グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

日本の教育と「Made In Japan」

日本の教育というのは日本の製造業に似ているなあ、と思うことがある。

どちらも「良いものを大量に」ということを目標にしていると思うのだ。

日本の工業製品が工場(それが日本にあるのか中国にあるのか、あるいは地球のどこかにあるのかは場合によるだろうが)で大量生産されるならば、日本の学校というのは国民を大量生産する国民製造工場というべきものかもしれない。

 

もし学校が一種の工場であるならば、問題となるのは品質管理で、日本のメーカーと同じように日本の学校はこの品質管理が相当しっかりされている。

日本の工業製品にはある種の均質性があるけれども、日本の教育の生産物である国民にもやはり、ある種の均質性がある。

普段、日本国民が便利・安心・安全な生活を享受できたのも、この教育における品質管理がしっかり出来ている事が大きい。

そして、日本社会というのはこの、「よい」人材が大量に供給される、という事に基づいて成り立っている。

新卒一括採用・終身雇用などの風習は典型的で、これらは安定した品質をもつ人材が大量に供給される、という事を前提にしたシステムだと思うのだ。

 

しかしながら、今、日本の製造業と日本の教育は共通の問題を抱えているように見える。

日本の家電製品に使いもしない機能が満載されているのと同様、日本の教育も必要のない教育のせいでコスト高になっている。

もっといえば、ぼったくりをする目的でコスト高にしているのだ。

家電製品の場合は少しばかりカネがぼったくられるだけだが、教育の場合は(税金を含む)カネに加えて生徒の時間がぼったくられる。

そして、その割に基本的な部分はものすごい適当だったりする。

基本的な冠詞の使い分けもロクに教えられない英語教育などはいい例だ。

 

思うに、日本の製造業も日本の教育も、何だかんだでそれなりに良い品質のものを製造していると思うのだが、時代が求めているものを供給する、という意味ではすこしズレている気がする。

特に教育の場合は競争というものがないから、教育関係者の自己満足、つまり理想の子供を作るという事があるばかりで、世の中がどのような人間を必要としているのか、という観点が希薄である。

教育を人材を製造する工場だとすると、今、その工場ではどのような製品が作られているのか?

そして、これからの国民製造工場では、どのような製品を製造することを目指すべきなのか?

製品にどのような性能を持たせることを目指すべきか、製品の品質管理はどの程度おこなえばよいか、製造コストはどこに、どの程度かければいいのか?

教育というのは、製造プロセスにかかる期間が非常に長いし、性能とか品質を計測しずらい人というものを製造するものなので、それが製造業であるということがあいまいになっている。

今こそ学校を工場みたいなものと考える事が必要なのではないだろうか。

教育を製造業とみなした場合、それは無駄だらけである。 

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

日本の小中学生の学力が高いのは良い事か?

普通、学力が高いという事は無条件でいい事だとされている。

しかし、子供の学力が高いのは善である、という事は、本当に疑う必要のない真理なのだろうか?

 

国際的にみて、日本の小中学生の学力は高い。

たとえば、日本人ならば誰でも、おつりは暗算で計算できるし、エスタブリッシュメントから貧民まで、だれでも普通に朝日新聞を読む事ができるのは、小中学生の学力の高さの現れである。

このような事は、アメリカやヨーロッパに行けば全く普通ではない。

欧米だと、簡単な暗算はもちろん、読み書きも怪しい人というのが大量にいる。

日本でも、そのような非常に学力が低い層というのはもちろんいるが、日本とは比べ物にならない割合でいるのである。

 

このように学力が低い層が大量にいる社会というのは、学力が低い層を効率よく使うテクノロジーが発達する。

それはITの活用であったり、雇用のシステムであったりさまざまだが、ともかく「無能」な人間にも「富」を生産させた方が儲かるならば、「無能」な人間も工夫して使う、という方向になっていくのは当然の事だ。

