グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

シベリア

Siberia is an empty land filled with contradictions

https://www.economist.com/christmas-specials/2019/12/21/siberia-is-an-empty-land-filled-with-contradictions

ロシアは日本の隣にあるのに、全然隣にある気がしない。距離的には、ロシアは台湾や韓国とそれほど変わらないはずで、飛行機にのったらあっという間だろう。それなのにロシアがこれほど遠いのは、ロシアに行くのに台湾や韓国に行くよりも費用がかかるからに違いない。もっと安くならないものか?なにかLCCの乗り入れにレギュレーションがかかっているのだろうか?もっとも、もしそのような規制がなかったとしてもロシアで旅行したい人がそれほどいるとは思えないが、これがもしロシアに台湾や韓国に行くのと同じようなコストで行けるようになると、日本人のヨーロッパ観、ひいて世界観は案外大きな影響を受けるとおもう。

富士山でのニコ生と事務次官殺人事件

「教育熱心なご家庭で、お子さんが進学するにあたり勉強部屋をわざわざ近所のアパートに借りて勉強させていた。徹さんは高校は県内屈指の進学校に進んだ。確かお父さんに影響されてか理系だった。高校卒業後はお子さんの話もしないし、どこで何をされているかは聞かされてない。お子さんのことはなかなか話そうとしないから……」(近隣住民)

https://bunshun.jp/articles/-/15542?page=1

ライブ配信中に富士山滑落死》アパート大家が語る「47歳無職独身、木造フロなし弁護士浪人生活」

今年に有名になった教育虐待の事例といえばなんといっても練馬の事務次官殺人事件だが、この文藝春秋の記事を読んで、どうもTETZU氏の一件にも教育虐待が関係しているような気がしてきた。もちろん、虐待があったとしても練馬の一件とTETZU氏のケースでは虐待の度合いは違うだろうが、働くことなく引きこもり、受かるわけもない司法試験の勉強を惰性で続けるなんていかにもだと思う。本当に、親が教育熱心だとろくなことにならない。

必要な時間

なぜ男は冬富士に向かったのか? ~ネット生配信の先に~

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4365/index.html

いろいろ分からないことばかりの今回の話だが、TETZU氏にとって司法試験の勉強をする時間はとても重要なものであったのだろうと思う。端からみるとまったく人生を無駄にしているだけに見えたとしても、本人にとってはたぶん重要だったのだ。そうでなければ世の中のありとあらゆる楽しいことに背を向けて、受かる見込みもない司法試験の勉強なんかするわけない。なんでTETZU氏が法科大学院にも行かず司法試験を受験しようと思ったのか?そもそも司法試験の勉強をする前にTETZU氏は何をやっていたのか?何かTETZU氏を厭世的にするような大きな出来事があったのだろうか?これらの問いに対する具体的な情報はないけれども、TETZU氏が生きる意欲を完全に失っていたことは確かだろう。生きる意欲を失ったTETZU氏は、ただただ静かに暮らしたかったのではないだろうか。しかし、静かに暮らすにしても、そのようなライフスタイルにだって適性がある。はっきり言って、TETZU氏のような人は普通に働いて普通に生きていればよかったと思うのだが、普通に生きるのにも静かに生きるのにも向いていないTETZU氏のような人はいったいどうすればいいのだろう。あまりにどうしようもないので気が遠くなってしまう。

やる気がないことを延々とやる人生

なぜ男は冬富士に向かったのか? ~ネット生配信の先に~

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4365/index.html

もう十年以上、司法試験の勉強をしていたということだが、明らかに向いていない。向いていないというか、このような状況だと、勉強というよりは朝から晩まで法律のことが頭から離れない、法律の勉強が楽しくて仕方がない、朝から晩まで法律の勉強をしてもまったく苦にならない、くらい優秀でないと無理だと思う。もっともそれくらい優秀ならば若いうちにとっくに司法試験に合格しているだろうが、それほど法律が好きなようにも見えないのに司法試験の勉強をだらだらと続けていたのは、やはり司法試験の勉強をしているうちに何かが訪れるのを待っていたように見える。それが法律の勉強に対するやる気なのか、法律以外の活動に対するやる気なのか、とにかく亡くなった男性は何かが訪れるのを待つために司法試験の勉強をしていたと思うのだ。しかし、10年経って訪れないものが11年目に訪れるものでもないだろう。というか、10年経っても訪れないものは20年経っても30年経っても訪れないような気もする。結局、その何か、は訪れることなく男性は亡くなってしまった。本当に、男性の人生は(というにしては我々は男性について知らないことが多すぎるが)ある種の困難を象徴していると思う。

投資と反温暖化キャンペーン

僕はこれまで、グレタトゥーンベリみたいな活動は全然意味がないと思っていた。なぜかというと、地球温暖化の問題は結局は格差の問題であるからだ。地球温暖化が格差の問題であるならば、それは説教では解決できない。そして、グレタトゥーンベリがやっていることは単なる説教にしか僕には見えなかった。このような見方は見当違いだったかもしれない、と最近は思う。グレタトゥーンベリの活動によって、地球温暖化の問題にこれまでとは違った注目が集まりつつある。反温暖化関係の投資をすると儲かりそうな雰囲気が素人の間でもできて来たと思う。そして、みんなが儲かる投資だと思うほど、その投資は実際に儲かるのだ。結局、何を言おうが世界を動かすのはカネの力である。もし環境保護活動家が主張するような資源の使い方が正しいならば、グレタトゥーンベリの活動は非常に意味がある。

冒険家

どちらも人がやらないことをやっているという点で、野口とグレタトゥーンベリはある意味とても似ている。野口氏の批判者がいくら野口氏を登山家として三流と批判したとしても、普通の人では実際にあれだけの資金を集めて実際に山に登るなんてできない。そして、どれほど資金を使ったところでヒマラヤの登山は危険である。同じように、グレタトゥーンベリの活動に賛否はあってもグレタトゥーンベリの活動が普通の人ではできない、という主張を否定する者はいないだろう。大人がやれば目立たないことでも子供がやれば大成功すると環境保護団体に自分を売り込み、実際に世界で最も高名な子供になってしまうなんて普通の子供ではできない。どちらも早くから世間の注目を浴びている点も共通する。普通の人がしない活動をして世間の注目を集めるのが冒険であるならば、野口氏とグレタトゥーンベリも冒険家といっていいと思う。

「一流アルピニスト」ならばグレタトゥーンベリを称賛するのか?

仮に野口氏にグレタトゥーンベリを批判する資格がないとして、それでは一流アルピニストがグレタトゥーンベリを手放して称賛するかというと案外そうでもないのではないかと思う。山なんかに登っているくらいだから、アルピニストには金持ちがいる一方で貧乏な人もいるだろう。それで、一般的に貧乏な人は生計を立てるために大量の化石燃料を燃やさないといけないのである。アルピニストにも、運輸業界などで働くなどして大量に化石燃料を燃やしている人がいるかもしれない。貧乏だと化石燃料を大量に燃やさないといけないのは国家間でも同じで、高い山があるような途上国は内燃機関なしではどうしようもない。だいたい、世界がクリーンエナジーだけになったら、中東などの産油国はどうすればいいのか?グレタトゥーンベリの単純な主張は、ある意味非常に無責任とも言える。その無責任さに苛立ちを覚える人はどの分野にもいると思う。