本田圭佑
一般論から言えば、今の時期になってハリルホジッチを解任したのは間違った判断であったといえるだろう。ワールドカップの監督がハリルホジッチでないならば、何がよくて何が悪かったのかを分析して今後に生かすことはできないし、日本代表を一時は無理なのではないかと噂されたワールドカップ出場に導いたハリルホジッチを直前になって切り捨てるのは気の毒に過ぎる、というのは全くもってもっともな議論だと思う。
しかしながら、政治家と同様、サッカーの代表監督は結果がすべてである。サッカーの代表監督がやっているのは政治そのものだからこれは当然のことで、代表監督は自分の好き嫌いではなくよい結果に繋がるような選択をしなければいけない。
その意味において、この時期での代表監督解任という結果にはハリルホジッチにも相当の責任がある。ハリルホジッチはハリルホジッチなりに一生懸命代表監督の仕事に取り組んだのだろうが、自分は正しいことを一生懸命やったのに解任された、では通らない。政治家が、自分は正しいことをやったのに落選した!では通らないのと同じことだ。
ハリルホジッチは代表監督として、自分の信じるサッカーと選手をはじめとする様々な関係者の信任を同時に考慮したクリエイティブな妥協案を提示しなければならなかったのであり、それができなかったから解任された。今回、ハリルホジッチは情勢を読み違えた。だから解任されたわけで、結局それがハリルホジッチの代表監督としての限界だったといえる。
さて、泣く人がいる裏では必ず笑う人がいるのは世の常だが、今回のハリルホジッチ解任で笑う人の中に本田圭佑が含まれるのはまず間違いないだろう。今回のワールドカップで、冷遇どころか一部では代表落ちまで噂されるほどだった本田は、これで一躍一番の主役に躍り出た。この反逆児のもつ強運には改めて驚くしかない。
ハリルホジッチが代表監督になった頃、たまたまハリルホジッチが出演している番組を見たことがある。最初から見ていないので詳しいことは分からないが、どうやら小学生にサッカーを教える企画のようだった。そこで、ハリルホジッチは次のようなことを言っていた。
「サッカーだけでなく勉強も大切です。誰もがサッカー選手として成功する訳ではないのですから」
ハリルホジッチは英語ではなくフランス語を話したのでハリルホジッチが何を言ったのかは僕は通訳を通してしか分からなかった。しかし、このハリルホジッチのコメントを聞いて、僕はハリルホジッチは失敗するだろうと思った。
未来ある小学生を前に、なんでこんな後ろ向きな発言しか出来ないのだろう?この発言を聞いて、サッカーを頑張ろうとする子がいるだろうか?勉強を頑張ろうとする子がいるだろうか?ここは少しくらいウソでもいいから希望あふれるメッセージを提示するべき状況のはずだ。ところが、ハリルホジッチは何の考えもなく本当のことを語っただけで、子供の気持ちなど何も考えていないようにみえた。
こんなメンタリティーの監督が成功するわけない。そう思いながら僕は日本代表関連のニュースを眺めていた。ところが、なんだかんだでワールドカップも出場するし、ハリルホジッチが失敗するだろうというのは僕の勘違いだったかな、とおもっていたら、まさか最後の最後で予想が当たるとは思わなかった。
同じことを言うのでも、本田はならばもっと攻撃的なメッセージを伝えるはずだ。勉強勉強言うけど、別に勉強しなくても生きてけるよ、でも勉強するなら本気でしなよ、今日からでも10年後でもいい、やりたくなったらやればいい、本気で勉強してる奴を俺はリスペクトするよ、とか、物事に本気で取り組むことの重要さを熱心に語るだろう。結局、このようなメンタリティーの違いが両者の明暗を分けたといえる。
僕はこの時期の代表監督の解任は結構悪くないオプションだったとおもう。なにせもう時間がない。選手が中心になってやるしかないのだ。今回のワールドカップは本当の意味で選手が主役なのである。ハリルホジッチに不満のあった中心選手は今、相当ハイになっているはずだ。
一方、ショービジネスの観点からしてもハリルホジッチ解任は悪くない。今回の解任では泣く人と笑う人が大量にでたわけで、まずこのこと自体にエンターテインメントバリューがある。そして今回のワールドカップは一体どのような結果になるのか全く分からない。大混乱の中散々な結果に終わるのか、お祭り騒ぎの熱狂の中で全く予想外のパフォーマンスをたたき出すのか、一体何が起こるのか誰にも分からないのだ。
