「山月記」を読み飛ばさずに読んでみた
改めて「山月記」を読みとばさずに読んでみた。
どうも国語教育の世界では、まず「山月記」が生徒にとってとっつきにくい事が問題となっているようで、そんなに難しいかなあ、と文章を確認してみた所、いままで「山月記」を読み飛ばす形でしか読んでない事に気づいたのである。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自みずから恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
例えば、山月記の出だしはこのような一文で始まるが、普通の読者が隴西がどこなのか、天宝がいつなのか、虎榜とは何か、江南尉とはどのような地位なのか(それが李徴にとって「賤吏」であることは分かるのであるが)を疑問に思わずに読み進める事が出来るのは、読者がこの部分を読み飛ばしているからである。
そういう意味では、ある意味、初読で山月記の意味を完全に取ることができるのは中国史の専門家だけとも言えるが、ともかく、考えてみたら僕は「山月記」を一行一行読んだことがなかった。
それで、今度は「山月記」を一行一行読んでみたが、まずその文章の美しさに圧倒される思いがした。
とにかく圧倒されたし、深く感動した。
「山月記」の文章が美しいことは分かっていたが、いままで僕はその美しさの十分の一も理解していなかったなあ、と思った。
もちろん、「山月記」の文章はある程度、読者受けを狙って書かれたものだろうが、それにしても強烈な印象を残す文章である。
其処では醜悪な現実はすべて、氏の奔放な空想の前に姿をひそめて、ただ、氏一箇の審美眼、もしくは正義観に照らされて、「美」あるいは「正」と思われるもののみが縦横に活躍する。
中島敦は泉鏡花の文学をこのように評したが、改めて「山月記」を読み飛ばさずに読んでみると、「山月記」もかなり(鏡花のものとは違い、多いに俗受けする形であるが)芸術至上主義的な立場に立って書かれていることが分かる。
「山月記」に書かれていることは、とにかく、何からなにまで美しい。
そう考えると、僕が「山月記」について書いた過去のエントリーはずいぶん見当違いな事をかいているなあ、と改めて思う。
これらのエントリーの内容が完全に間違っているというわけではないだろう。
しかし小説を読む上で、文学というものはまず第一に芸術である、という事を忘れてはならないのは間違いない。
その一方で、「山月記」を読むと、感動する一方で少々不安になるのも事実である。
氏の芸術は一箇の麻酔剤であり、阿片であるともいえよう。・・読者は、それが、つくりもの――つくりものもつくりもの、大変なつくりものなのだが――であることを、はじめは知っていながら、つい、うかうかと引ずりこまれて、いつの間にか、作者の夢と現実との境が分らなくなって了う。・・それが、鏡花氏の作品だと、読者は何時の間にか作者の夢の中にまきこまれていて、巻を終って、はじめてほっと息をついて、それが現実ではなかったことに気付くのである。
この泉鏡花の文学の特徴は、ある程度は「山月記」にも当てはまる。
「山月記」は文章にものすごい力があるので、読者が作品に飲み込まれてしまう。
そして、作品に飲み込まれてしまうと、もう何も考えることはできない。
「李徴は単に少し運が悪かっただけなのでは?」
「李徴の子供時代はどのようなものであったのか?」
「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」
「普通とは違ったことをする人は、少しくらいは性格的な欠陥があるのが普通ではないのか?」
「李徴のように、才能はあるが迷惑な性格をもった人を、社会はどう扱えばいいのか?」
このような疑問点は、「山月記」を真剣に読むほど出てこない。
確かにそれは芸術の勝利である。
読んでいる内にこのような問いが出てくるのなら、それは芸術として完璧ではないともいえるからである。
しかし、このような問を排除した世界、「つくりもの」の世界を真に受けるのは、とても危険な事である。
「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」
それは李徴が元々狷介な性格だった上に、その狂悖の度がますます著しくなったからだが、そうでなければ作品の美しい世界が成り立たないのだ。
ある意味、李徴というキャラクターは「つくりものもつくりもの、大変なつくりもの」なのである。
そして、「つくりもの」の世界に感動するのと、「つくりもの」の世界を真に受けることは、常に隣り合わせなのだ。
僕は「山月記」を読み飛ばしたので、かえって「山月記」について考えることができた。
その考えがどれほど正しいかはともかく、とりあえずそれは自分の頭で考えたものである。
そう考えると、僕が「山月記」を読み飛ばした事にも少しは利益があったのかもしれない。
ある種の文学は、それが「つくりもの」であるにも関わらず(あるいは「つくりもの」であるからこそ)読む人間を飲み込んでしまうところがある。
