グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

元奨[2]

橋本長道氏の奨励会の本を読んで印象に残るのは、間接的に書いてあることである。直接的に書いてあることももちろん印象的なのだが、間接的に書いてあるからこそ強い印象として残るものがある。たとえば、当たり前の話だが、橋本氏は自己のことを才能があるとも、才能が無いとも書いていない。それにもかかわらず、橋本氏が自分の才能についてどのような認識を持っているかは行間からはっきりと伝わってくるのだ。中学時代に全国大会で優勝し、高校生になってから奨励会員に二勝一敗して奨励会入りした橋本氏は初段に上がる手前までいった。勝ちまくっていた時期もあるだろうし、鮮やかな一手で相手にとどめを刺したり、勝負をひっくり返したことも沢山あったはずだ。橋本氏は、自分や自分と同じように奨励会を去った元奨と名人になるような「トップ棋士」との間に歴然としたレベルの差があることを認めている。しかし、本を読んでいて、橋本氏のような元奨は案外、棋士生活をずっとC級2組で過ごすことになるようなプロとはそれほどの差を感じていないのかもしれない、とも思った。将棋の天才というと世間では、羽生永世名人や藤井七段のような著名人ばかりが連想される。しかし、橋本氏のような元奨もまた将棋の天才であり、普通のアマチュアにはできない芸当ができる人たちであることが、橋本氏の本を読んでいてよく分かった。

元奨

橋本長道氏による奨励会の本はとてもいい本だった。まず文章がよい。所々に鮮やかな「一手」がある。たしかにこれはラノベ作家にしかかけない本である。さらに本書が特徴的なのは、本全体の雰囲気である。挫折挫折と橋本氏はいうけれども重苦しさはあまりない。挫折の話なのであるが読んでいて風通しの良さ、ある種のすがすがしさを感じた。それは短期間で一気に書いた、という本書の成立事情にもよるだろうが、橋本氏が高校生になってから奨励会入りし、奨励会を19歳で去ったことも大きいと思う。奨励会に関する世間のイメージのほとんどは「地獄の三段リーグ」で形作られているのではないだろうか。才能あふれる神童が破竹の勢いで四段になっていくのを横目に、自分の将棋の勉強は停滞したまま年だけ食ってどうしよう、みたいなイメージだ。19歳で奨励会を去った橋本氏はこのような本当の泥沼を経験していない。そのことで、本書は他書にはみられない風通しの良さをもって奨励会を取り上げることに成功している。泥沼を経験した者しか書けないことがあるのはもちろんだが、泥沼を避けて通った者にしか書けないこともまたあるのだ。さらに、本書は今現在で三十代半ばの元奨励会員によって書かれたことにも意味がある。時代とともに奨励会の気風も変わってきている。今の奨励会員には、明確にプロを目指していない者が少なからずいるらしい。それらの会員は部活感覚で将棋を勉強しているに違いない。運動部に所属する部員が必ずしもスポーツ選手を目指しているわけではないのと同様である。当然、奨励会を去るときは部活を引退するようにして退会するだろう。奨励会を将棋部のすごいバージョンとして認識している奨励会員は相当に多そうな気がする。これまで多くの才能ある奨励会員を破滅に追いやってきた麻雀やギャンブルに関する記述もある。奨励会員はこれらのゲームを非常に得意とする人達であり、したがってこれらにのめり込みやすい、というのは納得できる説明である。橋本氏によると、奨励会の生活は誘惑が多いので、高校に行った方がかえって将棋の勉強に打ち込みやすいくらいだという。橋本氏の師匠である井上慶太九段に関する話もある。奨励会員ならば多かれ少なかれ、いろいろなものを背負い込んで生きていくことになるのはいつの時代も変わりないのだろう。本書が井上九段に向けて書かれたものでもあることはまず、間違いない。繰り返すが、この本はとてもいい本である。本全体の雰囲気に不思議な明るさ、すがすがしさ、風通しの良さがある。

