グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

仙台育英 2-1 大阪桐蔭

元々なんとなく根尾昂君がどうしているか気になって見始めたゲームだった。

根尾君は中学生時代から全国的に名の知られたスーパー球児である。

身体能力がずば抜けていて、中学校時代ではスキーの全国大会で優勝した経験がある。

親が医者だからなのか勉強が得意で、慶応高校に行く可能性もあったのだが結局野球をとって大阪桐蔭に進学したらしい(という噂だ)。

そしてあの激烈な競争のある大阪桐蔭で一年の夏からレギュラーなのである。

根尾君の事は春の甲子園を見ている時に知った。

名前が例の大友克洋の漫画を連想させるというのと、どうも他の高校球児と雰囲気が違うような気がして検索をかけてみたのだが、経歴を見ると雰囲気が違うのも当然である。

 

そうして特に関心もなく見始めたゲームだったが、これは衝撃的な終わり方をした試合だった。

本当は両チームの投手が打線をほとんど完全に押さえこむ単調なゲームだったはずだった。

電光掲示板に延々とゼロが並び、8回に大阪桐蔭が1点をとる事に成功した時はまず、このまま大阪桐蔭が勝つんだろうな、と思った。

それくらい均衡した試合で、中継を見ていた人のほとんどはそう思っていたと思う。

 

ところが9回の裏から雰囲気が怪しくなってきて、2アウトから安打と四球で1,2塁になった。

甲子園では2アウトから逆転サヨナラ、というのは本当によくある。

球場の雰囲気に飲みこまれるのだ。

いつものようにアウトが取れなくなり、アウト一つがものすごく遠くなる。

それで四球かなんかで満塁になって、最後の打者にサヨナラの長打を浴びるというパターンである。

 

しかしそれでもまだ、僕は大阪桐蔭が普通に勝つんだろうと思っていた。

なにせあの大阪桐蔭である。

守備のレベルもとんでもなく高いのだ。

少しくらいのピンチはあっても、しっかりと退屈な試合の終わらせ方をするに違いない。

仙台育英の打者がゴロを打った時、これで終わったなと思った。

 

ところが、タイミング的には余裕でボールが一塁に送球されたはずなのに塁審がアウトを宣告しない。

何が起こったのか全く分からなかった。

 

ゴロをアウトにする際にファーストがベースを踏んでいなかったのだ。

ヘッドスライディングをした後、試合に負けたと思っていた育英の走者が判定を知った時の表情は忘れられない。

 

そして迎えた次の打席。

運命の最終打者の打球は外野手の頭上を越えていった。

 

2-1、逆転サヨナラ。

中継画面の背景で、バンザイをするように両手でガッツポーズしながら生還してくる2塁ランナーを僕は信じられない思いで見ていた。

仙台育英の勝利への想いが、あるはずのない勝利を手繰りよせたのだ。

この勝利が育英の選手にどのような心理的影響を与えるかは分からないが、絶対的なチームが特にないらしいという今大会なので場合によっては(あくまで場合によっては、だが)東北勢初の優勝もありうる。

 

明徳の馬淵監督のいう「大阪の太った監督」は、少し泣いているように見えた。

大阪桐蔭といえどもこれだけのレベルの控えが必ず用意できるとは限らない。

今大会では打線が不調だったという事だが、絶好の機会を逃したといえる。

試合の結果をみれば、大阪桐蔭は終盤、何かあったときのためにエースに準備させておくべきだったとも思う。

一応逃げ切れそうでも念のためにエースにスイッチ、というのもありだったのではないか。

それで結果が変わっていたかはともかく、そちらの方が納得できる終わり方ができたような気がする。

失策したファーストが2年だったというのは不幸中の幸いだった。

こんな形で最後の夏が終わって、それを一生背負っていくというのは厳しすぎる。

 