それは、とても怖いことだと思う。
ここに氏の作品と、漱石の初期の作品――倫敦塔・幻影の盾・虞美人草等――との相違がある。これらの漱石の作品を読みながら読者は最後まで、それがつくりものであることを忘れないでいることができる。・・思うにこれは、この二人の作家の才能の差ではなくして、その自らの夢に対する情熱の相違のしからしむるところであろう。
漱石と鏡花を比較して、中島敦はこのように記したが、もしかして漱石は文学における芸術至上主義に対して警戒心を持っていたのかもしれない。
そして、この問題を考えることは、国語教育とは何か、を理解する上でも有益であろう。
ある種の薬剤と同じように、ある種の文学はそれが効き目が強いものであるだけ害も大きい。
そのような作品を教室という場で(作品に出てくる隴西やら虎榜などの単語に関する解説を聞きながら)作品に飲み込まれることなく読み進めていくという事にも、国語教育の意義がある、とされているのかもしれない。
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国語の授業で「山月記」をどう取り上げるべきか
先ほど「山月記」関連に関するエントリーを2つ書いたが、山月記というのは国語の授業でどのように取り上げられているのか気になったので調べてみた。
ものを書くことを好む人が多いのか、どうも国語教師というのはネットをやる人が多いようで、検索をすると「山月記」の授業に関しても膨大な量のエントリーが見つかる。
それを見ていて改めて思うのは、「山月記」を授業で取り上げるというのは結構難しいなあ、ということだ。
まず、「山月記」が李徴のような人間を煽りまくる目的で書かれたという側面があるのは間違いないだろう。
文学の世界では、今も昔も李徴のような人間には事欠かないわけで、中島敦に李徴のような生き方を批判する意図があったのは間違いない。
中島敦には書くことがなくなったのに作家という肩書にしがみつく職業作家を批判した一文があるが、職業作家に対する認識がこれなのだから、李徴のような生き方をしている者に対する認識はより厳しいものであっただろう。
だから、「山月記」を俗人受けする説教と考えるのはある意味では間違っているとは言えない。
その一方で、「山月記」に出てくる虎の置かれている状況と、中島敦が置かれている状況との間には対応関係がある。
「格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるもの」だが「第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」未発表の作品を「長短およそ三十篇」書き溜めているのは李徴も中島敦も同じである。
李徴は「進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたり」することなく詩作を続けたが、中島敦も文学コミュニティーからは距離をおいて創作活動をつづけた人物で、人生の大半は無名であった。
さらに、李徴は完全に虎になりつつある事で創作活動を終えようとしているが、中島敦も持病である喘息のために、「山月記」を発表して10か月で亡くなっている。
「山月記」の虎は洞窟で横になって「長安風流人士」によって作品が読まれる夢をみているが、中島敦も病床にありながら文学で名を成すことを願っていた。
李徴は袁参の一行に自らの作品を口述するのも、中島敦が亡くなる前にこれまで書いたものを知人にまとめて委託することに相当するし、妻子を心配する前に作品がどうなるかという心配をしてしまうところまで一緒なのである。
そう考えると、「山月記」には中島敦の自己総括という側面もあることは間違いない。
もちろん、中島敦は概ね李徴よりもハッピーな人生を送った人であったということには注意が必要であるだろう。
中島敦は大学卒業後の人生の大半を女子高の教師として過ごしたが、その職業生活は(喘息による体調不良を除き)全く順調なものであったと伝えられる。
大学院を中退して女子高の教師になったのも、雀荘に入り浸った挙句に雀荘の女性店員と出来婚をしたからで、文学の才能に絶望していたわけでもなんでもなかった。
しかしながら、中島敦には教員生活を楽しむ一方、どこかで「こんなことをしていていいのかなあ」という気分もあったのだろう。
「山月記」の後半は恥も外面もなく泣き叫ぶような感じになっていて、これは受けを狙って悪乗りをして書いたのか(ある種の本当なのかわからない匿名ダイアリーのエントリーのように)、それとも精神的に弱っていたからそのような調子になったのかは分からないが、それでも自分の文学者としての生涯を振り返った時、多少の後悔はあったのかもしれない。
だから中島敦は、李徴のような人間を批判しながらも、自分にも李徴のような部分があるなあ、と内心考えていたのではないだろうか。
李徴はどうして虎になったのか?
