グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

官僚は蔑みの対象になり始めていると思う

「消費税率引き上げまで1年 軽減税率準備が課題」とNHKがやっているのを見た。財務官僚にたいする強い蔑みの感情が心に浮かんだことに自分でも驚いた。僕には、財務官僚が消費税率を引き上げるためにきちがいみたいになっているのは保身のためで、国家のためでは断じてない、という確信がある。消費税というのはよいものなのか悪いものなのかがはっきりしていない。本質的には悪いものだと僕は思うが、この問いの答えを知っている人は世界で一人もいないはずだ。それならば、消費税を下げてみて社会に与える影響を実証することが必要なのに、財務官僚からはこの当たり前の考えが出てこない。僕は、財務官僚のみならず官僚全体が一部のエリートから蔑みの対象になり始めているのではないか、と思う。官僚の激務だって、要は非効率な業務を改善するだけの知能が官僚にないから激務なだけで、現に官僚出身の政治家からは現状を変革するような考えが一向に出てこないではないか、みたいな感じに思う人は結構いるのではないか。もちろん、官僚になりたい人は非常に多いが、霞が関に行くなんて陸軍士官学校に行くようなもの、やべーやべー、と考える人が増えてくると、今後ますますリクルーティングがうまくいかなくなってくるかもしれない。しかしながら「最優秀」の人たちが国を運営してきた結果が今の体たらくなのだから、却ってそのほうがましな人材が採用されるのかもしれない、とも思う。霞が関を変えるのは簡単で、これまでとは違った人材を採用すればよい。実際にいままでとは違った人材を採用できるか、官僚の実力が問われることになるだろう。

ブログとTwitterの間

ブログの世界にいると、たまにブログのほうは止まってしまって更新がTwitterだけになってしまっている人をよく見る。ようはわざわざ何時間もかけてブログなんか書かなくてもTwitterだけで言いたいことが言えてしまうと言うことだ。もちろんブログを長々と書いているうちに思いもよらない結論に至ることだって多いからブログを長々と書くことにも意義があるが、当初に言いたいことを表明するというだけならば数時間をかけて何千文字のエントリーを書く必要は全くない。何千文字のエントリーだって要点をまとめればせいぜい二、三百文字程度だろう。それならばはじめからブログのエントリーを二、三百文字にしてしまえばいい。僕も最近そんな感じでブログを書いているが、何の問題もない。

大相撲は体重を100kgに制限したらいいんじゃないか?

もし大相撲に体重制限があったらどうだろうか?たとえば体重100kg以上だったら失格とか。たまに、どう考えても体重多すぎだろ?というかんじの力士がいる。そういう力士だってただのデブではないのだろうが、どうしても体重のおかげで勝っている感じがしてしまうし、そもそもあんまり体重がありすぎると生き物としてみっともない。もし大相撲に体重制限があれば、見世物としてもっと派手になって、特に外国人にはわかりやすくなると思う。

沖縄差別

http://politas.jp/features/14/article/616

沖縄差別といわれてもいまいちピンとこなかったけれども、これで分かった。ようするに、沖縄人は頭の弱いバカと思われているのだ。仲井真に質問をした記者は、沖縄人と話をしても話がいっこうに通じずにいらいらした経験があるのだろう。そして、そのいらだちが日本語ダイジョウブ?という、強烈な表現となって現れたのだろう。さらに言うならば、「中央」の沖縄に対する冷淡な態度の背景には、このようないらだちとあきらめがあるのだ、とやっと分かった。沖縄人が議論をするという習慣を覚えない限り、「沖縄差別」がなくなることは絶対にない。

NHKの女子アナが医者を目指すという。

まあ、東京医大の一件で「差別」もすくなくなったのかもしれないし、どっかの医大にふつうに受かるんだろうけど、このままストレートで医師免許を習得しても五十代だ。普通の医者よりも働ける年数が25年すくない。だから例の元女子アナはそのぶん、社会で他の人にはできない貢献をしなければならない。たとえば医学界に潜入して医学の世界の現状を徹底的に取材する、というはっきりとした目的があるならいいが、もし「子供の頃の夢」を叶えるためだけのためにNHKを退局したのならば迷惑としか言いようがない。というか、「子供の頃の夢」というタームが出てくる時点でダメだろうなこれは、という印象だ。何歳でも夢を追って努力するなんてステキ!みたいな感じでもてはやす世間の声にもうんざりする。

ニュースは時間に見合う価値があるか?

タイガーウッズがなんかの大会で優勝した、というニュースが全米で話題になっているらしい。これまでのタイガーウッズの人生をかんがえれば、これは当然のことだろう。あるいみタイガーウッズはアメリカ社会の縮図でもある。今回のタイガーウッズの劇的な復活によって、人々は(特に現にアメリカ社会に生きる人たちは)色々なことを考えたのではないだろうか。しかしながら、タイガーウッズの話を聞きながら僕はこうも思うのだ。タイガーウッズの話を知っている自分と知らない自分、2つを比べても大して違いはないだろうな、と。タイガーウッズのニュースはタイガーウッズのニュースを消費するのに必要な時間の価値に見合うものなのだろうか?一時間で千文字くらいというのが僕のものを書くペースだから、ブログの記事は短いものなら15分でかける。だから、タイガーウッズのニュースを眺めている時間で一つエントリーが書ける。最近ぜんぜんブログをかいていないのに、テレビのニュースをながめる時間があるのはおかしいといえばおかしい。どうでもいいことは意外と時間を食う。逆に、短い時間でもできる有意義なことはたくさんあるのだ。

叩かれている側の話は多分、いつも面白い

朝の「情報番組」で、今話題の塚原光男が相当長い時間ずーっと出演しているのをみたのだが、意外と筋が通った話だった。コーチの暴力行為に加えて宮川の競技成績は低落傾向で、見るに見かねて、という説明はそれなりに説得力がある。

スポンサー企業への配慮があるのか、肝心の朝日生命への引き抜きについては露骨に腰砕けだったものの(保険会社が体操クラブをやるなんて結構なブラックジョークだと思うが)、話を聞いていると塚原らは本当に善意で行動を起こしただけだったのかもしれないと思った。

なにせ、塚原氏らはもう70の老人なのだ。体操協会の役職だって来年で終わりで、引き継ぎを考えると年内に引退なのである。

ただ、引き抜きについて色々言われている朝日生命なのだから、うちに来てもいいし他に行ってもいいし、というような言い方をする配慮があってよかったのかもしれない。

それに、体罰の問題ならば、次に体罰したら厳しい処分になるよ、という警告がなかったのは変だし、塚原氏らがウソをいっているという人もいる。

しかしながら、あらためて考えさせられるのは、叩かれている側にだって言い分があるということだ。大体、叩く側の視点というのは決まり切ったものであることが多いわけで、叩かれる側の視点というのは思ってもみなかった視点を提供する。

事実を把握するには、「悪い奴」の話こそ聞く必要があると思った。