アメリカとかヨーロッパの社会が何だかんだで日本よりも効率的なのは、平均的な労働者の学力が低いということが大きい。

合理的で効率的なシステムを作り上げないと、学力のない人たちを動員して儲けることができないのだ。

国民の学力が低ければ、学力が低い人間でも参加できるようなシステムを創造するインセンティブが生まれる。

そして、それが社会の活気というものにつながっていく。

 

最近の日本で起きていることはそれとは逆である。

日本では、みんなそこそこ学力があるものだから、「無能」な人間を使えるような効率的なシステムが発達しない。

どうしても、システムの非効率を個人のスキルと気合でカバーする、という方向になってしまう。

そして、それで何とかなってしまうものだから、システムはいつまでたっても効率的にならない。

日本の組織がやっていることを見ると、それは無駄のオンパレードである。

みんなそこそこ優秀だと、システムが少しくらい非効率でも、がんばれば何でもできるだろう、という気分になってしまうのだ。

アメリカとかヨーロッパとかでは、そうはいかない。

無理なものは無理、と、最初からはっきりと決まっている。

 

日本の今の社会が直面している困難を見ると、それらは明らかに日本人の学力が低いからではない。

日本人の学力が低いから日本が低迷しているわけではないのである。

それどころか、最近の日本社会を見ていると、日本人の学力は問題解決の妨げになっているのではないか、と疑わざるを得ない。

学力というのはどうしても、ある種の思考停止を招く。

学力があると知恵が出てこない、逆に学力がないから知恵が出てくる、という側面は無視できないと思う。

僕は、日本の教育の今の問題は、教育がない事ではなくてありすぎる事、つまり過剰教育だと思っている。

学力というのは無くなったらば無くなったで、それなりにいい事があるのだから、これからは教育の思い切ったリストラを実行するべきだ、と僕は考える。

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教育行政の無責任体質と「教員不足」

どうも、全国の小中学校で教師の数が足りなくなっているらしい。

どれくらい足りないかというと、700人ほど足りなくなっているらしい。

この「足りない」ということの定義がどのようなものかは知らないが、おそらく700人分の授業が「自習」とか、そういう感じになっているのだろう。

そうだとしたら、仮に平均的なクラスの人数を30人とすると20,000人ほどの生徒が授業を受けていない状態だということで、まあ、大きなニュースといえば大きなニュースかもしれない。

www.nhk.or.jp

では、なぜ教師の人数が足りないか、というと、これは少子化を見越して教師を臨時採用の教師に置き換えているからである。

もし、正規採用で教師を採用した場合、今後少子化が進んで教師が余ったとしてもそれらの教師はクビにできない。

なので今、教育行政は、教師を少子化が進むにつれて自由にクビにできる臨時採用の教師に置き換えている。

その臨時採用の教師が採用できなくなっている、というのだ。

臨時採用でもいいから教師をやりたい人の数は限られているのに、必要とする臨時採用の教師の数は増える一方なのだから、教師の数が足りなくなるのは当たり前といえば当たり前の話ではある。

 

臨時採用の教師の採用が難しくなっている理由は、ネットなどを通じて、そんなものになっても正規職員に都合よく使い捨てにされるだけ、ということが周知されてきたから、というのもあるだろう。

どうも、臨時採用の教師とコマ数あたりで働く非常勤教師というのは違うらしいのだが、ともかく、将来の需要に応じて自由にクビにできるから非正規雇用で教師を採用しているのである。

まともな人間ならば、そんなものに応募することが正しいことなのか、考えてしまう方が普通なわけで、だから教師の数が足りなくなるのは当然の成り行きだし、人々が合理的な判断ができるようになっている、という意味では歓迎すべき事だといえる。

 

興味深いのは、先ほどのNHKの番組では教育現場が大変!と言っているだけで、非正規雇用の教師がそのことによってどのような影響を受けるのか、ということが全く取り上げられていない。

「仕事が増えて大変!でもお賃金は減らしたくない!」という教育現場のエゴと、「わが子の教育が!」という親のエゴしかないのである。

取材しているのは現場の教師と文科省の課長だけで、非正規雇用の教師には一切取材がされていないのは、このような無責任体質が反映しているようにも思える。

もちろん、非正規雇用の教師になりたがる人というのはあまりいないんだな、ということを周知する意味はあるが(というよりは、非正規雇用でも教師になりたがる人は増えてないのに必要とする非正規の教師の数は増加する一方、というのが実情だろうが)、NHKとして少しバランスが欠けているのではないか?