李徴を猛獣のように支配する羞恥心や自尊心が、李徴の外面をも猛獣のように変えたから(40字)
まあ、正解であろう(たぶん)。
しかし、本当のことを言えば次のような回答のほうがより真実に近いような気がする。
「虎人伝」という中国の古典をネタ元にしているから(25文字)
ある意味、「李徴はどうして虎になったのか?」という問いは全く見当違いのものといえる。
李徴が虎になったのはそのほうが話が面白くなるからで、それ以上の意味はない。
重要なのは、虎の置かれている状況と中島敦が置かれている状況は同じようなものだったということで、このことを理解しないと「山月記」の内容は良く出来た作り物のように思えてしまう。
国語というのは、基本的には作品に書いてあることだけに基づいて成り立つものである。
だから、国語の授業が「李徴はどうして虎になったのか?」というような問に答えるためのものになるのは仕方がないし、ある程度はそうあるべきだ。
しかし、問いに正解することと作品の内容を理解することは別の話である。
そして「山月記」を「山月記」に書かれた内容だけを考えて読んだ場合、大したものは出てこない。
そこに「山月記」を扱うことの難しさがあると思う。
「山月記」の授業に関するエントリーを見ると、作品の理解と正しく文章を読む技術を教えるという2つの目的を同時に達成しようとして、どちらも中途半端になっている授業が少なくないように思える。
僕が国語教師ならば、「山月記」の授業は「このような作品を読むと、国語教師はこの点とこの点に注目して、このような問題を作ります。回答がここを押さえていれば何点、ここを押さえていれば何点です」という風に授業を進めると思う。
おそらく、作品の仕組みよりも国語という教科の仕組みを教えることに重点を置いた方が間違いなく役に立つ。
その一方で、「山月記」を執筆中の中島敦は虎のような状況にあった、というような、作品の内容の理解に役に立つことをオマケとして話せばいいのではないかなあ、ということを無責任に思った。
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「山月記」はバズを狙って書かれた作品だと思う
先日、僕は「山月記」は「働かざるもの食うべからず」というような俗人道徳を夢にも疑わないような俗人向けの作品であると書いた。
そして、このような作品は、李徴のような傾向のある人間を無条件的に排除することの肯定につながるもので、これからの学校教育で取り上げる事は不適切であると批判した。
しかしある意味、このような指摘は全くの見当違いであると言うこともできる。
なぜなら「山月記」は、ある意味、中島敦が自分を批判した作品であるからだ。
「山月記」が発表された10か月後、中島敦は気管支喘息のためになくなっている。
中島敦が「山月記」を執筆中に、ある程度死を覚悟していたことは間違いない。
「山月記」には
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦せるものが数十ある。これを我がために伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
とあるが、自分が今まで書いてきたものが今まさに完全に失われようとしている、というのは、まさに当時の中島敦が置かれていた立場なのである。
そう考えれば、中島敦というのは、外面的にはともかく、内面的にはかなり李徴のようなところのある人物であると言えないこともない。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
とあるが、たしかに中島敦は誰かの弟子になるわけでもなければ、同人を作るなどして積極的に作品を発表するという事をしたわけでもなかった。
結果として、中島敦の文名は一向に上がらず、中島敦よりもはるかに才能がない人間に対しても遅れをとる結果になった。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
という下りは中島敦自身の後悔がある程度は反映されているだろう。
「山月記」で李徴は自身が虎になりつつあることでゆくゆくは創作が不可能になることを覚悟するが、これも病状が進行するばかりの中島敦の置かれた状況と対応しているのである。
袁參は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。
という部分は、まあ自虐ギャグであろう。
作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。