ワールドカップを興行と考えた場合、ハリルホジッチに監督をさせるのと本田に好き勝手やらせるのでは、本田に好き勝手をやらせた方が断然面白い。外人監督を招き続けたところで、どうせ日本代表なんて世界ランク60位程度のチームなのだ。何が起こるか分からない方が見ている方は面白い。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
本物の意識高い系であるために必要なもの
基本的に、意識高い系というのは(この言葉も微妙に「オワコン」になってきている気がしないでもないが)良くも悪くも現実をよく分かっていない若者を指す言葉だと思う。具体的には20代、せいぜい30代前半までで、ようは少しくらい失敗をしてもまだなんとか取り返しがつくし、世間も「若いっていいね!」と気楽に応援できる状態だ。
これが30代も半ば以降になると世間も気軽に応援できなくなる。30代も半ばというと、平均的な「社会人」はすでに「一人前」である。外見だって若者と言うよりはオッサンに近くなってくるわけで、世間からするとオッサンになっても「社会人」の責任を果たさない迷惑な人、という見方になってくる。
しかしながら、意識高い系を「新しいことにチャレンジする人」と考えた場合、意識高い系というのは何歳でもできる。いや、同じことをするにしても年を取ってからの方がかえって意識高い度は高くなっているといえるだろう。腹が出て髪を失っても「若者」と同じことをする、あるいみこれこそ「新しいことにチャレンジする人」と言えなくもない。
新しいことにチャレンジすることは何歳でもできる。しかし、年を取ってから実際に新しいことにチャレンジする人は少ない。以前、iOS用のパズルゲームをリリースした81歳の女性が話題になったが、これくらいの高齢になってからプログラミングをはじめてAppStoreでアプリを公開するまで持っていくのは、世界的にみても相当意識が高い。
もしかして、本物の意識高い系であるためにもっとも必要なのは反逆の精神なのかもしれない。30半ばになったのだから「一人前の社会人」として働かなければいけない、みたいな世間の思い込みに反逆できるかどうかが本物の意識高い系であるかどうかを分けると思う。
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アメリカの農家と幻想の小さな政府
今日BBCをみていたら、トランプに投票した農場主を特集していた。よく分からないが、番組によるとトランプ政権の通商政策により収入が60,000ドルから12,000ドルへと激減したという話だった。
その農家がトランプに投票した理由は、「小さな政府と自助努力」を信じているからだという。たしかにその農場主の60,000ドルレベルの小規模農場の情景を番組でみていると、アメリカの地方でなぜ「小さな政府」が人気なのかが分かるような気がする。それら目の前にみえる農場はすべて彼ら自身が勤勉を通じて勝ち取ったものであり、農場主は農場の経営に全責任を負って農業を営んでいるのだ。
しかしながら、目の前にみえる農場がすべて彼ら自身のものであり、彼らが農場の経営に全責任を負っているということは、彼ら自身の力だけで農業を営んでいるということを意味しない。
まず農業が中央政府からの巨額な補助金でもって成り立っているのはアメリカでも同じである。これらの補助金がなければアメリカの農家はやっていかれないのだ。
水路などの様々な農業インフラにも巨額な投資が行われている。どれも農家が投資をしているものではない。アメリカの農家が農業をするのに必要不可欠なインフラはすべて、行政が巨額な投資をして計画、施行、運営されているのである。
農業をするには石油がなければどうにもならないというのは一部ではよく知られていることだが、これだって国家が軍事力などを通して安定して供給しているのだ。
これらを考えると、農業というのは「小さな政府と自助努力」を信じる農家が否定する「大きな政府」なしでは全くやっていけないものであることが分かる。それはトランプ政権になって収入が60,000ドルから12,000ドルになったというエピソードにもあらわれている。もし農家が「小さな政府と自助努力」でやっていけるのなら、なんで収入が60,000ドルから12,000ドルになるなんてことがあるのか?
