グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

教師の過労が解消しないのは教師の賃下げができないから

結構以前から教師の過労というのは問題になっているような感じがするが、基本的になんで教師が過労になるかというと、根本的な理由は教師が高賃金な職業だからだとおもう。高賃金な職業というのはかならず、責任が重い・転勤・重労働という三点がセットになっているものだ。だから、教師の過労を解消するには根本的には教師の待遇を引き下げるしかない。それができないならば教師の過労はいつまでたっても解消しないだろう。

「コミュニケーション能力」よりも人と違うことのほうが大事なのではないか?

先日テレビを見ていたら、女子高生が自殺をした、というニュースをやっていた。なんでも、「インスタ」で人気になったことで学校での人間関係が悪化していじめのようになっていたのだという。

自殺した女子高生は3年生になったばかりということだった。3年ならばあと1年まてばいじめなどどうでもよくなるはずなのに、ここで自殺をするということは(少なくとも亡くなった女子高生にとっては)よほどのことがあったのだろう。

僕がこの話を聞いて思ったのは、もしこの女子高生が英語でもやっていれば自殺なんてすることはなかったんだろうな、ということだ。

もちろん、英語ができると一言で言ってもいろいろなレベルがあるし、英語をどのように習得したかで話は色々変わってくるのだが、しかしある程度英語ができる女子高生が高校3年にもなって自殺するという事態はすこし考えられない。

さらに、この女子高生が英語ではなくてたとえばフランス語とか中国語を独学で勉強しているような生徒だったとしたら、自殺するなんてことはますます考えられないだろう。

女子高生がインスタグラムでどのように人気だったのかは知らない。SNSで人気ユーザーになるのにもいろいろなパターンがある。しかし、女子高生がなくなるという結果だけ見ると、なくなった女子高生はたぶん、周りに同調するような形で人気になったのではないか、とおもう。もし女子高生の活動が本質的に他人と異なっており、従って女子高生自身が他人と異なっている場合、自殺という結果にはならないとおもう。

人と同じことをするのは安全で、人と違うことをするのはリスクであると世間では信じられている。これは一般的には正しい。余計なことを考えずに世間の勧めるままに生きていれば、普通はそこそこ満足のいく人生を歩むことができるものだ。

しかし、この事例は、場合によっては普通であることはリスクでもある、ということを改めて教えてくれる。普通に生きてきて深刻なトラブルになった場合、普通であることは案外役に立たない。普通とは違うことのほうがそういう場合は役に立つ。

普通であることは場合によっては危険である、ということはもっと認識されていいと思う。

反論されると怒る人は何に対して怒っているのか

世の中には、自分の意見に対して反論されることが我慢できない人がいる。これは誰でも経験があると思うが、世の中には自分の意見に反論されるのはもちろん、なかには「そういう意見もあるけどこういう意見もあるよ」というような、別に反論というほどではないような意見に関してもきちがいのようになる人がいるのだ。

そういう人はなにか気にいらないことをいわれると、いかにももっともらしいが、しかしまったく本質的ではないようなことを言って反撃?してくることが少なくない。まあ、この手の人は逆上すると何をいっているのかわからなくなるタイプも多いのだが、ある程度の「教育」を受けている場合はとりあえず理解はできる反論をしてくる。しかし、その反論というのは常に怒りにドリブンされた(まず怒りありき)のもので、内容を理解吟味した後で怒っているというわけではないのである。

このような人に関して僕が思い出すのはフルート奏者、作曲家としてしられるクヴァンツに関するエピソードだ。 フリードリッヒ大王はフルートを演奏したのだが、フリードリッヒ大王の師匠であるクヴァンツだけがフリードリッヒ大王の演奏にケチをつける権利があったというのだ。

本来、音楽というものは権力には何の関係もないはずだ。したがって、社会的地位に一切関係なく、誰であってもフリードリッヒ大王の演奏に対して論評することができるはずなのに、(このような振る舞いを許容することは絶対王政による統治の妨げになりうるという事情を考えなければ)これはおかしなことと言える。

