ年齢が10代20代だったから形式的に子供だったり若者ということになっていただけで、実質的には子供でも若者でもなかったと思う。
かといって、大人として生きていたわけではもちろんない。
思うに、昔から僕は大人でもなければ子供でもないような状態で生きてきたし、大人の視点とも子供の視点とも異なる観点から物事を見てきたと思う。
まあ、病人の人生というものはそのようなものであらざるを得ない所があるが、病気による制約が軽くなって以前にはできなかったことができるようになると(あくまでも以前の僕にはできなかった、という意味で健常者とは程遠いが)少し戸惑いを感じるのも事実だ。
子供のころから僕は視覚にトラブルがあり、その他の身体的な不調も合わせてこれは僕の日常に強烈な制限を加えていた。
これらの制限が軽くなると、もうそれだけで日常が希望にあふれた生活になる。
以前できなかったことができるというのはすばらしいことで、毎日を浮かれながら過ごしている。
だから、ある意味、僕は気分的には若者みたいになっているのだが、では自分が何歳になっているかというと40歳くらいになっている。
また、これがややこしいことに、僕は体重が学生時代と1kgも違いがないので雰囲気が学生時代とそれほど変わっていない(まあ、中身が変わっていないというのもあるが)。
いろいろあっておかしな状況になっているなあ、という感じがするが、考えてみたら日本の全人口を考えたら年齢の平均は僕ぐらいになるので年齢なんてどうでもいいのかもしれない。
僕が20代をみて「若いなあ!」とびっくりするように、80歳の人からすると40歳というのは相当若く感じるはずだ。
僕はこれまで病苦に耐えるのがやっとという時期が長かったので、病苦がなくなったらどうするか、ということについていままで考えてこなかった。
それで、病苦がそうとう軽くなっていろいろなことができるようになっても、これまで通りに惰性で生きている。
80歳の視点からすると、今の僕の生活はもったいないの極みだと思う。
もし僕が今後40年生きるとすると、40年後の僕は今の僕は何をするべき、と考えるだろうか?
病苦が引いて(少しはあるが)時間ができたので、これからの時間を何に使うかまともに考えないといけない。
電子出版した本
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アウトプットアウトプットと繰り返すブロガーのブログは案外続かない
ブログをやっていると、意識が高くなりすぎたのか、まるでうわごとのようにアウトプットアウトプットと繰り返しているブロガーをよくみかける。
このようなブロガーはあまり続かない。
詳しく統計を取って確認したわけでもないが(統計を取ったら面白いだろうが)なんとなくそういう感じがするし、統計をとってもそういう結果になると思う。
なんでそういうブロガーのブログは続かないのかというと、そういうブロガーは「成長」であるとかカネ(「ブログは資産」というやつである)など何でもいいが、ブログからなんらかの具体的な利益を得ることを目的としてブログをやっている。
ということは、ブログをやる以上に成長できるようなことを始めたり、ブログ以上に儲かることがあればブログを続ける理由がなくなってしまう。
はっきりいってブログをやったところでたいして人間として成長するわけではないし、ブログを書くために費やすコストを考えれば得られる収入など完全に誤差の範囲である。
もちろん、なんであれ物事を長く続けるというのは意義があることだ。
長く続けていさえすれば人それぞれ、それなりに進歩があるのはブログも例外ではない。
しかし、ブログを続けたとしてもそれはブロガーとして成長するだけのことで、それ以外の点でなにか成長があるかというとはっきりいって疑問である。
僕も、このブログを書くことが生活の一部になって結構なるが、ブログを書くこと以外になにか進歩があったかというとあまりそういう気がしない。
たしかに(意識高い系の用語を使えば)成果物がだんだんと形になっていくプロセスを経験することは、なにをするにしても役に立つかもしれない。
僕もブログを始めたときはこのブログがどのようなブログになるのか全然わからなかった。
だいたい150記事くらい書いて、このブログがどういうブログなのかが決まってきたような気がする。
しかし、これだって、試行錯誤なしにいきなり完成度が高いものができてしまうと、それ以上やることがなくなってしまうだろう。
成長を目的としてブログをやるというのは、どう考えても見当違いなことのように思えてならない。
もしブログをかくほど成長するというのなら、世の中で一流と評価されている人はみんなブログを書きまくっているはずだ。
もちろんブログを書いている一流の人はいるだろうが、専門分野での評価となるとたいてい競争からドロップアウトした人、つまり「プロ」としての成長はたいしたことがないと見なされていることが多いだろう(もっとも、人間としては「一流」の人よりもそういう人の方が興味深いことも少なくないのだが)。
野心だけは満々の意識高い系ブロガーのブログなど続くはずがないのだ。
ブログなどを書く以上に成長につながることはいくらでもあるわけで、本当に成長したいのならばブログなどやっている暇はないだろう。
ブログというのは仕方なくやるもの、という認識を僕は持っている。
世俗的な利益を考えれば、ブログなどやっても損しかない。
特に、僕のような立場の人間ならば、どう考えてもブログなんかしている場合ではない。
それでも僕がブログをやっているのは、書き残しておくべきと思うことがあるからだ。
それは書くことによって自分の考えを世の中に公表するというのもあるし、考えを文章にすることで自分の考えがなんなのかをより明確に確認したい、というのもある。
僕は引きこもりをしているわけだが、引きこもり的に考えると、いつもなにか世の中に向かっていいたいことがあるというのはかなり幸運な事かもしれない。
僕のような立場の人間ならば、(それが最善の行動であるかはともかくとして)ブログを継続して書くことには一定の利益があると思う。
ゼロと1ではないが、なにもしないで引きこもるのとブログをかきながら引きこもるのでは精神的に大変な違いがある。
たぶん、ブログというのはいろいろな意味で普通でない生き方をせざるを得ない人が書くためのものなのだろう。
普通の生き方をしている人にとっては、ブログを書くということは利益より不利益のほうが多いのではないかと疑っているのは僕だけだろうか?
