グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

よい苦労とわるい苦労

学校でのエアコンの設置状況について調べていると次のエントリーを見つけた。

https://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20150219/277734/

確かに小田嶋氏がいうように、苦労にはよい苦労と悪い苦労がある。よい苦労は人を成長させるが悪い苦労は単に人間をだめにするだけでいいことは何もない。それではいい苦労と悪い苦労では何が違うのかというと、いい苦労というのは「災い転じて福となす」ということわざでいう、福に転じうるようなものをいうのだと思う。もし、苦労が自分の力量で対処できるようなものであれば、苦労を克服することで貴重な経験もえられるだろうし、場合によっては以前よりもより有利な条件で人生を再スタートさせることができるかもしれない。しかしながら、残念なことに多くの苦労はどう考えても福には転じようがないものがほとんどである。たとえば貧困などはどう考えても福に転じようがない苦労の典型例だろうし、空調がない中で夏のあつさに苦しんだところでいいことは何もない。世の中では往々にして、ごく一部の福に転じうるような苦労と、大多数の福に転じようのない苦労を同一視し、撲滅すべき苦労を放置するどころか場合によっては押し付ける、ということが起こる。苦労にはよい苦労と悪い苦労があり、しかもたいてい苦労というものは人をだめにするだけ、という認識を日本人全体が持つ必要があると思う。

なんでマコ様が完璧な結婚をしなければならないのか分からない

海の王子フォーダム大学ロースクールに留学するという話だ。フォーダム大学の公式サイトで、海の王子をfianceeと表記したことに宮内庁が抗議をする方向へ、と朝のニュースでやっていた。フォーダム大学はトランプが2年間在籍したことでも知られる、ニューヨークのわりと有名な大学である。もう日本では生きてけないだろうからアメリカで・・と言わんばかりだ。いったいどこからカネが出てくるのか気になるところだが、とにかく多額の、そして宮内庁的には完全に無意味なものにしたい警備費用よりは安上がりなのに違いない。でも僕はなんでマコ様が結婚できないのか、よく分からないのだ。というか、なんでマコ様が非の打ち所もないような完璧な結婚をしなければいけないのかよく分からない。完璧でない結婚でもしないよりはマシ、というのが世間の常識であるはずで、行き遅れで後悔している国民の数を鑑みると、「国民の象徴」であるならばこそかえって完璧さに拘らない結婚の方がいいようにもおもう。英国の場合、なんでこんなひどい結婚を?と疑問に思うものがもう何代も続いているのに、国民は脳天気に祝福している。まあ、あまりにひどすぎることもあって祝福している国民の数は減少しているのだけれども、だいたい、マコ様に完璧な結婚をしてほしいというならばなんでICUに婚活しにいかせる、なんてことを許したのか?海の王子みたいなのに「引っ掛からない」ために見合いというものがあるのではないか?すこし悪いところがある男のほうが魅力的、というのは「恋愛工学」では常識だ。涼しい顔をして予備試験から司法試験にパスするような秀才よりはパラリーガル海の王子、なのである。たしかに、マコ様と在学中から交際しているのになんでパラリーガルなのか、なんで新卒で入ったメガバンをやめたのか、メガバンをやめるにしても、もうすこし「将来性」のある進路などいくらでもありそうなものだが、と、海の王子にたいする疑問はつきることがないが、それにしてもこの件にかんする落としどころはどこだろう。そして、マコ様と秋篠宮殿下はこの件についてどう考えているのだろうか?浩宮殿下と雅子様はこの件についてどのような認識を持っているのだろう?どうせ民間人になるのだから、そのまま結婚にするほうが破談にするよりも不利益が少ないような気もするが、とにかくこの一件のおかげで、未来の皇族がますます「縁遠く」ならないことを祈るばかりだ。

hagex氏刺殺と実名・匿名

今回hagex氏が刺殺されたという事例は、あらためて実名と匿名それぞれが持つメリットとデメリットを考える上で有益であると思う。

まず、匿名での発信というのはメリットがいくつかあって、ひとつは匿名での発信は安全であるということだ。なぜなら、匿名だとどこでどのような人物が情報を発信しているか分からないから攻撃のしようが無い。