僕はこのエピソードが史実に基づくものなのか分からない。もしかしてこの話はフリードリッヒ大王の統治のスタイルを説明するための作り話なのかもしれない。しかし、この話がなんで反論されると怒る人と関係あると僕が考えるのかというと、反論されて怒る人というのは多分フリードリッヒ大王のようなものだと思うのだ。

フリードリッヒ大王はクヴァンツの批判は受け付けるが、それ以外の者による批判は一切受け付けない。クヴァンツ以外の人間がフリードリッヒ大王のフルートにケチをつけるのは礼儀に反することなのだ。それと同じように、反論されて怒る人というのは自分が認めた相手からの反論しか認めないのである。

つまり、反論されて怒る人というのは、非常にしたしかったり、非常にリスペクトしている相手からの反論は受け付けるが、それ以外の人間が自分の意見にケチをつけるのは我慢できない。反論されると怒る人にとってそれは失礼なことなのであり、反論されると怒る人というのはこの失礼に対して怒っているのである。フリードリッヒ大王のたとえでいうと、クヴァンツでもないのに俺のフルートにケチをつけやがって、ということだ。

要するに、反論されると怒る人は議論の内容ではなく、議論が誰によってなされたかによって態度を変える。たとえば、もし反論されると怒る人が孫正義をリスペクトしているならば、孫正義がいうことならばとりあえずは(話の内容を理解できるかはともかくとして)おとなしく聞くはずだ。一方、批判されると怒る人をうっかり批判してしまう人というのは、議論というのは音楽のように人間関係とは関係なく成り立つものだと思っている。だから反論されると怒る人がおこりだすとびっくりしてしまうのだ。

反論されると怒る人の中で困ったタイプは、とりあえず反射神経だけはやたらといいというタイプだ。この手のタイプはとりあえず、その場だけの切り返しはものすごいうまい。よくもまあ、うまい理屈を作り出すものだな、と感心するばかりだ。そして自分が一切責任を負わない形でこちらに攻撃を仕掛けてくる。ある種の発達した卑怯さとでもいうべきものがこの手の人間には備わっている。話のすり替えは非常にうまい。

困るのは、この手のタイプは仕事ができる人間であることが少なくない。そして仕事ができればできるだけ、ますますフリードリッヒ大王状態になってしまうのだ。しかも上に対して余計なことを言わないからますます出世に有利である。もちろん、反論されると怒る人だと必ず人格的に不快というわけでもない。いい人の中にだって、反論にたいする耐性が全くない人がいる。

反論されて怒る人というのは、物事を突き詰めて考えないので言うことが粗だらけである。粗だらけだから、議論というものが音楽と同じように人間関係とは関係なく成り立つと考える人は、ついうっかり親切心を起こして欠陥を指摘してしまう。そのようにして世界中で今日も相変わらず、全く誰も得をしない争いが起こっているのだ。

もし反論されると怒る人に関わり合いになったらどうするか?重要なのは、このような人はフリードリッヒ大王のようなものだと考えることだろう。フリードリッヒ大王はフルートに関してはクヴァンツによる批判しか受け付けなかったが、だからといってフリードリッヒ大王の君主としての功績が損なわれるわけではない。

人間ならば誰しも得意不得意がある。一般的に言えば、理屈を人間関係なしに理解できるという能力は特殊技能に属する。特殊技能ならば出来ないとしてもしょうがない。だから、決してフリードリッヒ大王をフリードリッヒ大王以外のものに変えようと思わないことだ。そして、フリードリッヒ大王がフリードリッヒ大王のままでも別に世界が終わるわけではないのである。

「行動力」なんて、そんなものは実はないのではないか?