自分でいうのもなんだが、自分は素質はあったと思っている。でも、センスに頼り切ることをせずに、もっといろいろと努力をしていればもっといいものが書けたかもしれないなあ。結局は自信がなかったのかなあ、というのが中島敦の自己総括だったのかもしれない。
そういう意味では、「山月記」にはある種の匿名ダイアリーのエントリーを連想させる所がある。
中島敦には時間がなかった。
なにせ、第一流であるかはともかくとして、自分がこれまで書いてきたそこそこ出来のよい作品が完全に散逸し、忘れ去られる瀬戸際なのである。
それで、中島敦は思いっきりバズを狙った「山月記」を投下して、手っ取り早く文名を高めようとしたのだろう。
結果として「山月記」は、ほとんどの国語の教科書に採用されるという文学として考える限り最大のバズを起こし、大抵の日本国民にその名が知られるようになった。
そして、その作品は全集にまとめられ、今に至るまで容易に入手が可能である。
平均的な読者は中島敦の生涯についての知識がないので、虎と中島敦との間に対応があることが分からない。
だから、「山月記」は単に「働かざるもの食うべからず」のような陳腐な説教をうまく形にしただけの、李徴のような人間を煽りまくるために書かれた作品のように思えてしまう。
しかし、一度この対応に気づくと、「山月記」の印象は全く違ったものになる。
そして、「山月記」を中島敦の自己総括としてみた場合、「山月記」の不自然に感じられる部分がなぜそのように書かれたのかが完全に理解されるのである。
「山月記」は基本的には、ある種の増田が匿名ダイアリーにアップロードする、自分は失敗した!もう取返しがつかない!みたいな感じのエントリーのようなものだと思う。
そのような作品が、ある種の教育者が歓喜して飛びつくような説教として流通する事になったのは皮肉だが、ともかく、文学者として名を成し、「風流人士」に広く作品が読まれるという中島敦の夢は意外な形で実現したのである。
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「山月記」はそんなに優れた作品なんだろうか?
言うまでもなく、「山月記」というと中島敦の作品の中で最も有名な作品である。
戦前の小説には漢籍をアレンジしたものが多く、これも「人虎伝」という作品のアレンジなのだが、国語の教科書で取り上げられているからみんな知っている。
実際の所、国語の教科書の内でどれくらいのものが「山月記」を取り上げているのかは知らないが、世間の「山月記」に対する反応を見ると、おそらく大抵の教科書に載っているのだろう。
そして、「山月記」の内容の方も、それなりに好評をもって国民に受け入れられているのではないだろうか。
しかし、僕は、「山月記」が文学作品として本当に優れているのかについてかなりの疑問を持っている。
とりあえず、「山月記」の前半部分は文句なしに素晴らしい。
美しい文章が澱むことなく、するすると流れる。
膨大な情報が一切の無駄なく、しかもいささかの不自然さもなく展開される様は驚異的で、漢文調の文体を採用したことが大きな効果を挙げている。
内容としても、
一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。
という身も蓋もない言い方をしているのはこの時代の文学ならではだし、
しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
という所も、なかなか深いものがある。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。
という下りも、深刻なのにどこか滑稽な所があって、中島敦らしくてとても良い。
しかし、
しかし、袁參は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。
という記述が出てきてから、小説の流れがおかしくなる。
読んでの通り、この後はひたすら李徴の泣き言が続くのだが、これを泣き言にしてしまった事でこの小説の価値はものすごい低下をしたと思う。
なんで泣き言にしてはいけないのか、というと、これを泣き言にしてしまうことで「山月記」は人々の思考を完全に停止させるものになってしまっているからである。
もっというならば、この山月記の後半は人々の持つある種のルサンチマンに強く訴えかけるものになっており、それが非常に問題なのだ。
一見、「山月記」の説くところは、何の疑う必要もないこの世の真実のように思える。
しかし、世の中というのは本当に「山月記」が言っている通りなのだろうか?