もちろん相手の精神に対して攻撃を加えることはできるが、所詮は情報に過ぎないからそのうち忘れる。

往々にして、真実を語ることは危険である。身の安全を気にせず真実を語ることができる、というのは匿名での情報発信がもつおおきなメリットといえる。

2つ目のメリットは、人間関係を気にせず情報を発信できる、ということだ。実名での情報発信は、どうしても自分の人間関係を考慮した上で情報発信をせざるを得ない。つまり、自分の知人友人を敵に回すようなことは一切かけないのである。

その結果、本当に書くべきテーマから目を背けるならまだしも、自分のPRのために真実とは逆の議論が行われがちであることは言論の世界で日常的にみられることである。

それとも関連するが仕事の問題もある。会社にとって、社員がブログをやっているなんてどう考えてもいいことではない。

中にはブログをやることで仕事にもよい影響があるのでは?と考える意識の高い上司もいるかもしれないが、ふつうの会社にとってブログをやっている社員などリスクでしかないだろう。

このように現実的な社会的制約に関係なくできる匿名での情報発信は言論の自由において絶対的な意味がある。匿名での活動は、自由で安全であり素晴らしい。

しかしながら匿名の世界での発言には限界もある。基本的に、匿名の世界にいるかぎりはすべてをひとりでやらなければいけない。

周りを巻き込んでムーブメントをつくる、というような活動には匿名は不向きである。考えてもみてほしい、いったいどのようにして匿名のままApple Computerを創業して伝説的人物になるなんて事ができるのか?

そこまでいかなくても人と会って話すレベルでも匿名ではやりにくい。だって匿名なのだからどんな奴が出てくるか分からない。匿名だと、こちらの方は安全だがその分相手の方にリスクがある。

実名だと、いっていることがどうしても無責任になりがちなのだが「社会的信用」はこちらの方がある。なぜなら、実名というのはあらゆる社会生活にリンクしているからだ。

結局、匿名による活動は自分ひとりで終わりである。自分ひとりで終わりになるし、自分ひとりで終わりになるから匿名での活動は消えやすい。それがいやというならば自分の名前を出さなければならないだろう。

匿名による活動と実名による活動にはそれぞれ利点と欠点があるが、実名を出すことが活動の妨げにならないのならば実名を出したほうが活動の幅が広がるような気もする。

「岡本顕一郎」になり損ねたhagex氏

なんでも、hagex氏が匿名から岡本顕一郎という実名によるものに活動をシフトさせようとしていたことには、やまもと氏の成功が背景にあるらしい。

切込隊長」として知られたやまもと氏が活動を実名によるものに移してから、氏の活動は匿名だったころと比べてはるかに広がりを持つようになった。氏に批判的な人も、実名への移行は「以前よりまともになった」と好評のようである。

やはり、匿名には可能性だけでなく制約もあるのだ。凄腕の?ネットウォッチャーであったからこそ、hagex氏は匿名で活動することの限界を知り尽くしていたのだろう。

そこで活動の場をリアルに移そうとした途端に(もっとも、やまもと氏も指摘するように、最初から世界にはリアルの世界しかないのだが)匿名時代での活動が遠因となって刺殺され、自らがネットウォッチのネタになるというのは誠に皮肉な成り行きといえる。

hagex氏を追悼してもバチはあたらないだろう

hagex氏が刺殺されて初めて分かったことがある。それは、hagex氏が一人の人間だったということだ。

それまでの僕が知っていたのはhagexというキャラだけで、hagex氏がどのような人間だったか知らなかった。これまでhagex氏は自分の個人情報を明かさなかったわけだから、知らないのも当然だ。