番組に出てきたような熱心な共和党支持の零細農家の収入を60,000ドル確保するために「大きな政府」というのはある。ある意味、零細農家が「大きな政府」を否定するのはとんでもない思い上がりであり、天につばを吐く行為といえる。
番組に出てきたいかにも善良そうな零細農場主(それはもちろん、番組に出てきた一人ではない)を批判するようなことはいいたくないし、「小さな政府と自助努力」の理念自体は大切だが、政府をダウンサイジングすればすべての問題が解決するという考えは幻想に過ぎない。
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中途半端な人生について
これまでの僕の人生を一言で言うと、中途半端という言葉がもっとも適切だと思う。
中途半端と言うのは例えば、書店に行って本を買うかわりに何時間も立ち読みをする、ということだ。休みの日には(まあ、引きこもりだと毎日が休みだが)本1冊を買ってそれを読むだけで何かしらをした気分になるのに、ただ本屋で何時間か過ごしたのでは何をして一日を過ごしたのかはっきりしない。ところが、本1冊の値段などたかがしれているのに、僕が本をかうことはそれほどない。正直、僕は本を読んでいるよりも書店をふらふらと歩いている時間の方がおおい。
買い食いなんかもそうだ。僕は昔から菓子などを買い食いする癖があって、コンビニエンスストアやスーパーなどで金額のことなど何も考えずに品物を買っている。それでまあ、もちろんそういう飲食物はどれもそれなりにうまいことが多いのだが、なんというかそれらの飲食料品の品質を考えると中途半場だなあ、とも思う。それらのものは一部の例外を除き、まずくはない。しかし、それらのものを飲み食いして、ほんとうにうまいと思うこともそれほどない。
もうひとつ時間を消費するものにキュレーションサイトがある。たしかにキュレーションサイトをみてみると、価値がある情報の一つや二つは必ずあるし、キュレーションサイトにのっているどんなエントリーでも真剣に読めば意味のある結論を導くことができるだろう。しかしながら、それと同時に、キュレーションサイトにのっている情報は僕が書店をふらふらと歩く間に得る情報や、コンビニエンスストアやスーパーなどで買う菓子や清涼飲料水のようなもので、別にないならないでいいどころか、僕の将来を考えるとない方がいい位のものである。
ある意味、僕の人生は中途半端を極めることで成り立っているところがある。他の人たちが部活や勉強、社会人になってからは仕事に打ち込む中、僕は何もせずに生きてきた。これは別の言葉でいえば何もせずに生きることをしてきた、ともいえるわけで、僕の生き方はある意味では非常に徹底したものである。徹底した生き方をしていればそれがなんであれ当然成果があるわけで、僕はこれまでの人生にたいしてなんの後悔もない。後悔はないが、最近の僕の周りの状況を冷静に観察すると、もう中途半端な生き方を続けるのは難しいかな、と思うのも事実だ。
中途半端なものを消費するのはそれはそれで楽しさがある。しかし、消費には当然コストがともなうわけで、いろいろあって僕は中途半端なものを消費するためのコストを調達できなくなりつつある。僕は一時的に、立ち読み、買い食い、キュレーションサイトの閲覧をやめようと思う。
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デバイスと健康
僕が今使っているSIMフリーのスマートフォンはいろいろ動作が不安定なのだが、症状の一つとして充電スタンドにおいても充電が途中で止まってしまうということがある。
しばらくおいて充電ランプが消えているから100パーセント充電されているかな、と思ってみてみたら、100パーセントどころかなぜか電池の残量がゼロになっていて起動しなくなっていたりするから油断できない。
ここ最近は確実に充電できているのだが、調子がわるいと何度充電しても全く充電されないことがある。このような面倒を避けるために日本製のスマートフォンを買ったというのに腹がたつ。
確実に充電がされない電話機なんて完全に欠陥品だか、しかしスマートフォンが必要な状況はあるわけで、ここ最近は充電されたスマートフォンは必要なときだけ使うようにしてあとはiPad miniを使うようにしていた。
ところが、iOSのフリック入力がとんでもなく使いにくいのだ。
僕が使っているFのスマートフォンはFEPにATOKをつかっていて、フリック入力画面もATOKのものである。ATOKは変換効率はたいしたことがないがフリック入力はつかいやすい。今年の3月までに割とブログの更新が多かったのはATOKが使いやすかったからと言うのが大きい。
iPadを使うようになってブログの更新はめっきり減った。書きたいことが減ったわけではない。書きたいことはあるのにどうもやる気がいまいち出てこなかった。