さて、僕が注目していた根尾君だが、試合がおわってもいつも通り聡明な表情で落ち着いた様子だった。

今回は残念ながらこういう結果で、根尾君は見納めである。

来年の夏にまた甲子園に戻ってくる事を期待したい。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。 

産経新聞の日本語が何でおかしいのか分かって衝撃を受けている

産経新聞というと、あの産経的としか言えないような論調が有名な新聞だが、僕のなかでは何よりもまず日本語がおかしい新聞という事になっている。

先日も産経の日本語がいかにおかしいか良く分かる記事を見た。

今の政府の改憲運動を支持する「正論」のタイトルは産経の日本語のおかしさを示す典型的な例である。

www.sankei.com

ポータルサイトとはいえ、タイトルに【を使う所からして異様さを感じるし「改憲を躊躇すれば、反対派の『思う壺』」という下りも全国紙の表現としては異様だが、何よりも印象的なのは「支持率低下は『改憲つぶし』を画策した共産、民進、左翼メディアが最大の原因だ」という部分である。

僕は政府の支持率が低下したのは森友・加計・日報問題の三点セットと、長期政権なのでそろそろ政権の寿命が来ている事が理由だと思うが(まあ、改憲のような下らない事に熱中しても支持率向上にはつながらないけれども)それはいいとして、「共産、民進、左翼メディアが最大の原因だ」という文章は一体何なのだろうか?

もし支持率の低下に共産党民進党、朝日などの左翼メディアという3つの原因がある、という事を言いたいのなら、「共産、民進、左翼メディアが原因だ」と言えばいいし、例えば共産党が最大の原因だと考えるならば「共産党が最大の原因だ」と言えばよい。

それが「共産、民進、左翼メディアが最大の原因だ!」と言われたら3つの原因のうちのどれが最大なのか分からず、読者の方は当惑する。

いや「全部最大なんだよ!」と言われるならば、まあ何を言いたいのかはよく分かるけれども、これは普通の人ならば絶対に書かない種類の日本語であるのは間違いない。

もしかしたらPVとかSEOを意識してタイトルを考えているのかもしれないが、ともかく産経というのは論調がアレである以前に日本語からしておかしい事がある。

 

産経の日本語がどうしてこれほどおかしいのか僕はかねてから不思議に思っていた。

僕は子供の頃は朝日を読んでいたので産経の日本語のおかしさはなおさら異様に思える。

朝日というのは、その報道の質はともかくとして記事の文章だけはうまい。

最近の朝日の紙面には昔と比べるとかなり微妙な文章が見られるようになったような気がするが、僕が子供の頃の朝日の記事は文章に一点の狂いもなかった。

そういう経験があるものだから僕は産経の日本語が不思議で仕方がなかった。

「物事の考え方がここまでおかしいと、日本語までおかしくなるものなのだなあ」と考えても、この不思議さが消える事はない。

世の中に考え方がおかしい人はいくらでもいるが「共産、民進、左翼メディアが最大の原因だ!」みたいなレベルでおかしい日本語を書く人は見当たらない。

それなのに、なぜ産経の日本語に限っておかしいのか?

 

以下のLiteraのコタツ記事は僕の数十年来の疑問を解消するものであった。

lite-ra.com

それによると産経新聞の社員というのはみんな朝日・読売・NHKなどに行きたかった人がほとんどで、物事の見方や考え方もこれらのマスコミの従業員と同じらしいのである。

だから産経新聞の社員は産経新聞の紙面を内心では恥ずかしいと思っているというのだ。

「そもそもどういう人が入ってくるかというと、「朝・毎・読」(『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』の略)とNHKの試験を落ちた人が『産経』を受けて、それぞれおさまっていきます。
 そういう意味では、東京本社の記者はかなりコンプレックスが強いです。学歴的にも華々しい人はあまりいませんし。学校の成績も入社試験の成績もイマイチだった人が入ってきます。そして、東京本社の記者は自分の紙面を恥じている人が多い。本当は『朝日』に行って、カッコ良く社会批判の記事でも書きたかったんだけど、そうは問屋が卸さなかった。仕方なく『産経』に入り、「ジャーナリストになりたいという夢」は一応、表面的に満たしてくれるので、そこで言われたことをやるという人がほとんどでした。 