しかしながら刺殺されてしまってはもはやキャラもプライバシーもあったものではなく、僕たちはhagex氏がどのような人物であるかを知ることとなった。

hagex氏が刺殺されて僕が考えたのは、もしhagex氏が僕のブログを読んだらどんなことを考えるのだろうか、ということだ。さらに言えば、僕がhagex氏と酒でも飲みながらサシで話す機会があったとしたらどんな話をするだろうか、ということだ。

これまで僕は、hagex氏が攻撃してきたセミナー屋などとはまったく逆の生き方をしてきた。考え方において、hagex氏と共通する部分は少なからずあったはずだ。

僕は特にhagex氏が死んで嘆き悲しむ理由を持たないが、そう考えるとhagex氏を追悼してもバチはあたらないだろう。

hagex氏刺殺事件とネットの限界

以下のエントリーを読んで、ネットのもつ限界について考えさせられた。

 http://bunshun.jp/articles/-/7933

やまもと氏の出身大学である慶應義塾大学には人文学に関する分厚い伝統がある。イスラム学に関しても井筒俊彦という天才として知られたイスラム学者が有名だ。

だから、やまもと氏には低能先生がどのような人物であるのかすぐに分かった。そして、やまもと氏は迫り来る嵐に気づくこともなく文学部イスラム学科などに進学してしまった人たちが卒業後に舐めた辛酸についてもよく知っているに違いない。

やまもと氏には、「頭がよく才能もある」のにイスラム学なんかを専攻したばかりに報われない大学時代の知り合いと「低能先生」が重なって見えたのだろう。先ほどのエントリーからは、やまもと氏の無念さが伝わってくる。

hagex氏と低能先生はお互いについて何も知らなかった。何も知らなかったからこのような救いようのない結末になったのだ。ネットには何でもある、と言うようなことがよく言われるが、とんでもない。現に、hagex氏が刺殺されるまで、僕たちは低能先生の出身学科すら知らなかった。

もし、hagex氏と低能先生に面識があれば、それなりに有益な情報交換ができたはずだ。それどころか、場合によっては仕事などでお互いに協力することだってできたかもしれない。

それなのに今回、インターネットは何の役にも立たないどころか最悪の結果をもたらしただけだった。hagex氏の刺殺事件は、ネットが本質的に持つ限界というものをよく表していると思う。

hagex氏に見られる持てるものの傲慢

hagex氏が亡くなった後、ネットでは故人を偲ぶエントリーが多くかかれた。故人は本当に素晴らしい人であった!と賞賛するものから、まあいい奴だった、というものまでそれぞれ温度差はあるようだったが、とりあえずhagex氏を悪くいうようなものは見当たらなかった。

僕は当然hagex氏には実生活でもネット上でも一切面識がない。しかし、hagex氏が持てるものの側からブログをやっていたのはたしかだろう。hagex氏を偲ぶエントリーをよみながら、僕はhagex氏が殺されたのはhagex氏が持てる者だったからなのだろうと思った。持てるものが絶対安全なはずの高みから持たざる者を攻撃していたからこういうことが起きたのだ。

刺殺直前にhagex氏が開催していたセミナーをレポートしたエントリーには、撮影禁止として画像の代わりに自筆の似顔絵が紹介されていた。誇らしげな表情をしたhagex氏の肩には、これ見よがしに子供らしき人物の絵が描き込まれていた。こんな見せびらかしをしているから刺し殺されたんだろうな、というのが僕の正直な感想だった。

持たざる者になりたくてなった者など誰もいない。低能先生だって、好き好んで低能先生をやっていたのではないはずだ。

低能先生には世の中で生きていく実力がなかったというのはその通りだろう。しかしながら、実力がもし無いならばそれはしかたがないことで、説教をしたら実力が向上するわけでもない。ましてや、持たざる者を煽るだけ煽ったところで建設的な結果は何一つ出てこない。

持てるものになるか持たざるものになるかなんて、結局は偶然の結果だと思う。この点について持てるものは謙虚であるべきだ。僕は、ただ面白いからという理由で持たざる者を馬鹿にすることには反対だ。