「仕事も人生も遊びでいい」は「想定外」にいい本だった。堀江さんの本のなかで誰かに一冊勧めるとしたらダントツでこれだろう。

内容は、堀江さんの本や過去の発言などから読者がメモしそうな感じの部分を集めてきたものである。これまで僕はこのような本には全く関心がなかったが、実際に読んでみると非常によかった。何がいいかというと、この本を読むと堀江さんのものの考え方の全体像がよく分かる。この本は堀江さんの考え方の全体像を紹介するために作られた本だからそれは当然だが、とにかく読んでいて、堀江さんの考えの全体像というのはこのようなものなのかな、と頭の中が整理されていくような本である。そして、頭の中が整理されていくにつれて、堀江さんのもつ違う側面も見えてくる。

僕が非常に興味深いと思ったのは、堀江さんの「流れ」に対する考え方だ。この本を読んで、僕は堀江貴文という人物を理解する上ではこの「流れ」について考えることが一番重要だと思った。

堀江さんというのはよく、計画的に(そしてときには力づくで)欲しいものを手に入れ、目標を達成していく人とおもわれているが、この本を読んだ限りでは堀江さんというのは全く逆のタイプの人間なのではないか、という印象を持った。つまり、堀江さんというのは流れに乗るのがだれよりもうまい人なのである。

流れに乗るというのは、例えば何か面白そうな「チャンス」があるならば堀江さんはとりあえず流れに乗ってみる。そこに流れがあるからチャンスというものがあるわけだから、チャンスに乗れば流れに乗ることができるのだ。そうして流れにのれば当然堀江さんは遠くまで運ばれていくわけだけれども、運ばれていった先にも当然流れというものはある。そこで、堀江さんは次の流れに乗るのである。

外から見ると、堀江さんはものすごい行動力で自分で道を切り開いているように見える。しかし、たぶん堀江さんにはそのような意識はなくて、どちらかというとサーファーがビッグウェーブに乗るようにそこにあるなにか大きな流れ(あるいは力といってもいいかもしれないが)を利用して先に進んでいく、という感覚なのではないだろうか。

世の中でいわれる「行動力」というのは実はそんなものはなくて、要は流れに乗るか乗らないかというだけのことのような気がする。行動というのはバンジージャンプのようなものではないだろうか?ある意味、バンジージャンプをするのにはほとんど何の行動力もいらない。一歩分足を踏み出しただけで勝手に落ちていくのである。サーフィンだってそうだ。サーファーが前に進むのは、サーファーが一生懸命前に進もうとしているからではない。

よく、現実は小説より奇なり、というが、現実というのは人間の想像のはるか上を行くのが普通である。それならば、将来のことをあれこれ考えるよりは流れにのり、流れるに任せた方が合理的ともいえる。そうすれば考えても無駄だと分かっていることをいつまでも考えてしまうなんてこともないし、見当違いの努力の結果時代に取り残されるということもない。計画なんてどうせ計画通りうまくいくことなんてないのだから、計画や準備はほどほどにして、あとは行き当たりばったり、その時々の流れに乗っていくというのが結局は一番うまくいくのかもしれない。

互助会がなくなってはてなはつまらなくなった

どうも最近、山月記関連のエントリーが読まれているようなのだが、その中にブッマークが200くらいのものがあって懐かしかった。

その頃、というか考えてみたらせいぜい1、2年前のことなのだが、はてなの大物ブロガーというのはとてもわかりやすかった。つまり、はてなの大物ブロガーというのははてなブックマークのホットエントリーにしょっちゅう上ってくるブロガーのことだったのである。ホットエントリーにのせれば大物ブロガーになれるのだから、有名になりたい人は(あるいは、有名になることでカネも儲けたい人は)こぞってブックマークをあつめ、エントリーをホットエントリーに載せるために少なからぬ時間と体力を使っていた。要するに互助会だ。