 

どうすれば教員不足は解消されるか?

最高なのは、すべての教師を非正規雇用にすることだろう。

教師というのは、べつに非正規雇用でもできる。

だから臨時採用とか、コマ数あたり3,000円で教える非常勤の教師というものがあるし、校長だってド素人の民間人がやっている。

教員免許も必要ない。

年限をなくした「助教諭免許状」を発行すれば、それで済む。

教師を非正規雇用にするなんて不可能なように思えるが、国立大学だって法人化されたのだから案外簡単にできるような気がする。

それが無理というなら、教育内容のリストラと、教師のお賃金を切り下げて生徒あたりの教師数を増やすしかないが、それもイヤだというならば、別に放置しておけばいいのではないだろうか。

学校なんて託児所の一種に過ぎないのだから、授業が少しくらい「自習」になった所で問題はなにもない。

それで影響を受ける層は読み書きと小学生レベルの算数が分かっていればいい層で、もっと高度な学問が必要な層は自分で学問ができるから大丈夫である。

だから、今の状況は放置プレイで構わない。 

どうせ、教育行政にある既得権益を手放したくないからギャーギャー騒いでいるだけだ。

続き

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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小林麻央と女子アナの不思議

小林麻央が亡くなったことを受け、日本テレビで追悼番組が放送された。

過去のNEWS ZEROの映像が紹介され、NEWS ZERO(「ファミリー」なのだそうである)の関係者などが思い出話をしていた。

 

その中で、小林麻央の姉の小林麻耶のコメントが少しだけ映った。

ほんの数十秒なのだが、それを見て、やっぱキー局の女子アナはぜんぜん違うわ、と思った。

そして、小林麻央にキー局の女子アナは絶対無理だと思った。

そこには何か、絶対的な違いがあるように思われた。

どう見ても、小林麻耶はキー局の女子アナで、小林麻央セントフォースなのである。

 

二人とも出発点は似たようなものだったはずだ。

どちらも「恋のから騒ぎ」に出演したのがきっかけで、テレビ業界に入ったのである。

もちろん、小林麻耶はそれから長いことキー局の看板女子アナとして活動するわけだが、それにしてもどうしてこうも違うのだろうか。

 

思うに、普段、視聴者が見慣れているキー局の女子アナというのは、一般人臭が消えている。

キー局の女子アナには、なんというか、女子アナ以外の何者でもない、という、ある種の絶対性がある。

女子アナらしさ、というのが何なのかを言葉にするのは難しいが、とにかく女子アナというのは、キャリア女性でも水商売の女でもない何かで、それらの人たちとは雰囲気からして違っていなければいけない。

女子アナというのは、雰囲気からして女子アナでなければならず、少しでも一般人臭が残っていてはいけないのである。

 

キー局の女子アナだった小林麻耶は、この一般人臭を完全に消すことが出来ている。

でも、小林麻央はいつまでたっても一般人臭(もっといえば「恋のから騒ぎ」臭)が抜けなかった。

小林麻央がどれくらい女子アナになりたかったのかは分からない。

キー局はもちろん、地方局まで軒並み落ちた、という噂もあれば、キー局から声がかかったけれども断った、という噂もある。

案外、女子アナになることに大して興味はなく、もともとタレント志向だったのかもしれない。

しかし、小林麻央に、素人が素人以外のことを(完全に無自覚的に)やっている、という気持ち悪さがあったというのは事実だと思う。

 