苦労の押しつけが百害あって一利もないわけ

苦労の押しつけは百害あって一利もない。なぜなら、押しつけられた苦労を耐え忍ぶということは思考を停止させることに他ならないからだ。学校教育の掃除などは押しつけられた苦労の典型例だろう。学校の掃除は、そもそもなんで生徒が学校の掃除をしなければならないのか、学校の掃除をすることによって生徒の精神にどのようないい影響があり、どのような悪影響があるのか、生徒が学校の掃除をすることはよいことなのか、それともわるいことなのか、を問うことは許されない。生徒はただ、いわれたように掃除しなければならないのである。他の生徒に百円渡して掃除の代行を依頼するとか、もっと効率的な掃除の方法を提案するとか、教師に掃除の回数について交渉するということもできない。こんなことをやらせていたら、生徒の精神に悪影響があるに決まっている。学校の掃除をやめたら、いじめの数は減少するのではないだろうか。学校の掃除に限らず、押しつけられた苦労というのはだいたいそんな感じだ。押しつけられた苦労をただただ耐え忍ばなければならない。苦労を押しつけられるということは思考が停止するということだから、苦労をすればするほど人は馬鹿になる。実際、苦労を重ねた人間というのはどこか頭の働きがわるいというか、アンバランスであることがおおい。というか、僕のいままでの経験ではほとんど100パーセントそうである。これは、聡明な人間がどちらかというと苦労知らずであることの説明にもなっている。押しつけられた苦労がないなら、その分だけ頭の働きがよくなるのは当然のことだ。苦労の押しつけは、押し付ける側も押しつけられる側も疲れるばかりで誰も得をしない。これからの日本では、この苦労の押しつけを撲滅していくことが重要であることは間違いない。

よい苦労とわるい苦労

学校でのエアコンの設置状況について調べていると次のエントリーを見つけた。

https://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20150219/277734/

確かに小田嶋氏がいうように、苦労にはよい苦労と悪い苦労がある。よい苦労は人を成長させるが悪い苦労は単に人間をだめにするだけでいいことは何もない。それではいい苦労と悪い苦労では何が違うのかというと、いい苦労というのは「災い転じて福となす」ということわざでいう、福に転じうるようなものをいうのだと思う。もし、苦労が自分の力量で対処できるようなものであれば、苦労を克服することで貴重な経験もえられるだろうし、場合によっては以前よりもより有利な条件で人生を再スタートさせることができるかもしれない。しかしながら、残念なことに多くの苦労はどう考えても福には転じようがないものがほとんどである。たとえば貧困などはどう考えても福に転じようがない苦労の典型例だろうし、空調がない中で夏のあつさに苦しんだところでいいことは何もない。世の中では往々にして、ごく一部の福に転じうるような苦労と、大多数の福に転じようのない苦労を同一視し、撲滅すべき苦労を放置するどころか場合によっては押し付ける、ということが起こる。苦労にはよい苦労と悪い苦労があり、しかもたいてい苦労というものは人をだめにするだけ、という認識を日本人全体が持つ必要があると思う。

なんでマコ様が完璧な結婚をしなければならないのか分からない

海の王子フォーダム大学ロースクールに留学するという話だ。フォーダム大学の公式サイトで、海の王子をfianceeと表記したことに宮内庁が抗議をする方向へ、と朝のニュースでやっていた。フォーダム大学はトランプが2年間在籍したことでも知られる、ニューヨークのわりと有名な大学である。もう日本では生きてけないだろうからアメリカで・・と言わんばかりだ。いったいどこからカネが出てくるのか気になるところだが、とにかく多額の、そして宮内庁的には完全に無意味なものにしたい警備費用よりは安上がりなのに違いない。でも僕はなんでマコ様が結婚できないのか、よく分からないのだ。というか、なんでマコ様が非の打ち所もないような完璧な結婚をしなければいけないのかよく分からない。完璧でない結婚でもしないよりはマシ、というのが世間の常識であるはずで、行き遅れで後悔している国民の数を鑑みると、「国民の象徴」であるならばこそかえって完璧さに拘らない結婚の方がいいようにもおもう。英国の場合、なんでこんなひどい結婚を?と疑問に思うものがもう何代も続いているのに、国民は脳天気に祝福している。まあ、あまりにひどすぎることもあって祝福している国民の数は減少しているのだけれども、だいたい、マコ様に完璧な結婚をしてほしいというならばなんでICUに婚活しにいかせる、なんてことを許したのか?海の王子みたいなのに「引っ掛からない」ために見合いというものがあるのではないか?すこし悪いところがある男のほうが魅力的、というのは「恋愛工学」では常識だ。涼しい顔をして予備試験から司法試験にパスするような秀才よりはパラリーガル海の王子、なのである。たしかに、マコ様と在学中から交際しているのになんでパラリーガルなのか、なんで新卒で入ったメガバンをやめたのか、メガバンをやめるにしても、もうすこし「将来性」のある進路などいくらでもありそうなものだが、と、海の王子にたいする疑問はつきることがないが、それにしてもこの件にかんする落としどころはどこだろう。そして、マコ様と秋篠宮殿下はこの件についてどう考えているのだろうか?浩宮殿下と雅子様はこの件についてどのような認識を持っているのだろう?どうせ民間人になるのだから、そのまま結婚にするほうが破談にするよりも不利益が少ないような気もするが、とにかくこの一件のおかげで、未来の皇族がますます「縁遠く」ならないことを祈るばかりだ。