はじめはまあ、1日に何万文字のエントリーを書くわけでもないし、フリック入力が少しくらいやりにくくても入力は確実にできるのだからたいした問題はないだろうと思っていた。しかし、結果を見ると、フリック入力のやりやすさはブログの書きやすさに直接的な影響があった。
ブログをスマートフォンで書くようにしたら、これまで通りにブログが書けるようになった。いまはまた、以前のようにスマートフォンでブログを書いている。
つくづく、デバイスというのは重要だと思う。
それで思うのは、人間にとって最も基本的なデバイスはいうまでもなく体である。健康に問題があって体というデバイスが使いにくくなると、物事に取り組む意欲もがっくりと低下してしまう。
iOSの使いにくいフリック入力をつかってもブログが書けるように、理屈の上では健康に多少の問題があってもできることにそれほどの影響はないように思える。しかし実際には、健康上のトラブルは些細にみえるようなものでもパフォーマンスに大きく影響する。
ここ最近本当に考えてしまうのは、人間のパフォーマンスというのはかなりの部分というか、ほとんどの部分が健康状態で決まるのではないかということだ。
健康だとどんなことにでも意欲的に取り組めるし、意欲的に取り組んだらどんどん成果が出るから精神的もますます健康になる。一方、不健康だと何をする意欲もわかないし、パフォーマンスが低下した状態で物事に取り組まなければいけないのでなにかとうまくいかず、精神的にも身体的にもどんどん不健康になっていく。
なにか問題を抱えている人が問題を解決するには健康状態を改善するしかない、というケースはかなりあるのではないだろうか。僕の場合も、健康状態がよくなったらそれまでどうにもならなかった多くの問題が勝手に解決してしまった。健康が問題のところを健康の問題を解決せずになんとかするというのは、現実的にはなかなか難しいものがあると思う。
人間には頭が体をコントロールしているという思い込みがある。なので、誰かがどのような人間であるかを判断する場合、健康状態ではなく心がけみたいなものばかり注目しがちだ。ところが、心がけの悪さというのは単に健康状態に問題があることの反映であることが少なくない。
いろいろな意味で頭を中心とする物事の見方は現実を反映していないと思う。
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朝日新聞と大政翼賛2.0
なんとなくだが、日本軍と財務省というのは少しにている所があると思う。なにがにているかというと、どうも政策の方向性を決める議論が現実というよりはある種のドグマによって決まっている感じがする。
たとえば、財政健全化にかんする財務省のスタンスを見てみると、資本主義体制においてそもそも「財政均衡」は可能なのだろうか、という問題意識があるようには見られない。
全世界を見ても均衡財政を実現している国は一国もない。日本もアメリカもフランスも、財政の「不健全性」は似たようなものだろう。こういうとドイツを見ろ!という声が聞こえてきそうだが、ドイツの財政の健全性は全くの偽物である。
財政均衡を実現している国がないのは当たり前の話で、資本主義は借金をすることにより成り立っている。国を一つの巨大な企業と見た場合、借金しないとまともに運営できない。どんな優良企業でも巨額の借金があるのと同じことだ。
財務省の経済政策は手段が目的化しているという印象を受ける。たしかに建前というのは大事だが、建前というのは所詮建前にすぎない。現実を認識した上で建前を打ち出すべきなのに、手段が目的化しているのは日本軍と同じような雰囲気を感じる。
「戦争に勝てるなら日本が滅んでもいい」
「財政が健全化されるなら日本が滅んでもいい」
とか、そういう感じがする。
さて、日本軍というと大政翼賛、大政翼賛というと朝日新聞だ。「大東亜戦争」における朝日の大政翼賛と今の朝日の財務省翼賛というのはなんか似ていると思うのは僕だけだろうか?
大日本帝国の将校も財務官僚も基本的には同じようなものなのに(だからシビリアンコントロールが重要なのだが)、朝日新聞はこれらの官僚の言うことをまるで絶対的な真理であるかのように取り上げる。朝日新聞の翼賛体質は戦前戦後とあまり変わっていないと思う。
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文武両道バカとシビリアンコントロール
文武両道というと、ふつう、学業にもスポーツにもすぐれたパフォーマンスを発揮する優秀な学生、というイメージがある。しかし、僕は文武両道と聞けばどうしても、指導者の言うことならばどんな愚劣なことでも忠実に従い、愚劣きわまる学校行事に熱中するガリ勉タイプのバカを想像してしまう。僕が卒業した「トップ高」がそんな感じだったからだ。
以前、電車の中で防衛大学校の生徒と乗り合わせたことがある。防衛大学校の生徒は外出する際は制服で、たまにテレビでうつる式典でみられる制服と同じものだったので間違いないと思う。それで、ものすごい印象に残っているのだが、その時に乗り合わせた生徒の雰囲気や振る舞い(笑い方とか)は僕が「トップ高」でうんざりしていた文武両道バカとものすごい似ていたのである。