これにたいして、はてなの一部では互助会を厳しく取り締まるべき、という意見が強かった。個人が意図的にブックマークを集めてホットエントリーに入るなら何のためのキュレーションサイトなのか、ということだ。この問題を解決するのは簡単で、はてなブログについたブックマークの重みを例えば東洋経済のエントリーについたブックマークの十分の一とか二十分の一に見積もればいい。つまり、はてなブログに十とか二十ブックマークがついてやっとブクマ一つ分、という風にすればいいのだ(「理想」をいえば、互助会ブクマとそうでないブクマでは重さを変えるべきだ)。はてなの運営がこの対策を取ったのが2017年の夏ごろのことで、これ以降はよほどのことが無い限り、いくらブックマークを集めてもはてなブログのエントリーはホットエントリーに載らなくなった。

その結果どうなったか?はてなから大物ブロガーが消滅した。はてなの大物ブロガーというのははてなで有名なブロガーのことだったわけだが、ホットエントリーにエントリーが載らないならば有名もなにもない。 結局これらの大物ブロガーはそろってWordpressに移転した。

はてなブログがホットエントリーにのらなくなって互助会はなくなったが、そのかわり他のブロガーが何をしているのか全く分からなくなった。つまり、はてなブログのコミュニティがそのまま無くなった。はてなの運営ははてなブログのコミュニティと「運営ガー」というノイズを処理するためのコストを比べて、ノイズ対策のほうを取ったのだろう。

はてなブログのコミュニティーがなくなって、どうなったか?僕個人としてはあまり変わらなかった。そもそも互助会がなくなる前からして、なにか変わったことがあったわけではなかった。僕がいくらエントリーをホットエントリーに載せても、そのときだけアクセスが7,000とかになるだけで読者が増えたという実感は全くなかったし、実際に増えていない。なのではてなブログのエントリーがホットエントリーに載らなくなっても、僕のブログには何も影響がなかった。

しかし、はてなから大物ブロガーがいなくなってはてなはつまらなくなった。昔だったら世の中で何か動きがあれば、すかさず大物ブロガーがそれをテーマにエントリーを書いた。それらのエントリーはまったく下らないものも多かったが、下らないならそれに対して多くの傾聴に値するエントリーが書かれた。いやむしろ、大物ブロガーが書く記事がくだらないほど議論はもりあがり、面白いコンテンツが生産されていたとおもう。

もちろん、ブログというのは他のブロガーのエントリーを読まずに書けるし、僕の書くエントリーもブログを読んで、というものはあまりない。僕がブロガーとしてやっていることは昔も今も全然変わりないし、やりがいみたいなものも昔と変わりない。しかし、互助会がなくなってはてなはつまらなくなった。

なんだかんだではてなの有名ブロガーは面白い人が多かったと思う。そして互助会を批判しているブロガーは、面白い人もいたが全然つまらない人も多かった。全体的にみると、互助会ブロガーのほうが互助会を批判するブロガーよりもはてなのコミュニティーに貢献していたと思う。普通に考えれば、互助会をやっている大物ブロガーのおかげではてなが盛り上がっていたというのは簡単に分かることだ。

はてなの運営は、そろそろ互助会を解禁したらどうだろうか?「互助会ガー」みたいなクレームは「互助会」というキーワードを設定してフィルタリングを掛ければいい。別に大物ブロガーがいなくてもはてなは続いていくけれども、将来のはてなにはやはり大物ブロガーがいたほうがいいと僕は考える。

未来の学校

この間たまたま近所の小学校のそばを通りかかったら、運動会の仕込みなのか、校庭で教師らしい人物がソーラン節を指導していた。ソーラン節の音楽が流れる中、小学校の体操着の上になんだか法被にすらなっていないへんなちゃんちゃんこみたいな衣服を着せられた低学年の子供の前で、校庭のど真ん中に設置した台の上でソーラン節を踊っていた。

近くに接近して詳しく観察したかったのだが、どうも動きや声からして三十代前後くらいの若者のようだった。今の小学校は自分よりはるかに年下の若者が教師をやっているのか、という当たり前といえば当たり前の事実に衝撃を受けながら僕はその教師がソーラン節を踊っているのを眺めていた。

うまくできているとも幼稚ともなんともいえないソーラン節の振り付けを教師は官僚らしい確実さと若者らしい身のこなしをもって踊っていた。

この教師はソーラン節の振り付けをどこでどのようにしておぼえたのだろうか?夜に帰宅後、テレビの前でソーラン節の振り付けDVDでも見たのだろうか?それとも教師で集まって集団で振りを覚える、みたいなイベントがあったのだろうか?振りをおぼえるのに何時間かかったのだろうか?そもそもこの教師はソーラン節をやることに、もっというなら運動会をやることに賛成なのだろうか?