この下りを読んで、僕は産経新聞の日本語がなんであんなにひどいのか心から納得する事が出来た。

産経の日本語がおかしいのは、書いている人間が自分が書きたい事とは正反対の事を嫌々書いているからなのだ。

報道関係の仕事をしたい、と考える人は大体、物を書くのが好きで、しかも朝日とかNHKのようなセンスを持っている人が多い。

そういう人達にとって(上の例では寄稿か聞き書きかはわからないが)百地章氏のような人物にその主張に沿うようなインタビューをして、それを記事にまとめるというのは拷問のような作業に違いない。

産経なんか読むバカにはこの程度の文章でいいだろう、とでも考えて書き飛ばしていかないと、とてもやってられないだろう。

おそらく、このような態度は産経新聞社全体に共有されている。

校閲に訂正されるべき部分がそのまま出てくるのは、校閲も(校閲というプロセスがあれば、の話であるが)同じように読者をバカにしているからに違いない。

 

考えてみたら産経のような主張を世の中に広めようと報道関係を目指す人などほとんどいないに決まっている。

だから産経に入社しても産経をやめて、もっとまともな職場に移りたい記者はたくさんいる。

驚くことに産経にはそういう社員をターゲットにする他社のエージェントまでいるというのだ。

『産経』東京本社の中には、『東京』のスカウトマンがいると言われていました。『産経』の社員なのに『東京』からお金をもらって、「これは」と目をつけた記者をどんどんスカウトするのです。

しかし、そのようにしてうまいこと他社に転籍できる人はいいが、転籍しようとした人がだれでも転籍できるわけではない。

産経新聞を読んでいると、これを書いている人はちょっと他のマスコミでは厳しいかな、と思う事がある。

文章というのは個人の持つ能力がそのまま出てしまうので言い訳ができない。

だから他のマスコミでは厳しい産経社員は(自分の持つ能力の限界を意識しつつ)今日も産経的な記事を書き続けるしかない。

産経の日本語にはこのような産経社員の置かれた状況が直接的に反映されている。

 

僕はいままで(暫定的に、ではあるが)産経の日本語がおかしいのは産経社員の頭がおかしいからだと思っていた。

しかし産経の社員だって就職活動の際は朝日とかNHKなどの大マスコミを受けているのだ。

朝日の社員の能力の平均と産経の社員の能力の平均とではそれなりに違いがあるだろうが、基本的には同じ種類の人たちなのである。

そういた種類の人たちが産経の社員をやるとなると当然色々な葛藤があるだろう。

それらの葛藤を反映した産経の日本語は、ある意味で産経の社員のまともさというか、人間性の現れであるのかもしれない。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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手軽に野菜と果物が取れるうまい缶ジュース「野菜生活100 地産全消 果実めぐり」

よく健康のためには野菜と果物が重要だ、という。

僕は普段、医学的に実証された、みたいな感じの健康法には全く興味がないが、これは本当だと思う。

野菜も果物も乏しい食事をとると食後に野菜や果物を食べたくなる。

その時に野菜や果物が取れないと何かすっきりせずに落ち着かず、食事が終わった気がしない。

非常に偏りがある不自然な食事をとった事で体に負担がかかっている、という感じがするのである。

これはやはり、体が足りない栄養分が何かを認識しているからだろう。

 

しかしながら、野菜とか果物というのは必ずしも簡単に取れるものではない。

これらを十分な量、普通の方法で取る、というのは意外と手間がかかる。

しかも野菜とか果物というのは決して安いものではない。

生の果物などはほとんど贅沢品といってもよいのではないだろうか。

貧困層が不健康なのは、一つは野菜や果物などをふんだんに利用できないから、というのもある。

そして多忙のあまり食事が外食中心になれば、もちろん野菜や果物は不足する。

 

そういう場合に役にたちそうなのが「野菜生活100 地産全消 果実めぐり」である。

 

