グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

財界と英語教育

英語教育における会話重視に「財界」の意向が働いているというような話を聞く事がある。実際、財界人が中学校で3年、高校で3年、それから4年大学に行っているのに英語が話せないのはけしからん!とか言っているのはたまに聞く。

財界人は当然、政界や官界にも知人が多いわけで、今の英語教育には財界の意向がそれなりに反映されているのは確かだろう。日本の教育の目的は財界が要求するような人間を大量生産することにあるのだから、これは当然の事と言える。

 

実際日本企業がどれくらい英語に困っているのかは分からないが、たしかに中学と高校での英語の授業が何百時間あるのに日本人のほとんどが基本的な英語の運用能力を持たない、というのは考えてみたらとても変な事である。

どんな事をやるにしても、何百時間をかけて物事を学べばそれなりに上達してもよいようなものなのに日本人の英語というのは一向に上達する様子がない。結果がすべてのビジネスの世界で実績を上げ、出世をしてきた財界の偉い人にとってはまったく理解ができない事に違いない。

 

しかし、日本人の英語力の低さを問題にするのはいいとしても、なんで財界が英会話ばかりを重視するのか考えてみたら不思議である。普通に考えるならば、英会話をするにしても語彙とか文法を理解した上でやったほうが効率がいいに決まっている。必要な語彙がなければ考えを英語で表しようがないし、文法だって知っているかどうかで上達のスピードが違ってくる。何をやるにしても、語彙と文法は語学の基礎である。語彙と文法というのは英会話をする上でこそ重要なはずなのだ。

ところが語彙と文法に対して財界が何か言っているのを僕は聞いたことがない。例えば、財界の誰かが日本の学校で教えられる語彙は下らないものばかりで使い物にならないからもっと高級な語彙を教えるようにしろ、という話をしているのを僕は聞いたことがない。文法についても、文法というのは語学の基本だから学校でも基本的な事をしっかり教えるようにしよう、という事を大声で言うような財界人が一人や二人いてもよさそうだものだが、そのような財界人は一向に見当たらない。

 

日本の英語教育がダメなのは、語彙と文法に関する教育の質が低すぎるからである。学校の英語教育にしても生徒の語彙力を意識的に向上させようという目的意識をもって設計されていないし、文法に関しては完全に無視である。これでは英語ができるようになるわけがない。しかし財界から聞こえるのは語彙と文法に関する教育のクオリティーを向上させろ、という真っ当な意見ではなく、文法なんかしているから英語が話せないのだ!というような見当違いの意見ばかりという印象を受ける。

個々の財界人が英語についてどう考えているかは分からない。しかし語彙力軽視・文法軽視の風潮に対して反対する財界人の声は全く聞こえてこない。大企業の財界人というのは多かれ少なかれ国際的なビジネスに関わった経験がある人が多いわけで、なんだかんだで文法が分かっていると効率が違う、とか英語というのは語彙が分かると何とかなる、というような事をいう財界人がいないのは不思議である。

 

財界人というと東芝とかシャープ、東京電力など、いかにもサラリーマン社長というような残念な事例ばかりが注目されがちだが、何万人、場合によっては何十万人にもなる大組織のトップに立つというのは並大抵の事ではない。

もちろん財界人にも優秀な人とそうでない人がいるのだろう。しかし基本的には財界人というのはアイディアと行動力に満ち溢れた人が多いのではないかと僕は想像している。大組織の中にも激しい競争がある。上に上がってくる人が出世するのはそれなりに理由があるはずで、特に業績が好調で先行きも明るい企業のトップというのはそれなりの人物でないと務まらないはずなのだ。

それなのに英語教育の話になると(まあ英語教育だけの事ではないが)財界からはどうしてこういう合理性無視で非効率極まりないどうしようもないソリューションしか出てこないのか、財界の人と話す機会があれば是非とも聞いてみたい気がする。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

政治に飽きた

考えてみたら、僕はこれまで政治の事ばかりについて考えてきたような気がする。もしかして考える時間の9割以上を政治について考える事に使ってきたかもしれない。僕は理系の分野に行く事を期待され、実際に理系の学部に進学したけれども、正直いって僕が一番関心を持っていたのは数学でも物理でも情報科学でもなくて政治的な事だったと思う。