だから、意識が高いブログがそのうちフェードアウトするというのは悪いことではない。
アウトプットというのはブログを書く以外にいくらでもあるわけで、ブログをかくよりも成長につながるアウトプットがあるならばそちらのほうを続けた方がいいに決まっている。
まあ、週に一回くらいブログを書きたくなる事がないのか個人的には不思議に思わないでもないのだが、ブログをやるのは素晴らしい!で終わるのではまだまだ甘いとおもう。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
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平昌オリンピックのロゴは悪くないと思う
平昌オリンピックのエンブレムはそれなりに悪くないと思う。
まず、オリンピックのエンブレムを直線で構成するという発想が新しい。
ふつう、こういうスポーツをテーマにしたエンブレムは動きとか生命とかをイメージしたようなものであることが多いと思う。
しかし、今回の平昌オリンピックのエンブレムは、逆に動きというものを一切排除したものになっていて、スポーツをテーマにしたエンブレムとしては非常に斬新なものになっている。
考えてみれば、冬というのはいろいろな活動が止まっている状態なわけで、平昌オリンピックのエンブレムは冬というものがとてもうまく表現されている。
もちろん、韓国発のものにありがちなように、このエンブレムも微妙なところで完全に洗練されているとはいえないところがある。
たとえば黒の使い方とかはちょっと無理があったように個人的には感じられたし、スポーツをテーマにしたエンブレムとしてはいくら何でも動きがなさ過ぎるのではないがと思わないでもない。
全体的な雰囲気も、(これは韓国のものすべてにいえることだが)やはりちょっと暗いと思う。
しかし、これをいいエンブレムか悪いエンブレムかというと、いいエンブレムと言っていいと思う。
なによりも、このエンブレムはたった9本の直線しか使っていない。
パルテノン神殿がイメージされる図形を表す直線が4本、雪の結晶を連想させる図形を表す直線が5本で9本の直線で冬季オリンピックというものがしっかり表現されているのは素晴らしい。
デザインというものはイメージだが、イメージというものはシンプルであるほど大きく広がる。
そういう意味で、平昌オリンピックのエンブレムはなかなかよくできているのではないか。
それに比べると、2年半後に行われていることになっている東京五輪のエンブレムは、まったく酷いとしかいいようがない。
もちろん、このエンブレムには、パクリ作品に特有の卑しさはない。
しかし、卑しさはないといってもそれはあくまで卑しさがないだけのことで、作品のできとしては酷いものだと思う。
パクリエンブレムの撤回という騒動があった後、選考プロセスにも変更があったはずなのに、なんでこんな酷いエンブレムが選考に残るのだろう。
こんなエンブレムで東京五輪が行われるなんて、僕は悔しくてしようがない。
日本というのは美的センスで勝負してきた国なのに、エンブレムがこれでは日本がいかに駄目になったかを世界に宣伝しているようなものだ。
国立競技場の顛末も本当に酷かった。
本当に、東京五輪は駄目な日本を見事に象徴していると思う。
一人の日本人として、東京五輪が駄目な日本に一区切りつけるきっかけになることを祈るしかない。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
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恩を仇で返す貧民と自己責任論
それなりに経済的に余裕がある家庭に育ち、それなりの「教育」を受けた人なら誰でも不思議に思うだろうことがある。
それは、なぜ経済的に恵まれない層で自己責任論が支持をされているのか、ということだ。
経済的に恵まれていないならば、それだけ社会福祉制度の恩恵にあずかることになる機会が多いはずである。
それなのに、なんで貧困層では社会福祉の拡充を主張する左翼的意見の人気がなく、貧困なのは自分のせい、という自己責任論が支持されるのか?