「山月記」の舞台となっている時代の中国の社会とか文化的な状況は分からないが、しかし李徴のような高学歴で相当のセンスを持っている人間ならば、いくら狷介な性格でもある程度の理解者が出てくるのが普通であるような気がする。
李徴のような人物でもなんとかやっていけるのが、実際の世の中なのではないか、と思うし、だいたい芸術のような事をしている人というのは、どこか李徴のような所があるのではないか?
「山月記」では李徴の失敗を性格的欠陥に求めているけれども、この性格だって本人にはどうすることも出来ない場合がほとんどである。
性格というのは、円満家庭でのびのび育てば人格円満になるし、そうでない家庭でそだてば欠陥が満載された性格になる。
そういうどうしようもなさを泣き言にしてもどうしようもない。
物事というのはほんの少しの違いで、成功するか、失敗するかどうかが決まるものである。
李徴だって、少しめぐり合わせが違えば、大成功するかはともかくとしてそこそこ成功していたかもしれない。
その場合、李徴の人生に対する評価は全く異なったものになるだろう。
「李徴は単に少し運が悪かっただけなのでは?」
「李徴の子供時代はどのようなものであったのか?」
「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」
「普通とは違ったことをする人は、少しくらいは性格的な欠陥があるのが普通ではないのか?」
「李徴のように、才能はあるが迷惑な性格をもった人を、社会はどう扱えばいいのか?」
冷静に「山月記」を読むと、いろいろな疑問が浮かんでくる。
しかし、「山月記」は、このような問題を提起するような書き方はしていない。
それは単に、世間が信じる「働かざるもの食うべからず」みたいな道徳に挑戦した者が当然のように敗北する、というだけの話になっている。
俗人にとっては完璧なハッピーエンディングである。
せっかくのハッピーエンディングなのに、これ以上何を考える必要があるというのか?
せっかく面白いテーマを見つけたのに、中島敦は「山月記」を下らない道徳の問題にしてしまった。
その結果として、「山月記」は教育関係者が歓喜して飛びつくような内容になっている。
しかし、世の中を進歩させてきたのは、むしろ李徴のように少し頭のネジが飛んでしまっている人間ではないだろうか。
李徴のような人間と袁参のような人間の両方がいる事で世の中は成り立つ。
そのような問題を読者に考えさせるのが文学の役割であるとすると、「山月記」は文学になっていない。
せめて後半の部分が淡々とした突き放したものになっていればまだいいが、あのように甘ったるくなってしまってはどうしようもない。
結局、「山月記」は、李徴のような人間を無条件で排除する事を肯定するだけの影響しかないような気がする。
それは、教育関係者をはじめとして日本国民に大うけする作品であるが、そんなことでいいのだろうか。
中島敦の作品のなかで「山月記」だけが読まれている事は問題だと思う。
中島敦の作品にはもっと優れたものがある。
もうそろそろ、「山月記」以外の作品を取り上げる時期であると僕は考える。
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ポテトチップスなどのスナック菓子を素手で食べる人がいるのが信じられない
先日、カールが東日本では買えなくなったことが話題になったけれども、ネットを見ていると、どうもカールの人気の低下にはカールが素手で食べにくいという事も原因になっているのではないか、という意見もあるようだ。
つまり、スナック菓子というのは素手で食べると手が油で汚れるが、カールはその汚れ方がポテトチップスなどの他のスナック菓子よりも甚だしかったので敬遠された、というのだ。
そういわれてみれば、たしかに他のスナック菓子と比べてカールは脂っこかったかもしれない。
しかし、カールが脂っこいならなんで素手でスナック菓子を食べるのだろうか、とも思う。
僕はスナック菓子を食べるときは必ず箸を使って食べている。
いつから箸を使い始めたのかについてはっきりした記憶はないが、もう10年くらいは箸を使ってスナック菓子を食べている気がする。
この食べ方を思いついた時には、自分でも素晴らしいアイディアだと感動したものだ。
まず、なにが素晴らしいかというと、当たり前だが箸を使えば手が汚れない。
スナック菓子を食べるごとに手についた油を石鹸で落とすというのは面倒で、はっきりいってやってられない。
