グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

「山月記」はバズを狙って書かれた作品だと思う

先日、僕は「山月記」は「働かざるもの食うべからず」というような俗人道徳を夢にも疑わないような俗人向けの作品であると書いた。

そして、このような作品は、李徴のような傾向のある人間を無条件的に排除することの肯定につながるもので、これからの学校教育で取り上げる事は不適切であると批判した。

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しかしある意味、このような指摘は全くの見当違いであると言うこともできる。

なぜなら「山月記」は、ある意味、中島敦が自分を批判した作品であるからだ。

 

山月記」が発表された10か月後、中島敦気管支喘息のためになくなっている。

中島敦が「山月記」を執筆中に、ある程度死を覚悟していたことは間違いない。

山月記」には

他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦せるものが数十ある。これを我がために伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

とあるが、自分が今まで書いてきたものが今まさに完全に失われようとしている、というのは、まさに当時の中島敦が置かれていた立場なのである。

そう考えれば、中島敦というのは、外面的にはともかく、内面的にはかなり李徴のようなところのある人物であると言えないこともない。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

とあるが、たしかに中島敦は誰かの弟子になるわけでもなければ、同人を作るなどして積極的に作品を発表するという事をしたわけでもなかった。

結果として、中島敦の文名は一向に上がらず、中島敦よりもはるかに才能がない人間に対しても遅れをとる結果になった。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

という下りは中島敦自身の後悔がある程度は反映されているだろう。

山月記」で李徴は自身が虎になりつつあることでゆくゆくは創作が不可能になることを覚悟するが、これも病状が進行するばかりの中島敦の置かれた状況と対応しているのである。

袁參は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。

という部分は、まあ自虐ギャグであろう。

作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。

自分でいうのもなんだが、自分は素質はあったと思っている。でも、センスに頼り切ることをせずに、もっといろいろと努力をしていればもっといいものが書けたかもしれないなあ。結局は自信がなかったのかなあ、というのが中島敦の自己総括だったのかもしれない。

そういう意味では、「山月記」にはある種の匿名ダイアリーのエントリーを連想させる所がある。

 

中島敦には時間がなかった。

なにせ、第一流であるかはともかくとして、自分がこれまで書いてきたそこそこ出来のよい作品が完全に散逸し、忘れ去られる瀬戸際なのである。

それで、中島敦は思いっきりバズを狙った「山月記」を投下して、手っ取り早く文名を高めようとしたのだろう。

結果として「山月記」は、ほとんどの国語の教科書に採用されるという文学として考える限り最大のバズを起こし、大抵の日本国民にその名が知られるようになった。

そして、その作品は全集にまとめられ、今に至るまで容易に入手が可能である。

中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)

中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)

 
中島敦全集〈2〉 (ちくま文庫)

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中島敦全集〈3〉 (ちくま文庫)

中島敦全集〈3〉 (ちくま文庫)

 

平均的な読者は中島敦の生涯についての知識がないので、虎と中島敦との間に対応があることが分からない。

だから、「山月記」は単に「働かざるもの食うべからず」のような陳腐な説教をうまく形にしただけの、李徴のような人間を煽りまくるために書かれた作品のように思えてしまう。

しかし、一度この対応に気づくと、「山月記」の印象は全く違ったものになる。

そして、「山月記」を中島敦の自己総括としてみた場合、「山月記」の不自然に感じられる部分がなぜそのように書かれたのかが完全に理解されるのである。

山月記」は基本的には、ある種の増田が匿名ダイアリーにアップロードする、自分は失敗した!もう取返しがつかない!みたいな感じのエントリーのようなものだと思う。

そのような作品が、ある種の教育者が歓喜して飛びつくような説教として流通する事になったのは皮肉だが、ともかく、文学者として名を成し、「風流人士」に広く作品が読まれるという中島敦の夢は意外な形で実現したのである。

 電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

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