なんで政治に興味があったのか?普通の人は政治など興味を持たない。政治などに興味を持ってもなんのいい事もない。関わるほどに不愉快な思いをするのが政治というものである。まあ、僕は具体的に政治に関わっているわけでもなく、政治活動といえばブログで政治的なエントリーを書くくらいだけれども(これを政治活動といっていいものかは分からないが)、政治などに関心を持たないほうが建設的に日々を送れるという事は分かり切ったことだ。

それでも僕が政治的な人間であったのは、なによりも僕にとって政治というのが謎だったからかもしれない。

僕の政治に対する関心についての原点は、間違いなく学校にある。僕にとって学校というのは巨大な謎だった。子供の頃の僕は、学校というものが全く理解できなかった。とりあえず授業というものが必要なのは分かった。もちろん授業というものの必要性(あるいは必然性)は自明ではないが、なにせ子供だったのでさすがに授業というものについて疑問を持つという事はなかった。全く理解できなかったのは様々な学校行事である。

それらは一つ残らず愚劣に見えた。運動会、学習発表会、合唱発表会、球技大会・・なんで教師がそれら愚劣極まる学校行事に熱中するのか僕には全く理解できなかった。学校というのは勉強をする所ではないのか?子供の頃の僕には、これらの行事はすべて子供を愚鈍にするためのものにしか思えなかった。

そして長じて政治の世界をみると、これも小学校や中学校と同じくらいのレベルの気違い沙汰なのである。いったいなんでこんな気違い沙汰が長年続いているのか、と不思議に思うような事ばかりが目立つ。たとえば財務省と御用マスコミ、腐敗左翼が喧伝する財政破綻論などは典型的な気違い沙汰と言えるだろう。

なんで国の「借金」がこれほど膨れ上がるのかというと、富裕層が蓄財をするからである。日本の家計金融資産は1,800兆円で国の借金は1,000兆円くらいだという。なんでたとえば家計の金融資産が800兆円で国の借金がゼロというような状況になっていないのか?富裕層が資産を溜め込む限り国を運営するためには国債を発行するしかない。そして国債が発行された分富裕層の資産は増える事になる。

債務と債権というのはセットである。一体日本の借金の債権者というのは誰なのか?これが最も重要な事なのに、政治家も官僚も腐敗左翼もこの事について一言も言う事がない。そして出てくる処方箋というのはいつもの通り、緊縮と構造改革である。税制というと消費税増税所得税減税、法人税減税なのだ。

しかしながら、気違い沙汰が気違い沙汰として続くことには理由がある。たとえば学校というものが何十年もあのように運営されているというのも、やはり理由というものがあるのだ。最終的に僕が理解したのは、学校というのは子供を賢くするためにあるのではなく、子供を調教するためにあるのだ、という事である。学校で行われる事が愚劣である事が問題なのではない。学校というのは愚劣である事に価値があるのだ。そしてなんだかんだで日本の識字率が100%なのも、日本の学校による洗脳が非常に強力だからである。子供、もっといえば大人に対する洗脳がガンギマリに決まっているからなのである。

学校と同じく、日本の経済政策の気違い沙汰だってこれが何十年にもわたって続くのにはそれなりの理由がある。一体、誰かの債券は誰かの債務、というような合理的な認識を持った人間が過労死寸前になりながら経済活動に邁進するだろうか?国の借金はけしからん!貧困問題は甘え!このような幼稚としか言いようがない認識をもっているからこそ人は蓄財という資本主義の基本に忠実に生きる事が出来る。日本の経済的繁栄(その繁栄はだんだん怪しくなってきているというか、はっきりいって崩壊過程にあるのであろうが)と日本の経済政策の気違い沙汰はセットである。あるいは、少なくとも後者は前者の帰結である。

気違い沙汰に関してもう一つ僕が理解したことは、それが必ず何らかの形で損得に関わっている、という事である。あらゆる経済政策、政治政策、社会政策の背後には利害関係がある。もちろん政策というものは打ち出される際はいかにも中立的な立場から見て公平なものであるかのようにプロモーションが行われる。しかし、マスコミで喧伝されるような政策が公平である事はほとんどない。よく見ると、それらはことごとく裕福に暮らすリベラル派が得するように設計されているのである。