僕がこのジュースを知ったのは偶然、実家に歳暮として送られてきたことがきっかけだった。

最初、僕はこのジュースに全く期待をしていなかった。

それどころか、正直にいうと僕はこのジュースに対して警戒心をもっていた。

野菜入りの飲み物というのは、すりおろしたニンジンが入っているとか、そういう事が多くある。

そのようなものは飲み心地がドロドロしていてどうも苦手なのである。

だから、このジュースが歳暮として送られてきたときは「何で野菜ジュースなんかを送ってきたのか、さくらんぼ2kgでも送ってくれればいいのに」と内心腹を立てていたのだが、飲んでみるとこのジュースは当たりの歳暮だった。

 

まず心配した飲み心地だが、これは完全に果物と野菜のジュースで果物や野菜のカスのようなものは一切はいっていない。

飲み心地という意味では普通のジュースと何も変わりない。

そして野菜ジュースというと、飲みにくい味がするのではないか、と心配になるが味のほうも問題ない。

成分100%の内、果物が50%、野菜が50%という割合なのだが、あまり野菜、という感じはしない。

野菜は隠し味のようなものになっている。

全体としては果物の味がベースになっていて非常に飲みやすいし、かなりうまい。

普通にグビグビ飲める。

一般に飲まれている果汁100%のジュースと比べたら断然、こちらのほうがうまい。

それには何よりも品質の違いがあるのだろうが、いくつかのジュースがブレンドされたジュースというのは、ブレンドでないジュースにはない味わいがある。

特に「紀州うめミックス」味などは梅の酸味が効いていてかなりインパクトのある味がする。

 

このジュースの容量は190mlなのだが、この容量も多すぎず少なすぎず、でちょうどよい。

飲んだらちょうど満足するような量である。

350mlの缶ジュースを見慣れていると随分と小さく見えるが、実際に飲んでみると190mlでちょうどいい。

味がしっかりしているので190ml飲むと十分に飲んだ気がするし、食事の後に飲んでも胃腸の負担にならない。

これが350mlだと、食事後に飲む場合、量が多いのでちょっと飲む気がしないな、という事も多くなるだろう。

満腹になった後で350mlを飲むのはかなりきついが、190mlならば何の問題もなく飲み切れる。

 

ジュースと加工してない野菜や果物とでは栄養的にどれくらいの違いがあるのかは分からない。

しかし質の悪い食事を取った場合でも、これ一本を飲むと、何か野菜や果物をとりたい、という渇望感がぴたりと収まる。

必要な栄養を取るという意味では、かなりの効果があると思う。

もしかしたら不味い手料理よりも適当な加工食品を食った後でこれ一本飲んだほうが健康的には良いかもしれない。

入っている野菜は、にんじん、ピーマン、ほうれん草、アスパラガス、小松菜、クレソン、かぼちゃ、紫キャベツ、ブロッコリー、メキャベツ、ビート、赤じそ、セロリ、レタス、はくさい、ケール、パセリ、なす、たまねぎ、だいこん、キャベツなどの21種類である。

これだけの種類の野菜を一度に安定して取るという事はジュースなくしては不可能だろう。

 

 今回僕が飲んだ「野菜生活100 地産全消 果実めぐり」は、贈答用の缶ジュースだった。

これは21缶がセットになっているものと24缶のものとがある。

カゴメのサイトを見ると24缶セットの参考書価格は3,500円となっているから、一缶あたり150円ほどである。

自動販売機で清涼飲料水を買うと一缶130円することを考えると、かなり安い。

贈答用でも自分で買っても問題ないレベルである。

しかしカゴメからは同じような価格で贈答用でない野菜ジュースも売られているので、贈答用を買うのはどうも、という人はそちらを買うのもいいだろう。

www.kagome.co.jp

僕はこれまで何となく野菜ジュースにいい印象をもっていなかったが、正直、野菜ジュースのイメージが変わった。

野菜ジュースはもっと飲まれてもいいと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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夏本番はいつか?