女子アナが女子アナでなくてはならないのは、女子アナには威厳という要素が必要だからだろう。

女子アナというのは時として重大なニュースを伝えるという役回りなので、ある程度の威厳というものがなければ画面になじまない。

やはり、女子アナというのはキリッとした(?)部分がないとだめで、ただふわふわしているだけではいけないのである。

それに、テレビに出てくるのは各界の大物が多いわけだから、威厳のない人間には司会などが務まらないだろう。

女子アナの威厳というものは普段、親しみやすさに隠れているが、ナメられたら終わり(特に視聴者には)、というのは女子アナも同じなのではないだろうか。

 

これは多分に、個人のキャラクターの問題なのかもしれない。

多分、女子アナというのはナメられたら終わり、という事を本能的なレベルで理解していて、しかもどんな局面でも相手にナメられないという自信がある女でないと、キー局の女子アナは務まらないのだ。

 

そのような事を考えさせられた追悼番組だった。

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またブログのアイコンの設定をし忘れた!

もう結構はてなでブログをやっているような気がするが、時々ブログのアイコンの設定を忘れる。

「編集オプション」(右のほうの歯車のアイコンのところね。なんで歯車なのか知らないが)の「アイキャッチ画像」で設定するやつだが、それを設定し忘れるのである。

そうなると、はてなブックマークのタイムラインにエントリーが乗った時に、「新」の文字が傾いているいつものアイコンではなくて、記事の下のほうで紹介しているCommon Lispの電子本の書籍の表紙のほうが乗ってしまう。

エントリーの内容とはぜんぜん関係ない電子本の表紙が乗るというのは、とても間抜けである。

 

それを後から修正できれば修正すればそれで済むが、一度ブックマークにのってしまったアイコンは修正ができない。

だから気を付けてアイキャッチ画像を設定し忘れないようにしないといけないのだが、しょっちゅう忘れる。

10回に一度くらいは忘れている気がする。

昨日も設定をし忘れた。

まあ、どうせホットエントリーに乗らないだろうから別にいいか、と思っていたら、これがたまたまホットエントリーのタイムラインに乗ってしまった。

みっともないことこの上ない。

 

アイキャッチ画像を設定し忘れたからと言って実害があるわけではない。

「新」が傾いたアイコンを見たら絶対にエントリーを読む、なんて人がそれほどいるとは思えない。

逆に、「新」のアイコンを見たら、このブログは自分とは関係ないね、とスルーする人の方が圧倒的だろう。

もちろん、あの「新」のアイコンはなかなかインパクトがあるアイコンだと思うので、あのアイコンが僕のブログを読むきっかけになる事もありえるが、ホットエントリーのタイムラインに載っても大抵は200アクセスとかそんな程度なので、なにか具体的な変化があるかというと多分ない。

だから、アイキャッチ画像の設定を忘れても実害はないだろうけれども、これの設定を忘れると、なんとも言えないモヤモヤが残る。

実害はないのだが、何というか、いつもの儀式?が正常に終わらなかったような気がしてしまうのだ。

 

これというのも、(本当の意味で)アイキャッチ画像のデフォルトがブログのアイコンになっていないのがいけないのである。

僕はアイキャッチ画像は全部「新」のアイコンで揃えたいのだが、これでは何か画像なりサムネを乗せた場合、アイキャッチ画像の設定を忘れるとアイコンが揃わなくなってしまう。

見たところこれを変える設定は無いようだし、本当に何とかならないものだろうか。

 