経済政策などは典型的だ。日本の経済政策が気違い沙汰であるのは日本経済が不況である事で利益を得る者がいるからである。結局、日本経済が好況になる事を望んでいる既得権益者など誰もいないのだ。口では景気の低迷は深刻だ、というような事を言っていても、本当に景気を良くしようなんて誰も思っていない。だから不況が長引くわけで、いくらもっともらしくとも緊縮財政・構造改革は利益を誘導するためのツールである。学校の気違い沙汰の背景にも、何らかの形で利益を得ている連中がいるのだろう。

気違い沙汰をある種の信仰とするならば、政治というのは信仰と損得勘定との連関である、というのがもう少なからぬ年月を生きてきた僕がたどり着いた認識である。信仰の背景には損得があり、損得の背景には信仰がある。信仰も損得も動かしようがないものだから政治というのはどうしようもない。

物分かりが悪い僕のようなものも、ようやく政治というものの必然性というものが分かるようになった。多分、気違い沙汰でない政治というのは無理なのだろう。合理的な理屈に基づいた政治が現実に機能するとは、僕は正直信じられない。しかし、もし政治が気違い沙汰でなければならないとしても僕自身はその気違い沙汰を肯定するわけにはいかない。気違い沙汰はやはり気違い沙汰である。

政治に関して言えば、僕は最近、自分が政治の当事者ではない、という感覚を非常に強く持つようになった。勝手にしてくれや、というのが僕の正直な心境である。僕は一介の無職にすぎない。社会は僕の所有物でないのだから、僕が何を言おうが社会が変わるわけでもない。社会を変える事ができるのは社会だけである。僕は気違い沙汰とは無縁でありたい。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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ブログを書きたいように書くようにした

僕は自分のブログを、書きたいことを書きたいように書いてきたと思っていた。それはなによりも自分に書きたくないものを書きつづけるような能力が全くない、というのもあるし、自分が書きたくない事を書いてまでカネがほしいわけでもない、というのもある。僕は引きこもりをしているが、そんな事をするくらいならばアルバイトに100件応募して100件断られたほうがましなくらいだ。そういうわけで、僕はこれまで自分のブログは書きたいように書いてきたと思っていた。

 

しかし、最近僕はブログの内容についてはかなりの部分書きたいように書いてきたけれどもブログをどのように書くか、という事については正直全然自由に書いているわけではないんじゃないか、と思い始めた。

ブログを始めたときから僕はエントリーを書くに当たって自分が決めた決まりがあった。具体的には、ブログの一つの記事は1,000文字以上書く、というのがそれだ。

なんで1,000文字は書かないといけない、と思ったのかははっきりしない。1,000文字ないと検索で読まれないから意味がない、というのもあるし、1,000文字くらいないとエントリーとして体裁が整わない、というのもあったのだろう。とにかくエントリーを書く際には1,000文字は書くものだ、と思いながら僕はブログを書いてきた。

それなりにブログを書くことになれると、この1,000文字の制限については以前よりは気にする事も無くなった。文章、特に長文を書くのが苦手な僕だが、普通に書いていくとだいたい1,000文字くらいにはなる。それでまあ、いつでも1,000文字は書けるわけだから僕は自分が自由にブログを書いていると思っていた。

 

ところが最近思うのだが、僕は1,000文字書けるようになった、というのはある程度はそうだけれども、それ以前にそもそもエントリーの話題を選ぶ時点で1,000文字くらいになりそうなものを選ぶようになっているような気がする。

つまり、ブログのネタを考えるときに論点を3つくらい考えて、これで1,000文字くらいにはなるな、と無意識のうちに計算をしているのである。

これでは自分が書きたいことを自由に書いているとは言えない。

 

正直、僕の書きたいことはほとんど、せいぜい700文字くらいあれば伝えられる事のような気がする。多分、自分が書きたい事を書き終えたら300文字だろうが少しの躊躇もなく投稿する、というのが自由にブログを書く、という事なのだ。

やはり、今まで僕はどこかで、ブログの体裁というのはアクセスにある程度影響すると思っていたのだろう。しかし、もちろん長文だとアクセスを集めるのに有利だとしても、僕のやっているようなブログではアクセスがあってもたかが知れている。ブログの世界の現実が分かるにつれて1,000文字を書く、という自分が勝手に決めた決まり事もどんどん下らなく思えてきた。

 

これからは短文のエントリーになりそうな内容でも長文のエントリーになりそうな内容でも、書きたいことを書くだけ書いたらそれで投稿しようと思う。書きたいだけ書いて2,000文字とか3,000文字になったら結構だが、700文字でもそれでいい。