「まとも」な家庭に育った人はそのように首をかしげることになる。
これは一体なぜなのだろうか?
なぜ貧困層で自己責任論が支持されるのかというと、貧困層では恩を仇で返すようなクズが大量にいるからだ。
普通の人が誰かから恩を受けたら、感謝をすることはもちろんのこと、できれば2割、3割増しで恩を返そうとするだろう。
ところが、貧困層のクズはそんなことは考えない。
逆に、これらのクズは恩を受けたら仇で返すのである。
たとえばカネを借りたら絶対に返さないし、その上さらにカネを借りようとする。
もちろん、カネを返す気など始めからない。
カネを返せといわれたら適当にウソをいってごまかせばいいし、面倒になったら音信不通にすればいいと思っている。
ものを借りたら、勝手にメルカリなどで転売する。
そして友達が勝手に持って行った、みたいなウソを平気でつく。
ウソを追求されたら音信不通である。
こんな連中なのだから万引きなんてなんとも思わないし、詐欺や窃盗などその他の軽犯罪も平気でする。
貧困層には、こんな連中がそれこそ山のようにいるのだ。
経済的に恵まれない階層で暮らしている人たちは、子供のころからそのようなことを身近に体験している。
なので、こんな自業自得のクズに情けをかけてもつけ込まれるだけ、というような考えになってくる。
ところが、そこそこまともな家庭で育ち、そこそこまともな教育を受けた人は、世の中にはそういう頭がおかしい人がいるということが理解できない。
普通に暮らしているとそういう頭のおかしい人と接することはまずないし、メディアも貧困層のリアルを伝えない。
テレビなどで窃盗や詐欺などの軽犯罪の容疑者が逮捕された、というような報道があっても、それは全く別の世界の話である。
だから、どうしても貧困というと、現代社会の気の毒な犠牲者、という見方になってしまう。
しかし、もしそのような貧困層のリアルを知らないままに善意だけで貧困層に関わるならば、貧困層のクズに関わっては絶対にいけない、という「教訓」を得るだけで終わるだろう。
難しいのは、このようなクズ的貧民が「自己責任」でそうなっているかというとそうとは言いきれないということだ。
普通の家庭に育ち、普通に大学を出て普通に就職することを期待されている人ならば、人からカネを借りて返さないとか、人のものを勝手に売って音信不通になるなんてことをするはずがない。
詐欺や窃盗、万引きなどの軽犯罪もしないだろうし、そもそもそのような自分が軽犯罪をするなど頭にも思い浮かばないだろう。
そして、どうして普通の人は頭がおかしくないのかというと、結局のところはカネがあるから、というシンプルな理由に帰着する。
これらの貧民系クズが貧民なのは、クズだから貧民というのももちろんあるが、貧民だからクズになりやすいというのも事実である。
しかし、普段から貧民系のクズが身近にいるような生活をしていると、実際に被害があるものだからどうしてもこのような視点を持つことが難しい。
だいたい、貧困層で頭がおかしくない人は生活が楽ではない中まじめに働いてきたわけで、なんで自業自得のクズにカネを流すのか?と考えるのは当たり前のことだろう。
日本の貧困は自己責任、という考え方の背景にはこのような事情がある。
理屈の上では、貧困問題は「自己責任」の問題ではない。
普通の人の頭がおかしくないのは、別に自分の行動に責任を持とうと一生懸命に頑張っているからではない。
しかし、現実問題として貧困問題を扱う場合、それはどうしても自己責任の問題としても考えざるを得ない。
貧困層には気の毒な人がいる一方、頭のおかしい人もたくさんいるし、気の毒な人が同時に頭のおかしい人であることも少なくない。
貧困問題を理解するにはこのように全く違った二つの視点を持つのが重要なのではないだろうか。
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ある種の「成功者」に感じる思い上がりとつまらなさ
落語家の桂 春蝶がTwitterでつぎのような発言をして話題を呼んでいる。
春蝶は単に、自分が生きてきた勤勉と人情に基づく下町的な価値観を表明しているに過ぎないと思うし、春蝶は春蝶なりに前向きなメッセージを伝えようとしているのだと思う。
冷静に春蝶のツイートを読むと、春蝶のツイートにはそれなりに人情もあるとおもうのだ。
なので春蝶の叩かれ方はすこし気の毒だが、それはそうとして春蝶のツイートはいろいろ考えさせられるツイートではある。
世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウhttp://twitter.com/shunchoukatsura/status/965911242844995584ケたいだけ。
— 桂 春蝶 (@shunchoukatsura) 2018年2月20日
この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。
我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ。