まあ、こんな注文をするユーザーは僕くらいのものであるだろう。

だから、この記事というのは、この記事を書くことでアイコンの設定を忘れることが減るとよいなあ、というだけの事でこれを書いている。

はてなのシステムがどうであろうと、自分の行動は(理屈の上では)変えられるはずだからである。

とはいうものの、出来ることならばそんな事はシステムのほうでどうにかしてほしい、というのが正直なところだ。

設定で、「アイキャッチ画像をいつも指定のサムネにする」というチェックボックスを作ればいいだけの話だと思うのだが・・

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[山月記]無料で読める中島敦の作品まとめ

中島敦の作品は、とにかく「山月記」が非常に有名だけれども、その他の作品を読んだことがある人はそれほどいないと思う。

ネットでも、「山月記」の話題はたまに読むけれども、中島敦の他の作品についての議論はぜんぜん見かけない。

これは非常にもったいないことだと思う。

というのは、中島敦の他の作品は「山月記」と同じくらいか、それ以上に面白いからである。

その面白さというのは、ある種の文豪の作品のように、苦労して辛抱強く読み続けて初めて理解できる、というものではない。

谷崎潤一郎の作品のように、読み始めれば最後、話の中に引き込まれるようなおもしろさである。

まず、話そのものが面白いのだ。

そして、とにかく文章が美しい。

いわゆる文豪の中でも、ここまで美しい文章を書ける人はほとんどいないと思う。

驚異的な文章のうまさである。

だから、話が面白くて文章が美しい小説を読みたいなら、中島敦の小説を読んでみてほしい。

本当に、他の作品も「山月記」みたいに文章が美しく、話として面白いのである。

 

とはいうものの、中島敦の作品はある程度読者を選ぶ。

山月記」とは違い、多くの作品は内容が過激であり、差別的な表現もバンバン出てくる。

ポリコレが嫌いな人(もっと言うと、ポリコレ的なものを拒絶するような知性をもつ人)にはものすごい受けるだろうが、そうでない人には何が面白いかわからないかもしれない。

基本的には読書人のインテリが面白く読めるように書いてあるため、万人に向けて薦められるか、というと、よくわからない。

 

しかし、ありがたい事に、中島敦の作品で代表的なものは青空文庫で読むことができる。

作品が無料で読めるならば、万人向けとはとても思えない中島敦の作品も、万人に向かって、「とりあえず読んでみれば?」と薦めることができる。

そこで、ここでは青空文庫で読める中島敦の作品にどのようなものがあるのかを紹介しようと思う。

盈虚

中国の暴君の話。

親も子もない裏切りが繰り返され、暴君の子が暴君になる、というパターンが終わらない。

環境があまりに過酷で、皇帝になったらそれまでの埋め合わせをするかのように暴虐の限りを尽くす。

最後は気が抜けた終わり方をするが、中島敦は暴君の権力の虚しさを表現しようとしたのかもしれない。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24438_11322.html

かめれおん日記

喘息を患う女子高の教師の日常の出来事や、考えたことが淡々と記される。

ひどい喘息を患うとどのような目に会うかが、かなり具体的に書かれている。

アドレナリンや塩酸コカインなど、過激な薬剤が当たり前のように使われており、医学史的にも興味深い。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24443_15509.html

環礁 ――ミクロネシヤ巡島記抄――

日本統治下のミクロネシアの様子が書かれている。

記述が非常に具体的で、ポリネシアの文化や歴史を理解する上で強力な足がかりを得ることができる。

非常に本質的な文明論が展開される。

とにかく文章が美しい。

個人的には、これが中島敦の最高傑作なのではないかと思った。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/46429_26617.html

牛人

魯の宰相が、数十年前にワンナイトラブで作った子供に自分の子供を殺され、続いて自分も殺される話。

陰惨なだけの話だが、救いは二人の子のうちの一人は助かった(少なくとも作中の限りでは)という事だろうか。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1742_14529.html

鏡花氏の文章

泉鏡花の文学を称賛したもの。

中島敦の文学に関する考え方の一端がうかがえる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24441_11320.html

悟浄出世

西遊記を現代風に完全に書き直したもの。

ほとんどギャグ小説である。

化け物だった悟浄が、哲学的な苦しみを克服するために妖怪の世界を旅した結果、三蔵法師の一行に加わる話。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html

悟浄歎異

悟浄が三蔵法師の一行に加わった後の話。

悟空の知性と三蔵法師の知性という、二つの全く異なった知性が比較される。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card617.html

山月記

改めて読むと、やはり古文漢文はもちろん、英語・ドイツ語・フランス語の本を膨大に読みこんでいる人しか書けない作品だなあ、と思う。

それから、中島敦の他の作品には多かれ少なかれ、権力(皇帝から学校教師まで)に対する批判があるが、これは珍しくポリコレ的に問題がない。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html