重要なのは書きたいことを書きたいように書く事ではないか?そのほうが長期的には建設的にブログを運営できるような気がする。

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完全に秋になった

出かけようと思ってテレビのデータ情報?を見ると、気温が15℃だった。

15℃といってもよくわからないので、長袖にしようか半袖にしようか迷ったが半袖で出かける事にした。というか、15℃というのがどれくらいの寒さなのか確かめようと思って半袖で出かけたというのもある。もっと言えば、半袖で外出することで15℃を直接的に体感したかったのである。まあ外出といっても近所のスーパーに買い物に行くだけだったので少しくらい寒くても問題ないのであるが。

それで外に出ると、確かに強い冷気を感じたものの体が冷えるほどではない。半袖でも外にいるだけで体温が奪われていくという感じはしなかった。暖かさというのは一切ない。しかし冬のように寒いか、というとそのような寒さも一切ない。夏とも冬とも絶対的に違う、非常に秋らしい気候である。

冷気の中を半袖で歩いていると気が引き締まる思いがする。季節はもう完全に秋である。周りの雰囲気も心なしか侘しいような気がする。外出をするにも覚悟がいる季節になった。夏は外出をするのに何の覚悟もいらなかった。出かけたい時にいつでもでかければよかったのである。しかしこれからはそうはいかない。これからの季節は、外出をするたびに覚悟が必要になる。

個人的には冬よりも夏のほうがいい。寒いのは苦手だし、寒いといろいろと面倒がある。しかしでは僕にとって夏と冬とではどちらがいいか、というとちょっとよくわからない。なにかに地道に取り組むにはかえって厳しい気候のほうがいいのかもしれない。僕みたいな者は、気候が暖かいとどうしてものんびりとしてしまう。では冬であればより真剣に生きているかというとそういうわけでもないのだが、しかしこれからは外出するたびに厳しさが突きつけられる季節になっていく。

今はまだ秋なので寒さもそれほど極端ではない。雪だってあと何か月も降らないのである。気候の変化で精神的なバランスを崩さないよう、今の内にこれからの季節をどう過ごすかイメージしておいたほうがよいかもしれない。

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弱っていると楽な方に流されやすくなる

昨日今日とネットをして過ごした。

というか、ネット以外の事は何もしなかった、と言ったほうがいいかもしれない。

はてなブックマークのタイムラインをみて、チェックしているTwitterのタイムラインをみておしまいである。

そのことに意味が全くなかったわけではないだろうが、全く無気力で受動的な過ごし方をしたというのは事実だ。

ここ最近は自分基準でわりと意欲的に毎日を送っているという印象があったので元の黙阿弥という感じである。

原因ははっきりしていて、昨日から軽い頭痛があった。

心なしか熱もあったような気がする。

要するに軽い風邪を引いたのだろう。

 

少し頭が痛いとか、少し熱があるだけで本当にやる気というものは簡単に抜けていってしまうものだ。

考えてみたら少しくらい不調でも出来る事はいくらでもあるはずなのに、不調でも出来る事に取り組もうなんて考えはまるで浮かばずに結局ネットをするばかりだった。

こういう過ごし方をするくらいならばネットを一切せずに一日中療養することに集中した方が良かった。

それが難しいならば、体調不良でも取り組める事に少し取り組んでは休むというようにすれば、一日中ネットをしているよりも有意義に時間を過ごせるし体調もより早く回復しただろう。

つくづく人間というものは弱っていると楽な方に流されやすくなるものだと思った。

 

幸いな事に、今は頭痛も熱も大分引いたようである。

僕は世間から離れているという事で睡眠時間が多いせいか、風邪はあまり引かない。

しかし、どのような生活をしていても体調が悪くなる事はある。

普段から風邪などで体調が不良になったときはどのような過ごし方をするべきか、あらかじめ心がけておく事の重要性を感じた。

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中高生の読解力テストは間違うのが当然だ

一部では非常に大きな反響があった中高生の読解力についての報道だが、どうも問題のほうにも問題があるようだ。

www.tokyo-np.co.jp

僕もこの報道についてエントリーを書いたけれども、その時に前提としていたのはこのテストの問題が子供の国語力を見るために適当なものであるという事だった。

以前、テレビで新井氏らのグループが子供の国語力につて調べているという話を見た事があって、その時に紹介された問題はなかなかいい問題だと思ったので、そのような認識をもってエントリーを書いた。