最近、どうも涼しい日が続いているような気がしてならない。

これまでなんとなく、8月が最も暑い時期だと思っていたが、これは実は思い違いで、暑さに関して言えば7月のほうが暑かった。

7月の暑さはものすごかった。

夏ってこんなに暑かったっけ?と驚くばかりの暑さ。

直射日光がものすごい。

まさに、灼熱、という形容が当てはまるような直射日光だった。

はっきりいって、暑いなんてものではない。

僕はそれほど暑さに弱い方だとは思っていないが、そんな僕でも、用事は夕食終わった後にしておこうか、と思うほどだった。

 

その時と比べると、8月の暑さは勢いがない。

それでもまだ暑い日はあるんだろうけれども、それは7月のような安定した暑さではない。

現れては消える、移ろいの中の暑さである。

まあ、まだ8月になって10日ほどしか経っていないので、8月の気候というのはどうなるかはこれから気を付けてみて行かないといけないが、これまでの気候を見ると、どうも7月のほうが夏らしかったような気がする。

 

僕の感覚では、7月というのは初夏で夏本番なのは8月、という認識だったが、夏本番は実は7月なのではないだろうか。

多分、初夏なのは7月ではなくて6月のほうで、7月は夏本番、8月は夏の終わりなのである。

これまでの僕の認識は一か月分ズレていたのだ。

これは、8月の次は9月であることからもわかる。

9月といったらもう秋である。

去年、秋の始まりはいつか、ということを注意しながら気候を観察していた事があったが、それによると当地では、秋の始まりは大体9月の半ばくらいだった。

この季節になると、昼はよくても夜は長袖がないと肌寒くなる。

半袖を着る事が不安になるのが9月の半ばなのである。

だから、あと30日程度で夏は終わる。

 

季節に気をつけていない時は、夏というのは春とか秋よりも長いような気がしていたが、いざ夏が終わり始めるとなんだかあっという間だったなあ、と感じる。

そして、8月が終わるということは一年の2/3が終わる、ということである。

7月が始まったとき、一年の半分は既に終わっていたけれども、どんどん暑くなっていく気候のために一年の後半が始まるという感じはしなかった。

しかし、8月になると、いよいよ一年の終わりが近づいている事が感じられる。

そのうち秋になって、さらには冬になって大晦日になるんだろうな、ということだ。

 

もちろん、夏の気候がどのようなものであるか、というのは、年によって違うだろう。

7月が涼しくて、8月が猛暑になる年だってあるかもしれない。

それに、夏がどれくらい暑いのかは地域によって差があるはずで、南方では9月になっても連日のように暑い日が続く、という事もあるかもしれない。

もっと言うと、6月というのはやはり初夏というよりは、春のほうに分類されるようにも思える。

それにも関わらずこのような事を書いたのは、いつも予定よりも10分前に行動する、みたいな事でもないが、その方が計画を立てる上でより良い目安になると思うからである。

実際の気候はともかく、6月を初夏、7月を夏本番、8月を夏の残り、と考えたほうが分かりやすいし、見通しを立てやすいと思う。

 

今年の夏はもう終盤である。

しかし、まだ夏の間にできる事はいくらでもある。

どんな事でも、一週間本気で取り組めば、それなりの進展があるだろう。

そして、夏の終盤を過ごしながら、来年の6月にどのように入っていくのかを考えるのも無駄な事ではないと思う。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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アラフォーからの成長

成長というのは何だろうか?

例えば、幼児であったり、10代であったり、20代であったり、これらの年代では大きな成長がある、というのはだれも否定しないだろう。

これらの年代では皆、身体的にも社会的にも大きな変化があるわけで、それに従って中身のほうも変わってくるのである。

どうも、成長というのは外部の変化と一緒になって来るものであるような気がする。

環境が変わると誰でも、遅かれ早かれ、普通はその環境に適応していく。

もちろん、内面の変化が外面の変化に先立つ、という事もあるだろうが、内面の成長と環境の変化というのは関連がある事が多い。

 

そういう視点から僕の30代前半までの人生を振り返ると、それはほとんど成長がない人生だった。

病人というのは成長するのが難しい。

いや、病気の程度によっては、成長と闘病を同時並行で続ける事ができるし、実際にこの二つを両立している人はいくらでもいるが、僕の場合はそうではなかった。

まず、病気の程度が重すぎたし、病気の種類も社会で生きる事が無理になるようなものだったから、正直、生きているのがやっとで成長どころではなかった。

理屈では、どんな状況でも出来る事はある。

しかし、理屈ではそうでも、現実にこの理屈を実行するのは本当に難しい。

今になって自分の人生を冷静に観察すると、そう考えざるを得ない。

もちろん、(広い意味でだが)勉強は続けていたので、英語が分かるようになるとか知識の量は増えているが、では人間としての成長があったか?というと、これはゼロといっていいと思う。