十年

1,000文字程度の掌編。

フランス文化に対する憧憬を書いているが、これが、いかにも仏文コミュニティーの周辺にいる人が書きそうな感じの文章なのである。

中島敦の文学はフランス文学の影響が非常に強いと思う(その文学の方向性は、澁澤龍彦の文学に似ている所がある)。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/58014_61337.html

章魚木の下で

戦時下における文壇の風潮を批判したもの。

1943年の新年に発表されたものだが、思ったよりものんびりしている。

まだ国民生活に余裕があったのかもしれない。

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罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察

題名からして痺れるが、カフカ箴言の翻訳である。

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凡ての他の罪惡がそこから生ずる根元的な罪惡が二つある。性急と怠惰。性急の故に我々は樂園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ歸ることができぬ。併しながら、恐らくはたゞ一つの根元的な罪惡があるのみであらう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は歸ることができない。

以前、少し似たようなことを書いた事があったのを思い出した。

急いでやってもゆっくりやっても、結果は変わらないような気がしてきた - グローバル引きこもりブログ

弟子

孔子と弟子である子路、およびその他の門弟についての話。

孔子らの政治活動を40年にわたって書く。

国語の教科書向け。

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斗南先生

50才離れた「叔父」と、大学生の「三造」の交流を描く。

この叔父は、漢学者とも漢文教師とも文筆家とも分類できない、漢文関係者としか言いようがないような人物で、かつての弟子や親族から支援を受けて暮らしている(しかも、当然の権利としてこれを受け取っている)。

それで、他人に支援を受けて何をするかというと、漂泊の生活を送るばかりで何もしない。

そういう叔父の最晩年の様子が描かれる。

終わり方がすがすがしいのは、一つの偉大な(あるいは、少なくともユニークな)精神の大往生を、将来ある若者の視点から描いたものであるからだろう。

「こういうような事でも、やはり支那人は徹底的に懲して置く必要がある」という発言があるなど、当時の漢文コミュニティーの右翼思想がうかがわれる所が興味深い。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1741_17364.html

虎狩

日本統治下の朝鮮の旧制中学を舞台に、朝鮮人の親友「趙大煥」との友情を描いた作品。

趙は両班(朝鮮の貴族)の息子で、母親が日本人という噂がある。

プライドは非常に高いのに実力が伴わず、他の日本人に馬鹿にされながらどうする事もできない、という生徒である。

日本統治下における両班出身の朝鮮人の惨めさが冷静に描写される。

結構ひどい事を書いているのに、その筆致がどこか同情的なのは興味深い。 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24439_11321.html

南島譚

これも日本統治下のミクロネシアをテーマにした作品である。

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光と風と夢

ジキル博士とハイド氏」や「宝島」などの作品で知られるロバート・ルイス・スティーブンソンのサモアでの生活をテーマにした作品である。

白人による腐敗した植民地政策に対抗して、スティーブンソンは(弁護士の資格があった)原住民の側に立って奮闘する。

興味深いのは、たしかに白人は残忍だけれども、その残忍さには限度があることで、戦争状態になっても負傷した敵(原住民)は看護されるし、スティーブンソンと植民地の支配者たちとの交流も断絶せずに続いていく。

そういう所を今の日本社会の惨状と比較すると、なんだかんだで日本よりもヨーロッパ文明のほうが文明的なんだろうなあ、と思わなくもない。

白人の植民地支配、さらには白人文明そのものについて考えさせられる。

結末は悲しいが、限りなくハッピーエンドに近いともいえる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1743_14532.html

名人伝

弓の名人が弓の道を究めるあまり、超能力的な力を発揮するようになる話。

ギャグ小説である。

道が極まると何もしていない人間と同じになってしまう、という結末は皮肉である。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html

文字禍

古代バビロニアを舞台に、文字がもたらす害悪について論じられる。

識字率100%の世界に住んでいると文字の害悪といってもよくわからないが、文字が発明された当時、文字によって人間の知性は劣化するのではないか、という懐疑論は実際に存在した。