hagex氏刺殺と実名・匿名

今回hagex氏が刺殺されたという事例は、あらためて実名と匿名それぞれが持つメリットとデメリットを考える上で有益であると思う。

まず、匿名での発信というのはメリットがいくつかあって、ひとつは匿名での発信は安全であるということだ。なぜなら、匿名だとどこでどのような人物が情報を発信しているか分からないから攻撃のしようが無い。

もちろん相手の精神に対して攻撃を加えることはできるが、所詮は情報に過ぎないからそのうち忘れる。

往々にして、真実を語ることは危険である。身の安全を気にせず真実を語ることができる、というのは匿名での情報発信がもつおおきなメリットといえる。

2つ目のメリットは、人間関係を気にせず情報を発信できる、ということだ。実名での情報発信は、どうしても自分の人間関係を考慮した上で情報発信をせざるを得ない。つまり、自分の知人友人を敵に回すようなことは一切かけないのである。

その結果、本当に書くべきテーマから目を背けるならまだしも、自分のPRのために真実とは逆の議論が行われがちであることは言論の世界で日常的にみられることである。

それとも関連するが仕事の問題もある。会社にとって、社員がブログをやっているなんてどう考えてもいいことではない。

中にはブログをやることで仕事にもよい影響があるのでは?と考える意識の高い上司もいるかもしれないが、ふつうの会社にとってブログをやっている社員などリスクでしかないだろう。

このように現実的な社会的制約に関係なくできる匿名での情報発信は言論の自由において絶対的な意味がある。匿名での活動は、自由で安全であり素晴らしい。

しかしながら匿名の世界での発言には限界もある。基本的に、匿名の世界にいるかぎりはすべてをひとりでやらなければいけない。

周りを巻き込んでムーブメントをつくる、というような活動には匿名は不向きである。考えてもみてほしい、いったいどのようにして匿名のままApple Computerを創業して伝説的人物になるなんて事ができるのか?

そこまでいかなくても人と会って話すレベルでも匿名ではやりにくい。だって匿名なのだからどんな奴が出てくるか分からない。匿名だと、こちらの方は安全だがその分相手の方にリスクがある。

実名だと、いっていることがどうしても無責任になりがちなのだが「社会的信用」はこちらの方がある。なぜなら、実名というのはあらゆる社会生活にリンクしているからだ。

結局、匿名による活動は自分ひとりで終わりである。自分ひとりで終わりになるし、自分ひとりで終わりになるから匿名での活動は消えやすい。それがいやというならば自分の名前を出さなければならないだろう。

匿名による活動と実名による活動にはそれぞれ利点と欠点があるが、実名を出すことが活動の妨げにならないのならば実名を出したほうが活動の幅が広がるような気もする。

「岡本顕一郎」になり損ねたhagex氏

なんでも、hagex氏が匿名から岡本顕一郎という実名によるものに活動をシフトさせようとしていたことには、やまもと氏の成功が背景にあるらしい。

切込隊長」として知られたやまもと氏が活動を実名によるものに移してから、氏の活動は匿名だったころと比べてはるかに広がりを持つようになった。氏に批判的な人も、実名への移行は「以前よりまともになった」と好評のようである。

やはり、匿名には可能性だけでなく制約もあるのだ。凄腕の?ネットウォッチャーであったからこそ、hagex氏は匿名で活動することの限界を知り尽くしていたのだろう。

そこで活動の場をリアルに移そうとした途端に(もっとも、やまもと氏も指摘するように、最初から世界にはリアルの世界しかないのだが)匿名時代での活動が遠因となって刺殺され、自らがネットウォッチのネタになるというのは誠に皮肉な成り行きといえる。