三十前後の若手教師は仕事が終わったら普通の若者である。小学生教師になりたい大学生が送る生活の延長みたいな生活を送っているはずだ。そしてそういう若者が未来の学校がどのようなものになるかを決めるのだ。

今の若手教師は何を考えながら教師をやっているのか、そして今の子供にはこれらの若手教師はどのようにみえているのか?など、様々なことを考えながらお年寄りの僕は家に帰った。

ハリルホジッチとヒヤリハット

免許更新の講習などでハインリッヒの法則という法則を聞いたことがある人も多いだろう。重大事故一件の裏には29件の軽い事故があり、その裏には事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例(ヒヤリハット)が300件ある、という、例の法則のことだ。重大事故が起きる前には必ず軽い事故、あるいは事故になりそうな事例が数多く起きている、大したことないからとこのような異常を放置していればいつかは大事故につながる、ということをマネージメント側が説明する際に使われる。

今回のワールドカップ直前でのハリルホジッチ解任というニュースを聞いて、これは本当にハインリッヒの法則とかヒヤリハットそのままだなあ、と思った。

僕は以前、ハリルホジッチが小学生にサッカーを指導するという企画のテレビ番組をたまたま見たことがある。そこでハリルホジッチは次のようなことをいっていた。

「勉強は大切です。誰もがサッカー選手として成功する訳ではないのですから」

たしかにハリルホジッチは本当のことを言っただけだ。プロとして成功するサッカー選手は本当に驚くほど少ない。しかし、このようなことを言われて勉強を頑張ろうと考える子供は一人もいないと思う。ハリルホジッチは人の心が分からない人だと思った。

このときはもちろん、相手が一度だけ会う子供なので特に何も起こらずにすんだ。しかし、番組収録中テレビカメラが回っている中でこんなことを言ってしまうくらいだから、ハリルホジッチは普段からかなり深刻な失言を繰り返していたはずだ。実際、一部のサッカーマスコミによると、ハリルホジッチは代表選手にかなり心ない発言をしていたようだ。

この時期での代表監督解任には当然、批判的な声が大多数を占める。いまハリルホジッチを解任したら、何がよくて何が悪かったのか検証が出来なくなる、ハリルホジッチは一生懸命やっているのにこの時期での解任はあんまりではないか、これでまともな外人監督は日本に来なくなるだろう、など、どれももっともな意見だ。

サッカー協会もこれらのことは完全に理解していたはずだ。それでも解任に踏み切ったと言うことは、なにかよほどのことがあったのだ。

基本的にサッカー選手は厳しいことを言われ慣れている人たちなはずだ。まして日本代表にまで上りつめた選手が少しくらいのことでふて腐れるとは思えない。その代表選手が、ハリルホジッチの下でワールドカップを戦うのは耐え難い、と思うのだから、やはりハリルホジッチにはサッカー指導者として深刻な欠点があるのだろう。

今回のハリルホジッチの解任がどのような結果になるかは誰にも分からない。しかし、ハリルホジッチ本人からすると、今回の解任は考え得る限り最悪の大事故であることは間違いない。

一つの重大事故の裏には多くの軽微なトラブルがあり、さらに多くの「ヒヤリハット」がある、という法則がすべてのことにあてはまるならば、それは代表レベルの指導にも当てはまる。というよりはむしろ、代表レベルだからこそヒヤリハットに注意しなければいけない、ということをハリルホジッチの失脚は示していると思う。