僕が昔からものすごい不思議に思っていたことに、「文学関係者のいうことはなんでこんなにつまんないのだろう」というのがある。
ここでいう文学関係というのは、小説家からお笑い芸人にいたるまで言葉で世界観を打ち出すことで生計を立てている人々の全般をいうことにするが、ともかくメディアに出てくる文学関係者のいうことはつまらないことがおおい。
たとえば、僕のなかでつまらなさランキングの断トツナンバーワンはミステリー作家の高村薫だ。
高村のいうことは何から何までつまらない。
まあ、アサヒ岩波文化人の高村からなにか面白い考えが出てくるわけもないけれども、それにしても高村の退屈さはひどすぎる。
高村のいうことは単なる説教に過ぎず、聞いたところで得るものは何もない。
お笑い芸人でいうならば、松本人志がおもいうかぶ。
おもしろいことをいうのが芸人の仕事なはずなのに、芸人というのは話題が社会問題などになるととたんに話がつまらなくなる事が多い。
松本人志などは典型的だが、たとえば働いていない人の話になると「真面目に働け!」と説教して終わりになってしまうのだ。
いったい何でそんなつまらない結論しか出てこないのが不思議だし、自分がいっていることが絶望的につまらないということに全く気づいていないのも不思議である。
同じことをいうなら「実は後輩の芸人がこんな仕事をしてるのやけど、楽な割には結構稼げるみたい。あいつができるならホンマ、誰でもできる。そういう仕事からはじめてみたらええんちゃうかな?まあ、この番組のせいで業界に人が来すぎて後輩がクビになったらちょっとあれやけど」みたいな話でもすればいいのに、松本の口からはゴミみたいな説教しか出てこない。
なぜ、この手の下らない説教がメディアで垂れ流されるのか?
もちろん、昼の「情報番組」を見ていてもわかるように、つまらない発言には安定した需要があるというのもあるだろう。
しかし、僕が冒頭に紹介した春蝶のツイートを見て思ったのは、(春蝶が思い上がった人間だということを言いたいのではないが)成功というのはどうしても多かれ少なかれ思い上がりを招くのではないかということだ。
そして、その思い上がりが文学関係者の発言を退屈きわまりないものにしているのだとおもう。
人間は思い上がると、考えることが止まってしまう。
考えることが止まるということは、型にはまったことばかりいうようになるということなので、当然、話の内容は退屈なものになってしまう。
おなじような思い上がりと退屈さを僕は大前研一にも感じることがある。
もちろん、大前研一の話には興味深い事例がたくさん出てくるし、氏の議論には傾聴に値するものが少なくない。
しかし、僕は大前の、優秀な金持ちを幸せにするほど世界はよくなるという世界観になんともいえない退屈さを感じてしまう。
そして、大前が展開する議論の説得力というのは、大前がなにか重要な論点を捨象することから来るのではないかと思えて仕方がない。
さらにいえば、大前の話の背景にはやはりある種の思い上がりがあると思う。
18年度の税制改正で年収850万円以上は所得控除額が195万円で打ち切られることになり、年収850万円超のサラリーマンは実質的に増税されることが決まった。年収850万円ということは月額70万円くらい。社会保険や何やと取られて手元には40万円ちょっとしか残らない。それで家のローンを払ったり、子供の教育費を払ったりしたらカツカツという世帯はいくらでもある。生活レベルから見れば、税金を引っぺがされても仕方がないような富裕層ではない。
世界ではエンジニアの初任給が10万ドルになっている時代に、年収850万円超を「稼いでいる」と野蛮に線引きして、取れるところから取ろうとする根性が実にさもしい。近代国家として恥ずかしくないのかといいたい。
日本人エンジニアの給料が上がらない理由 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online
僕からすると、持ち家のローンや子供の教育費に汲々とするような俗物的人生のほうがよほどさもしいと思うし、そういう人生を無条件に肯定するところに、大前の思い上がりを感じてしまう。
東京都知事選の前と後で、大前の本質はあまり変わっていないのではないだろうか。
大前には海外からよさそうなアイディアを輸入することでビジネスをするというアイディアの総合商社みたいなところがあるから変わりようがないともいえるけれども。
まあ、高村も大前も松本人志も、それぞれの出身階級のもつ思い上がりを並べているだけなのかもしれない。
もっというと、世間そのものが思い上がりを基に成り立っているといえる。
先ほどいったように思い上がるということは思考が停止しているということだから、世間を相手にしているマスメディアでながれる発言が退屈なものになるのは仕方がない。
しかし、社会問題でもなんでもいいが、問題にたいする対応が思い上がりに基づいたものである限り、問題は全く解決しないだろう。
なぜならば、思い上がりというのは思考が停止している状態だからだ。
電子出版した本
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