過剰教育によって社会が閉塞しつつある(というか、もっとはっきり言うと破滅しつつある)今日の日本においては今日的なテーマなのではないだろうか。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/622_14497.html

妖氛録

50才になってもなお、万人を虜にする妖婦をテーマにしたもの。

そんな妖婦に夢中になるのは馬鹿馬鹿しいが、それでも虜になってしまうのが妖婦たる所以なのだろう。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/56243_53070.html

李陵

漢の将軍、李陵の数奇な人生を描く。

李陵の人生が数奇なものになったのは(小説では)匈奴に対する無謀な討伐計画が原因なのだが、そこから話はものすごい勢いで突っ走っていく。

終わり方はどこか寂しい。

そして、非常に自然である。

どんな物事でも、いずれは歴史の彼方に消え去る事になっているんだなあ、と考えさせられる、素晴らしい終わり方である。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html

狼疾記

病気のために女子高の教師という地位に甘んじる主人公の自己嫌悪が延々と綴られる。

この作品にも、「山月記」で有名な「臆病な自尊心」が出てくる。

終わり方は不思議と明るい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/42301_16282.html

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

「山月記」に出てくる謎の用語まとめ

山月記」は古代の中国を舞台にした作品なので、平均的な読者には調べなければ何のことだか分からない用語や地名が沢山出てくる。

中島敦 山月記

もちろん、「山月記」の文学的な内容は、小説が古代の中国を舞台にしている事だけ分かっていれば理解できるが、しかし改めて読んで見ると、このような用語や地名は結構ある。

山月記」は漢文調で書かれていることもあり、結構読み飛ばすような読み方をされるから、このような部分は多くの場合見過ごされてしまう。

つまり、普通の読者にとって、「山月記」は、いつ、どこで、だれが何をした話なのか、具体的なことが分からない。

それで何か問題があるか、というと特にないが、しかし「山月記」を一行一行読んでいくと、これらの調べないとわからない部分が気になってくる。

そこで、「山月記」に出てくる、中国史関係の用語や地名などを調べてみた。

僕は大して古代中国史には興味がないので(中国の近代史には大いに興味があるのだが)、ネットで適当に調べただけのものだが、「山月記」を理解する上で少しは役に立つと思う。

隴西・天宝・虎榜・江南・尉

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自から恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

隴西は中国のかつての地名で、今でいう甘粛省東南部に当たる。ここはイスラム教徒の回族が多いエリアで、他にもモンゴル族チベット族などの少数民族が住んでいる。日本人のイメージするチベットからはずいぶん離れているように見えるが、実はチベット族が暮らす地域の大半は中国にあり、したがってエベレストなどがある地域のほうが端である。とにかく、隴西という地域はこのようにいろいろな民族が暮らすかなりグローバルなエリアである事が分かる。

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甘粛省の東には、唐の首都であった長安(今でいう西安)がある陝西省がある。中央に乾燥地帯の黄土高原、北には砂漠、南には山岳地帯がある。なんだか暮らしにくそうな感じの所である。

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天宝は玄宗が王様だった時代の後半の事で、742年から756年までの期間を言う。日本でいうなら墾田永年私財法が制定された頃から(743年)、正倉院ができた頃(756年)くらいの期間である。

玄宗の知世の前半は大成功で、この時代が唐が一番栄えた時代らしいのだが、天宝になると玄宗楊貴妃にうつつを抜かして政治をおろそかにするようになり、それが遠因となって唐は内戦に突入する(安史の乱、755年から763年)。李徴が虎榜(科挙の合格者)の名につらねたのは天宝の末年だというから、ちょうど内戦が始まった時期に当たる。

江南とは長江の下流域の事。長江は東西に流れる川なので、下流域の南側である。例えば上海などは江南である。今の中国では、まさにこのエリアこそ国の中心となっているが、唐の時代では江南は後進的な地域だと見なされていた。首都長安から遠く離れたド田舎だったわけである。ちなみに、このような田舎には内戦の影響が及ばず、生活は普段と変わらなかった。行政機構が普段通りに機能している事からもこの事がうかがえる。おそらく地方の官僚には相当の権限が与えられていたのだろう(このような時代だと多分、そうしなければどうしようもない)。