BBCで三佐クラスの幹部自衛官が英語で話しているのをみたことがあった。はっきりいって教養とか知性を全く感じない英語だった。英語というのは恐ろしくて、話している人間の知性や品格が直接的に反映される。こんな英語がリアルタイムで全世界に放送されているのかと思うと恥ずかしさと強い憤りを覚えた。戦争にあんな惨めな負け方をしたのに全然懲りてないと思った。
先ほど三等空佐が参議院議員とトラブルを起こしたという話を読んで、僕はこれらの文武両道バカにかんすることを一気に思い出した。
話題になった三等空佐は、本当に文武両道バカの見本のような人物だと思う。まず、今回の騒動は、自衛隊の幹部職員ってどのような人がやっているんだろう?ということを考える上では有意義だが(ちなみに、自衛隊は結構オタクが多いらしいのだが)、普通に考えて自衛隊に利益になるものではない。しかも、冷静に情況を判断すべき幹部自衛官なのに戦略も何もなく、後先をまったく考えずに衝動的にトラブルをおこしている。こんなことで有事になったらまともに対応できるのだろうかと不安になるような出来事だ。
おそろしいのは、三等空佐が自衛隊の幹部でありながら、日報問題の深刻さを全く認識していないことである。もし日報がなくなったとしたら、これは戦後はじめて「戦闘地域」に派遣された自衛隊の活動を記録した膨大な量の基本資料がなくなってしまったということだ。自衛隊の歴史が後世に正しく伝わらなくても三等空佐は平気なのだろうか?まあ、今回は結局は見つかったからよかったものの、自衛隊の保身により失われた重要資料は少なくないのではないかと不安になる。一方もし自衛隊が日報の所在を知っていながら政治家に黙っていたとしたら、これは議会制民主主義に対する反逆にほかならない。
しかし、三等空佐は、幹部でありながら日報問題の深刻さを全く認識することなく、左翼が自衛隊の邪魔をしているのが気にくわないというような全く幼稚な見解しか持っていない。そして、他の幹部自衛官が日報問題の重要性をはっきり認識しているかというと、認識している人はそれほど多くないと思う。
三等空佐は国会議員の権威も理解していない。
このほどセクハラ問題で財務省の福田事務次官が辞任をした。僕がものすごい驚いたのは、まずセクハラの中身以上に(セクハラの中身も、例の「このハゲー!」に匹敵すると思うが)、この問題が明らかになったあとの前次官の対応だ。「夜のお店で言葉遊びを楽しんだことがある」「自分の声を聞いたことがないので録音の声が自分のものか分からない」など、なんでこんなことを言うのかと不思議に思ったら、なんと退職金を満額もらうために裁判を起こし、録音の信憑性を争おうとしてそんなことをいっていたのである。
「夜のお店で言葉遊びを楽しんだことがある」
「自分の声を聞いたことがないので録音の声が自分のものか分からない」
こんな恥ずかしいことをテレビカメラの前で言うくらいなら、僕ならばいささかの躊躇無く退職金を放棄する方を選ぶだろう。こんな恥ずかしいことは僕には絶対にできない。退職金ゼロの方がまだましだ。(ちなみに福田前次官の退職金は約5,000万円という。以前から比べると数千万減っているが、東電の勝俣会長の退職金もその程度なのでこれくらいが正常なのかもしれない)。
自衛隊とか財務省のような組織には、文武両道バカが集まりやすい。こういう文武両道バカは声がでかいから、少しいるだけで組織全体の雰囲気が劣化する。先ほどの「大東亜戦争」で日本を滅ぼしたのも田舎出身の文武両道バカだった。
文武両道バカは言われたことは真面目にこなすが、自分の頭でものを考える力はなく、傾向として無教養で幼稚で保身に走りやすい(文武両道バカであること自体が保身の結果である)。そして、自衛隊とか財務省のような組織は往々にして、組織全体が文武両道バカになりがちなのだ。
さて、ここで文武両道バカとはまったく正反対の存在であることが期待されている人たちがいる。言うまでもない、それは政治家だ。文武両道バカとは違い、政治家は広い見識に基づいて世間の常識を反映した判断を行うことが期待される。
さらに重要なのは政治家というのは官僚とは違って保身が難しいことだ。もちろん様々な利益誘導による権力の維持は政治の世界には欠かせないが、それでも政治家は保身を第一とする人間が志す職業ではない。なので政治家は官僚よりもより私利私欲から離れた判断を行うことが期待されるのである。
自衛隊や財務省などの組織に対するシビリアンコントロールが絶対的に重要な理由はここにある。文武両道バカがまともな国政上の判断を行うのは不可能である。国政上の判断は、有権者が信任した国会議員が行うべきものなのだ。
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