 

僕がまあ、世間一般が言うような意味で成長を始めたのは、本当にここ数か月なような気がする。

それほど健康状態に変化はないような気がするが、なんだかんだで以前から僕を雁字搦めにしてきた拘束が軽くなっているのだろう。

いろいろな事に挑戦する意欲が出てきた。

考えてみたら、僕はこれまで何か意欲的に物事を取り組んだことがなかった。

もちろん語学やプログラミングなど、惰性で取り組める事には取組んできたが、それはあくまで受動的な取り組みかたで、(なかなか説明するのは難しいが)意欲的には取り組んでいない。

意欲的に取り組む、ということが出来ないので、仕方なく惰性でできて、ある程度将来にとってプラスになるかもしれない事をしてきたに過ぎない。

しかし今では、何の心がけがなくても色々な事に取り組む意欲がある。

健康上の拘束が軽くなった後で、精神のほうが成長したのかもしれない。

 

これは病人でない人には理解が難しい事だろうが、僕は35になる前はほとんど死んでいたも同然だった、と思う。

だから僕は、(これは一時の勘違いかもしれないけれども)自分の人生は今、始まった、という感覚を非常に強く持っている。

もちろん、精神的に生長し始めたと思ったら自分はオッサンになっていた、というショックはある。

しかし、その一方で、僕は精神のあり方が本質的に攻撃的だから、歳だけ食ったしょぼくれたオッサンには絶対なっていない、という自負もあるし、今は高齢化社会だから、見方によっては僕みたいな者でもまだ若い部類と言えなくもない。

そう楽観的に考えて、まあ、今でも健康上のトラブルが無くなったわけではないが、これからは今まで無理だった事も意欲的に取り組んでいこうと思う。

本来ならば、生長だの意欲があるだの、そのような事は書くべきではない。

しかし、今の心境をどうしても書き残しておきたいというか、書くことでこの問題を徹底的に考えてみる必要があるので、あえて書く。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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全国高校野球選手権:明徳義塾6-3日大山形

6回で3-3の同点のまま両チームが継投して、投手戦に突入した。

投手戦も、双方の投手が打者を圧倒しつづけるならば落ち着いて見る事ができるが、今回の試合はそのようなものではなかった。

特に日大山形のほうは、次から次へとピンチが続く中、守備にミスが出たらそれで終わり、という、とんでもなく緊迫した試合になった。

 

日大山形の2番手ピッチャーの中西はものすごい印象的だった。

まず、身長が低くて170cmない。

普通、甲子園にくるピッチャーというのは小柄でも170cm前半くらいはあるので、中西の身長の低さは目立つ。

投球フォームも独特で、元インディアンズ・日ハムの多田野みたいである。

球速も全然ない。

いつも球速110km前後で、120km以上の球速は出ない。

普通に90km台の球も投げるのである。

こんな遅い球を投げる投手は甲子園で初めて見たが、このようなスピードでもなかなか打たれない。

打たれてもゴロかフライになる。

といっても、野手が必死で長打をフライにしている事も多かったが。

 

結局、12回で明徳打線につかまって連打を浴び、エラーから3点を失って試合が終わった。

しかし、日大山形は明徳相手に全力を出し切ったと思う。

負けたといっても、見ていて感動する負け方だった。

負けにも、感動する負け方と大して感動しない負け方があるが、日大山形の負け方は感動する負け方だった。

日大山形の監督が「勝負事だから仕方がない」と、晴れやかな顔でコメントしていたのが印象的だった。

 

明徳対日大山形の試合を見た後で、昨日の分の「熱闘甲子園」を見た。

なんでも、東筑高校(毎年、九大に70人ほど合格する公立の進学校である)の近くには野球部員が散髪する床屋があって、東筑の野球部員はそこのおばさん(というか、おばあさん)と親しいらしい。