確かに、スナック菓子の油は水で流せばある程度は落ちるが、完全に落とすには石鹸を使わないと落ちない。
箸を使えば、この石鹸で手を洗うという面倒な手間が省けて非常に楽である。
スナック菓子を食べている間に手がふさがる、という事もない。
僕はネットをしながら飲食するという習慣はないけれども、箸をつかえばスナック菓子を食いながらPCやスマートフォンを使う事もできる。
衛生面を考えても、素手で食い物を直接つかむよりも箸で食ったほうがいいに決まっている。
はっきりいって、一度箸を使ってスナック菓子を食べるようになったら、素手でスナック菓子を食うなんて事はできなくなる。
できないどころか、素手でスナック菓子を食べるというのは耐え難いほどにばっちくて野蛮な事だと思えてくるだろう。
なんで箸でスナック菓子を食べる習慣が普及しないのか、というと、たぶんスナック菓子をいちいち箸でつまむというのは面倒なのではないか、というイメージがあるからだと思う。
キャラメルコーンなりポテトチップスなりの一つ一つを箸でつまんでいては切りがないのではないか、という事だ。
しかし、これは実際に箸を使ってみると分かる事だが、箸を使うのと素手で食べるのでは面倒さにほとんど違いがない。
スナック菓子一袋に含まれている数?というのは多そうに見えてそれほどない。
食べるのにかかる時間はほとんど変わらないと思う。
結局、食べ物を食うのにかかる時間というのは咀嚼する時間なので、咀嚼する時間に箸を使えば何も変わらないのである。
もう一つ問題になりそうなのは、たとえばポテトチップスなどで細かく割れたものをどう箸で食えばいいのか、という事だ。
たしかに、割れてしまったスナック菓子を箸で食べるのは面倒である。
僕は割れてしまった余りは大匙のスプーンを使って食べている。
スプーンを使えば、かえって素手で食べるよりも楽である。
このように、スナック菓子を箸で食べる事には絶大なメリットがある。
せっかく日本では箸を使うという習慣があるのだから、スナック菓子を素手で食べるという野蛮な習慣が一刻も早く消滅することを願ってやまない。
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カールが東日本で無くなったのは、明治の健康志向が行き過ぎたからではないか?
少し前の話になるけれども、明治のスナック菓子「カール」の販売が東日本では終了することが発表され、ネットでも大きな話題を呼んだ。
明治によると、近年カールの売り上げは低迷を続けており、東日本でカールを販売すると運送費のために赤字になるので生産中止を検討したが、歴史のある菓子なので軽々しく生産を中止するわけにもいかず、生産と販売を関西に集約することで販売を継続する、ということらしい。
僕はカールのカレー味はたまに買っていたので、このニュースはかなりショックだった。
そういえば、最近スーパーなどでカールは全然見かけなくなっていた気がしていたが、まさかカールがここまでの苦境に追い込まれていたとは全く想像していなかった。
もちろんカールを買いたければ飛行機なり新幹線なりに乗って関西にいけばいくらでも買えるのだろうが、肝心のカレー味が生産中止になったのはショックが大きい。
カレー味の定番スナック菓子というのはカールのカレー味だけなので、カレー好きな僕としてはとても悲しいニュースである。
カールが発売されたのは1968年だから、もう50年もの長い間カールはスーパーなどの棚に並びつづけていたわけで、これほどの歴史のあるものが無くなる、というのはたしかにあまり例がない事である。
ある程度歴史のある食べ物というのは、あまりなくならないものである。
たとえば、僕はもう例のアポロチョコレートはそれこそ何十年も食べてないし、僕だけでなく何十年も食べてない人がほとんどだと思うけれども、それでもアポロチョコレートはなくなってないし、なくなるような気配もない。
だからカールもアポロチョコレートのようにずっと生産が続くものだと思っていたし、世間でもカールがなくなることを予想していた人は業界の関係者を除きほとんどいなかったと思う。
まあ、アポロチョコレートは子供向けに堅実な需要があるのだろうが、しかしどんなに長年売られているものでも本当に無くなるときは無くなるんだなあ、というのが正直な感想だ。
でも、僕はなんで東日本でどうしてカールが販売中止になったのか分かる気がする。
カールのカレー味は他のスナック菓子と比べて味気なかった。
試しに少しばかり塩を振ってみたらちょうどよくなったので、カールを食べるときはいつも塩を振って食べていた記憶がある。