しかし最近、この国語のテストの結果というのは本当に子供の国語力を反映しているものなのか少し不安に思うような報道を見たので、それについても思うところを書こうと思う。

 

読売新聞によると、今回の国語力のテストには次の二つの文章の「意味」が同じかどうか、という問題があったのだという。

輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。
輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。

まず「和牛が人気の牛肉」というような日本語は個人的にはとても耐えられないし、「和食ブームを反映した緑茶や日本酒」という部分は日本語として間違っているが、それはともかくこの問題は少し問題があると思う。

というのは、上の二つの文章を読んで同じ意味だと思った生徒が意味が同じである、と回答したとは限らないからだ。

僕が思うに、上の問題を読んだ中高生のかなりの部分は二つの文章が同じ意味であるということが分かったと思う。

それではどうして中高生で二つの文章の意味が違う、という回答をした生徒が相当いるのかというと、多分生徒の中にこの問題がひっかけかなんかじゃないか、と思った生徒がいたからだと思う。

 

上の二つの文章はどう見ても全く同じ事を言っているように見えるし、実際に同じ事を言っている。

しかし人間というのは簡単な問題を出されるとかえって不安になる事がある。

一見簡単に見えるけれども、こんな一見簡単に見える問題が出題されるのには何か理由があるのではないか、簡単に見えるのは自分に何か見落としがあるためなのではないか、という不安が生じるのである。

一般的になにかの存在を示すよりもなにかが存在しない事(この場合は意味の違い)を示す方が難しいのだからなおさらである。

なので、意味が同じと思っても回答を逆にした生徒は少なからずいると思う。

 

「意味」が同じかどうか答えよ、という表現も、よくよく考えてみると問題がないとは言えない。

たとえば次の二つの文章があった場合、これらの意味は同じであろうか。

私はあなたが好きです。

私はあなたが嫌いではない。

 「好き」の反対は「嫌い」であり、「嫌い」の反対は「好き」だとすれば論理的に二つの意味は同じであるが、この二つの文章を同じ意味とする人はまずいないだろう。

なぜなら、この二つの文章はそれぞれ全く違う印象を与えるからだ。

好き・嫌いの他に無関心という状態があるからこれは当然の事であるが、しかし意味が同じという事が何を意味するのかは往々にして不明確である。

上の問題では出題者が、好き・嫌いという二つの状態を想定しているか、好き・嫌い・無関心(あるいは分からない)など二つ以上の状態を想定しているかで正解は異なる。

 

もちろん、先ほどの国語の問題で出題された文章は好き・嫌いの例と違い、論理的には完全に同じである。

しかし、論理的に同じでも文章のニュアンスが違う場合、その意味は絶対的に同じとしてよいのだろうか?

たとえば1番目の文章は和牛が先にきて、2番目の文章は緑茶や日本酒が先にきているのでニュアンスが違うと感じる生徒もいるかもしれないし、他の理由で二つの文章に違いを感じる人もいるだろう。

そして論理的には同じだと分かっていても、印象が違うという事で二つの文章が違う意味を持つ、とした生徒もいるに違いない。

 

結局、僕は先ほどの問題を正答できるかは国語力というよりはテスト慣れしているかどうかで決まると思う。

小さい頃からいい学校に進学するのが当たり前、みたいな感じで育っている人は、意味が同じか答えよ、と言われたら回答者が何を要求しているのか明確にわかるから、余計な事を考えずに正解できる。

しかしすべての生徒がテスト慣れしているわけではない。

テスト慣れしていない生徒は、どうしても何かワナがあるんじゃないか、とかなんか感じが違う、とか余計な事を考えてしまって正解できないかもしれない。

出題者の意図がすべての生徒に伝わっているとは限らないのだ。

 

僕は今回の読解力テストが全部問題があるものだとは思わない。

全体を見ると、テストの正答率は子供の読解力をそれなりに反映しているのだろう。

この問題を正答した生徒は読解力が高く、不正解だった生徒には読解力に弱い部分があるというのも事実だと思う。

しかし、もしこの問題の正答率だけをもってして子供の読解力に問題がある、とするならば、それは少し乱暴な議論である。

このテストを行ったグループは間違った回答をした生徒に対して聞き取りをしたのだろうか?