その床屋は来年の3月に閉店になるというのだが、その最後の夏に東筑は激戦の福岡大会を勝ち抜き、21年ぶりに優勝したというのだ。

そんなマンガみたいな話があるのか、と驚いた。

www.asahi.com

番組はこのような事をくどくど説明しない。

最後に、長野さんの店は、来年の3月に、閉店する。というナレーションがあるだけである。

熱闘甲子園」のディレクターはセンスがいい、と関心した。

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読書経験者

夏の甲子園が始まった。

8月22日に優勝校が決まるまで、これから熱戦が繰り広げられる事になる。

甲子園というのはともかくすごい。

テレビで見ると、全員すごい野球の技術をもっている。

甲子園に出場するのは各都道府県で優勝したチームだからみんな上手いのは当然だが、子供の頃から心身共にトラブル続きで、人生がほとんど30過ぎから始まったような感じの僕からすると驚く事ばかりだ。

かと言って、それでは甲子園に出ないチームは大したことがないか、というと、もちろんそんな事はない。

高校で野球をやっている子供は大抵、小学生の頃から野球をやっているので、どんな子供(高校生を子供というべきかはよく分からないが)でも未経験者ではできないような事ができる。

だから、地方大会の無名公立校の試合でも、スーパープレイはいくらでもある。

やはり、どんな事でも、小学生の頃から続けると未経験者には信じられないレベルに達するのだ。

 

そんな事をテレビの甲子園の中継をみながら考えていたのだが、そこで思ったのは、僕が小学生の頃から続けている事って何かあるのだろうか、という事だ。

野球をしている小学生が野球をしている間、僕は何をしていたのだろうか? 

それで気づいたのだが、スポーツも習い事も何もしていない僕が続けている事が一つだけある。

僕は小学生の頃から、読書をしていたのだ。

 

以前にも少し書いたが、僕の家はテレビ禁止・ゲーム禁止・スポーツ禁止というとんでもない家だった。

その当時は心身ともに、まともにスポーツができるような状態ではなかったのでスポーツ禁止は関係ないが(まあ、世の中に対する見方は多いに歪んだが)、小学生の僕に出来る事というのは、本当に本を読むか、新聞を読むか、くらいしかなかった。

市立図書館と県立図書館では相当の時間過ごした。

もっとも、読書をすると言っても、子供の頃の僕は精神障害がものすごくて、それほどレベルの高い読書ができたとは思わない。

今から考えると、随分としょうもないものを読んでいたものだ、と思う。

しかし、子供の頃から本を読んできたので、その頃から読書人としてのカンはある。

 

野球に上手い下手があるように、同じ読書をするにも読書が上手い人と下手な人がいる。

まず、読書が下手な人は、背表紙を見てもどれが面白い本なのか分からないと思う。

よく分からないから、どの本を読めばいいのか分からないし、選んだとしてもスカばかり引く。

外れの本を読んでも面白くないので、一向に読書が上達しない。

 

僕は背表紙を眺めたらすぐに、どれが面白そうなのか大体の見当はつく。

もちろん、背表紙だけだと十分な事は分からないが、本気で書いた本なのかどうかは10秒ページをパラパラすれば分かる。

膨大にある本の中から面白い本を嗅ぎ当てるのは、読書人として基本中の基本である。

そのために必要なカンと、その背景にある教養について言えば、小学生の頃から読書をしている方が有利かもしれない。

 

確かに、本などを読まなくても、充実した人生を送る事はできる。

それどころか、本ばかり読んでいる人の人生というのは、本を全く読まない人の人生よりも貧しいのではないか、と僕は疑っている。

読書なんかをしている暇があったら、野球などをしていた方が普通は役に立つだろう。

とは言え、状況によっては読書というのは人生において重要な意味を持ちうる事は否定できない。

そして、人々の本の読み方を観察すると、本の読み方には上手い下手がある、というのも事実で、この上手い下手には小学校時代の読書経験がある程度は影響するような気がしないでもない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。