スナック菓子に塩を振るのはいかにも非常識だが、そうすればおいしく食べられるというか、カールに薄味は合わないのだ。
もちろん、当時は特に考えながら食べていたわけではないし、もうカレー味は生産中止になったので関西にいってもカールの味つけを確かめる事はできない。
もしかしたら全く見当違いのことを書いているかもしれない。
しかし、カールの味付けが健康志向でなかったらカールの売り上げも変わっていたのではないか、という印象はある。
カレー味の生産中止の後で改めて他のスナック菓子の味付けをいくつか確認してみたが、薄味のものもあったけれども濃い味付けのものも普通にあった。
売り上げという意味では、カールを薄味にするのはマイナスのほうが多かったのではないか。
時代によってカールの味付けも変わっているはずだが、味付けの変化と売り上げの変化がどう関係するかは調べるほうがいいと思う。
たしかに、薄味のスナック菓子に一定の需要があるのは確かである。
カールの販売が関西で継続になったのは、関西では薄味が好まれるという事もあるのかもしれない。
しかし、全体的に考えると、カールを薄味にするというのはどう考えても見当違いな事である。
薄味のカールを売るにしても、地域ごとで味付けを変えるというわけにはいかなかったのだろうか。
とにかく、カールのカレー味の支持者としては、適切な味付けでもってカールのカレー味が復活することを願うばかりだ。
電子出版した本
多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。
世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。
みんな選択肢を増やそうとして生きているけれども、選択肢というのは増えるものなんだろうか
人間の行動の基準として選択肢を増やすような行動をする、というものがある。
たとえば、教育などは特にそうで、親からみたらば子供の学歴が高いほうが人生の選択肢が広がるような気がする。
高学歴で人生の選択肢がたくさんあると、そのなかで一番有利な選択肢を選ぶことができるから成功するに違いない、という発想だ。
その上、子供が高学歴だと周りに見栄をはれるから、世の中で子供の教育にキチガイみたいになる人が多いのは理解ができる。
しかし、教育によって本当に人生の選択肢は増えているんだろうか?
例えば、医学部を卒業しないともちろん医者にはなれないが、医学部を卒業したあと土木作業員になり、そのまま土木作業員として一生を送る、ということは理屈の上では可能である。
でも、現実的に医学部を卒業した後で医者になるという以外の選択肢をとることは難しい。
医学部に進学した時点で、普通は医者以外になるという選択肢は消えている。
もちろん、医学部というのは医者になるために(あるいは医学者になることを目指して)進学するものだから、それ以外のそれ以外の進路が無くなっても何の問題もない。
それに、医学部に入学した後で何を専門として生きていくか、ということについては膨大な量の選択肢があるわけで、選べる選択肢が少なくて困る、ということはありえない。
しかし、職業の選択という観点から見ると、医学部に入っても選択肢は全然増えていない。
増えてないどころか、それ以外の選択肢はなくなっている。
もちろん医学部は極端な例だけれども、高偏差値の大学に進学をしたとしても話は同じようなものだ。
偏差値が75の学部に進学したとしても、就職の際に偏差値が30というか低すぎて測定不能な学力の人がつく職業から、偏差値が75の人がつくような職業までの中から好きな職業を選ぶ、というわけにはいかない。
偏差値を75までもっていって、偏差値75の学部で教育を受ける過程で、偏差値30の世界で生きる力はなくなってしまっている。
だから、選択肢を増やすというのは、選択肢を増やすというよりはむしろ選択肢を置き換える、というのが正確な言い方だろう。
パチ屋になるか土木作業員になるか配管工になるか、というような選択肢に代わって、循環器のほうに行くか、消化器のほうに行くか、それとも基礎医学の研究者になるか、という、(世間ではもっと魅力的だと思われている)選択肢を入手する、ということだ。
一般に、選択肢を増やせばその分だけ他の選択肢はなくなる。
このことは注意したほうがいいと思う。
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