聞き取りをすれば「同じ意味だと思ったけど引っ掛けだと思った」とか「違う感じがしたから意味が違うのかと思った」というような答えが少なからずあると思う。

おそらく「次の4組の文章のうちで意味が異なるものはどれか」とした場合、正答率は大きく異なるのではないか。

こういう調査というのは表面的には科学的に見えても実際には科学とは程遠いケースが少なくない。

たとえ調査結果がセンセーショナルなものだったとしても慎重に内容を見ていく事が必要だろう。

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Common Lispと関数型プログラミングの基礎

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読解力と、論理的な判断能力の有無には何の関係もない

先日も書いたが、今の子供の読解力は世間が思っているよりも相当に低いらしい。

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たしかにテストに使われた問題を見たら、こんなのも分からないの?というようなものばかりで、普通の人ならこれは深刻だ、と考えるレベルだ。

僕も一応深刻だなあ、と思ってはみたが、それと同時に上に紹介したような記事を読んでなんとも言えない違和感を感じた。

昨日のエントリーもその違和感が解消されないまま書いたものだ。

しかし一晩明けて、僕がいったいどこに違和感を感じたのかはっきりと分かった気がする。

では僕が子供の読解力の低下、みたいな報道のどこに違和感を感じるのか?

それは、子供の読解力を深刻な問題だ、みたいな事を言っているような人が自分たちの読解力、さらには論理的な判断能力に何一つ疑いを持っていないという事だ。

 

僕もブログを始めて結構になるが、ブログをやっていると一体どういう風に読んだらこんな見当違いの結論になるんだろうか?と不思議に思うようなブックマークコメントが書き込まれる事が少なくない。

もっと言うと、批判的なブックマークコメントはほとんど全部、僕の書いたエントリーの内容を理解した上で書かれたものではない。

これまで僕のエントリーを理解した上で批判してきたブックマーカーは全然いない。

お前が書いているような批判を無効にするためにこういう書き方をしているんだけどな、と言うしかないようなブックマークコメントばかりである。

 

では、そういう見当違いのブックマークコメントを書き込んでくる人に読解力がないか、というとそういうわけではないと思う。

逆に、僕のブログで書いているようなエントリーを読む人はそれなりの教育を受けた人が多いと思う。

おそらく記事にある新井氏が行ったテストで満点か、満点に近い点を取る人がほとんどだろう。

もちろん僕はおかしなブックマークコメントを書いてきた人の読解力について詳しく知っているわけではないが、カンでわかる。

あー、この人は国語のテストで点は取れるんだろうけれども見当違いの事を言うような人だな、って感じだ。

 

社会を理解する上で重要な事の一つは、この世の気違い沙汰というのはすべて、読解力のある高学歴によって引き起こされるという事実である。 

読解力と論理的な判断能力の有無には何の関係もない。

読解力があるほどまともな判断が下せるはず、という考えは何の根拠もない思い込みである。

僕は子供の頃から高学歴業界の周辺で生きてきたが、理屈が全く通じない高学歴は非常に多い。

 

結局、正しい判断をするために最も重要なのは常識である。

例えば僕は、誰かのブログの記事に対して批判的なコメントを書く時は間違いのないようにエントリーを何回か読み、そのエントリーを書いた人がどのような考えを持っているか確かめるために何本か他のエントリーも読んでからコメントを書くことにしている。

それが当たり前の常識だと思うからだ。

しかし僕のブログのエントリーに対しておかしなブックマークコメントを書き込む連中は僕の記事をまともに読む事もなく、僕がどのような人間でどのような考えを持っているのかにも関心がない。

それでいきなり見当違いとしか言いようがないような憎しみをぶつけて来るのだ。

 

常識のない人間がいくら国語でいい点をとれたとしても、そんなものはなんの意味もない。

そして、もし読解力と論理的な判断能力の有無に何の関係もないならば読解力の低下を問題にすることにどのような価値があるのか?

今の世の中には、読解力はあるけれども肝心の常識というものが何一つない連中で溢れかえっている。

正しく読解ができたとしてもどちらにしろおかしな結論が出てくるのなら、読解力があってもなくても同じではないか、というのが僕の意見だ。

いや、自分の「頭」がいいという勘違いがないだけ、読解力などないほうがマシかもしれない。

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