尉とは軍事や警察関連の官職を示す。今でも自衛隊の将校の最下級の階級は尉であるが、これはこの時代の名残である。近代社会とは違って、古代中国では漢詩を作ったり、水墨画を描くなど教養があることが重要視され、軍事や警察の役職は尊敬されなかった(これが中国の発展の妨げになったことは間違いない)。いろいろな役得に関するうまみも少なかったのであろう。

つまり、李徴はこのような遠く都(首都長安)からはなれたド田舎の、世間では軽んじられた役職(賤吏)についたわけで、おそらく上司の質も高いものではなかったのだろう。詩人として名を成そうなんて考える李徴のような人間には耐え難い生活だったのかもしれない。

故山・虢略

いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら詩作に耽けった。

故山とは故郷の事。虢略は今の河南省の西部に当たる。地域全体に川がたくさん流れる平野で、農業が盛んである。李徴がこのように隠遁生活を送ったのは、科挙にパスすることを目指す者は長い年月、そのような生活をしていることも影響しているだろう。

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進士・登第

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴はようやく焦躁に駆られて来た。この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒に炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年のおもかげは、何処に求めようもない。 

登第とは合格すること。唐の時代、科挙には何種類か種類があった。進士はその内で最も難しいもので、全国で30人ほどしか合格者がいなかった。科挙の試験は3年に一度だから、年にすると10人である。科挙を受験するにはいくつかの学校を卒業する必要があり、卒業生はそれぞれの段階に応じて学歴が得られた。虢略出身の李徴が「隴西の李徴」と呼ばれるのは、隴西で学生生活を送ったからかもしれない。

科挙というのは難関のため、当然合格するにも長期間を要することが多く、合格するのは普通オッサンになってからであった。それを「豊頬の美少年」のうちに合格するのだから、自分ならば何でもできる、と思うのは無理もない。

科挙というのは働かずに勉強するための経済的な基盤がいる。だから、李徴の家もそれほど貧乏ではなかったのだろうが、一生詩作だけをしていられるほど裕福ではなかったのだろう。

如水

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或る夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。

 如水とは今でいう撫河のこと。江西省の北部を流れ、長江に流入する。

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観察御史・陳郡・嶺南・虎

翌年、監察御史、陳郡の袁参という者、勅命を奉じて嶺南に使いし、途に商於の地に宿った。次の朝未まだ暗い中うちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜よろしいでしょうと。袁參は、しかし、供廻の多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥しりぞけて、出発した。 

監察御史は全国を回りながら行政腐敗を発見して、これを処罰する役職である。行政腐敗が中国の深刻な問題であるのは、今も昔も変わりがない。観察御史にはその他に、地方で不穏な動きがないかを中央に報告するスパイとしての役割もあった。

陳郡は江南省東部を指す地名である。袁参がこの地で生まれたのかは分からないが、李徴の出身地は江南省の西部なので、広い意味では同郷人といってもよいかもしれない。

嶺南は中国の最南部で、たとえば香港は嶺南である。南にすぐ行くとベトナムである。気候は雨が多く、トロピカルである。

昔、中国の南部にはアモイトラという虎がたくさんいたが、環境破壊の影響で絶滅した。

商於がどこであるかはよくわからなかった。おそらく如水付近であろうが、まあ、虎がたくさん生息するような地方とでも考えればよいだろう(嶺南の北部には山岳地帯がある)。

まとめ

中国というのは近くて遠い国である。

21世紀になっても、僕も含め日本人は中国の事をほとんど知らないのだなあ、と改めて思った。

中国というのは広大で、一つのエリアが国ほどもあり、それぞれの地域によって文化が全く違う。

そして、何千年にもわたる歴史がある。

山月記」をきっかけにして中国について学ぶのも悪くない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。